白船亭事件考

隅田川一

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第11章

幸二、現る

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 白船亭はそれから一週間は何事もなく静かだった。ところが、それから八日目に、ある衝撃的な出来事が生じた。それは、次のような事である。乳井しんのせがれの新吉が、クサクサしている礼次郎を気遣って、居酒屋にも行きましょうと誘った。新吉が人を誘うこと等は滅多にないことであったが、不気味な空気に包まれている白船亭の中で、精神的に詰まっていたのは新吉も礼次郎も同様だった。そこで、新吉が礼次郎を居酒屋にでも行こうと誘うと、礼次郎もその気になった。二人は、夕方の六時頃に、白船亭を出て、雷門から仲見世に入った。仲見世の土産物屋は、だいたい七時頃に店じまいをする。六時頃であれば、まだ観光客も大勢いて、浅草寺までの間は、スムースに歩行できない。

 雷門と浅草寺のちょうど真ん中辺りの仲見世の途中で、礼次郎が急に叫んで、ある一点を指差した。

 「あれを見ろ」

 新吉は、礼次郎が指す方向を直感に従って、凝視した。妙な男が人ごみで埋め尽くされている仲見世のど真ん中にポツリと立っていた。その男の服装から妙に目立って見えたのだ。

「あぁああ・・」

 礼次郎と新吉が見たのは、黒い鳥打帽を被り、黒いコートを着た男で、片腕がブラブラしていた。

 その男は、二人が歩いていた五十メートルほど先の横道から仲見世に出てきて、一旦立ち止り、二人を見てニヤリと微笑んだ後、そのまま仲見世を横切って姿を消してしまった。

「新吉さん。見たか?」

「見ました」

 二人は、その場で歩行を止め、立ち止まってしまった。本来ならば、すかさずその男を追いかけるべきなのだろうが、あまりにも急な出来事であり、恐怖のあまり足がすくんでしまったのだ。

「追いかけよう」

 二人は、男が抜けて行った横道を曲がり、その影を探しまわった。しかし、二十分間程度、走りまわったが、その鳥打帽を被った男を見つけることが出来なかった。

 その時点まで、二人は男を捕えようと必死になっており、何等の会話もせずに走り周った。男の探索をあきらめた二人はゼイゼイと息を吐きながら路上で立ち止った。

 少し、落ち着いた後、礼次郎が言った。

「あの顔・・・幸一さんと同じだ」
 新吉は頷きながら、

「幸一さんに似ている。しかし、幸一さんは死んでしまった。と、いうことは幸一さんと双子の幸二さんしか考えられません」

 と、言った。二人は、居酒屋に行くことは、止めにして白船亭に戻り、この件を、白船亭捜査本部の村越警部に告げた。同時に、二人は白船亭にいる稲荷千太郎にも報告した。村越警部は、その話を受けて刑事と警察官に周辺をくまなく捜索するように命じた。

 稲荷千太郎は、この話を聞いて、

「なるほど・・・」

 と、頷きながら嬉しそうに鼻毛を抜いた。

「これで捜査本部も方向転換ですね」

 稲荷千太郎が言った通り、捜査本部は、土井宗次郎の捜索を続けながら、メインの容疑者を幸二へ変更せざるを得なかった。片腕のない男が、今まで登場してきたのと同じ格好で現れ、それが幸二だったというのだから、この変更は当然のことであったと言える。

 しかし、冷静な稲荷千太郎は、ここで片腕のない男を実際に見かけた白船亭の前の豆腐屋の女将と、片腕のない男が宿泊したと見られる浅草旅館の女将に、幸一の写真を提示することを提案した。幸二の写真は、現存していないため、双子である幸一の最近の写真を流用すれば足りると考えたからである。

 警察は、喜平から最近の幸一の写真を借りた。熱海へ旅行に行った時の写真で、海岸に幸一が立っている記念写真だった。

 この写真を、刑事は豆腐屋の女将と浅草旅館の女将の両方に提示した。その結果、予期せぬ回答が帰ったきた。

 両方の女将が同じ答えだった。

「この男ではない。顔ははっきり覚えていないが、明らかにこの男とは雰囲気が違う」

 と、いう回答で、全く両女将の言うことは共通していた。

 きっと、そんなことはないはずだ。幸二に決まっている、という声が捜査本部内部では多かった。両女将も顔がはっきり分からない以上は、記憶が曖昧なはずである、という見解である。
 
 村越警部が、この見解を稲荷千太郎へ述べると、稲荷千太郎は言った。

「明らかに、写真の男ではないと言っているのでしょう?そうであればその言葉を尊重すべきでしょうね。私はそう思います」

 しかしながら、実際に幸二が現れたという事実を警察は重んじざるを得なかった。

 村越警部から指示を受けた刑事と警察官が、早速、幸二を捕えるために浅草近辺を捜索したが、幸二の姿は全く見かけることが出来なかった。

 稲荷千太郎は、幸二の捜索については警察に任せることにした。

 稲荷千太郎は、栃木県の佐野市へ行くことを決意した。今までは、比較的受身的な姿勢をとってきた彼だったが、探偵となってからは、事件の解決に向けて積極的になってきていた。幸二が登場したことで、この事件の鍵を握る場所は栃木県の佐野であると、彼は心の中で断定した。 

 稲荷千太郎は、栃木へ行くことを自分の依頼主である喜平から了解を得ると、村越警部に協力を要請した。それは、二点についてであった。一点目は、栃木にあった渡辺産婦人科が建物として現存しているか、それが現存している場合、それは空き家なのか、更に空き家だとした場合に、その中に入ることが出来るのか、である。二点目は、幸二の借家の中を捜索させて欲しい、ということであった。
 
村越警部は、この二点について確認するとともに、稲荷千太郎に刑事一名を同行させることを約束した。

 数日後に、村越警部から連絡が入った。稲荷千太郎が協力を要請した二点については、いずれも可能であるということだった。当然、公的に地元警察に村越警部が照会と協力を要請したことは言うまでもない。

 渡辺産婦人科だった建物の名義は、未だに渡辺新造のままであった。廃業してからも、特段にこの家を売却する必要がなかったのだろうと推定された。田舎の地価も高くないので、売ったところで大した足しにもならないという現状もある。

 稲荷千太郎は、米田刑事を伴って浅草から東武線に乗り込み、栃木へ向かった。しばらくの間、この二人は栃木に滞在することになった。

 ところが稲荷千太郎が栃木へ行った後、その四日後に、事件が起きた。

 再び、殺人が行われたのである。被害者は、白船家の長女である順子だった。幸一が殺害されてから、しばらくの間は白船家では何事も起きずに済んでいた。連続殺人事件がこれからも引き続き起きる可能性はあったのだが、幸一殺害を最後として、この連続殺人は終了しないだろうかという淡い期待感が周囲に生じていたことも確かである。

 順子殺害事件の詳細は次の通りである。順子は兜町に本社を構える東日本証券の社員として、同社が主催する顧客を募ったパーティーへ参加した。場所は、日比谷公園内のレストランだった。順子は、東日本証券の社員として、男性の営業マンと負けない営業成績を有しているキャリアウーマンで、当時としては珍しい男勝りの女性だった。そのため、パーティーの準備などの手伝いという立場ではなく、顧客に対する接待の対応係として、十分な役目を果たしていたという同社の社員からの話であった。東日本証券の主催するパーティーには必ずと言ってよいほど順子は参加をしていた。

 今回のパーティー会場は、レストランは「華」という名の店で、日比谷公園の中では、桜田門に近い銀座方面から見れば比較的公園内の奥に位置しており、周辺が公園の木々で覆われている場所にポツンとあった。

 その「華」でパーティーは夜の九時頃まで行われた。客数は約五十人で、大半が東日本証券の顧客だった。順子はパーティーの準備係ではなく、営業としての接待係であったが、持ち前の親切さで、最後まで会場の片付け等の手伝いを行った。ほとんどの社員が帰宅しても彼女は、「華」への支払いがあるために、結局、社員の中で一番遅く帰宅することになってしまった。

 事件は、順子が「華」から表へ出て、公園内の通路を有楽町方面に歩いている時に起こった。

 街路灯も少ない公園内の通路で背後から鋭利な刃物によって一突きで刺殺されたのである。遺体から判断すると、まさに一突きで心臓を刃物が直撃しており、ほとんど即死状態だった。路上は、順子の鮮血で真っ赤に染まっていた。

 背後から刺され、前のめりで倒れた順子はうつ伏せの状態で倒れていた。

 遺体は、公園内をデート中のカップルに発見され、そのカップルが警察に通報した。警察や救急車が到着した時、刺された時に既に順子は死亡しているため、遺体は少しの間はそのままにして、現場検証が行われた。

 現場には、地元の有楽町警察の刑事が立ち合ったが、浅草橋警察の村越警部の耳にもこの件が伝わり、村越警部も現場に急行した。

 村越警部が現場に到着した時点では、既に大勢の鑑識と刑事が現場で遺体の確認等を行っていた。

 順子の死体を見た村越警部は、それを見るなり、

 「これはひどい」

 と、眉をひそめた。はつらつとして、元気で、殺人事件すら驚きもしなかった順子が即死しているのである。しかも、遺体の周辺は鮮血で血塗られている状態で、見るも無残な状況であった。

 太い眉を吊り上げ、眉間にしわを寄せながら順子の死体を凝視していた村越警部に刑事が言った。

「こんなものが遺体の上に置かれていました」

「え?」

 刑事が村越警部に手渡したのは、一枚の紙切れで、そこには新聞紙の文字を切り取って
例の言葉が貼り付けられていた。

 ・・・村正参上・・・・

「また、これか?」

 と、村越警部は、吐き捨てる様に言った。

「またか、とは?」

「私が担当しているこの連続殺人事件に関しては、これと同じものが殺害現場に置かれているのだよ」

「村正・・・・ですか?」

「そうだ」

「村正と言えば、正宗とか孫六とかと同じように有名な刀匠ですよね」

「あんた、良く知っているな」

「有名ですからね。しかし、どういう謎掛けなのでしょうね」

「それが分かれば苦労は要らん」

 後に判明したことであるが、順子は概ね刃渡り三十センチ以上の長さの鋭利な刃物で突き刺されて即死した。歩いているところを恐らくは背後から走ってきた、あるいは早歩きで近づいて来た何者かによる行為である。残念なことに、夜も十時を超えており、人も居なかったために、目撃者はゼロであった。

 公園の周辺にも特段に怪しい人物が居たと言う報告もない。都心だけあって、様々な格好の人間が有楽町近辺にはぶらついており、よほど妙な人間でない限り、人々の記憶に残る者は居ないだろう。

 村越警部は、「華」に行き、その従業員に対して順子が店を出る前の状況を確認した。

「ここの責任者を呼んでくれ」

 村越警部が、店先にいたボーイにそう言うと、奥から黒い背広を着た五十代後半と思われる男が出てきた。

「私がここの責任者です」

「私は警視庁の村越と言います。現在は浅草橋警察にいて、そこから来ました」

 村越警部は背広の内ポケットから警察手帳を取り出して、それを見せた。

「先ほど有楽町警察の者が色々質問したことだと思いますが、いくつか聞きたいことがあります。同じ質問だと恐縮しますが、まあご協力下さい」

 責任者の男はニッコリとしながら、穏やかに言った。

「分かりました。私の知り得る範囲では」

「早速ですが、被害者がここを出た時に、東日本証券の顧客をはじめ、他の一般客は既に全員ここには居ませんでしたか?」

「はい。今日は、東日本証券様の貸し切りでした。東日本証券様には、度々ここをご利用下さっていますので、毎回、段取りは同じです」

「段取りとは?」

「まず、予約の段階で、白船さんが当店にお越しになり、一人当たりの予算と人数をお話しになられます。そこで、お出しする料理などを決めます。当日は、パーティーが終わってお客様全員が帰られるのを見届けてから白船様が料金をお支払いになって帰られます。」

「お話しによると、本日のようなパーティーをする場合の予約と当日の担当は毎回被害者が行っていたというわけですね?」

「はい。当店についてはそうです」

「しかし、東日本証券の社員は被害者だけが参加するわけではないだろう?」

「もちろんです。毎回同じ人ではありませんが、三名程度はお手伝いで来ております」
 「本日は?」

「確か男性の社員が二名来ていました」

「その男性社員は、被害者よりも先に帰ったのですね?」

「そうです。男性社員はお客様達と同時に店を出られました」

「記憶があればで良いのですが、今日のお客の中に怪しい人は居ませんでしたか?」

「特におりませんでした。来客に関しては、当店の入り口に受付を設けておりまして、東日本証券の社員の方が、そこでチェックいました。パーティーが終了後に、白船さんは来客全員を見送っておりました。特に不審者は居なかったと思います」

「そうですか。分かりました」

 村越警部は、「華」を出た。

 そして、有楽町警察に立ち寄り、そこで電話を借りて、白船亭に連絡をした。時刻は午前二時だった。村越警部は、喜平に順子が殺害された旨を告げた。

それを聞いた喜平は電話口で狂ったように慌てた。そして、地響きが鳴るような大きな声を出して泣いた。

 喜平といえども、娘が可愛いのは当然であって、村越警部は、電話越しに喜平の泣き声を聞いて、ほとほと同情した。しばらく無言で喜平の声を聞いていた村越警部は、その日の午前中に白船亭に訪れる約束を喜平として
電話を切った。

 喜平は、娘が殺害されたショックで、寝ることも出来ずに、自室に籠ったままだった。喜平から順子が殺害されたことを聞いた白船家の人々は、全員がショックし、恐怖を感じた。

 村越警部は、浅草橋警察に戻り、そこで仮眠をとってから白船亭に向かった。乳井しんに案内されて喜平の部屋に村越警部は入ったが、喜平は呆然としたまま応接椅子に座ったまま一点を見つめており、入室した村越警部の顔をうつろな視線で下から見上げる様に見た。

「警部さん」

 喜平は村越警部の目をみつめたまま呟いた。

 村越警部は、深刻な顔をした。

「はい」

「まあお座り下さい」

「ありがとうございます」

「私は本当に参りました。ついに、愛娘まで殺されてしまった」

 両手で顔面を押させたまま、喜平はすすり泣いた。

「ときに、警部さん」

「はい」

「稲荷さんはまだ帰りませんか?」

「栃木へ調査に行っています」

「私が彼を雇ったのは、用心棒の役目としてだ。それが、こんなことになってしまっては、彼は役目を果たしていないことになる。一体、何をしているのやら」

「実は、稲荷さんには電話を入れました。宿泊している宿も分かっていますから。当然、順子さんが殺害されたことも言いました。彼も相当ショックを受けていましたよ」

「いつ、戻るのですか?」

「あと数日と言っていましたよ。何かが分かったと・・・。東京へ戻ってきたら、その足で一軒寄り道するところがあるそうで、そこに立ち寄ってから白船亭に帰るそうです」

「そうですか。何かが分かったのですね。それでこの事件が解決すれば良いのだが」

「まあ、稲荷さんの刑事時代もそうでしたが、彼には突然、犯人が分かった、と言うことがあるのですよ。周辺の警察の仲間も面喰らいましてね。勝手気ままに捜査してきて、我々が悩んでいる間に、犯人を特定してしまうのですからね。今回もそうだとありがたいのですけど」

「私も期待します」

「ときに、白船さん。順子さんの殺害に関して、詳細は聞きたくはないと思いますが、少しだけご意見を伺いたいのです」

「何でしょうか?」

「順子さんが、おそらくですが歩いている最中に背後から何者かが近寄ってきて、鋭利な刃物で順子さんの背中から心臓を目掛けて一突きした。それが見事に的を当てた。これは、やはり腕に覚えがある人間の仕業でしょうかね?」

「それはそうでしょう。土井に決まっている。奴は居合いの使い手だからね。だいたいにおいて、人を殺そうとした場合、普通は緊張でそう簡単には上手く出来ないはずです。しかも歩いていたということは、的を外す可能性が高い。これは腕に覚えがある奴の仕業としか言いようがない。極端に言えば心臓を一突きされたということは、もしかすると順子は殺されたことすら気がついていないかもしれない」

「先日、礼次郎さんと新吉さんが仲見世で幸二さんらしき人物を目撃したことに関してはどのように思いますか?」

「それが果たして本当の幸二なのかも分かりやしない。あいつにはこのような行為をする度胸はない」

「分かりました。嫌な質問をして失礼しました。ご意見ありがとうございます。ときに、こんなことを言いたくはないのですが、順子さんの御遺体を安置しております。念のために確認していただけますか」

 喜平は、黙って頷いた。

「見たくないが、それは親としての義務ですね。分かりました」

 この白船亭事件が解決に至らない間に、三人の被害者を出してしまったことを村越警部は恥じた。浅草橋警察の取り扱い事件は、時として殺人事件もあるが、大半が窃盗事件や傷害事件等が多く、連続殺人事件などはしばらくなかった。そのような意味では、いきなりそのような事件に遭遇した村越警部は相当面喰らっていた。しかし彼は、順子が殺害されことに関して喜平に対して申し訳ない気持ちで一杯だったと同時に、次に犯人のターゲットになっている者を予想し保護する必性を強く感じていた。しかし、それが誰であるかはこの時点では不明確であった。
 
村越警部は、当然のことながら、白船亭の周辺に、警備の警察犯を常時配置し、喜平はもとより、礼次郎、紗枝、早紀については外出を控えさせ、家の戸締りの徹底を要請した。
 
順子殺害に関しては、目撃者は全くおらず、「村正参上」という例のメモが置かれていたことしかその時点では手掛かりはなかった。そして、そのメモからすれば、順子殺害の犯人もこの白船亭事件の連続殺人の犯人と同一人物であるということは推測できた。

 この事件には釈然としない手掛かりが多すぎた。犯人は土井宗次郎なのか、それとも幸二なのか、あるいは全くこの二人とは別の第三者なのか、いずれの可能性も十分に考えられた。
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