吉原遊郭一の花魁は恋をした

佐武ろく

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最終章:全てを脱ぎ捨てて

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それから更に暫くの間、二人にとっては無駄に最悪の結末を想像してしまう静けさが続くと、秋生は突然、組んでいた腕を解き目を開けた。しかしながら八助と夕顔には一切見向きもせず視線は正面の住職へ向いたまま。

「お決まりになったようですね」
「あぁ」

秋生のその返しに八助と夕顔の握り合う手に力が入る。息すら止めているように二人の全ての集中は秋生の言葉へと向けられていた。
そして焦らすようにゆっくりと秋生の口が開いていく。

「――いいだろう。お前の提案に乗ろう」

だがそれが一体どんな提案なのかを知らない二人の緊張は続き、同時に住職へと顔を向けた。
一方、住職は秋生を見返したまま折り曲げられた紙を一枚取り出すと何も言わずに差し出した。それを立ち上がった秋生は受け取ると真っ先に中を確認する。

「ずっと持っていたのか?」
「昨日から準備しておりました」
「こうなる事は予測済みって事か」
「いえ。手間を省く為ですよ」

それが本心なのかどうなのかは住職の温和な表情からは読み取れない。だが秋生は何かを読み取ったのか軽く鼻を鳴らした。

「お前のような男は好かん」
「私は何もしていませんよ。全ては貴方の行いによるものです。因果応報、情けは人の為ならず。行いは何かしらの形となって戻ってきます。それが偶然か必然かは関係なしに。ですので人に優しさを与えることを躊躇してはいけませんよ。相手ではなく自分の為だと思ってでも行えば誰しも優しさを与える事が出来るでしょう」
「余計なお世話だ」

秋生はそう言うと視線を未だ取り残されたままの二人へ向けた。

「言う迄も無いが二度とあの場所には足を踏み入れるな。その周辺にもだ」

その言葉に八助と夕顔は一度顔を見合わせたが確認するように住職を見遣った。

「もう貴方方は自由ですよ」

その瞬間、雨が上がり暗雲が割け太陽が顔を出すと同時に綺麗な虹が掛かったかのような感覚が二人の中で広がった。

「夕顔さん」
「八助はん」

互いの名前を呼び合い安堵の中、勢いよく抱き締め合う。緊張の糸は切れ力が抜けながら二人はしっかいりと互いの体を抱き締め続けた。何も阻むものはなくただ相手に対しての愛のみを感じられるその感覚は心地好く至極のものでもあった。
だがその途中で八助は徐に夕顔から離れると既に外へ出た秋生を呼んだ。

「秋生さん」

その声に振り返る秋生。

「三好はどうなるんですか?」
「今回の件は文字通り消えた。あの店をどうこうする理由もだ」

自分の中にあったもうひとつの心配事を吐き出すように安堵の溜息を零した八助は不思議と体が軽くなったように感じていた。

「ありがとうございます」

お礼と共に頭を下げる八助。そんな彼に対して何かを言う訳でもなく秋生は前を向き足を進めた。
そして頭を上げた八助は次に住職の元へと戻ると夕顔の隣に正座で腰を下ろした。

「住職さん。見ず知らずの僕らを助けていただき、本当にありがとうございました」
「ほんまおおきに」

溢れる感謝の気持ち分、深く頭を下げる二人。そんな二人を住職は嬉しそうに見つめていた。

「気にすることはありませんよ。さぁ頭を上げてください」

頭を上げた二人はまだ感謝の言葉を言い足りなかったがあまりにも言い過ぎるのもそれはそれでどうかという思いもあり少しそわそわとするだけだった。
そんな二人に住職が再び口を開く。

「昨夜は心配で良く眠れなかったでしょう。もう少し休んでいって下さい。それにもし行く当てがないのなら少しの間でしたらここの手伝いをしながらという条件で居てもいいですよ」
「そないな事までなんとお礼を言うたらええか」
「そうお気になさらず。とりあえず今は部屋でゆっくり休みながら考えてみて下さい」
「はい」

八助と夕顔は一度向き合ってから立ち上がると最後に住職へお礼を言いあの部屋へと戻った。
中に入り障子を閉めると二人は向き合い一度抱き合う。夕顔は八助の腕に包まれながらまだ自分が遊女ではなくなった事に対する実感と理解のズレに不思議な気持ちとなっていた。
一方で八助はあの日、花魁道中で恋に落ちた女性とこうやって一緒になれたという事実がまだ信じられないでいながらも腕の中にある確かな温もりに不思議な気持ちとなっていた。
そして互いに手は回したまま体を離し向かい合う二人。

「夕顔さ――」

すると夕顔は自分の名前を呼ぼうとした八助の口に指を当てそれを止めた。

「もうわっちは遊女ちゃう。わっちは――いや。私は……」
「りん」

八助は約束通りその名前を口にした。
だがもう遊女で無くなり本名で呼ばれても彼女はまだ内にいる夕顔の存在を感じていた。でもそれは今の彼女にとって大した問題ではなかった。

「そう。私はりん。もういっぺん呼んでくれへん?」
「何度でも。心から愛しるよ。りん」

ただ今は何年もの間、心に大切にしまっていたその名前で呼ばれる事で普通の女性に戻ったような感覚を感じていたかったから。普通の女性として一人の男性の愛を受け愛したかったから。
だが彼女は突然「ふふっ」と噴き出した。

「時間経ち過ぎた所為やろうな。なんか慣れんでちょいむずがゆいわぁ」
「それじゃあ戻します?」
「いや、こっちでええ。その代わり馴染むまで沢山呼んでな」
「分かりました。りん」

その名前を噛みしめるように聞きながらりんは八助の目を見つめた。目が合い触れ合うだけで胸は限界まで走ったように高鳴り、抑えきれない気持ちで力一杯抱き締めたくなる。
一方、自分を見る彼女の双眸を真っすぐ見つめ返す八助。その笑顔や横顔、何気ない振る舞いでさえも思わず見入ってしまい傍に居るだけでも胸は締め付けられ堪らなく幸せに満ち溢れる。
もしこの世界に愛という言葉が無くともその存在に疑問を持つ事が無いぐらい確かな感情を二人はその胸に抱えていた。それは一人では感じる事の出来ないこの世で最も素晴らしくて美しい感情。だが同時に全てを伝えたいのにも関わらずその方法すら分からずもどかしくもある感情。
もしこの世界に愛という言葉が無くとも今の二人は自然に難なくその言葉を口にしただろう。

「愛してるよ、りん」
「私も愛してんで、八助はん」

八助とりんは胸の中に残ったもどかしさを伝え切るように口づけを交わした。

               ―完―
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