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第4話 初夜
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夜は、音を吸い込んだように静かだった。
与えられた部屋の灯りは落とされ、窓の外から淡い月明かりが差し込んでいる。ミレイアは寝台の端に腰を下ろしたまま、身動きが取れずにいた。可愛らしい衣服は、肌に柔らかく触れるたびに存在を主張する。整えられたこと自体が、合図のように思えてならなかった。
扉の向こうで、控えめな足音が止まる。
ノックはない。静かに扉が開き、男が入ってくる。
魔王アシュレイだった。
昼に見たときと変わらない装い。武器は持っていない。視線がミレイアに向いた瞬間、ほんの一拍、瞬きがあった。
「……」
言葉が出かけて、止まる。
アシュレイは視線を逸らし、天井を見上げるように息を吐いた。
「リリス……、そうだな。あいつはサキュバスだった」
呟くような声だった。責める調子でも、苛立ちでもない。ただ、状況を理解しただけの声音。
ミレイアは何も言えず、両手を膝の上で握った。胸の奥にあった嫌な予感は、まだ形を変えずに残っている。
アシュレイは一度、部屋を見回し、それから小さな包みを取り出した。
「……腹は、空いていないか」
問いは短く、探るようでもない。
ミレイアは、すぐに答えられなかった。空腹という感覚そのものが、久しく曖昧だったからだ。ただ、包みから漂ってくる匂いに、喉がわずかに鳴った。
アシュレイはそれを見て、寝台から少し距離を取った位置に包みを置いた。
「軽いものだ。無理なら、残して構わない」
そう言ってから、少し間を置く。
「今日は、移動もあった」
理由付けのようでいて、弁解にはならない言い方だった。
ミレイアは恐る恐る包みを開いた。中には、柔らかそうなパンと、温かさの残る簡単な料理が入っている。見ただけで、神殿で与えられていたものとは違うと分かった。
一口、口に運ぶ。
思わず、動きが止まった。
「……美味しい……」
声は、ほとんど漏れたようなものだった。
自分で言ってから、驚く。味を感じたのは久しぶりだった。神殿では、栄養を保つための食事はあっても、味を楽しむものではなかった。冷えた粥や、乾いたパンを急かされるように口に押し込むだけの日が続いていた。
二口目は、少し早くなる。噛むたびに、温かさが身体に落ちていく。
アシュレイはその様子を見ていなかった。ソファの方へ向かい、腰を下ろす。脇に置かれていた本を手に取った。
「同じ部屋で一夜を過ごした、という事実があればいい」
淡々とした声が、背を向けたまま落ちる。
「それ以上のことは、必要ない」
ミレイアは食事の手を止め、顔を上げた。
「……あの」
呼び止めるつもりはなかった。だが、声は自然に出た。
アシュレイは振り返り、こちらを見る。距離は保たれたままだ。
「アシュレイだ」
名乗りは短い。
「君の名前は」
「……ミレイア、です」
聖女、と続けなくていいことに、ほんのわずかな違和感が残る。
アシュレイは頷いた。
「ミレイア」
名前を呼ばれただけだった。それ以上の意味は添えられない。
「ベッドを使ってくれ」
そう言ってから、付け加える。
「無理に眠らなくていい」
アシュレイは本を開く。紙をめくる音が、静かな部屋に響いた。
ミレイアは残りをゆっくりと食べ終え、包みを畳んだ。胸の奥に、重さとは違う感覚が残る。満たされた、というより、思い出してしまった、という感覚に近い。
寝台に横になると、布が柔らかく身体を包む。背後から近づく気配はない。
視界の端で、アシュレイが本に目を落としている。ページをめくる音が、一定の間隔で続く。
想像していた夜とは、あまりにも違っていた。触れられない。命じられない。視線すら、押し付けられない。
それでも、緊張は解けない。何も起こらないこと自体が、次を想像させてしまう。
やがて、眠気が静かに忍び寄る。意識が途切れる直前、ページを閉じる音がした。
「……おやすみ」
小さな声だった。
返事をする余裕はなく、ミレイアはそのまま眠りに落ちた。
夜は、何も起こさずに過ぎていった。
与えられた部屋の灯りは落とされ、窓の外から淡い月明かりが差し込んでいる。ミレイアは寝台の端に腰を下ろしたまま、身動きが取れずにいた。可愛らしい衣服は、肌に柔らかく触れるたびに存在を主張する。整えられたこと自体が、合図のように思えてならなかった。
扉の向こうで、控えめな足音が止まる。
ノックはない。静かに扉が開き、男が入ってくる。
魔王アシュレイだった。
昼に見たときと変わらない装い。武器は持っていない。視線がミレイアに向いた瞬間、ほんの一拍、瞬きがあった。
「……」
言葉が出かけて、止まる。
アシュレイは視線を逸らし、天井を見上げるように息を吐いた。
「リリス……、そうだな。あいつはサキュバスだった」
呟くような声だった。責める調子でも、苛立ちでもない。ただ、状況を理解しただけの声音。
ミレイアは何も言えず、両手を膝の上で握った。胸の奥にあった嫌な予感は、まだ形を変えずに残っている。
アシュレイは一度、部屋を見回し、それから小さな包みを取り出した。
「……腹は、空いていないか」
問いは短く、探るようでもない。
ミレイアは、すぐに答えられなかった。空腹という感覚そのものが、久しく曖昧だったからだ。ただ、包みから漂ってくる匂いに、喉がわずかに鳴った。
アシュレイはそれを見て、寝台から少し距離を取った位置に包みを置いた。
「軽いものだ。無理なら、残して構わない」
そう言ってから、少し間を置く。
「今日は、移動もあった」
理由付けのようでいて、弁解にはならない言い方だった。
ミレイアは恐る恐る包みを開いた。中には、柔らかそうなパンと、温かさの残る簡単な料理が入っている。見ただけで、神殿で与えられていたものとは違うと分かった。
一口、口に運ぶ。
思わず、動きが止まった。
「……美味しい……」
声は、ほとんど漏れたようなものだった。
自分で言ってから、驚く。味を感じたのは久しぶりだった。神殿では、栄養を保つための食事はあっても、味を楽しむものではなかった。冷えた粥や、乾いたパンを急かされるように口に押し込むだけの日が続いていた。
二口目は、少し早くなる。噛むたびに、温かさが身体に落ちていく。
アシュレイはその様子を見ていなかった。ソファの方へ向かい、腰を下ろす。脇に置かれていた本を手に取った。
「同じ部屋で一夜を過ごした、という事実があればいい」
淡々とした声が、背を向けたまま落ちる。
「それ以上のことは、必要ない」
ミレイアは食事の手を止め、顔を上げた。
「……あの」
呼び止めるつもりはなかった。だが、声は自然に出た。
アシュレイは振り返り、こちらを見る。距離は保たれたままだ。
「アシュレイだ」
名乗りは短い。
「君の名前は」
「……ミレイア、です」
聖女、と続けなくていいことに、ほんのわずかな違和感が残る。
アシュレイは頷いた。
「ミレイア」
名前を呼ばれただけだった。それ以上の意味は添えられない。
「ベッドを使ってくれ」
そう言ってから、付け加える。
「無理に眠らなくていい」
アシュレイは本を開く。紙をめくる音が、静かな部屋に響いた。
ミレイアは残りをゆっくりと食べ終え、包みを畳んだ。胸の奥に、重さとは違う感覚が残る。満たされた、というより、思い出してしまった、という感覚に近い。
寝台に横になると、布が柔らかく身体を包む。背後から近づく気配はない。
視界の端で、アシュレイが本に目を落としている。ページをめくる音が、一定の間隔で続く。
想像していた夜とは、あまりにも違っていた。触れられない。命じられない。視線すら、押し付けられない。
それでも、緊張は解けない。何も起こらないこと自体が、次を想像させてしまう。
やがて、眠気が静かに忍び寄る。意識が途切れる直前、ページを閉じる音がした。
「……おやすみ」
小さな声だった。
返事をする余裕はなく、ミレイアはそのまま眠りに落ちた。
夜は、何も起こさずに過ぎていった。
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