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第五章 貴方が私のただ一人

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 洗い終わった洗濯物を抱えて、中庭へ出る。順番に物干し竿へと掛けていき、干し終わる頃には一面の白世界が出来上がっていた。
「随分と日が昇ったのね。もうそろそろお昼にしようかしら」
「ワンッ」
 何とはなしに呟いただけだったのだが、元気のいい返事が足元から聞こえてきた。なるほど、ビワもお腹が空いたらしい。
「それじゃあ準備をしましょうね。こっちへいらっしゃい」
 尻尾をぶんぶんと振っているビワを勝手口のところまで連れていき、まずは水を一杯飲ませてあげた。私は作り置きのお茶を一杯飲んで、貯蔵庫の中を確認していく。
(……ぼちぼち買い足しに行かないといけないかしら)
 お米はまだ残っていたが、保存食が少なくなっている。天界に戻って調達してくるのと麓の市場まで行ってくるのとではどっちの方が良いだろうか。後で考えてみよう。
「おーい、いるかい」
 玄関の方から、こちらに呼び掛ける声が聞こえてきた。ビワには中庭から回って行くように伝え、私は勝手口を閉めて中から向かう。
「こんにちは」
 扉の前にいたのは、弦次さまを診て下さっているお医者さまだった。挨拶をして部屋に入ってもらい、いつも通りに診察を始めてもらう。
「ふむ。体の傷や打撲なんかはもう大丈夫そうだな」
「本当ですか?」
「ああ。傷の部分は塞がったし、打撲の痕も薄れてきている」
「それならば、じきに目を覚まして下さるでしょうか」
「本来ならもう起きていてもおかしくはないんだがな……こればかりは、何とも」
「……そうですか」
 告げられた言葉を、苦い思いで受け止める。体の方が治ってきたのは喜ばしいが、目を覚ましてくれなければ食事もしてもらえないし会話も出来ない。口を湿らす程度の水分ならば日に数回摂ってもらっているけれど、それだけではそのうち栄養不足になってしまうだろう。
「とは言え、無茶な事はしなさんなよ。お主が共倒れしたら元も子もないし、下手に起こそうとして悪化してもいかんからな」
「はい。あの……私、時折目を覚ますためにすっきりした香りのお香を焚く事があるのですが、それを彼の部屋で焚いても大丈夫ですか?」
「ほどほどにな。刺激が強いものは過度に与えると具合を悪くするから」
「分かりました」
 あの匂いを長時間嗅ぐのは私でもきついので、元々そんな長い間焚くつもりはなかった。様子を見つつになるだろうが、四半刻いかないくらいならば大丈夫だろうか。
 お医者さまにお礼を言い、追加でもらった薬と診療代を渡してお見送りをした。ふうと一つ溜息をついて、弦次さまが眠っている寝室へと向かう。
(……疲労がまだ強いから眠っているだけ、なら良いんだけど)
 寝息を立てている彼の枕元にそっと座って、じっと顔を覗き込む。視線を感じて起きてくれないか、なんて淡い期待はいつだって打ち砕かれてきたけれども。それでも、想う人の顔なので目を逸らすのも勿体なくて、飽く事無く見つめていた。
 どのくらいそうしていただろうか。少し肌寒くなってきたなと思ってふと外を見遣ると、辺りはすっかり薄暗くなっていた。ああ、もう、そんな時間なのか。
「ビワの夕飯を準備しなきゃ……ん?」
 部屋の外から中に視線を戻して、もう一度弦次さまのお顔を見たその瞬間。先ほどまではなかった大粒の汗が、彼の額にいくつか浮かんでいた。洗った手拭いで拭いつつ熱の具合を確認するが、特に高熱を出しているという訳でもなさそうだ。どうしたのだろうかと思ってもう少し注意深く観察していると、かすかだけども呻くような声が聞こえてきた。
「弦次さま! 如何なさいました!?」
 そう呼び掛けながら肩を軽く揺すってみるけれど、弦次さまは目を覚まさない。けれど、苦しそうな表情や声を目の当たりして、何かせずにはいられなかった。
『御魂に仇なす災いよ この音に触れて弾け飛べ!』
 意識の無い重症患者や悪夢に苦しめられる事が多い患者向けの歌を、伴奏無しで叫ぶように歌う。最後の旋律を歌った瞬間、体がいきなり重たくなってへたり込んでしまったが、聞こえてくる寝息は穏やかなものになった。
「……弦次さま」
 息を整えながら、彼の表情を確認して呼び掛ける。
『桐鈴』
 当たり前のように答えてくれていたあの声が、ただただ恋しかった。

  ***

 厨の洗い物が終わったので、手を拭いて部屋に戻る。中庭で日向ぼっこをしているビワを眺めながら、地上での相棒である琴を縁側に置いてかき鳴らしていた。
(……私は、何て無力なんだろう)
 思考がぬかるみに嵌って手が止まる。ずっと聞こえていた音楽が無くなったからなのか、寝転がっていたビワが体を起こしたのが気配で分かった。
 あれから、弦次さまは何度も魘されていた。その度に別の歌を歌ったりきちんと伴奏をつけて歌ったりしてみたけれど、全部一時しのぎにしかなっていない。
『桐鈴おめでとう! 無事に合格していたわ! 首席ですってよ!』
 数日前に、そんな吉報が通信機越しに届いていた。弦次さまがいつ魘されるかと思うととても傍を離れられなかったから、姉さまに試験の結果の確認をお願いしたのだ。
 聞いた時は、本当に嬉しかったし心からほっとした。こんな風に認めてもらえただけの実力があるという事なのだから、このまま頑張ればきっと彼の容態も良くなる。また目を覚まして、あの青い瞳を向けながら私の名前を呼んでくれるって希望が湧いた。けれど、現実はこんな調子だ。
 完治させられないで、快方に向かわせられなくて、何が歌癒士だろう。弦次さまの意識が戻らないままで、日常も生活も笑顔も声も取り戻せないで、何が医療者だ。こんな無力なままで、私は歌癒士を名乗っても良いのだろうか。
「くーん」
 悲しそうな声が聞こえて、はっと顔を上げる。滲んだ視界の中にいたのは、心配そうにこちらを見ているビワだった。
「ビワ」
「ワンッ」
「なぁに? 励ましてくれるの?」
「ワンワンッ」
 肯定してくれるかのように、ビワが吠える。その一生懸命な姿に、少しだけ心が上を向いた。
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