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第五章 貴方が私のただ一人

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「弦次さま。お加減は如何ですか?」
 そう尋ねながら、彼に洗浄の仙術を掛ける。そのまま術で着替えさせて、洗ったばかりの布団へと移動させた。これまで寝かせていた方の布団は、明日の朝にまとめて川で洗ってこよう。ここは天界ではないので、術を使わずに済むならそれに越した事はない。
(……ビワはもう眠っていたわよね)
 音を立てないようにして、周りの様子を探る。ビワと弦次さまと私以外にいる筈もないのだけれども、万一があったら羞恥では済まない。
「……弦次さま。私、貴方の事ずっとお慕いしているんですよ」
 昼間は無力さに苛まれて落ち込んでしまったが、私が落ち込んでいるとビワに心配を掛けてしまう。それは本意でないし、それが彼への治療に影響してしまってもいけないので、心が後ろ向きにならないよう彼への愛情を伝えていこうと思ったのだ。正直に言うならば、正面切って伝えるのはまだまだ出来そうにないので予行演習も兼ねている。
「あなた想いて咲き誇る この恋しかと御覧じろ」
 別の日の夜には、治療のためでない娯楽の方の歌を歌ってみた。あなたの事を想って花のように咲いた恋心を、余す事無く御覧なさい……とても直接的な、片想い相手へ盛大に告白するための歌だ。性格を考えれば、むしろ今しか歌えない気もする。
「貴方が好きです。愛しています」
 何日も掛けて、様々な形と言葉で伝えてきたけれど。やっぱり一番分かりやすい言葉が良いのだろうかと思ったので、素直にそう告げてみた。言いながら、起きてほしいけれど今起きられたら確実に羞恥で死ぬ自信があるな……なんて、ぼんやり思ってしまったが。
(……今の私ならば、あの歌の真価を発揮出来るのでは?)
 毎回、想いを伝えた後は回復力を高めるためと称して仙力を口移ししていた。今夜もその一連の行為を終えたから、私も寝るかと思って彼の隣に敷いた布団に寝転がったのだけれども。ふと、そう気づいたのだ。
(あの歌は……自分が心から愛している人相手ならば、その力の強さで身体的な症状も回復する事が出来る歌だ)
 私は、間違いなく弦次さまの事を愛している。重症患者を癒して治すための歌も、一応は使う事が出来る。それならば、あの歌の力を発揮する事が可能なのではないだろうか。
(あの歌が真価を発揮すれば、目に見えなかった不調も立ちどころに回復出来る筈。そうすれば、弦次さまの心身が回復して、目を覚ましてくれるかもしれない)
 この半月ずっと悩んでいた事に、漸く希望の光が差した。思い立ったが吉日とばかりに今すぐ天界へ戻ろうかと思ったが、こんな夜半に下手に動くものでもない。
(明日家事を済ませたら、天界に戻って姉さまに相談してみましょう)
 逸る気持ちを深呼吸して抑えつつ、明日の段取りを脳内で組み立てていく。久方ぶりに、前向きな気持ちで中々寝付けなかった。

  ***

「……本気で言っているの?」
 私を見下ろす姉さまの瞳は、恐ろしいまでに冷たかった。流石に怖気づきそうになったが、絶対に負ける訳にはいかない。私の肩には、弦次さまの命と健康が掛かっている。
「本気よ。正式な歌癒士にもなれたから、今こそあの伝説の歌を習得して使う時だと思うの」
「貴女はまだ新任だわ。新任の状態じゃ一人前とは言えない。そんな状態で、上級歌癒士でも扱いが難しい歌を歌うのは危険よ」
「でも、上がれるまで待っていたら間に合わない。無茶でもやらないと」
「そんな向こう見ずな考えは捨てなさい。重症治癒の歌ですら、歌い終わった後に立っていられなかったのでしょう? そんな状態で使えば、貴女の方が危ないのよ!」
「それでもやるの。私にしか、彼を助けられない!」
「思い上がるのもいい加減にしなさい!」
 姉さまの鋭い声が、私を切り裂いた。思い上がり。確かに、私の歌癒士としての能力は、まだまだ姉さまには遠く及ばないけれど。それでも、弦次さまを強く想う気持ちがあれば大丈夫と思っていたけれど、それこそが思い上がりという事なのだろうか。
「私は、自分の実力を見誤って過負荷で倒れた仲間を何度も見てきた! 助けたいという思いが先行するあまりに気が逸って、本来ならば何の問題もなく使える筈の術が使えなくなって助けられなかった事例も目の当たりにしてきた! そんな皆は決まって言ったわ、私にしか出来ないって! 馬鹿じゃないの!?」
「ねえさま」
「どうして歌癒士が認定された後も細かく組分けされて研修を受けると思う!? どうして歌癒士が単独で本格的に活動出来るのは上級以上の人だけだと思う!? それは、過負荷を避けて自滅を避けるためなのよ! 先走る仲間を諫めて止めて、その仲間が再起不能になるのや患者を間違いなく救うためなのよ!」
「それ、は」
 歌癒士は生命に直接関わる役目だから、認定されるまでも大変だが認定された後も下積みが長いのは知っていた。定期的に行われる協会の研修には必ず参加しなければならないし、指導者となる上級歌癒士一人と初級中級の歌癒士数人で現場に向かって治療に当たるのが基本である。
 そして、中級に上がれば軽症の治療は単独でも出来るようになり、上級に上がれば個人で治療依頼を請け負う事が可能になる。特例で飛び級して歌癒士になった姉さまですら、認定後の下積みは例外なく行っていた。それだけ万全を期さないと、命という重いものは扱えないのだ。
「ともかく、自分の力量を見誤るような愚行だけは止めて。分からないようなら、桐鈴の天の衣は私が預かりますからね」
「姉さま」
「話はそれだけ? それならもう終わったから、私は一旦家に戻ります。くれぐれも、早まらないように」
 それだけ言って、姉さまは部屋を出て行った。後に残された私は、どうする事も出来ずに……茫然と立っているばかりであった。
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