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執事の怒り
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私はバーチフィールド公爵家の執事頭を務めております。
五十年前、当時の執事頭だった父から生まれた私も、この道四十年あまりとなりました。
子どもの頃から折檻にも似た厳しい教育のもと、私も父と同じ執事頭にまでのぼりつめ、今では長として屋敷内の使用人を一手に取りまとめるほか、旦那様であるバーチフィールド公爵のお世話をしております。
しかし最近、私はお嬢様のことが気がかりでなりませんでした。
私は自分の仕事に誇りを持つと同時に、愛着も感じております。
長年――それも人生の半分以上をバーチフィールド公爵家に身を費やしてきた結果、いつの間にか主人や家人の喜びが私の喜びになっていたのでございます。
怒りや悲しみもまたしかり。
今やバーチフィールド公爵家は、私にとっては愛する家族も同然でございました。
お嬢様とは、私がお仕えする方の一人――バーチフィールド公爵家の三人姉妹の末娘、アリシア様のことでございます。
アリシア様は旦那様によく似た、艶やかな黒髪と黒曜石の瞳をお持ちです。
読書を嗜まれるため、日焼けがまったくと申して上げて良いほど見当たらぬ、真っ白な肌の持ち主でもございました。
薄く綺麗な形をした薔薇色の唇が、より白と黒を引き立てていらっしゃいます。
子どもの頃から大人しかったアリシア様は、三人姉妹の中でも控えめなほうではございましたが、十八になられた今お姉様方にも引けを取らぬ、果実のように瑞々しく輝く美しい娘に成長されました。
――本当に良い女だよなぁ。
――お嬢様とは言え、あの白い喉元にむしゃぶりつきたくなる。
――お前達、口を慎みなさい。
げへへ……と喉の奥で笑ったのは、屋敷の片隅で私語に興ずる下級使用人達でございました。
しかし、ああは申しても、実際アリシア様に手を出そうものなら命はございません。
それはあの者達とて分かっていることでしょう。
もし私がもう少し若ければ……あの者達と同じように下卑たことを考えていたかもしれませんが。
このように貴賎の別なくアリシア様の美貌に取り憑かれる者もおりましたが、お嬢様はれっきとした婚約者のいらっしゃる方でした。
婿を取られたり、他家に嫁がれたりしたお姉様方に続き、アリシア様もいよいよ十六になられた二年前、晴れて婚約が結ばれたのです。
子煩悩な旦那様も奥様も、すでに結婚されたお姉様方も、アリシア様の婚約を喜ばれる一方で、「可愛い可愛いアリシアを手放すのが惜しい」と、何度も口にされておりました。
お相手はこの国の第三王子、スペンサー様。
公爵家としても、これ以上申し分のない方でしょう!
――じいや、わたくしはスペンス様の妻になるのですよ。
縁談が決まられたとき、アリシア様は淑女らしく控えめに笑われました。
けれども、内心ではさぞや喜ばれたことでしょう!
実は私、アリシア様が部屋でこっそりスペンサー様に送る詩を考えながら身悶えされていたことを存じております故。
また、アリシア様はスペンサー様の幼馴染でもいらっしゃいました。
幼少の頃より一つ年上のスペンサー様の遊び相手に選ばれたアリシア様は、よく城の庭を駆け回わられたり、花を摘まれたり、馬に乗って出かけられたそうです。
子どもとはいえアリシア様は公爵家の令嬢。
ふだんなら許されぬ振る舞いも、スペンサー様とご一緒のときは特別に許されました。
それがアリシア様にとって、ずいぶんと楽しい思い出になられたようです。
子どもの頃のアリシア様は、よく私にスペンサー様の話を熱心にされました。スペンスがね、スペンスがね、と――……。
――なっ、婚約破棄……ですか!?
ところがある日、私は執事頭としては恥ずかしくも、あからさまに動揺してしまいました。
いつもにこにこと笑う旦那様は、悲しげな顔で何も仰りません。
しかしながら、使用人たちの間ではアリシア様の婚約破棄という衝撃の噂が広がっておりました。
何でも……スペンサー様はアリシア様という婚約者がいながら、あろうことか第二王子の婚約者に手を出したとか!
こう申しては何ですが、そんなありきたりな城の醜聞に、まさか我らがアリシア様が巻き込まれるとは露程も思わず、思わず腰が抜けてしまいました。
――何も食べたくありませんわ。
その日以来アリシア様は気落ちし、食事もあまり召し上がりません。
ご家族や私たち使用人の前でも決して涙を見せられないアリシア様でしたが、私はお嬢様が隠れて泣かれているのを存じております。
夜な夜な押し殺したような泣き声が、屋敷の廊下に響いていました。
私は愛しいアリシア様に、こんなつらい思いをさせたスペンサー様が許せません。
ああ、おいたわしや。私のアリシア様……。
五十年前、当時の執事頭だった父から生まれた私も、この道四十年あまりとなりました。
子どもの頃から折檻にも似た厳しい教育のもと、私も父と同じ執事頭にまでのぼりつめ、今では長として屋敷内の使用人を一手に取りまとめるほか、旦那様であるバーチフィールド公爵のお世話をしております。
しかし最近、私はお嬢様のことが気がかりでなりませんでした。
私は自分の仕事に誇りを持つと同時に、愛着も感じております。
長年――それも人生の半分以上をバーチフィールド公爵家に身を費やしてきた結果、いつの間にか主人や家人の喜びが私の喜びになっていたのでございます。
怒りや悲しみもまたしかり。
今やバーチフィールド公爵家は、私にとっては愛する家族も同然でございました。
お嬢様とは、私がお仕えする方の一人――バーチフィールド公爵家の三人姉妹の末娘、アリシア様のことでございます。
アリシア様は旦那様によく似た、艶やかな黒髪と黒曜石の瞳をお持ちです。
読書を嗜まれるため、日焼けがまったくと申して上げて良いほど見当たらぬ、真っ白な肌の持ち主でもございました。
薄く綺麗な形をした薔薇色の唇が、より白と黒を引き立てていらっしゃいます。
子どもの頃から大人しかったアリシア様は、三人姉妹の中でも控えめなほうではございましたが、十八になられた今お姉様方にも引けを取らぬ、果実のように瑞々しく輝く美しい娘に成長されました。
――本当に良い女だよなぁ。
――お嬢様とは言え、あの白い喉元にむしゃぶりつきたくなる。
――お前達、口を慎みなさい。
げへへ……と喉の奥で笑ったのは、屋敷の片隅で私語に興ずる下級使用人達でございました。
しかし、ああは申しても、実際アリシア様に手を出そうものなら命はございません。
それはあの者達とて分かっていることでしょう。
もし私がもう少し若ければ……あの者達と同じように下卑たことを考えていたかもしれませんが。
このように貴賎の別なくアリシア様の美貌に取り憑かれる者もおりましたが、お嬢様はれっきとした婚約者のいらっしゃる方でした。
婿を取られたり、他家に嫁がれたりしたお姉様方に続き、アリシア様もいよいよ十六になられた二年前、晴れて婚約が結ばれたのです。
子煩悩な旦那様も奥様も、すでに結婚されたお姉様方も、アリシア様の婚約を喜ばれる一方で、「可愛い可愛いアリシアを手放すのが惜しい」と、何度も口にされておりました。
お相手はこの国の第三王子、スペンサー様。
公爵家としても、これ以上申し分のない方でしょう!
――じいや、わたくしはスペンス様の妻になるのですよ。
縁談が決まられたとき、アリシア様は淑女らしく控えめに笑われました。
けれども、内心ではさぞや喜ばれたことでしょう!
実は私、アリシア様が部屋でこっそりスペンサー様に送る詩を考えながら身悶えされていたことを存じております故。
また、アリシア様はスペンサー様の幼馴染でもいらっしゃいました。
幼少の頃より一つ年上のスペンサー様の遊び相手に選ばれたアリシア様は、よく城の庭を駆け回わられたり、花を摘まれたり、馬に乗って出かけられたそうです。
子どもとはいえアリシア様は公爵家の令嬢。
ふだんなら許されぬ振る舞いも、スペンサー様とご一緒のときは特別に許されました。
それがアリシア様にとって、ずいぶんと楽しい思い出になられたようです。
子どもの頃のアリシア様は、よく私にスペンサー様の話を熱心にされました。スペンスがね、スペンスがね、と――……。
――なっ、婚約破棄……ですか!?
ところがある日、私は執事頭としては恥ずかしくも、あからさまに動揺してしまいました。
いつもにこにこと笑う旦那様は、悲しげな顔で何も仰りません。
しかしながら、使用人たちの間ではアリシア様の婚約破棄という衝撃の噂が広がっておりました。
何でも……スペンサー様はアリシア様という婚約者がいながら、あろうことか第二王子の婚約者に手を出したとか!
こう申しては何ですが、そんなありきたりな城の醜聞に、まさか我らがアリシア様が巻き込まれるとは露程も思わず、思わず腰が抜けてしまいました。
――何も食べたくありませんわ。
その日以来アリシア様は気落ちし、食事もあまり召し上がりません。
ご家族や私たち使用人の前でも決して涙を見せられないアリシア様でしたが、私はお嬢様が隠れて泣かれているのを存じております。
夜な夜な押し殺したような泣き声が、屋敷の廊下に響いていました。
私は愛しいアリシア様に、こんなつらい思いをさせたスペンサー様が許せません。
ああ、おいたわしや。私のアリシア様……。
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