白船亭事件考

隅田川一

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第12章

犯人

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 稲荷千太郎が、白船亭に戻ったのは、それから一週間後だった。稲荷千太郎は、村越警部に告げたよりも数日間は遅れて戻ってきた。彼は、元々からヨレヨレの紺色の背広を着ていたが、よほどハードに動いたらしく、更に背広はしわくちゃになっていた。髭はかろうじて剃っていたようだが、頭髪がボサボサで、入浴も毎日はしていないだろう思われるほど汚らしかった。とても優秀な探偵には見えないこの男は、疲れ切った顔つきを引きずりながら白船亭の大広間に陣取った。

 乳井しんは稲荷千太郎に頼まれて、大広間に客用の大きなテーブルを二つ並べて、人が十人程度は座ることが出来るスペースを作った。

 乳井しんは、稲荷千太郎の疲れた風貌を見て、

「大丈夫ですか?相当、お疲れの様で」

 と、ニッコリと微笑んで言った。

「はい。なんとか・・・」

「それで何か分かったのですか?」
「はい。それもなんとか・・・」

 この時、稲荷千太郎は、村越警部にこの白船亭の大広間に来るように頼んでいた。また喜平には、白船家の全員をこの広間に集める様にも指示していた。

 村越警部は既に座布団に着座して稲荷千太郎とも会話をせずに憮然とした表情をしていた。彼は、今までの稲荷千太郎との長い付き合いの中で、今日は何かが起こると分かっていたのだろう。

 しばらくすると喜平がやって来て、稲荷千太郎の横に座った。

「稲荷さん。一体あんたはどこへ消えていたのだ。聞いていると思うが、あんたが留守の間、娘の順子が殺されてしまった。あんたは、用心棒の仕事を何だと思っているのだ」
 
と、喜平は稲荷千太郎に鬼様な形相で罵声を浴びせた。

 そこに、村越警部が重い口を開いた。

「まあ、まあ。白船さん、そうおっしゃらないで。稲荷さんは彼なりにこの事件を解決しようとやっきになっていたのですよ。途中で刑事の米田は警察署に戻ってきましたが、その後、稲荷さんはしつこく自分だけで調査されたとのことです。これから、皆さんが集まったときに、分かります」

 喜平は、村越警部の冷静な言葉に、黙って頷いた。

 その後、礼次郎が大広間に姿を現し、少し不機嫌な面持ちで腰を下ろした。更に数分後に紗枝が早紀の肩を支えながら、やってきたが、自分の家の中にも拘わらず、身をすくめるような仕草で娘の早紀をかばっていた。もしかすると、自宅の中にすら犯人がいるのではないかという恐怖を抱いていたのだろう。顔は、やつれていた。

 乳井しんは、テーブルの上に置いていた急須に湯を注ぎ、人数分の日本茶を入れて、各自の目の前に置いた。そして、大広間から立ち去ろうとした。

「しんさんは、稲荷さんの話を聞かないのかね」

 と、喜平が言うと、

「いえ、お家の大事なお話しを私ごとき仲居が聞くのははばかります」

 と、丁重に会釈をした。
 そこに稲荷千太郎が、口を挟んだ。

「いえいえ、乳井さんもお座り下さい。全員に聞いてもらいたいのです。あっ、それと新吉さんも呼んで下さい。えっと・・・それでこの家のメンバーは全員でしたっけね?」

「はい。身内以外の者も含めて、それで全員です」

 喜平が答えた。

 乳井しんは、息子の新吉を部屋まで呼びにいき、やがて二人で大広間に姿を現した。新吉はどこかへ出かけようとしていた矢先だったらしく、シャツの上に薄手のジャンパーを羽織っていた。

「お出掛けのところすみませんね。大丈夫ですか」

「大丈夫です。私用で出かけようとしていただけなので構いません」

「そりゃ良かった。どうぞお座り下さい」

 稲荷千太郎は、手で招くように着座を勧めた。

「さあ、稲荷さん、色々と調査をされた結果を皆さんに話して下さい」

 と、村越警部は言った。

「はい。しかし、どこから話しましょうかね」

 喜平は、先ほどとは打って変わって妙に冷静で慎重な態度に変わった。

「まあ、慌てることはないです。店はしばらく休業していますしね。今日も休業。ゆっくり話を聞かせていただきましょうか」

「そうですね」

 と、稲荷千太郎が答えると、彼は喜平の耳元で他の人間に聞こえないようにボソボソと何かを告げた。

 喜平は、耳元で呟いた稲荷千太郎の顔を見て、軽く頷いた。

 稲荷千太郎も、それに応じでニッコリと笑った。

 一同は、この二人のやり取りに違和感を覚えながら緊張した顔つきで黙っていた。

「さて、白船さんから、ある事実を告げることに関して許可を頂いたので、遠慮なくお話しをさせていただきます」

「そんなにもったいぶらなくても」

 と、礼次郎は不機嫌に言った。

「いえ、もったいぶっているわけではありません。前提として許可を得てからでないと話せない事実があるのです」

「まあ、礼次郎さん。ここは黙って稲荷さんの話を聞こうではありませんか」

 村越警部は、稲荷千太郎の口上方法について詳しかったため、礼次郎をたしなめた。

「では・・・。まず、この事件が起こった経緯を時系列でお話しします。この連続殺人事件が開始された時、すなわち医師の渡辺新造さんが殺害される前に、白船さんが私の事務所に来ました。その目的は、自筆証書遺言を書きたいということの相談でした」

 一瞬、遺言という言葉が出た瞬間、礼次郎の顔が硬直した。紗枝は下をうつむいたまま、早紀を抱き支えており表情は変わっていなかった。

「遺言・・・」

 と、礼次郎は呟いた。

「そう。遺言です。幸一さんと、順子さんが、もしも生きていたら、この言葉を聞いて礼次郎さんのように驚いたでしょう。誰だって、お金は欲しいものです」

「それはそうだな」

 村越警部は独り言のように言った。

「つまり、この事件は白船さんが自筆証書遺言を書いてから、それほど間もない時に開始されたのですね。でも、それは時期だけの話です。遺言に全く関係のない渡辺さんが殺害されたということは、この遺言とは直接関係しませんよね。そこで、誰もが遺言と渡辺さんとの殺害は全く関係ないものと感じるはずです。現に私もそうでした」

「えっ、では私の遺言と新造さんが関係あるとでもあんたは言うのかね」

 喜平は、驚きの表情で顔面が真っ赤になった。

「いきなり驚かせますが、実は関係があるのです」

「私はあんたが言わんとすることがさっぱり理解できない」

「そうですよね。普通は理解できない。しかも、これを理解していただくためには、詳しい説明が必要なのですが、どこから説明して良いのか私も分かりません」

「まあまあ、稲荷さん、そう慌てなくても良いから、じっくり説明してくれ」

 と、村越警部が喜平の放つ機関銃のような言葉の連鎖を笑みで制止した。

「ありがとうございます。さて、どこから説明しましょう」

 稲荷千太郎は、しばらく黙りこみながら人差し指と親指を右の鼻の穴に挿入して、鼻毛を抜き始めた。それを礼次郎が嫌気をさした面持ちで睨みつけていた。

 そして、彼はゆっくりと口を開いた。

「結論から言いましょう」

 一同は、結論、という稲荷千太郎の言葉に緊張感を走らせ、固唾を飲んだ。

「遺言と殺人事件が関係すると言うことは、誰かが誰かを殺害することによって、金銭的な利益を得ることができることが前提となります。白船さんがもしも亡くなったら相続人となる者が相続財産を得ることが出来るわけですから、相続人を数人殺してしまって、もしも一人だけが残ったと仮定しましょう。この場合は、相続人はもはや一人しかいないのですから、そのときは遺言の意味なくなりますよね」

「そりゃそうだな」

 喜平は軽く頷いた。

「つまり、稲荷さんは、相続人となるべき一人が他の相続人を殺害したということが言いたいのか?」

 それを聞いていた礼次郎が大声を上げた。

「そうなると、それは当然、幸二さんだろう。先日、仲見世でもあの男を見かけた」

 礼次郎は、紗枝の方に対して同意を得ようとするような目線で彼女をチラリと見た。

 稲荷千太郎は、鼻毛を抜きながらニッコリと笑った。

「はい。幸二さんですね。幸二さんも法定相続人となり得る人物です」

「やはり、私の予想が当たった。幸二さんが犯人だ」

 再び、一同に沈黙が続いた。稲荷千太郎も凍りついたように一点を見つめたまま、黙り込んだ。彼は次の言葉を発する間をとったのであろう。

 やがて、稲荷千太郎は、言った。

「いえ、犯人は幸二さんではありません」

 それを聞いた村越警部は、ことの成り行きを知っているらしく、軽く頷いた。

 「ど、どううことですか?犯人はあいつしかいないでしょう。それとも他の相続人である私か紗枝が犯人とでも?」

「実は幸二さんは二日前に遺体で発見されました」

「え?」

 礼次郎は驚愕した。

「村越警部は当然そのことを知っています。仲見世で幸二さんを見かけたということで、捜査本部も幸二さんを探し始めた。栃木県警にも協力を要請していたところですが、警察が見つける前に、遺体発見現場の近くに住んでいる方がそれを発見したのです。具体的には、足利市のある小高い山に埋められていました。現場近くの住民が犬を散歩させているときに見つけたのです」

 稲荷千太郎の話によれば、足利市の山辺村というところに小高い山があった。この山は、特に特徴があるわけでもなく、標高百メートル程度で、なだらかな坂道があり、その坂道を上がって行くと、そのまま山の向こう側へ越すことができる。地元の住民からすれば、適度な散歩コースでもあった。但し、閑散とした散歩道で、左右は雑木林に覆われており、薄暗い雰囲気であった。

 そこに、地元の老人が犬を連れて散歩に出かけて、約五十メートル坂を上がった、山の中腹において、犬が雑木林の中に急に入り込んだ。犬に綱を付けていなかったため、老人は、犬を追いかけて雑木林の中に入ったところ、最近土を盛ったばかりであるような場所にたどりついた。犬もそこに留まっていた。妙な雰囲気を感じた老人は、その盛ったばかりと考えらえた土を手で触った。すると、周辺の固い土と違って、一旦掘ってから再度埋めた後の土であることが分かった。少し柔らかいためである。犬が興味を示してクンクンと匂いを嗅いでいる姿を見て、老人は念のため、地元の警察を呼んだ。警察は、そこを掘り起こしてみた。一メートル程度掘り起こしてみたら、そこに全裸の男性の死体が埋められていた。警察はこれを事件と判断し、遺体の身元を調査した。その結果、被害者は幸二、その人であった。幸二は、首を絞められていた。死後、数日間経過しているという鑑識結果であった。

 このことは、栃木にいた稲荷千太郎の耳にも届き、そして浅草の村越警部も栃木の地元警察から報告を受けた。

 村越警部は、黙って頷いていた。喜平は、驚きながら、

「つまり、犯人はやはり幸二ではなかったということだな。私の狙い通り、土井か?」

 と、言った。

 稲荷千太郎は、穏やかに微笑んだ。

「土井宗次郎が犯人の場合、幸二さんを殺害する動機が弱いですよね。確かに土井宗次郎は白船家の人々全員を狙う動機はありましたが、生き別れになった子供である幸二さんを殺害するというのは、いささか違和感があります」

 礼次郎は、混乱していた。自分は、今の今まで、犯人を幸二だと思っていた。それが、真の犯人によって殺害されてしまった。そればかりではなく、喜平が犯人だと断定していた土井宗次郎でもない、と稲荷千太郎は言う。

一体、この事件の犯人は誰なのだろうか、と礼次郎は思い、それが深刻な表情となって顔つきに表われていた。

「稲荷さん。私は頭が痛くなってきた。では、一体誰が犯人だというのです。もったいぶらないで言ってくれ」

「私はもったいぶっている訳ではありません。あまりにも意外な人物が犯人のために、皆さんの腰が抜けないように最低限の前置きをしているだけです」

「それは分かった。そろそろ前置きは結構です」

 稲荷千太郎は真剣な眼差しで一同を見渡した。そして、頷いた。

「犯人は直接の相続人足り得る者ではありません。しかし、将来白船さんが死亡したときに、何らかの利益を得ようとしていたことは確かです。そしてその犯人は、渡辺新造さんを殺害することによっても金銭的な利益を得ることが出来る」

「それは一体誰だと言うのだ」

 喜平は凄みのある低い声で言った。

「その人物は、今、白船さんの正面に座っているお方」

 一同、面喰らった顔でギョッとした。喜平の正面に座っているのは、乳井しんであった。

「そう。犯人は乳井さん。あなたですね」

「し、しんさん」

 喜平は、あまりの衝撃に怒りを通り越して体をのけぞらしてしまった。

「まさか、しんさんが・・・」

 今まで下をうつむいていた紗枝は顔を上げて大きく目を見開き、乳井しんの方を見た。礼次郎は、怒りの形相になった。しかし、全員が、突拍子もない稲荷千太郎の言葉に、どうのように対応して良いのか分からずに言葉すら出すことが出来なかった。

 乳井しんは、稲荷千太郎の言葉によって、下をうつむいたまま顔を上げることが出来なかった。

 その時、喜平が乳井しんに鬼のような形相で迫った。

「し、しんさん。稲荷さんの言っていることは本当なのか?あんたが、幸一や順子を殺害したのか?」

 乳井しんは、しばらく下を俯いたままであったが、ゆっくりと顔を上げた。その際の目つきは、いつもの乳井しんとは異なり、悪魔のような恐ろしい目に変わっていた。一同は、その狂気の目に恐怖を感じた。

 乳井しんは、鋭い目線で全員を見渡した。その目つきは、献心的な仲居とは異なる殺人犯そのものであった。

 そして、乳井しんは急に叫ぶように大声を上げた。

「新吉、新吉」

 乳井しんは、隣に座っていた息子の新吉の名を大きな声で叫んだ。

 一同は、乳井しんのいきなりの大声にピクリと体を震わせ、驚いた。

 呼ばれた新吉は、スッと立ち上がり、座ったままである乳井しんの背後に立った。乳井しんが声を上げてから、ほんの数秒の出来事であるため、一同は何もすることが出来ずに、ただ驚愕の表情を見せたまま体は硬直していた。

 稲荷千太郎は、この数秒間、座ったまま、ただその光景を下からただ震えながら見上げることしかできなかった。

 新吉は、乳井しんの背後に立つと、ジャンパーの胸元に右手を差し込んだ。新吉が右手を胸元から出した瞬間、彼の右手にかすかな何かが光った。一同は仰天した。

 彼は短刀を手にしていた。先ほどの光は短刀に電灯が反射した結果、放たれたものであった。

 新吉は、顔を歪めた。

 何が起こるのか分からないまま全員がひるんだ。喜平、稲荷千太郎、村越警部は座ったまま、両手を後ろに付き、無意識で後方に尻の位置をずらした。礼次郎は、瞬時に立ちあがり、後ろの壁の方向へ後ずさりした。紗枝は早紀を両手で覆い隠し、自らもうずくまった。

 新吉は、顔を歪めたまま何のためらいもなく、母親である乳井しんの心臓をめがけて背後から短刀を突き刺した。

 ブスッと、鈍い男が聞こえたと同時に、乳井しんの胸から鮮血がほとばしった。乳井しんは、悪魔のように変貌した目を開いたまま、前方のテーブルに上半身を倒した。

 「ギャー」

 と、紗枝が恐怖のあまりに大声で叫んだ。稲荷千太郎らは驚きのあまり、口を開けたまま言葉を発しなかった。

 新吉は、乳井しんに短刀を突き刺したまま、サッと後ろを向き、疾風の如く部屋から退出した。階段を飛ぶように降りる音が大広間に響いた。

 村越警部は、我に返って起き上がり、新吉を追いながら叫んだ。

 「おい。誰か。犯人が逃げたぞ。追え」

 村越警部は、おそらく白船亭の周辺に待機していた警察官に向かって叫んだのであろう。自らも白船亭の外に出て、新吉を追いかけた。

 大広間は、乳井しんの流血で惨憺たる修羅場と化した。

 稲荷千太郎は紗枝と早紀に向かって、

 「まずはお部屋へ戻って下さい」

 と、告げると、紗枝は早紀の肩を右手で抱き抱えて、左手は口を押さえて逃げるように大広間から退室した。

 礼次郎も、それにつられて無言のまま、自室に向かった。

 喜平と、稲荷千太郎は即死した乳井しんを見つめたまま呆然としばらく立ちすくんだ。それからすぐに稲荷千太郎と喜平は大広間から出て廊下に座り込んだ。

 しばらくすると複数の警察官が階段をバタバタと音を立てて階段を駆け上がってきた。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫です」

 喜平は警察官の言葉に答えた。

「稲荷さんは別としても白船さんはお部屋にお戻りください。ここは、これから鑑識も来ますし」

 喜平は今だ呆然としたまま無言で頷いた。

「白船さん。そうしましょう。私の話の続きは少し落ち着いて日をあらためましょう」

「そうだな」

 喜平はそう言うと、下を向いたまま元気のない足取りで大広間を出て行った。

「さて、私もドッと疲れましたので、一旦、お借りしている部屋に戻ります」

 稲荷千太郎が警察官にそう言うと、

「稲荷さんは、少しお待ちください。お話しがあります」

「話?」

「村越警部から、稲荷さんに早急に伝えるように頼まれたことがあります」

「伝えたいこと?」

   数人の警察官の内、髭を生やしている年配の者が言った。

「はい。実は、乳井新吉が先ほど死亡しました」

「えっ?死亡?」

「事故です。乳井新吉は、ここから逃走したとき、まず白船亭の庭を超えて正面玄関から表へ出ました。そして、左方向、つまり雷門通りへ向かいました。おそらく、新吉は雷門から人通りの多い仲見世に入り、姿をくらまそうと考えたのだろうと推測されますが、彼は雷門通りを雷門方面へ行くために、信号無視をして道路を渡ろうとしたのです。すると、仁丹塔方向から吾妻橋方面へ向かって走ってきた乗用車にはねられて即死したのです。
乗用車の運転手も不運です」

「村越警部は?」

「別働隊が到着しましたので、検死しています」

「そ、そうですか」

 稲荷千太郎は、新吉が死亡したと聞いて始めは驚いたが、その後はややトーンダウンして、驚きもしなくなった。むしろ彼は疲れ切っていて、思考も止まっているかのようだった。

「村越警部が、もし稲荷さんもよろしければ、その現場に来るようにと言っていましたが」

「いえ、私は疲れたので帰ります。荷物をまとめて事務所へ帰ります。後日、警察に伺いますと村越警部にお伝え下さい」

「分かりました」

 髭の警察官は若い警察官の方を見て、

「警部に今の話を伝えるように」 

 と言った。若い警察官は、村越警部の元へそのことを伝えるために大広間から出て行った。

「では我々はここに待機しますので、稲荷さんは、ご自由になさってください」

「ありがとう。そうします」

 稲荷千太郎は、喜平に引き続いて大広間から退室した。

 そして、稲荷千太郎は疲労と無気力感から、喜平にも告げずに自分の事務所がある谷中へ勝手に帰ってしまった。

 その事実を後から聞かされた喜平も、稲荷千太郎の行動に対して、怒りの感情は起きず、彼自身の精神も無気力で充満していた。

 それから稲荷千太郎は、一週間程度、自宅で泥のように眠り、休養した。犯人を死なせてしまったことで、稲荷千太郎は精神的なショックを受けていた。もう少し違ったかたちで事件を解決できたのではないか、という後悔の念も彼を襲った。犯人である乳井しんを死なせてしまっては、本当の事件の解決とは言えないのではないか、と彼は苦悩した。
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