6 / 38
第5話 魔王の命令
しおりを挟む
朝は、思いのほか静かに訪れた。
目を開けた瞬間、何も起こらなかったことを思い出す。
寝台から身を起こすと、身体は昨日より軽い。痛みは引き、熱もない。けれど、落ち着かない。何もされなかったことが、予想外すぎて、どう受け取ればいいのか分からない。
扉がノックされる。
控えめな音。
「……入る」
アシュレイの声だった。
扉が開き、昨日と同じ装いのままの彼が姿を見せる。夜と違い、窓からの光が輪郭をはっきりさせている。特別な変化はない。ただ、そこにいる。
「おはよう」
自然な言葉だった。
ミレイアは、一瞬、言葉を失った。挨拶を返す、という行為自体が、頭から抜け落ちていた。
「……おはよう、ございます」
声が遅れて出る。言ってから、胸の奥がざわついた。誰かに朝の挨拶をしたのは、いつぶりだろう。神殿では、時間は鐘で区切られても、言葉は交わされなかった。
アシュレイはその様子を気に留めるでもなく、後ろに下がり、盆を示した。
「朝食を持ってきた」
部屋の簡素な机に、温かい湯気の立つ皿が置かれる。パンと、野菜を煮たもの。昨日の軽食より、少し量がある。
ミレイアは席につき、恐る恐る口に運んだ。噛むたびに、胃が目を覚ますような感覚がある。味を確かめる余裕が、少しずつ戻ってくる。
アシュレイは向かいの椅子に腰を下ろさず、壁際に立ったまま、しばらくミレイアを眺めていた。視線は鋭くない。測るようでもない。ただ、確認するような目。
「食べて、眠って」
静かな声が落ちる。
「身体を回復させなさい」
ミレイアは、思わず箸を止めた。
「……食べて、眠って……」
言葉を、そのまま復唱してしまう。
アシュレイは一瞬、目を瞬かせたあと、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑った、と言うには控えめな変化だったが、確かに柔らかい。
「それでいい」
その様子が、あまりに普通で、ミレイアは困惑した。魔王という存在に結びつけてきた姿とは、どこかずれている。命令でもなく、期待でもなく、ただの指示。
食事を終えても、何も起こらない。次の役目を告げられることも、立ち上がるよう促されることもない。
沈黙が落ちる。
ミレイアは、ようやく気づく。
何もされないことが、一番怖いのだと。
罰も、役目も、命令もない。だから次に何が来るのか分からない。準備も、覚悟も、持ちようがない。
「……あの」
声を出してみるが、続きが見つからない。
アシュレイは視線を向ける。
「今は、それだけでいい」
言い切る調子ではない。ただ、区切りを置くように。
「必要なら、また話そう」
扉へ向かいながら、そう告げる。
部屋に一人残され、ミレイアは椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
食べて、眠って、回復する。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
それが許される場所にいることが、信じきれずにいた。
目を開けた瞬間、何も起こらなかったことを思い出す。
寝台から身を起こすと、身体は昨日より軽い。痛みは引き、熱もない。けれど、落ち着かない。何もされなかったことが、予想外すぎて、どう受け取ればいいのか分からない。
扉がノックされる。
控えめな音。
「……入る」
アシュレイの声だった。
扉が開き、昨日と同じ装いのままの彼が姿を見せる。夜と違い、窓からの光が輪郭をはっきりさせている。特別な変化はない。ただ、そこにいる。
「おはよう」
自然な言葉だった。
ミレイアは、一瞬、言葉を失った。挨拶を返す、という行為自体が、頭から抜け落ちていた。
「……おはよう、ございます」
声が遅れて出る。言ってから、胸の奥がざわついた。誰かに朝の挨拶をしたのは、いつぶりだろう。神殿では、時間は鐘で区切られても、言葉は交わされなかった。
アシュレイはその様子を気に留めるでもなく、後ろに下がり、盆を示した。
「朝食を持ってきた」
部屋の簡素な机に、温かい湯気の立つ皿が置かれる。パンと、野菜を煮たもの。昨日の軽食より、少し量がある。
ミレイアは席につき、恐る恐る口に運んだ。噛むたびに、胃が目を覚ますような感覚がある。味を確かめる余裕が、少しずつ戻ってくる。
アシュレイは向かいの椅子に腰を下ろさず、壁際に立ったまま、しばらくミレイアを眺めていた。視線は鋭くない。測るようでもない。ただ、確認するような目。
「食べて、眠って」
静かな声が落ちる。
「身体を回復させなさい」
ミレイアは、思わず箸を止めた。
「……食べて、眠って……」
言葉を、そのまま復唱してしまう。
アシュレイは一瞬、目を瞬かせたあと、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑った、と言うには控えめな変化だったが、確かに柔らかい。
「それでいい」
その様子が、あまりに普通で、ミレイアは困惑した。魔王という存在に結びつけてきた姿とは、どこかずれている。命令でもなく、期待でもなく、ただの指示。
食事を終えても、何も起こらない。次の役目を告げられることも、立ち上がるよう促されることもない。
沈黙が落ちる。
ミレイアは、ようやく気づく。
何もされないことが、一番怖いのだと。
罰も、役目も、命令もない。だから次に何が来るのか分からない。準備も、覚悟も、持ちようがない。
「……あの」
声を出してみるが、続きが見つからない。
アシュレイは視線を向ける。
「今は、それだけでいい」
言い切る調子ではない。ただ、区切りを置くように。
「必要なら、また話そう」
扉へ向かいながら、そう告げる。
部屋に一人残され、ミレイアは椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
食べて、眠って、回復する。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
それが許される場所にいることが、信じきれずにいた。
0
あなたにおすすめの小説
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
女の子がほとんど産まれない国に転生しました。
さくらもち
恋愛
何番煎じかのお話です。
100人に3~5人しか産まれない女の子は大切にされ一妻多夫制の国に産まれたのは前世の記憶、日本で亭主関白の旦那に嫁いびりと男尊女卑な家に嫁いで挙句栄養失調と過労死と言う令和になってもまだ昭和な家庭!でありえない最後を迎えてしまった清水 理央、享年44歳
そんな彼女を不憫に思った女神が自身の世界の女性至上主義な国に転生させたお話。
当面は2日に1話更新予定!
ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました
大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――
たとえ夜が姿を変えても ―過保護な兄の親友は、私を逃がさない―
佐竹りふれ
恋愛
重なる吐息、耳元を掠める熱、そして——兄の親友の、隠しきれない独占欲。
19歳のジャスミンにとって、過保護な兄の親友・セバスチャンは、自分を子供扱いする「第二の兄」のような存在だった。
しかし、初めてのパーティーの夜、その関係は一変する。
突然降ってきた、深く、すべてを奪うような口づけ。
「焦らず、お前のペースで進もう」
そう余裕たっぷりに微笑んだセバスチャン。
けれど、彼の言う「ゆっくり」は、翌朝には早くも崩れ始めていた。
学内の視線、兄の沈黙、そして二人きりのアパート――。
外堀が埋まっていくスピードに戸惑いながらも、ジャスミンは彼が隠し持つ「男」の顔に、抗えない好奇心を抱き始める。
「……どうする? 俺と一緒に、いけないことするか?」
余裕の仮面を被るセバスチャンに、あどけない顔で、けれど大胆に踏み込んでいくジャスミン。
理性を繋ぎ止めようとする彼を、翻弄し、追い詰めていくのは彼女の方で……。
「ゆっくり」なんて、ただの建前。
一度火がついた熱は、誰にも止められない。
兄の親友という境界線を軽々と飛び越え、加速しすぎる二人の溺愛ラブストーリー。
魚人族のバーに行ってワンナイトラブしたら番いにされて種付けされました
ノルジャン
恋愛
人族のスーシャは人魚のルシュールカを助けたことで仲良くなり、魚人の集うバーへ連れて行ってもらう。そこでルシュールカの幼馴染で鮫魚人のアグーラと出会い、一夜を共にすることになって…。ちょっとオラついたサメ魚人に激しく求められちゃうお話。ムーンライトノベルズにも投稿中。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる