白船亭事件考

隅田川一

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第13章

愛と憎しみの狭間

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 稲荷千太郎が、浅草橋警察の村越警部の元を訪れたのは、一週間程度の休養をとってから更にその三日後であった。

 村越警部は稲荷千太郎のために、応接室を解放した。そこには、喜平も来訪していた。稲荷千太郎が予め喜平を招いていたのである。

 各課にあるようなソファーと違って革張りの豪勢な三点セットが設置されている。灰皿も和製の陶器で出来た大きな物が置かれていた。

 稲荷千太郎が、その応接室のドアをノックしたとき、村越警部はいつものようにゴールデンバットを吸っていた。既に喜平もソファーに座っており、村越警部と事件について話し合っていた。

 稲荷千太郎は、遅れて到着したことの詫びを言い、ソファーに座った。彼は村越警部の隣りに座り、その正面は喜平が座っていた。

「遅れて済みませんでした」

「いや、長時間待っていたわけではない」

 喜平は、少し優しい面持ちで言った。

「突然居なくなったから、驚いたよ。しかし、後から考えるとその気持ちも分からんでもない」

「いやぁ。あの時は失礼しました。私も少し精神的におかしくなっていたようです」

 村越警部は、黙ってタバコを吹かしていた。

 喜平は、右手を背広の内ポケットに入れ、封筒を取り出して稲荷千太郎へ渡した。

「ときに稲荷さん。これ・・・」

「えっ?」

「報酬だよ。村越さんの目の前で申し訳ないが、ここで渡させてもうらう」

「いやあ・・・これは」

「遠慮せんで、受け取ってくれ。少し、色も付けてある。まあ用心棒としては失格だが犯人が特定されなければ、まだまだ事件が続いていた可能性もある。そう考えると、あんたには感謝しないと」

「そ、そうですか。では、ありがたく頂戴します」

「枚数を数えてくれ」

「いえ、それは結構です」

 稲荷千太郎は、喜平から手渡された封筒をそのまま自分の背広の内ポケットに仕舞った。

「ありがとうございます。これでしばらくは家賃を払うことが出来ます」

 村越警部は、陶器の灰皿にタバコをもみ消した。

「実は、白船さん。今日、ここに呼んだのは、稲荷さんの指示なのです。事の全貌を説明してくれることになっています。実のところ犯人が乳井しんだと白船亭で聞いた後に、警察でも色々調べましたら、そこまでの事情は分かりました。しかし、事件の全ては理解できません。私も稲荷さんから、全貌をお聞きしたいと思いましてね」

「はい。私もあれからしばらく寝込みましたが、やっと説明できる状態になりましてね。今、村越警部が言った通り、今日は全貌を説明させていただきます」

 喜平は、無言で頷いた。

「その前に、村越さん。新吉さんが死亡した状況をもう一度教えて頂けませんか?」

 村越警部は頷いた。

「新吉が乳井しんを殺害した後に、彼は我々が居た二階の大広間から走り去りました。私がそれを追ったのは覚えていますね?彼は足が速くてね。私が白船亭の玄関から道路に出た時には彼は既に浅草通りの近くまで行っいました。私は、大広間から刑事に追いかけるように大声を出していたので、私が路上を出た時には既に白船亭の前で待機していた警察官が新吉を追っていました。彼らの背中を私は後方から見たわけです。新吉は浅草通りの角を曲がることなく、そのまま突っ切りました。うまく渡ることが出来れば警察官の追跡を振り切ることが出来ると、とっさに判断したのでしょう。ところが、仁丹塔方向から来る車に撥ねられた。時速五十キロだったそうですが、ほぼ真正面からぶつかったために即死でした。運転手に聞いたところ、ほんの数秒よそ見をしている間に撥ねたそうです。気がついた時には遅かったというわけです」

「そうでしたか」

 稲荷千太郎は、深刻な顔をした。

「彼にとってはそのまま逃げ切れなくても良かったのかもしれませんね。運悪く車に撥ねられても、それそれで後悔はなかったとも言えますね。まるで自殺行為のようです」

「まあ。稲荷さんの言う通りかも知れんね。さて、稲荷さん、話を本題に移って下さい。」

 稲荷千太郎は、頷いた。

「どこから説明するか悩むところではありますが、結論から言いまして、乳井さんは、あなたの財産を狙っていました。相続人でもない乳井さんが、なぜあなたの財産を狙えるのかと言えば、実は紗枝さんは、あなたと乳井さんとの間に出来た子供なのです。そして乳井しん新吉は、乳井しんと渡辺新造さんとの間に生まれた子です」

 稲荷千太郎は、いきなりことの核心部分に触れた。良子と喜平の間に出来た子供だと思っていた紗枝は、実は乳井しんと喜平との間に産まれた子供だという意外な顛末である。

 また、乳井新吉は、乳井しんと渡辺新造との間に出来た子供だということは、乳井しんは渡辺新造及び喜平の両人と関係を持ったことになる。

 あまりにも、突飛な事を聞いて喜平は愕然とした。そして、村越警部も目を丸くして口を開けていた。

 喜平は、しばらく言葉を失ったが、やがてその目から涙をあふれ出させていた。

「そ、そんなことがあるのか」

「あったのです」

 三人はしばらく無言のまま座っていた。犯人の動機と過去の経緯を話した稲荷千太郎も重苦しい気分になっていた。また、それを聞いた喜平は驚きのあまりに言葉も出ない。村越警部も、その重々しい雰囲気の中で何も言葉を発することができなかった。

「何十年も前の話で恐縮ですが、白船さんは乳井しんと男女の関係にありましたね?」

 喜平は、沈黙したまま黙って頷いた。

「紗枝さんは、良子さんの子供ではなく、その時に乳井しんが妊娠した子供です」

 村越警部は、咳込みながらタバコの煙を吐き出した。

「その話は結論として分かった。し、しかし稲荷さん。良子さんは妊娠していたのだぞ。その子供は?」

「はい。その子供は殺害されました。この事件の始まりはそこからなのです」

 喜平は頭を抱えて下を俯き、村越警部は驚愕していた。

「詳しく説明します。良子さんが妊娠したと気が付いたのは妊娠三ヶ月程度の時期でした。実は乳井しんもその時に妊娠していたのです。奇しくも良子さんも乳井しんも同時期に妊娠したのです。父親は白船さんです。渡辺新造が栃木へ病院を移すと聞いて良子さんは追いかけるように栃木へ行きました。乳井しんは、白船さんに願い出て、良子さんと共に栃木へ行った。そこまでは渡辺新造の考えていたストーリー展開となりました」

「新造さんまでがグルになって私を騙していたと言うのかね?戦友でもあり親友でもあったあの人が・・・。私はどうも信じられん」

「おそらく、渡辺新造が当初の主犯格です。乳井しんと渡辺新造は以前に男女の関係にあり、新吉まで産んでいますので互いに懇意にしていたはずです。ところが、ある時から乳井しんには渡辺新造とは別の野心が芽生えた」

「ちょっと、稲荷さん。あんたの話はさっぱり分からん。もう少し丁寧に話してくれんか」

 と、村越警部が横から口を挟んだ。

「そ、そうですね。では、もう少し丁寧に話します。時系列に説明しますと、乳井しんは渡辺新造の産婦人科で長い間仕事をしてきましたが、その時に二人には男女の関係ができてしまった。その結果、新吉が産まれました」

「そ、それはどうやって知ったのかね」

 複雑な面持ちの喜平が聞いた。

「警察の協力で、当時の出生届を調べた結果、新吉の父親は渡辺新造でした。乳井新吉は今回の事件では全くのノーマークでしたから。考えてみれば、新造と新吉、名前も似ていますよね。また、渡辺新造の栃木の旧産婦人科兼自宅を捜索したところ、乳井親子と渡辺新造の三人が写っている余暇の写真が発見されました。そして、次に乳井しんは白船さんと男女の関係になり、妊娠した。つまり、紗枝さんは乳井しんとあなたの間に出来た子供なのです。乳井しんは、良子さんが産んだ子供を殺し、紗枝さんをその殺した子供の代りに白船さんと良子さんとの間の子供として役所へ届け出たのです。しかし、母である良子さんは同時期に亡くなっている訳ですから、死人に口なしとなってしまいました。その後、平然と自分の子供である紗枝さんを良子さんの子供と偽って、白船亭に戻ったわけです。その後は、良子さんの親代わりとして紗枝さんを育てましたが、実は親代わりでも何でもなく、乳井しんは紗枝さんの本当の母親だったのです」

 あまりにも信じられない話を聞いた喜平と村越警部は顔を見合わせて沈黙した。

「しかし、稲荷さん。その結果、乳井しんに何が残るのですか?」

「良い質問ですね。実際、紗枝さんが乳井しんの子供のままで、白船さんにとって非嫡出子であっても、嫡出子の半分の相続権があります(この当時の法律)。最終的に紗枝さんがその分を相続しても良い訳です。しかし、乳井しんは、何としても紗枝さんを嫡出子にしたかった」

「しかし、紗枝さんが嫡出子になって、白船さんの財産を相続しても、乳井親子には金銭を得ることはできないだろう。なぜ、そこまでして紗枝さんに嫡出子としての相続権を与えたかったのか理解できない」

 村越警部の言っていることは最もだった。紗枝が財産を相続しても乳井親子には何の利益もない。

「まあ、これも推測ですが、第一に乳井親子は紗枝さんに相続させることができればそれで目的は達成したと言えますね。そして第二に、あわよくば紗枝さんが相続財産を得た後に、本当のことを言い、紗枝さんから金銭的な面倒を見てもらうことも考えていたのかもしれませんね」

「しかし、嫡出子の子供が全て殺害されてしまえば、非嫡出子の紗枝さんしか残らないのだから、結局は非嫡出子であっても全財産を相続できることになるが」

「はい。その通りです。しかし、嫡出子が全員殺害され、非嫡出子だけが残り、しかもそれが乳井しんの子供だと分かればどうでしょうか。乳井しんは、確実に怪しまれます。従って、嫡出子として紗枝さんは存在していた方が無難です」

「なんとなく動機としては弱い気もするが。
ときに、良子さんが産んだ子供は本当に殺害されたのかね」

「はい。渡辺新造の栃木の自宅兼診療所の庭から、その子供の骨を発見しました」

「ああ、その骨か」

「そう、その骨です。今、警察で調べてくれていますが、おそらくその骨です」

 喜平は二人のやり取りを聞いて。

「その骨とは?」

 と言った。

「これは失礼しました。実は、村越警部は、我々が骨を発見したことを警察と言う立場から当然に知りました。説明しますと、渡辺新造の自宅の裏庭に小さな地蔵さんが立っていたのです。私は少しそれに違和感を感じて、そのお地蔵さんを移動させて、お地蔵さんが置いてあった部分の土を掘りました。その結果、そこから赤子の骨が出てきたのです。その時点で村越さんには報告しました」

 喜平はそれを聞いて、絶望的な顔をして黙り込んだ。村越警部は、喜平を横目で見ながら言った。

「稲荷さん。警察の私も骨をあんたが発見したというところまでは聞いているが、結局私が分かるところはそこまでだ。結局、何が行われたのだ?」

「まず、良子さんが子供を産んだ時点で、生まれたばかりの子供を渡辺新造が殺害したと思われます。その後、薬だと偽ったのでしょうが、出産後の良子さんにトリカブトを飲ませました」

「ちよっと待て。ということは新造さんも実行の共犯だったのか?稲荷さん、あんたの推理は恐ろしすぎる。そんなバカな」

 喜平は、大声で叫ぶように体を震わせながら言った。怒りなのか絶望なのかが判別がつかない程に取り乱していた。

「私もこんな狂気で恐ろしい事件は初めてです。しかしながら、そのような推理しか出来ませんし、その推理は正しいと思います。つまり渡辺新造は乳井しんとグルになって白船さんの財産から分け前を狙っていたのでしょう。新吉は渡辺新造と乳井しんの間の子供ですし、この三者は繋がっていたのです」

「では、良子さんの遺書についてはどう考えるますかね」

 村越警部が稲荷千太郎に聞いた。

「良子さんの遺書は、恵美子さんが憎い、この存在は私の中で消えることはない。だったら私がこの世から消えても良い、という内容でした。この意味は、一見すると恵美子さんを恨むばかりに自分が自殺するというように読めます。つまり、これは遺書であると普通は思います。そして実際にトリカブトを飲んで亡くなっている訳ですから、遺体の側にこの内容の紙が置いてあれば尚更です。しかし、これは遺書ではないのです」

「え?遺書ではない?」

「はい。良子さんは、渡辺新造に勧められて信言教に入信したことは御承知かと思います。私はこの宗教について色々と調べました。すると、あることが分かりました。この真言教の教えの中に自分を犠牲にすれば、願いは適うというのがあります。具体例として挙げられている文章がありまして、それ読むと良子さんの遺書と思われた文章に近いものが沢山ありました。ですからこれは遺書ではなく、良子さんの願いを書いたものなのです。これを書いたら毎日何百回もこれを読むのです」

「し、しかし良子さんはそこまでして恵美子さんを恨んでいたのかね?」

「おそらくは良子さんには、恵美子さんという存在そのものが嫉妬の対象になっていたのでしょうね。更に話を進めます。渡辺新造と白船さんは軍人仲間でもあり、戦後も付き合っていた。良子さんは宗教で渡辺新造と懇意にしていた。墨田区の信言教の事務所へ行き、良子さんの入信の日を調べましたら、乳井しんが言っていたのと全く時期が異なっていました。乳井しんは、良子さんが妊娠して帝王切開で苦労した際に渡辺新造の誘いで入信したと言っていましたが、良子さんが入信したのは白船さんと良子さんが知りあう以前です。これは推測ですが、おそらく白船さんと良子さんが恋愛関係に陥ったとき、良子さんは渡辺新造の勧めで恵美子さんと白船さんの離婚を迫った可能性があります。その理由は、良子さんの実家の料亭を白船さんが継ぐ可能性があったことです。つまり、今回の一連の犯行は乳井親子が犯人ですが、その当時の最初の黒幕は渡辺新造だったわけです。渡辺新造は、良子さんが料亭の一人娘であり、その跡継ぎがいないことを知っていた。この料亭からお布施と称して多額の金銭の寄付を渡辺新造個人が受けるために、良子さんと白船さんを近づけた。つまり良子さんが、他に嫁に行ってしまっては身も蓋もないので、婿養子になれそうな人間を良子さんに引き合わせることが大事だったのです。ところが、事態は予想しない方向へ向かいました。つまり、白船さんは、良子さんの実家の料亭を継ぐことはせずに自ら白船亭を立ち上げたのです。それは渡辺新造からすれば想定外の出来事でした。しかし、白船亭は思いもよらず、繁盛した。そこで乳井しんを白船亭へ侵入させたのです。乳井しんが、監視役となり、良子さんから渡辺新造へ宗教団体のお布施と称して多額の寄付を定期的に渡辺新造に貢がせる計画だったのです。しかし、ここで更に想定外の事が起きた。乳井しんが白船さんと不倫関係に陥り、妊娠してしまいました。そこで渡辺新造さんと乳井しんは、計画を変更して、良子さんを殺害し、最後には紗枝さんに全財産を相続させ、その金銭を好き勝手に自分たちの物にするという方向へ向かいました。しかし、乳井親子はその飼い主に噛みつくことになりました。乳井親子が白船亭の財産をコントロールしようと考えたのです。その結果、渡辺新造が、全ての秘密を知る者ととして邪魔者にされ殺害されたのです。恵美子さんとの離婚に関しては目の前の白船さんが最も詳しいはず」

 喜平は稲荷千太郎の話を聞くと、顔を真っ赤に染め、下を俯いたまま大きな粒の涙を流して、泣き声を堪えながらすすり泣いた。

「確かに私は新造さんの勧めで良子と付き合い始めた。と、いうかそもそも私は就職の件で新造さんに相談したことが間違いだった。手に職を付けたい。そのために、どこか良い職場はないかと新造さんに相談した。その時、良子に引き合わせてくれたのだ。そして、私と良子は恋に堕ちた。それが新造さんのコントロールによるものとは思えない。しかし、結果的にはそうなってしまった。私は良子の実家を継ぐ立場にもなく、その気もなかったので自分で白船亭を立ち上げた。それも結果的には良子の実家を継ぐよりは事業は拡大し、成功した。それも新造さんにとっては好都合な結論となってしまった。しかし、恐ろしいことだ。私の再婚や離婚まで半分は仕組まれたようなことだったとは」

「いえ、良子さんと白船さんの恋については渡辺新造もコントロールは出来ていないでしょう。しかし、二人が恋に堕ちる期待と予測はしていたでしょうし、恐らくは良子さんに恋愛を勧めていた可能性もあったでしょうね。しかし、全部をコントロール出来たとは言い難いです。そして、良子さんは、白船さんと結婚したのですが、先妻の恵美子さんの影を消すことが出来ずにいたわけです。幸一さんも白船亭に居たわけですし、幸二さんという子供の存在も知っていた」

「そんなことがあるのかね。良子さんと白船さんを引き合わせたうえで、その良子さんの子供を殺害し、良子さん自身まで殺害するとは。しかも宗教を利用して自殺に見せかけた」

 村越警部は、深くため息をついた。

「良子さんの遺体は、渡辺新造が良子さんの仮住まいまで運びました。そしてそこにメモと遺体を置いた。自殺に見せかけることに成功したのです」

「なるほど・・・。しかし、この件に関しては最大の疑問がある」

「何でしょうか?」

「乳井しんが良子さんとほぼ同時期に妊娠したことを誰も知らなかった、という点だが、それはどうなのかね?」

「さすが、村越警部。そうなのですよ。良子さんが栃木でお腹が大きくなってきたわけですから、乳井しんも同じようなお腹になっていたはずです。ただ、こちらの白船さんは、良子さんの出産まで一度も栃木へ行っていません。だから、誰も乳井しんのことも見ていないのです。そこで、私は渡辺新造の自宅の周辺に聞き込みをしました。すると、一名だけ当時の乳井しんのことを覚えている人物が居たのです」

「そ、それは?」

「それは、乳井しんと時々立ち話をしていた渡辺産婦人科の近所の佐伯さんという方の娘さんです。当時は、子供でしたが、良く乳井しんのことを覚えていました。佐伯さんは、庭のトリカブトを見て、危ないから刈り取るように乳井しんに言っていた老婆です。その娘さんが、当時、乳井しんもお腹が大きくなっていたし、もう一人の女性、つまり良子さんのことですが、その女性もお腹が同じように大きかったことを覚えていました」

「そうか。それならば間違いないな」

「そして、もう一つ渡辺新造の家から発見した物があります。それは、紗枝さんの出生届けと認知届けです。驚くべきことに、母親が乳井しんで、父親が白船さんという体裁になっていまして、筆跡は白船さんのものです。それが隠されていた場所は、渡辺新造の診療所の和製の花瓶の中です。封筒に入っていました。白船さんにお聞きしますが、当時白紙の出生届と認知届けに署名と印鑑を押した記憶はありませんか?」

 喜平は、黙って考え込んだ。そして、しばらくすると、何かを思い出したように目を少し大きくした。

「そういえば、新造さんからこれに署名と印鑑を押すようにと出生届けと認知届けの用紙が二部づつ郵送されてきた覚えがある。書き損じのための予備というようなことだった気がする」

 稲荷千太郎は、鼻毛を抜き始めた。

「そうそう、それですよ。一部は良子さんを母として記入されて、それが役所へ提出されています。もう一部は、乳井しんを母として記入されていましたが未使用のまま、花瓶の中に保管されていた」

 村越警部が、違和感をもった顔つきで言った。

「しかし、その花瓶に隠されていた書面は何の意味があるのだ?良子さんを母とする出生届と認知届けの方を役所へ提出してしまった訳だから、乳井しんを母とする分は使用できないただの紙切れだろう」

「そうです。ただの紙切れです。しかし、これをどう使うかは人それぞれです」

「どういう意味だね?」

「例えばですが、私が犯人だとします。私だったら、それを役所には提出しません。なぜなら、認知届けを出してしまうと、白船さんの戸籍にそのことが記載されてしまうからです。言わば、勝手に認知届けを出されたとバレてしまう訳です。では、出生届はどうかと言えば、これも提出しません。なぜなら、良子さんの本当の子供を殺害してしまったのですから、どうしても代りの子供を白船さんの子供として届出る必要があるからです。従って、紗枝さんを良子さんの子供として届ける必要があったのですね」

「しかし、稲荷さん。私が犯人ならばそんなことはしないね。私ならば正面切って、白船さんに妊娠したことを告げ認知してもらう。その上で、良子さんの子供を殺害する。そうすれば自分の子供を認知してもらった上で殺害をすることができる」

「いえいえ、ここに白船さん、ご本人がいるので聞いてみましょう。白船さんは乳井しんが妊娠していたことを知りませんでしたよね?」

「はい」

「もしも、乳井しんが子供を認知して欲しいと言ってきたらどうしましたか?」

 喜平はしばらく沈黙した。そして罰が悪そうな顔をして言った。

「それはしていなかっただろうね。良子との結婚生活も上手くいっていたし、しんさんとは一時の遊びだった」

 稲荷千太郎は村越警部の方を向いた。

「白船さんは正直に言ってくれました。今、白船さんが言った通りです。乳井しんも、それは分かっていた。最初から認知は期待していませんでした」

「そ、それは分かった。しかし、ではなぜ乳井しんと渡辺新造は、提出することのない出生届けと認知届けをわざわざ保管していたのだね?」

「これから先は推理です。おそらく乳井しんは、紗枝さんにいつかこの出生届を見せようと考えていたのではないでしょうか?あなたの本当の母親は自分であるという意味を込めて。そのタイミングは兄弟全員が死亡し、更に白船さんが死亡した後です。紗枝さんに全財産が相続された後に、真実の母親は自分だと告げる予定だったと思います」

「し、しかし、紗枝さんからすれば、なぜ自分は良子さんの子供として戸籍に入れられたのか不思議に思うでしょう。それはどう説明しますか?」

 村越警部は納得がいかない顔つきで稲荷千太郎にしつこく迫った。

「実は、その部分の推理が一番難航しました。あるいは推理が外れているかもしれませんが。今、言いました通り、乳井しんは後に未使用で保管していた出生届けを紗枝さんに見せようとした。しかし、認知届けは見せようとは思っていなかった。言わば、保険的に認知届けは保管しているだけで使用する意図はなかったのはないかと思います」

「と、いうのは?」

「乳井しんが紗枝さんに真実を伝えるとしたら、その時期は白船さんが死亡した後になります。つまり、死人に口なしの状態まで待つわけです。死人に口なしになった時に、乳井しんはおそらく紗枝さんにこう言うでしょう。あなたのお父さんは出生届までは認めてくれたけど、認知届けまでは認めてくれなかった。それではあなたが可哀想だと思っていたところ、偶然にも良子さんの産んだ子供が死んでしまい、その後良子さんまで死んでしまった。そこで、可哀想なあなたを良子さんとお父さんの間の子供として勝手に認知の届出をしてしまった。もちろん、このことはお父さんには内緒にして自分がやってしまった。お父さんには、せっかくあなたの出生届けを書いてもらったけど、私の子供は未熟児で生まれ死んでしまったと嘘を伝えた。そして、未熟児で死んでしまったことは、私の辛い過去だから今後は誰にも言わないで欲しいとお父さんに頼んだ。このように言うことしか道はありません。あるいは、これに似たような嘘の話を持ち出すかです。もう一度、話をまとめます。白船さんが死んだ後に乳井しんは嘘を紗枝さんに言う訳です。白船さんは乳井しんと白船さんの間に出来た紗枝さんのことを出生届までは出してくれると言ったけれど、認知はしないと言った。もちろん、白船さんは乳井しんが妊娠していることすら知らないので、このこと自体が嘘です。また、乳井しんは、紗枝さんが未熟児で生まれて死んでしまったと白船さんに言い、紗枝さんをこの世から消したわけですが、このことも白船さんは知りませんので嘘です。次に、良子さんとその子供が偶然にも死んだために、乳井しんは、紗枝さんを良子さんと白船さんの間で生まれた子供として、出生届けと認知届けを出してしまった。これは実際に行いました。そういうストーリーにして紗枝さんに話すつもりではなかったのでしょうかね。この説明をする段階では白船さんはこの世には居ませんので誰も反証することができない。また、幸一さん達を殺害した犯人を土井か幸二さんかに仕立てることによって捜査機関を惑わせて、その事件をお蔵入りにさせれば、紗枝さんのみが相続人となっても紗枝さんは乳井しんを疑うことはない」

「要するに、白船さんは乳井しんが妊娠していたことすら知らないのに、あたかもそれを知っていて出生届けを書いた、という嘘を作り上げる訳か?そして、その乳井しんの子供は死んだことまで白船さんは知っていたということにしてしまう訳だね」

「そうです。実際、白船さんは、乳井しんが妊娠していたことすら知らないのですけどね。もっとも、白船さんの不幸は、良子さんの子供が殺害されていたことの方が大きいのですが」

 喜平は相当のショックを受け、うなだれていた。

「たとえ乳井しんが、そのような嘘を紗枝さんに言っても紗枝さんは信じたのかね?また、事実を認めたとしても紗枝さんは乳井しんに何らかの金銭的な利益を与えることまでするだろうか?」

「それは予想がつきません。しかし、人間を洗脳するのは案外簡単なことですよ。乳井親子ならば出来たかもしれません。おそらく自信はあったのだろうと思いますよ。最も今の紗枝さんからは、紗枝さんが洗脳されるなんてことは想像もできませんけどね」

「そうか。乳井しんの考えでは、紗枝さんを洗脳してから、最終的に白船亭の実権を握ろうとしていたのだね」

「おそらくそれしか考えられません。乳井しんの恐ろしいところは、仲間だった渡辺新造まで殺害する計画をしていたところです」

 やがて、喜平が言った。

「しんさんが事件を起こした動機は分かった。しかし、今回の事件を時系列で説明するとどういうことになるのか?それが私には理解できない」

「ごもっともです、まずは、乳井さんの動機から説明しましたが、今度は殺害に関して時系列で説明しましょう」

 村越警部は、ゴールデンバットに火を付けて身を乗り出した。

「まずは、渡辺新造殺害の前に、もう一人殺害されている可能性のある人物が居ます」

 村越警部と喜平は、目を丸くして驚いた。

「それは紗枝さんの夫の田中良太さんです。彼は結局のところ行方不明のまま帰ってきません。彼が紗枝さんの夫であると言うことは、紗枝さんがもし死んでしまったら彼が紗枝さんの相続人になってしまう。究極的には、彼は乳井さんにとっては邪魔者です。その田中良太さんを先に殺害することが乳井さんにとっては極めて大事なのです」

「なぜ?」

 村越警部は目を細めて言った。

「つまり、白船家の人々を殺害した後に、紗枝さんだけを殺害しないで居たと仮定しましょう。紗枝さんだけを生かして最後に田中良太さんを殺害したとなれば、紗枝さんが怪しまれる可能性がある。しかし、一連の連続殺害の一番最初に田中良太さんが行方不明になるというのは、一見するとこの事件に関係ないようにも思えるし、逆に関係すると見られた場合には、田中良太さんも行方不明と言う点で不振な動きをしていると判断されて犯人扱いされる可能性もあり、乳井しんにとっては、そのどちらへ転んでも損はないはずです」

「なるほど。しかし、どうやって犯人は田中良太さんを殺害したのかね?」

「それは分かりません。ただ、最後に田中良太さんが釣りに出かけた折り、釣り人が集まる店の主人が最後に彼を見かけています。それ以降の時間に、どこかで殺害されて海に捨てられている可能性もありますね。その辺は、警察の方々にこれから捜索をお願いするしかないです」

「そうですか、分かりました。その予想は間違いなさそうですね。田中良太さんの行方不明はどうも変だと思っていました。田中良太さんの捜索は警察に任せて下さい。次に、渡辺新造さんを始めとする連続殺人について説明していただけますかね」

「はい。まず、先ほど言った通り、この事件は白船さんが遺言書を書いたことから始まりました。乳井さん、いや犯人からすれば、この遺言の内容はどうでも良かった。なぜなら、どうせ犯人は相続人となるべく者の中から紗枝さんを除いた全員殺害しようと考えていたからです。そこで白船さんに質問ですが、白船さんは遺言の内容を乳井さんに話しをしたのではないですか」

 喜平は、それを否定したが、しばらく黙りこんで考えた末に、

「詳細は話していないが、遺言を書いたことはしんさんに話した。しつこく内容を聞かれたが、それは言わなかった。ただ、子供達に不公平のないように分けるつもりだと言う程度のことは話した記憶がある」

「それで犯人にとっては十分ですね。十分な情報です。この事件は、いつ起こしても良かったはずなのですが、遺言を書いたという事実を知った犯人は、急激に焦ったわけです。そろそろ時期が来たか、というような具合だったのだと思います。ここで白船さんにもうひとつ質問ですが、犯人は土井宗次郎との中国での一件の内容を知っていましたよね?」

 喜平は頷いた。

「考えてみれば、しんさんには女房よりも色々な話をしたと思う。それだけ、あの人のことを信用していた」

「犯人は、おそらく、かなり昔から犯行のストーリーを考えていたのでしょうね。土井宗次郎を犯人に見せかけるというストーリーです。しかし、犯人はここで大きな過ちを犯したのです」

「その過ちとは?」

 村越警部が聞いた。

「私からすれば、犯人は土井宗次郎だけを利用して、彼を犯人にでっちあげるべきだったのですが、なぜか幸二さんをも利用した。もちろん犯人は、土井か幸二さんかのどちらかが犯人であると捜査機関を迷わせようという意図があったことは理解できます。しかし、私が以前から言っていましたが、両人共が犯人だと思わせるストーリーは、実はこの両人のどちらかが犯人であると思わせるより、むしろ第三者が、そういうでっち上げをしていると感じさせてしまいます。ただ、乳井しんのメリットとしては、怪しい人物を二名登場させることで、縦横無尽の犯行が可能となることですね」

「確かに、あんたは当初から犯人は第三者かもしれないと言っていたよね」

 喜平はそれを思い出しては頷いた。

「しかし、ここまでで一旦推理は止まってしまいました。なぜなら、渡辺新造を殺害する動機を持っている人間がどういう人間なのかさっぱり予想ができませんでした。そのために第二、第三の殺人を許してしまったのです」

 喜平と村越警部は、俯きかげんでテーブルの一点を見つめていた。

 稲荷千太郎は、話を続けた。

「さて、具体的な話をしますが、犯行の前にわざと白船亭や渡辺新造の自宅の付近をウロウロしていたのは、乳井新吉です。そう、そして浅草旅館に泊まった人間もです」

「し、しかし稲荷さん。その男は、片腕だったはずだが、それはどのように説明できるのかね?」

 村越警部が言った。

「この事件の犯人を確定したのは、私が栃木へ調査に行った時です。解決のヒントは栃木にあるのではないかと途中から考えていました。私は栃木へ行き、調査が終わった帰りに乳井新吉が所属していた劇団の弦遊舎へ行きました。そこで、私は団長の佐竹仁という方に面会し、色々と話を聞いたのです」

「その劇団と、片腕のない男というのは関係があるのかね?」

 村越警部は、稲荷千太郎の言うことの意味が益々分からなくなり、やや困惑した顔つきを見せた。

「早紀ちゃんの夢の話を覚えていますか?」

「何のことだね?」
「早紀ちゃんは予知夢のようなものを時々見るという話で、そんな彼女は片腕のない男の夢を二回見ていますよね」

「あぁ、そのことか。今、言われて思いだした。あれは子供が見た単なる夢でしょう」

「いえ、私はそうは言っていませんでしたよね」

「まあ確かに稲荷さんは真剣に聞いていたな」

「はい。それがヒントになったのです」

 村越警部は不思議そうな顔をしていたが、喜平はただ冷静に黙っていた。

「二回目の夢ですが、彼女は白い着物の侍が夢に出てきたと言っていました。私はそれが不思議でなりませんでした。どうしても、そのことが頭から離れませんでした。私は、弦遊舎の佐竹仁さんに、片腕のない白い侍と言う言葉と乳井新吉は何か結びつかないか、と聞いたのです。すると、あっさりその疑問を解くような回答を得られました」

「そんなことがあるのか」

「はい。あったのです。一言でいえば、丹下左膳です」

「えっ?あの片腕のない丹下左膳か?」

「実は、佐竹仁さんの話では、乳井新吉は丹下左膳の舞台で、その主役、つまり丹下左膳役に抜擢されたことがあるそうです。抜擢された彼は、丹下左膳に成りきるために片腕のない状態での態度や姿勢、殺陣を相当熱心に勉強したそうですよ。しかし、残念ながら途中で主役の座を他の俳優に奪われてしまった。役者としての華が欠けていたそうです。主役の座を奪われたことで、彼が公演前のある時期まで丹下左膳であったことは、劇団員の記憶からも消えています。佐竹仁さんは、団長としてそのことを良く覚えていました。つまり彼は、左腕がない状態の演技が可能だったわけです。しかも、俳優という性質から化粧も上手いので、ある程度自分を老人に見せかけることも可能でした。コートを着ていたのは右腕を袖に通さずに、コートの中に隠すことが出来たからです」

「そういうことだったのか。まさか早紀ちゃんの夢が本当だったとは。そ、それで乳井新吉は具体的にどのように渡辺新造を殺害したのだ?」

 村越警部は驚きのあまり、目を丸くして早口で言った。

「まず、乳井新吉は、渡辺新造を殺害する前に、自分があたかも遠くからやって来た者に見せかけるため、わざわざ浅草旅館に宿泊しました。そして、片腕のない男になり、人の目につくように白船亭の周囲や渡辺新造の診療所の前をうろついたのです。ただ、先ほど言った通り、旅館に泊まる際に、宿帳の名前を土井宗次郎と書き、住所を幸二さんの住まいと同じ佐野としたのは私からすれば失敗でしたね。土井とも幸二さんとも、どっちにもつかないような者を仕立て上げるのは技巧的過ぎました。そして、乳井新吉は渡辺新造とは簡単に面会できた。なぜなら彼らはその時点まではグルだったからです。しかも乳井新吉は渡辺新造さんの息子ですし。ところが、乳井親子はこの時点では既に悪魔と化していました。乳井新吉も実の親である渡辺新造を簡単に殺害してしまいました。幸二さんが白船さんを恨んでいたように、実は乳井新吉は渡辺新造を恨んでいたのかもしれない。何せ親らしいことは何もしていませんでしたから。乳井新吉は、俳優として刀の扱いも慣れていた。別段、室内では右腕を使っても構いませんので、殺害は容易だったはずです。渡辺新造さんの背後から横一文字で脇差を振りきったのだと思います。その後、彼は人々に恐怖を抱かせるために渡辺新造の両腕に首を抱えさせ、しかも分娩椅子に座らせた。村正参上というメモは捜査を混乱させるために置いたものです。このメモも犯人が土井宗次郎か幸二さんのどちらかが犯人であると推測させるものですから」

「なるほど。ときに稲荷さん。幸二さんと幸一さんが浅草で会った際、帰り際に幸二さんが、渡辺さんなんか死ねばいいと幸一さんに言った話を覚えていますか?幸二さんは、一体渡辺さんの何を恨んでいたのでしょうかね。案外私はその部分が気になっていて、渡辺新造を殺害したのは幸二さんかも知れないと半信半疑で考えていました。幸二さんはなぜ渡辺新造は死ねばよいと幸一さんに言ったのでしょうか?」

「その点については、私の推理にとどまりますが、それでよければお答えしましょう。但し、この推理の答えの半分はここにいる方が知っています」

 と、稲荷千太郎は言い、喜平の方をチラリと見た。喜平は一瞬ギクリとした表情をしたが、次に子供のような大人しい顔になり、そのまま床を見るように俯いた。

「つまり、なぜ幸二さんが渡辺新造を恨むような態度を示したかですが、幸二さんが渡辺さんよりも恨んでいる人が居ました。それはここに居る白船さんです。白船さんを目の前にして言いづらいのですが、幸二さんと、その母親の恵美子さんは、白船さんに捨てられました。その原因は先ほど言った通り、渡辺新造にもあるのです。これも先ほど言いましたが、渡辺新造の働きかけで良子さんは白船さんに恵美子さんとの離婚を迫った可能性が高いのです」

「なるほど。稲荷さんのその推理が正しいとすれば、幸二さんは、自分を捨てた白船さんも恨みの対象になるが、その原因となった良子さんを白船さんに引き合わせた渡辺新造も恨みの対象になるわけか。しかし、幸二さんは、渡辺新造がこの件に絡んでいたことをどうして知ったのだろう」

 村越警部が、腕を組んで考え込むように稲荷千太郎に聞いた。

「もちろん、白船さんと恵美子さんが離婚した時点では幸二さんはまだ子供だったわけで、離婚の理由など知るはずもありません。ところが、幸二さんが幸一さんと浅草の居酒屋で再開したときには、渡辺新造さんは死んだ方がいいと言っていた。恐らくその時点では、幸二さんは誰かに言い含められていた。刑事が幸二さんの借家に行った際に聞いた話では、幸二さん宅の家主が幸二さんと若い男性が何やら話していたのを聞いています。それはたぶん新吉です。恐らくは、それ以前から新吉は幸二さんと接触していたのだと思います。その時に幸二さんは新吉から全てを聞いたのです」

「それはなぜ?」

「乳井親子は、幸二さんを一旦仲間に引き入れようと考えたのでしょう。もちろん、利用するだけの目的の仲間ですが。しかし、幸二さんはその時点では仲間になることを拒んでいて、その後も拒み続けていた。そのような状態の二人の会話を幸二さんの家主は聞いたわけです」

「何だか複雑すぎる人間模様だな」

「はい。乳井親子はかなり入念に計画を練り、しかもその目的達成のためには手段を選らばなかった」

「ふむ・・・」

 村越警部は、稲荷千太郎の話に一々頷いた。

 喜平は相変わらず、猫の子のように黙っていたが、その目線は鋭かった。

「さて、次に幸一さんの殺害について話を進めます」

 村越警部と喜平は、固唾を飲んで沈黙した。

「まず、幸一さんを殺害した実行犯は乳井しんです」

「と、いうことは幸一さんの部屋に乳井しんが合鍵を使って侵入して脳天を刺したのだね?」

 稲荷千太郎は、首を横に振った。

「いいえ。違います?」

「と、いうと?」

 村越警部は不思議そうな顔をして稲荷千太郎に言った。

「実は、幸一さん殺害は密室殺人だったのです」

 村越警部と喜平は顔を見合わせた。

「まさか」

 喜平は稲荷千太郎の言葉を信じられないような顔つきで聞いた。

「まず、密室状態を作り上げたトリックの前に、乳井しんが、なぜわざわざ密室状態を作る必要があったのかです。それは乳井しんが合鍵を持っていたからこそなのです。もしも幸一さんが鍵を閉めていたら、そこに無断で入れるのは合鍵を持っている人です。また、仮に幸一さんが殺害された後に、部屋の鍵が開いたままで、誰でもそこに入室できる状態だった場合でも、とりあえず合鍵を持っている人間は疑われこそしないかもしれませんが、捜査対象になってしまいます。他方、密室状態の場合の方が、本来は合鍵を持っている人間は真っ先に疑われます。むしろこの方が疑われ度合いが強い」

「私もそう思うね。幸一さんが殺害された後に鍵が開いていれば、誰が殺害したのか全く見当がつかない。とりあえず、合鍵について調査はするだろうが。しかし、この場合は合鍵を持っているというだけでは疑われないな。しかし、密室となると鍵を開けたり閉めたり出来るのは合鍵を持っている人間しか有り得ないわけだから、今度は真っ先に疑われる。それなのに、なぜ乳井しんは、あえて密室殺人を選んだのだね?」

 村越警部は首をひねった。

「それは心理作戦なのです。つまり、密室殺人の場合だと、合鍵を持っている人間がまずは疑われる。そこで、普通に考えれば乳井しん自身が疑われるはずです。しかし、警察から合鍵について尋ねられたときに、その合鍵が喫茶店に置き忘れたと回答した場合どうでしょう?質問している側が急に覚めてしまいます。鍵を置き忘れたと言われた時点で、容疑者から排除されてしまう。そういう効果を狙ったのです」

「しかし、密室ではなかった場合でも、乳井しんが特別に疑われるということはないはずだが」

「さすが村越警部。鋭い考えです。確かに、その通りです。しかし、密室でなかった場合は、外部から侵入した犯人が考えられますが、内部の人間も疑われます。当然、乳井親子もです。その際に、何かがばれてしまう可能性もある。そこで、いっそのこと、一旦自分が疑われて、それから疑いが晴れるという戦法をとった方が、リスクはありますが、うまく事が運べば一挙に捜査対象から外されるという利点もある。乳井しんはリスクをとったのです」

「つまり、奥が深い心理作戦だったというわけか」

「そうです」

「それはそうと、実際に犯人はどうやって密室殺人を成し遂げたのか?」

「ここは現場ではないので上手く説明できるかどうか心配ですが、ゆっくりお話しします。まず、密室殺人というのは、物理的に犯行の助けになる物が必要です。殺害道具が必要なことは当たり前ですが、それ以前に室内の状況がそのまま手助けになっていなければ密室殺人は出来ません」

「うん。それで?」

「幸一さんの部屋を思い出していただきたいのですが、特に特徴的なところは、天井に飛行機の模型がたくさんぶら下がっていました。そして、その飛行機をぶら下げるためのフックのような金属製の物もたくさんぶら下がっていましたが、飛行機の数よりも使用していないそのフックの数の方が多かった。これは、以前に飛行機をぶら下げていた時に使用していたものか、これから使用するために先に取り付けていたものか分かりませんが、大事な事は未使用のフックが無数存在していた、ということです」

「確かにフックがたくさんあったことは覚えている」

 と、村越警部が言うと、喜平も頷いた。

「次に、幸一さんの部屋ですが、まず廊下からドアを開けると、正面の突き当たりは窓と、文机です。幸一さんは、文机に座ったまま窓を開けることが出来ました。風も光も窓から入るので、窓に向かって座るというのは、配置としては普通です。そのほか、廊下側から見ると、左側に小さい書棚と物入れが一体になった家具がありました。反対の右側の一部は押入れです。幸一さんの部屋はこれだけの家具しかないので、非常にシンプルでした。そう、そして特徴的な事として窓ガラスの建付けが悪くて少しガタガタしており、風が入り込んでいるようでしたね」

「そこまでは全部覚えている。つまり、こだれだけの条件で乳井しんは密室殺人をやってのけたという訳だね?」

「そうです。もちろん、使用した凶器は幸一さんの脳天に突き刺さっていた短刀です。私は、あの短刀を見た時、おかしいなと思ったことは、短刀が裸身だったことです。もしも、密室殺人ではなく、直に刺し殺すならば当然に柄がないと短刀を持ちづらい。逆にいえば、柄がない上に密室だった事実を考えると、むしろ柄がないことを利用したトリックがあるのではないかと推測したのです。柄も鞘もない裸身の刀が犯行現場に残されているというのは不自然ですからね。刀を裸身にすることによって、非常に特徴的な姿が表れていました。つまり、裸身の場合には、ナカゴの穴が異常に目立ちます。確かあの穴は目釘穴と言いましたよね。誰でも裸身の短刀を見れば、目釘穴が開いているという特徴に目がいきます。つまり、直に刺し殺すなら柄を付けたまま刺すはずですから、目釘穴も見えません。何らかのトリックを使ったからこそ短刀を裸身にして、柄を抜いて目釘穴が見えるようにしたはずだと感じました」

「しかし、その目釘穴と密室殺人に何の関係があるのかね?」

 稲荷千太郎はニッコリを笑った。

「はい。つまり、自動的に短刀が天井から落ちて、幸一さんの脳天に突き刺さる仕掛けを作ったのです。その際に、目釘穴が役立ちました」

「目釘穴が・・・」

「はい。具体的に説明したいのですが、紙とペンをお借りできませんか?」

 村越警部はソファーから立つと、背後の机の上に置いてある便箋とペンを取り、稲荷千太郎に手渡した。

「まず、ここに書きますが、凧紐のような物を用意します。そして、その紐の途中からもう一本の紐を取りつけて、Y字型にします」

 稲荷千太郎は便箋にY字を大きく描いた。

「Y字型とした紐の長さは全体で概ね十メートルは必要です。まず、Y字型の下の部分、つまり一本の部分ですが、これをガタついている幸一さんの部屋の窓の隙間から庭へ垂れ下げます。そして、Y字型の二本に枝分かれしている部分は部屋の中に残します。つまり庭から見ると、一本の紐が幸一さんの部屋の中に入り込んでいるように見えるのでですが、部屋の中はその紐が更に二つに分かれて存在しているのですね」

 村越警部と喜平は、黙ったまま稲荷千太郎の話を聞いていた。

「さて、紐は部屋の中では二本に分かれて存在しています。この内の一本は、実は幸一さんの文机の中に侵入していました。貫通という言い方も出来ますが・・・」

「侵入?どういうことだね」

 村越警部は想像もできないような顔付きで稲荷千太郎を見つめた。

「幸一さんの文机は、窓の方向に向かって置いてありました。ほぼ窓にくっ付くような感じで。窓から紐を侵入させると、二センチも離れずに幸一さんの文机の裏側にあたります。その文机に錐のような物で円形の穴を開けたとしましょう。そこに紐を通すのです。ちょうどガタついている窓の位置は幸一さんの文机から考えると、三段ある引き出しの一番上の段の裏側にあたります。つまり、錐で穴を開けたのは、引き出しの裏の部分にあたるのです。通した紐をそのまま手前まで持ってきて引き出しを開ける部分まで引っ張ります。そして、引き出しの外側のほんの少しの所までそれを引っ張り出して、引き出しを閉めた時に、紐を咬ませるのです。つまり、引き出しそのものが紐のストッパーの役目を果たします。もしも引き出しを開ければ、その紐は支えがなくなるので、引き出しの内側に落ちることになりますね」

「なるほど・・・。問題はY字型になっているもう一本の紐だな」

 稲荷千太郎は大きく頷くと、

「その通りです」

 と、言った。

「私は幸一さんが殺害された後に何度か幸一さんの部屋に入りました。そこで、部屋の中をつぶさに観察しました。もちろん、これから私が話すトリックについても検証しました。今、お話しした引き出しの奥に穴が開いていたことも確認しました。繰り返しますが、幸一さんの部屋の天井には無数のホックがありました。模型の飛行機をぶら下げるための物で、既に複数の飛行機がぶら下がっていました。しかし、天井には未使用のホックがたくさん残っています。私は、このホックをトリックに使うことは出来ないだろうかと考えました。そして、他にもトリックに利用出来る物はないかと探しました。一見目立ちませんでしたが、幸一さんの文机から窓へ向かう右側の壁にホッチキスのような針型のコードを止める留め金を三つ発見しました。それを見た瞬間、このトリックが分かったのです」

 村越警部は固唾を飲み、無言で稲荷千太郎の話を聞いていた。

「Y字型に分かれて室内に入り込んでいる一本の紐は幸一さんの部屋の文机の中を貫通し、引き出しまで伸ばしておき、引き出しを閉めた状態でそこに咬ませていた。そして、Y字型のもう一本の紐は、まず壁のホッチキスの針型の留め金に通して天井まで這わせる。天井まで昇った紐は、天井の飛行機をぶら下げるホックを三つ程度利用して、そのホックに通す。行きつく先は、幸一さんが文机に座る座布団の真上です。その真上にもホックがあるので、そこまで紐を持ってきます」

 稲荷千太郎は、下手な図を便箋に書きながら二人に説明した。

「言い方を変えれば幸一さんの頭上に位置するホックに紐を引っかけ、その紐を短刀の目釘穴に通します。但し、ここで目釘穴に通した紐を短刀に結びつける訳にはいきません。
なぜなら、そうしてしまうと紐が回収出来ないからです。そこで、犯人が考えたのが、目釘穴に通した紐を単純にガムテープで固定するということです。ガムテープを二枚程度重ねて張れば、それほど重くない短刀なら数時間は落ちないで済みます。これで、幸一さんが座布団に座れば、その頭上に短刀がぶら下がっている状態が出来上がるわけです」

「な、なるほど・・・。しかし、幸一さんが室内に入った時に天井に変なものがぶら下がっていることに気が付かなかったのだろうかね?」

「私もそれをイメージしながら幸一さんのドアを開けて室内に何度か入りましたが、飛行機が無数ぶら下がっているので、意識しない限りは目立ちません。何もない天井なら一瞬で分かると思いますが」

 村越警部は、腕組をしながら考え込んだ。

「つまり、幸一さんが室内に入り、座布団に座る。そして、自分の文机の引き出しを開けると、引き出しを閉めていたことによって支えられていた紐が、その支えが無くなったために引き出しの中に、ポトンと落ちる。幸一さんは、引き出しに紐が挟まっていたなんてことも、その紐が引き出しの中に落ちるということも気が付かなかったということか」

「はい。そして、紐の支えが無くなりましたから、天井からぶら下がっている短刀は、そのままニュートンの法則で落下します。そして、位置が正しければ幸一さんの脳天に突き刺さります。但し、問題はこの先です。犯人は紐を回収する必要があります」

「それはそうだ。紐が部屋に残ったままだとトリックがばれる」

「そう。そこで紐を回収するのですが、その前に、短刀が室内で落下したことを確認する必要がある。それは、庭に垂れさがっているY字型の紐の下の一本になっている部分が最初に地面に置かれていた位置よりも短くなって、今までよりも上に上がっていれば、短刀が落下したことになります。恐らくは、ちょうど地面にあった紐が宙を浮いている程度に短くなっていたはずです。仮に紐が短くなっていたにも拘わらず室内から何等の反応がなかった場合は、成功した確率が高い。なぜなら紐が短くなっていた場合で、未遂に終わっていれば、幸一さんが叫んで誰かを呼んでいるはずだからです。乳井しんは、何等の反応がなかったことを確かめ、紐を回収した訳ですが、ちょうど庭の北側の物置に梯子がありました。その梯子を木に掛けて、適当な位置まで昇ります。その際、片手には紐を握っています。そして、適当な高い位置から紐を強く引っ張ります。すると、短刀のナカゴに通していた紐はガムテープで貼っていただけなので、ガムテープが剥がれればするりと抜けます。また、もう一本の机の中に通していた紐も、机の後ろの穴からスルリと抜け出ます。結果、室内に侵入していたY字型の二本も窓の隙間から引っ張り出せるのです。窓がガタついていたことはその助けとなりました」

 稲荷千太郎の説明が終わると、しばらく沈黙が続いた。喜平は、一度に様々な事実を聞かされ絶句したまま言葉も出なかった。

 村越警部が言った。

「分かりました。話の流れとしては、幸一さんが室内に入り、座布団に座る。そして、文机の引き出しを開けると、引き出しに噛んでいた紐が引き出しの内側に落下するために、天井につり下がっていた短刀が落下した。騒ぎもなく、かつ庭の紐が短くなっていたことを確認した犯人が、庭から紐を引っ張り、室内にあった紐を回収した、ということだね」

「短く言えばそういうことですね」

「短刀がなぜか裸身であり柄もなかった、ということと、ナカゴにガムテープが付着していたということが私から見れば如何にもトリックがあると言わんばかりの証拠でしたね」

「しかし、稲荷さんは、実際に検証してみたのかね?」

「はい。先ほど申し上げた通り、何度か幸一さんの部屋に入り、実際に検証しましたが、
このトリックは可能でした」

「ところで、幸一さんを殺害したのは乳井しんで間違いないのか?実行犯は新吉だとは言えないのかね?」

 村越警部は素朴な質問を投げかけた。

「乳井新吉は、その日は予定通りに弦遊舎、つまり劇団に練習に行っています。別の言い方をすれば、アリバイを作ったわけです。実行犯を変えることで、疑われないで済む場合があります。しかし、私は幸一さんの殺害に関しては、うすうす乳井しんを疑っておりました」

「それはどういうことだね?」

「私は乳井しんの目の前で、犯人は合鍵を持っている人間かも知れない、と幸一さんが殺害された直後に言いました。すると、乳井しんは笑みを浮かべながら、それなら犯人は私ということになりますね、と言いました。平気でそのようなことが言えるのは、自分が合鍵を持っていても、疑われることはないという自信があったからです。そして、私に対する挑戦でもあったのですね。密室殺人とも考えられるし、自殺とも考えられる。または、誰かが合鍵を持っているという謎も掛けられる。そんなことを殺害後にとっさに思いついたのかもしれません。しかし、私は、この乳井しんの行動は失敗だったと思っています。幸一さんの殺害の場合は、密室状態をつくる必要性はなかったと感じています。かえって、鍵を閉めずにいたほうが外部の人間の犯行だと思いますしね。まして、いつも着物を着ている人間がズボン姿で現れた時は、おやっと思いましたよ。そして、その後に殺人が発覚した。乳井しんはわざと泣き叫び、幸一さんを抱きかかえたときに予め用意していた、村正参上と書かれたメモをすっと置いたのです」

「稲荷さんは、その時から乳井しんが犯人だと考えていたということか?」

「まあ、おぼろげですけどね」

「ときに稲荷さん。この事件に関して幸二はどういう役割だったのですか?」

 喜平が、自分の子供である幸二を気にならないはずがなく、もっともな質問であった。

「実は幸二さんも一役買っていましたね。但し、幸二さんが事件に関連したのは、後半部分です」

「どういうことだね?」

 村越警部は、タバコの煙を稲荷千太郎へ向けて吐き出しながら言った。

「幸二さんは、幸一さんに度々会って、金銭を要求していました。それは、この事件には関係ありません。ただ、幸二さんと幸一さんが会った時の会話を居酒屋の主人が小耳に挟みましてね。それがいささか気にはなりました。それは、刀の話です。幸二さんは、それを幸一さんに買い取れと言いました。しかし、幸一さんはそんな大金はないと断りました。これは実は幸二さんの嘘なのです。幸二さんの元には村正はなかった。幸一さんから金銭を出させるために言わば詐欺的な発言を行ったのです」

「しかし、それならば村正はどこにあるというのだね?」

 稲荷千太郎は、一瞬言葉を詰まらせた。

「そ、それは、村越さん。最後にお話しします。まずは、事件の全貌の話を続けましょう」

 村越警部は、黙って頷いた。

「では、話を続けます。次に順子さんの殺害ですが、これは比較的分かりやすい犯行でした。乳井しんは、夜の食事の都合があるため、順子さんに帰宅の予定を毎日聞いていました。つまり、順子さんの行動を把握していたのです。後は、いつ殺害を実行するかだけを考えれば良かった。ちょうど、日比谷公園内のレストランへ仕事で行くと聞いたので、チャンスはこの時しかないと思ったのでしょう。殺害の実行は乳井新吉が行いました」

 稲荷千太郎がそう告げると、喜平は下を俯いたままボロボロと涙をこぼした。

「し、しかしなんと恐ろしい親子だ。悉く、人を殺害し、私の財産を狙っていたなんて。これは稲荷さん、戦後の一大事件だな」

「はい。その通りです。自分たちの欲望を貫くために人の命はどうでも良かった。殺人を行うことに何のためらいもない。これは悪魔の仕業です」

「だいたい事件の全貌はこれで分かった。今一つ教えて欲しいのは、乳井新吉と礼次郎さんが仲見世を歩いているときに、鳥打帽を被った幸一さんに似ている男、つまり幸二さんが横切った件について教えて欲しい。雑木林で幸二さんは死んでいたことが判明し、その時、幸二さんの上着からアメリカ行きのチケットを発見したと聞いたが、これは高飛びするための物かね?」

 稲荷千太郎はコクリと頷いた。

「そうです。小林刑事が、幸二さんが借りている家の家主の元へ言った時に、家主が幸二さんの家で若い感じの男の背中を見ました。何やら説得していたらしい感じだと言っていました。これは先ほど言いました通り、乳井新吉です。おそらく、その後乳井親子は幸二さんを仲間に引き入れたのでしょう」

「しかし、仲見世で幸二さんが登場した時に、ほぼ全員が幸二さんを犯人だと思ったはずだ。これをそのまま放置していたら、幸二さんは自分が犯人にされてしまう。つまり、そう思われても良いように高飛びしようと考えていた訳だね」

「その通りですね。但し、予想ですが、文字通り、そのままでは幸二さんが犯人にされてしまいます。そこで、嘘でも乳井新吉は幸二さんに次のようなことを言ったはずです。あんたが仲見世に片腕のない男として登場してくれた後、今度は土井宗次郎になり済ました自分がどこかに登場する。そして警察の目をくらますのだ、とね」

「しかし、そんなことで犯人扱いされることを許容するなんて」

「いえ、幸二さんは片腕を失って以来、食うに困っていたのです。乳井親子は金銭を分け与えると持ちかけていたのではないかと思っています。高跳びした後の海外での生活が保障されていれば、今回のこと位はやるでしょう。実際、殺人に加わった訳でもないですしね。もちろん、それが全部乳井親子の狂言だとは知らずに」

 そう言い終えた稲荷千太郎に対して喜平がポツリと呟いた。

「稲荷さんの言うことは分かった。事件の全貌も理解できた。しかし、今一つ納得できないことがある」

「何がですか?」

「つまり、私は一体何のために生きてきたのだ。そして、この事件はいつからどのように仕組まれたのか?それを聞きたい」

「この事件が具体化してきたのは、良子さんと乳井しんが同時期に妊娠し、両名とも栃木へ行った時です」

「それ以前は?」

「計画は具体化してはいませんでしたが、乳井しんが白船亭に住み込み始めたことも意味があります。また、良子さんを白船さんの奥さんに仕立てあげることも意味がありました」

「計画性がないのに意味があったと?」

「はい。その通りです。特に計画性はないのです。しかし、乳井しん、良子さんのいずれかが、白船さんと関係を持てば、自然の流れの中で何かの計画が練れるのではないかと言う渡辺新造の狙いがあったのです。先ほど言いましたが、その時点では、乳井親子ではなく、渡辺新造が主犯格でした」

 喜平はがっくりと肩を落とした。

「そんなこととは知らずに、私はまんまと新造さんの思う壺になる行動をとってしまったのか。しかも、その両名と関係をもってしまった」

「残念ながら、そういう結果になってしまいましたね。渡辺新造は、言わば二人の女性を白船亭に送り込んだのです。ただ、良子さんは、渡辺新造の真意は分からなかったので、むしろ被害者です。乳井しんは、最初から渡辺新造とグルだった可能性があります。偶然にも、乳井しんと良子さんが同時期に妊娠して二人とも栃木へ引っ越した。このタイミングを利用しない手はない、と渡辺新造は思ったのでしょう」

「な、なんという恐ろしいことだ」

 村越警部は喜平の落胆ぶりを見て言葉を失った。

 稲荷千太郎も、事件の全てを話したとは言え、スッキリとした気分にはならなかった。この事件は、あまりにも残忍であまりにも多数の人間を殺害させてしまった事件であり、その一番の被害者である喜平が目の前に居たからであった。喜平の立場の人間なら通常は発狂しているに違いないと稲荷千太郎は思っていた。しかし、喜平は相当に落胆しているものの、気丈な人間で気はしっかりしていた。

「稲荷さん。私は今後どうしたら良いのだろうか?」

 喜平は稲荷千太郎に泣きすがるように言った。

「私には分かりません」

 その言葉を言った稲荷千太郎に村越警部は少しムッとした顔で文句を言った。

「稲荷さん。それはないだろう。白船さんの気持に少しは立ちなさいよ。あんたには分からないのは当たり前かもしれないが、何らかのアドバイスもあるだろうに」

「いえ、私には分かりませんよ。ただ・・」

「ただ?ただ何だね?」

「乳井さんとの関係は遊びだったのですか?」

 稲荷千太郎は、喜平を見つめた。

「いや、過ちだったが、遊びではなかったが・・・」

「では良子さんとは?」

「もちろん、良子は妻として愛していた」

「そうですか。それならば、良子さんとの間に出来た礼次郎さんも、乳井しんとの間に出来た紗枝さんも平等にあなたの子供です。たとえ乳井しんが悪魔のような殺人鬼であったとしても。だから、この二人は平等に愛してあげて下さい」

 喜平は、稲荷千太郎のこの言葉を聞いて、再び大粒の涙を流した。

 数分間の時が流れた。

 村越警部は、タイミングを見計らって言った。

「では、そろそろお開きとしましょう。概ね事件の全貌も分かりましたし」

 稲荷千太郎はニッコリと笑って、

「そうですね」

 と言い、席を立った。

「白船さん、その辺まで一緒に行きましょう」
 喜平は黙って頷き、ゆっくりと立ち上がった。そして重い樫の木の杖を手にした。

「稲荷さん。そういえば・・・」

 村越警部が稲荷千太郎に語りかけた。

「はい?」

「そういえば、村正の話は?」

 稲荷千太郎は、ニッコリと微笑んだ。

「村正ですか?この刀は直接事件に関わりはありません。犯人が誰なのか、こちらの判断を惑わせるために利用されただけで、実際の村正はどこへ行ったのか分かりません」

 村越警部は、やや疑い深い目つきになった。

「それは本当か?」

「はい」

「分かった」

 一瞬沈黙した。

「稲荷さん。もう一つ言っておくが、あんたの鼻毛を抜く癖はやめたほうがいいね。これから探偵として独立して営業活動をするのだから、あんな恥ずかしい癖は直しなさい。そう、それとそのヨレヨレの背広。今回、白船さんから報酬を頂いたのだから新調しなさいよ。私は、数日後に警視庁に戻る。何かあったら、そっちへ連絡してくれ」

 と、村越警部は笑いながらおせっかいな言葉を言った。

「はい」

 稲荷千太郎は、村越警部に一礼した。

 稲荷千太郎と喜平は、部屋から出ると、人気のない冷たい警察署の廊下に出て、階段を下りた。内部と違って外は灼熱の暑さだった。

 二人は、ゆっくりと江戸通りを浅草方面に歩き始めた。しばらくは互いに無言だった。

 稲荷千太郎は、ふと喜平の横顔を見た。

「ときに、白船さん」

「何だね?」

「村正の件ですが、お聞きしてよろしいですか?」

「何をだね?」

「その白船さんの杖なのですが、それが村正ですね?」

 喜平は一瞬ギクリとして足を止めた。

「なぜ分かった?」

 稲荷千太郎は、喜平を見てニコリと微笑んだ。

「そうだ」

「やはり。少し重すぎますね。その杖」

 稲荷千太郎は、以前に喜平からその杖を持たせてもらった時に、普通の杖ではないと感じていた。

「いわゆる仕込み杖だ」

「しかし、白船さん。なぜ、今まで村正を自分が持っているということを言わなかったのですか?」

「それより、稲荷さん。あんたは、逆になぜ、そのことを暴露しなかったのだね?」

「はい。事件に直接は関係ないと思っていましたから。警察は殺人現場で、村正参上というメモを見るたびに慌てふためいたましたけどね。白船さんのことを犯人かもしれないと思ったことはありませんでした。白船さんには何か理由があって、自分が村正を持っていることを打ち明けられないのだろうと思っていました。それ以上は触れない方が良いと勝手に判断したのです」

「そうだったのか」

「ときに、白船さんは、なぜ村正を盗まれたことにして、仕込み杖なんかにしたのですか?」

「何年か前、たしか昭和三十三年頃だったが銃刀法というのも出来た。もちろん戦争も終っているから軍刀をぶら下げた兵隊も見なくなったし、刀を持って歩くこと自体が法律に違反する。私は、いつか土井宗次郎が復讐しに来ると真剣に思っていた。そのために、護身用として村正を仕込み杖にしたのだ。しかし、そのことは誰にも分からない秘密にしたかったので、村正を盗まれたことにした。今回の事件で村正という言葉が出てきたが、
私はついに自分が村正を持っているとは言えず仕舞いで皆さんに迷惑をかけてしまった」

 二人は、江戸通りを浅草方面にトボトボと歩き続けていた。

「しかし、本当にそのことは誰も知らなかったのですか?」

「たぶん」

 そう言うと、喜平は細く苦笑いを見せた。

「まあ、このことは私と白船さんだけの秘密ということにしておきましょう」

 二人は江戸通りと蔵前通りが交差する信号まで辿りついた。光をさえぎるものがないため、ギラギラした太陽が二人を照らした。

「では、白船さん。私はここで失礼します。このまま蔵前通りを上野方面に歩いて行きます」

「そうかね。稲荷さん。本当に色々世話になった」

「はい。また会うことがあれば・・・」

 と、言うと稲荷千太郎は喜平に背を向けて歩き始めた。喜平はそこで立ったまま、しばらく稲荷千太郎の後姿を見ていた。稲荷千太郎が十五メートルほど歩き始めると、

「稲荷さん」

 と、喜平が稲荷千太郎の足を止めた。

 稲荷千太郎は、その声で立ち止り、喜平の方へ振り返った。

「一つ聞きたい」

 その声を聞いた稲荷千太郎は、歩いた道を引き返した。

「何でしょうか?」

「稲荷さん。しんさんは、本当に私の財産が目当てで一連の殺人を犯したのか?大勢を殺し、更に私が死んだ後に相続が開始されて、紗枝がたった一人の相続人になっても、紗枝はしんさんの話をまともに受けるか分からないし、話を信じたとしてもしんさんの言いなりになるとは限らない。それなのに、しんさんは、この事件を起こしたのか?」

 この時、稲荷千太郎は、喜平と知り合ってから、最も真剣な顔つきを見せた。そして、しばらく沈黙した。

「白船さん。乳井しんは、あなたの財産を最終的に自分たちの好きに動かせるように企んだのは紛れもない事実です。しかし、乳井しんが本当に欲しかったのは、別の物です。財産を得れなくても良かったのかもしれません」

「えっ、別の物?その別の物とは何だね?」

「乳井しんが本当に欲しかった物は、お金ではない。紗枝さん一人だけになっ後、乳井しんから真実を聞かされても紗枝さんがそれを信じない可能性もありますし、信じたとしても確実に金銭的な恩恵が乳井親子に与えられる保証もない。本当に彼女が欲しかったのは、金銭ではありません。彼女が本当に欲しかったのは、白船さん、あなたの愛です。それが得られないと分かった彼女は、あなたを愛しながらも反面で憎悪していた。お金などはどうでも良かったのです。ただ、乳井しんには自分の感情を正当化する理由が必要だっただけです」

 その稲荷千太郎の言葉を聞いた瞬間、喜平は杖を手から離してしまった。杖は、ガタンと音を立てて、地面に倒れた。

 稲荷千太郎は、再び喜平に深々とお辞儀をして無言で歩き始めた。喜平は、呆然と立ちすくんだまま、歩き去る稲荷千太郎の背中をしばらく見つめていた。

 その立ちすくんだ喜平の姿は、稲荷千太郎の姿が見えなくなるまで続いた。
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