境界線の歩き方

彩乃

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開戦前夜

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「この国には、思考停止という名の民主主義が蔓延している」

赤間直道は、理事会室の重たい沈黙を切り裂くように言い放った。真新しいスーツの襟元を指先で乱しながら、机の上の紙資料に目もくれない。彼の口調は静かだが、声には鉄のような芯があった。

理事たちの顔が一斉に曇る。十数人の大学幹部が揃いのように書類の山から顔を上げた。

「赤間先生、それは……あまりに挑発的ではありませんか?」

最年長の理事、野間が口を開いた。白髪を撫でるように指を滑らせながら、眉間にしわを寄せる。

「あなたの講義録がSNS上で拡散され、問題視されています。“国家は嘘をつく”、“多数決は暴力の一形態だ”……これが公共の教育機関での発言として適切だとお考えですか?」

「適切かどうかを決めるのは事実の側でしょう。私はただ、目に見えていることを口にしただけです」

赤間は椅子にもたれかかり、天井を仰いだ。

「むしろ聞きたい。あなた方は、国家が常に真実を語ると本気で思っているんですか?」

「詭弁だ!」

別の理事が声を荒げた。まだ若い、経営学部出身の新任理事。声には経験のなさが滲んでいる。

「赤間先生、我々は大学の信用を守らなければならない。あなたのような“過激な思想”は、教育の名を借りた扇動に過ぎない!」

「そうでしょうか?」

赤間はゆっくりと姿勢を正すと、まっすぐに理事たちを見渡した。

「教育が“社会に従順な人間”を量産する工場ならば、私は確かに破壊者です。しかし、もし教育が“世界を疑い、自分で考える力”を育む場であるなら、私は正当な仕事をしているまでです」

その場の空気が一段冷えた。

「我々の懸念は、あなたの意図ではなく“影響”です。学生に与える心理的、社会的な影響です」

女性の理事が低く言った。教育心理学の専門家であり、保護者からの信頼も厚い人物だ。

「あなたの言葉は強すぎる。人によっては、それが暴力になります」

「ならば、真実はいつも優しくあるべきだと?」

赤間は薄く笑った。

「言葉を弱めてまで保護する学生なら、社会に出た瞬間に潰される。あなた方は“守る”と言いながら、彼らを“壊す”準備をしている」
「教育は避難所ではない。訓練の場だ」

赤間の声は、静かだがひたすらに断言的だった。

「訓練とは何の? 論争ですか? 扇動ですか?」
野間理事が重ねて問う。

赤間は首をかしげた。

「“現実”です。ニュースが嘘をつき、国家が情報を選び、SNSが感情を操るこの世界で——自分の頭で考え、答えを選びとる。それは、単なる思索ではない。生き延びるための武装です」

数秒の沈黙が落ちる。

その場にいる誰もが、赤間がただの異端児ではないことを理解していた。彼は自分の言葉に、理論だけではなく“火”を持っていた。

女性理事が声を落として言う。

「……あなたは、学生に“武装”を教えていると?」

「ええ。言葉による、思考による、懐疑による武装です。綺麗な理想の裏にある構造を暴くために。そして、選ばせるために」

「選ばせる?」

赤間は頷いた。

「世界と向き合う姿勢を、です。盲目的に正義を信じるか、すべてを疑って生きるか。それとも思考を放棄して沈黙するか。どれも選択です。だが、選ばなければ、人はただ“巻き込まれる側”になる」

「それでも我々は、教育の名の下にあなたの方法を是とすることはできない。大学は安全な知の場であるべきです」

「“安全な知”なんて、幻想です」

赤間は一拍置いてから、はっきりとした口調で言い切った。

「——知は、常に危険です。社会の嘘を暴く道具である限り、常に誰かを傷つけ、何かを壊します。だからこそ、私は学生にそれを手渡す責任があると考えている」

その瞬間、理事のひとりがぽつりと呟いた。

「……あなたは、教員ではなく革命家だ」

赤間は笑った。だが、それはユーモアのない笑みだった。

「革命など望んでいない。ただ、“眠っている頭”を起こしたいだけです」
理事長がようやく重い口を開いた。

「……赤間先生。あなたの講義がもたらす“刺激”が、思考を喚起するものであることは我々も理解しています。しかし、それが同時に分断を生んでいることも事実です。現に学生相談室への通報は昨年度、あなたの講義後に倍増しています」

赤間はそれを聞いても、顔色一つ変えなかった。ただ、静かに訊き返した。

「それで? “分断”は、悪なんですか?」

「え?」

「学生が衝突すること。意見がぶつかり、自己を揺さぶられること。それこそが、成長の出発点ではないですか? 本物の対話は、痛みを伴います。——でなければ、ただの同調です」

理事長は苦い顔をした。

「教育は、思索と調和の両立を目指すべきです」

「調和とは、多数派が少数派を黙らせた結果の静けさでしょうか」

誰かが椅子を引く音がした。室内の空気が一段と重くなる。

そのとき、赤間の視線がふと、会議室の窓の向こうに泳いだ。

春の曇天。遠くに、構内を歩く学生の姿。カバンを斜めに掛け、イヤホンをした若者が、スマートフォンを見ながら歩いていた。

あれは、十五年前と同じだ——と赤間は思った。

あの日、自分は海外の現地取材で内戦地帯にいた。銃声と瓦礫、そして“正義”の名のもとに破壊された学校。そこにいた少年の顔が、いまも消えない。

——「この村に来て、あなたは何を伝えに来たの? “自由”? “希望”? そんなの、俺たちには届かない」

その少年は、翌朝遺体で見つかった。自爆テロの巻き添えだった。何も知らずに“伝える側”として訪れた赤間の、ただの“好意”が連れてきたカメラの存在が、村を狙わせたのだ。

“正義は、時に人を殺す”

あれ以来、赤間の言葉には鋭さが宿った。それは罪悪感でも贖罪でもない。もっと冷たいものだった。

——責任。

理事の誰かが言う。

「赤間先生、再三申し上げている通り、来月からのカリキュラムには“講義内容の共有と事前承認”を求めます。遵守いただけない場合は——」

「講義は予定通り行います。承認も結構です。私は、言葉に手綱をつけるつもりはありません」

誰かがあからさまに舌打ちをした。

赤間は席を立ち、最後にこう告げた。

「思想に管理が入った瞬間、それはもう思想じゃない。ただのスローガンだ」

扉が閉まった瞬間、理事会室の空気はぐっと軽くなった。だが、誰も安心はしていなかった。
——嵐はまだ、これからだった。

教室は、午前八時五十五分を告げるチャイムの直前にざわつき始めた。

200人は収容できる大講義室。その八割近くを、学生たちが埋めている。新入生もいれば、進級してきた者もいる。赤間直道の名前をネットで知って来た者もいれば、「履修登録を間違えた」と顔をしかめている者もいた。

だが、どの顔にも共通していたのは、“緊張”だった。

理由は明白だ。この講義の講師は、「教育界の異端児」「思想テロリスト」「学生に泣かれた唯一の准教授」など、ネットで複数の異名を持つ男なのだ。

ドアが開く音に、教室の空気が一瞬だけ止まった。

赤間はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、ゆっくりと前に進む。資料もPCもない。ただ、彼の眼だけが、すでに講義を始めていた。

壇上に立つと、赤間は一言も発さず、黒板にチョークでこう書いた。

「正義とは誰のための武器か」

それだけだった。

学生たちがざわつく中、赤間はようやく口を開いた。

「まず確認しておこう。俺の講義に“中立”という逃げ道はない。考えたくない者は、今すぐ退出してくれて構わない。出席点はゼロにするが、ペナルティはない。そういう契約だ」

一人の男子学生が動いた。荷物をまとめ、無言で立ち上がる。

教室の後方ドアが閉まったとき、赤間はうなずいた。

「いい判断だ。——何もしない勇気もまた、選択だ」

ざわつきが収まらない教室で、最前列の女子学生がそっと手を挙げた。
黒髪のショートカットに、鋭いまなざし。瀬戸かりん——後に、彼の最も厄介な“敵”となる存在だった。

「講義冒頭で、“中立は逃げ”だとおっしゃいましたが、それは立場を持たない人間への否定と受け取ってよろしいですか?」

教室が水を打ったように静まる。

赤間は、ほんのわずかだけ口元を歪めた。笑ったようにも見えた。

「“否定”じゃない。“挑発”だ」

かりんが目を細める。

「挑発の目的は?」

「眠っている頭を、叩き起こすことだ」

赤間は、ゆっくりと講義室を見渡す。

「これから90分、君たちは“自分の信じているもの”を疑う訓練をする。愛、正義、倫理、自由。全部疑え。俺がその火種を撒く。——さて、君たちは、それに火をつけられるか?」
「では、初日の問いを投げよう」

赤間は板書のすぐ下に、新たな一文を書き加えた。

「テロリストにとっての“正義”は存在するか?」

教室がざわめいた。笑う者、眉をしかめる者。呆れたようにスマホに手を伸ばしかけて、ためらう者。

赤間は微動だにしない。

「この問いに“善悪”で答えようとする者は、もう思考を放棄している。これは“視点”の問題だ」

そう言って、彼は教室の中央を指さした。

「この中に、9.11を“アメリカの自業自得”と感じた者はいるか? あるいは、パレスチナ問題において“イスラエルこそが侵略者”だと思う者は?」

誰も手を挙げない。ただ、かりんだけが静かに言った。

「“どちらにも理がある”という立場では、だめですか?」

赤間はその言葉に、一瞬だけ間を置いた。

「“理がある”という言い方は、往々にして責任逃れになる。世界は、綺麗に二項対立には分かれない。だが、分かれないからこそ——君は、どちら側で死ぬ覚悟があるか、を問われることになる」

かりんの眉がわずかに動く。赤間は見逃さなかった。

「“中立”でいられるのは、誰も銃を向けてこない間だけだ。人はいつか、選ばされる。理想を守って死ぬか、現実に屈して生きるか。俺はその選択を、十五年前にした」

誰かが小さく息を呑んだ。

赤間の目は遠くを見ていた。だが、声だけは冷たく確かだった。

「だから俺は、この講義で“思想の武器”を配る。それを使うかどうかは君たち次第だ。ただし——使わなければ、いずれ殺される側にまわる。それだけは忘れるな」

チャイムが鳴る。

赤間はチョークを置くと、背を向けたままこう言った。

「次回、“自由”とは何かを問う。宿題はひとつ。自分が“絶対に譲れないもの”を、一つ挙げておけ。命よりも大切なものがあるかどうか、君たち自身が決めろ」

講義室は静まり返っていた。

彼の背中を見送るその中に、瀬戸かりんのまなざしだけが、明らかに燃えていた。

——これは、ただの講義ではない。
これは、思想の戦場である。
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