白船亭事件考

隅田川一

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第10章

探偵誕生

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 翌朝、稲荷千太郎は、朝から行き先も告げずに外出した。乳井しんは、彼から「用事があるので出かけてきます」と、言われただけで特にその行き先も聞かなかった。

 乳井しんは、台所で朝食を食べていた。白船亭が臨時休業をしているため、乳井しんの朝食は数日前の煮物の残りと味噌汁に漬物という質素な物であった。白船亭が営業している状態であれば、前の晩に売れ残った高級な食材を朝食のおかずとしているところであったが、ここ数日は、こんな朝食が続いていた。

 乳井しんが漬物をボリボリと音を立てて食べていると、そこに喜平がやってきた。喜平は朝から寝巻姿ではなく、セーターにスラックスというきちんとした格好をしていた。彼は、老人とは言え、一国一城の主として身なりはいつも紳士的だった。

「おはよう、しんさん」

「おはようございます。旦那様」

 乳井しんは、箸を置いた。

「稲荷さんの姿が見えないが・・」

「あっ。稲荷さん。あの方は、朝からお出掛けになりました」

「どこへ?」

「知りません」

 と、乳井しんは言った。

「聞かなかったのか?」

「ええ」

 乳井しんは、喜平のこと雇用主であり、旦那さまと呼んではいるが、案外家族のような口のきき方をする。長い間、白船亭に勤務して白船家の面々と同居していることや、仲居とはいえ、対外的には女将的な役割も果たしており、普通の従業員とは違っていた。場合によっては、喜平と夫婦ではないかと勘違いされることもしばしばあった。

 喜平もそんな乳井しんの態度を特に何とも思っていないようで、それがこの二人の自然な光景であった。

「はて?稲荷さんはどこへ消えたのだろうか」

 喜平は首を傾げた。喜平は乳井しんの向かいに座り、漬物を指で摘まんで口に放り込んだ。

「旦那様。こんな物で良ければお食べになりますか?」

「ありがとう。少し体力をつけなければならないから頂くとするか」

 乳井しんは、茶碗に飯を盛りながら言った。

「もしかすると、稲荷さんは、気を悪くしたのかしら」

「何かあったのか」

「いえ、昨晩のお通夜の席で、誰も居なくなった後に、稲荷さんと私と新吉の三人でお寿司を頂きました。そのときに、常識をわきまえない新吉が稲荷さんに食ってかかったのです」

「そんなことがあったのかね?」

「新吉は、稲荷さんに早く事件を解決するようにひどい口調で迫りましてね。私はそれを制止したのですけど、それも出来ずに新吉は言いたい放題で。それで稲荷さんは気を悪くしたのではないかと、今思いました」

「今?」

「はい、先ほどまではそんなことは思いませんでしたが、旦那様が稲荷さんのことを心配なさるので、たった今そう思ったのです」

「まあ、そんなことはないと思うがね。しんさんらしい発想だね」

 と、喜平は少し微笑んだ。

 稲荷千太郎は、時として急に姿を消すことがある。そのことで、関係者を非常に困らせてしまうことも多々あった。彼が姿を消す理由も様々だった。事件の解決に結びつくような重要な事柄を調べに行くこともあったし、事件と全く関係ないことをしに出かけることもあった。ひどい時などは、逃げる様にして去り、どこへ行って戻ってきたのすら分からないこともあり、警察時代には、そのことによって、クビになりかけた。村越警部は、実際に稲荷千太郎がその時はクビになっても良いと思いながら逃げたのではないかと推測し、それを周囲に漏らしていた。

 もちろん、喜平はそんな稲荷千太郎の癖を知るはずもないので、深くは考えてなかった。

 喜平は、そのまま台所の椅子に座り、乳井しんと朝食をとった。ここ数日の中では、最も静かな朝だった。

 稲荷千太郎がこの白船亭で寝泊りしてから、目まぐるしく恐ろしい事件が起きた。喜平にとっては、脅迫状が来ているという理由からガードマン的な役割を稲荷千太郎に依頼したわけであるが、その嫌な予感が見事に的中したために、かえって混乱していた。あまり物事を深く考えない乳井しんと水入らずで朝食をとるということは、喜平にとっては癒しの時間となったのである。

「旦那様。お店はいつから開店しますかね?」

「えっ?」

「事件が起きたことは恐ろしいことですが、このまま休んでいるのは良くないです。それこそ、犯人の思うつぼですよ。ざまあみろって思いますよ。普通に戻りましょう」

 喜平は、この乳井しんの言葉を真摯に受け止めた。確かにその通りであった。次の殺人を犯人が考えているかどうかも分からないことだし、いつまでも店を開けないことはかえって家族に恐怖と心配を与えることにもなる。

「そうだな。明日から再開しようかな」

「そうしましょう」

 乳井しんは、ニッコリと笑った。

 この日、早紀は紗枝に送られて学校へ行った。紗枝は早紀を学校へ送り届けると、帰宅して部屋の掃除などをした。平静を装ったほうがかえって落ち着くからだ。

 順子は、何事もなかったのように出社した。度胸もあったが、日々の仕事をこなさなければならない義務感も強かった。

 礼次郎は、腹違いの兄が殺害されたことで、いささか神経質になっていた。次は自分が狙われているかもしれないと言う恐怖と闘っていた。そのため自室に籠ったままだった。

 喜平は朝食後、自室にしばらく籠り、その後は料亭の庭の簡単な手入れなどをした。喜平は、稲荷千太郎のことをしばし忘れて、花や植木を眺めて水を与えていた。

 すると、勝手口に繋がる木戸がギーと音を立てて開いた。稲荷千太郎が、白船亭に帰ってきたのだ。ヨロヨロの紺色の背広姿で頭髪は寝癖がついたままのいつもの格好で、フラリとどこかへ出かけて帰ってきた、という雰囲気だった。

 稲荷千太郎は庭の手入れをしている喜平を見つけて、

「ちょっと出かけてきまして、只今戻りました」

 と、言って軽くお辞儀をした。喜平が腕時計を見ると、時刻は午前十一時だった。

 喜平は、庭の手入れをしていた手を休めて稲荷千太郎の方を向いた。

「おぉ、稲荷さん。お帰りなさい。しかし、あんたはどこへ行ってこられた?心配しましたぞ」

 稲荷千太郎はニコニコ笑いながら頭を指でボリボリと掻いた。

「実は、白船さん。お話しがあります」

「なんだね。かしこまって」

「そう。かしこまった話です」

「では、中に入ってゆっくり聞こうか」

「いえ、ここで結構です」

「えっ?かしこまった話でしょう。中で話した方がよかろう」

「かしこまっていますが、ここで結構です」

「何だか妙な感じだが、ではここで聞こう」

 喜平は、植木ハサミを手に持ったまま突っ立っていた。

 稲荷千太郎は、その喜平の側に近寄った。

「で?稲荷さん。何だね?」

「実は、今朝のことですが、私は行政書士を廃業してきました。」

 喜平は、驚いた。全く予想もしない行動に稲荷千太郎が出たからである。

「一体、何があったというのだ。と、いうことは私の依頼した今回の仕事もキャンセルかね?」

 稲荷千太郎は、ニコニコと笑っている。

「今回の依頼はもともと行政書士の仕事ではありませんよ。ガードマンという仕事は行政書士の仕事にはないですから」

「では、キャンセルしないのだね?」

「はい。もちろんです」

 喜平は安堵した。

「では、なぜ廃業届を提出して来たのだね?」

「実は、昨晩の話ですが、新吉さんに事件を解決する気があるのかと怒られました。それがきっかけです」

「それは、しんさんが心配していたことだ。新吉君が稲荷さんに文句のようなことを言ったことで、稲荷さんはここから立ち去ってしまったのではないかと、しんさんは言っていたのだよ」

「いえ、その正反対。事件を解決する意欲を本格的なものとするために、廃業してきたのです。つまり、私は今日から探偵になります」

「えっ?探偵ですか」

「はい。先日、村越警部も探偵にでもなったほうが良いのではないかと言ってくれましたしね。昨晩、新吉さんに怒られてしまい、その後寝付きも悪かったのです。朝起きて答えが分かりました」

「答えが?」

「そう。答えです。つまり、私は、今回の事件を解決するというよりも、本来は行政書士であるはずの私が、なぜかガードマンをしているという中途半端な立場から抜け出れずに居ました。つまり、あやふやな状態が、事件解決の意欲を心の奥底で打ち消していたような気がするのです。これでは事件も解決できない。真剣に事件を解決するには、自分の立場をはっきりさせる必要があります。そのために廃業届を出してきたのです」

「そ、それにしてもいきなりそこまでしなくても・・・・」

「いえ、ダメです。中途半端はいけない」

「今後は探偵で食って行くのですかね」

「分かりませんが、まずはこの事件をなんとかしないといけません。そこで、白船さんにお願いがあります」

「何だね?」

「ガードマンとして私を雇ってくれましたが、土井宗次郎や幸二さんの身辺調査という名目でこの私を再雇用して下さい。探偵としてです・・・。もちろん、報酬の増加などは要りません。ただ、名目をいただければ、仕事もし易くなりますので、そして意欲も出て来る。ただそれだけなのです」

 喜平は少し考え込んでしまった。もちろん、稲荷千太郎の申し出を断る理由もなく、むしろ喜平にとっては喜ばしく思えた。しかし、問題はそんなに単純なことではなく、職を失った稲荷千太郎が、今後生活して行けるのかということが喜平の頭の中に真っ先に浮かんだのだ。

「その辺は、心配しないで下さい」

 稲荷千太郎はサバサバした表情で言った。

「心配するなと言っても心配するだろう。今から引き返せば、廃業届を取り戻せるのではないか」

「いえ、それはしませんよ」

「そ、そうか。しかし、稲荷さん」

「はい」

「あんたは変な人だな」

「えっ、何が変ですか?」

「まあ、ことには順序と言うものがあると私は思う。例えば、小説なり映画なりだったら、まずは事件を解決して、それから探偵になると言って、舞台の幕が下りる、というのが普通だろう。それをあんたは、突然、方向転換をして周囲を驚かせる。なんか、締まりが悪い気もするがね」

「まあ、真実は小説より奇なり、ということですね。こんな物語があってもいいでしょう」

 喜平は、微笑んで、

「確かに、こんなことがあっても良いのかもしれないな。しかし、一つだけ言っておくが、あんたが仕事を廃業したということに関して、私は責任を負えないよ」

「もちろん、そんなことは分かっています」

「ならいい」

 喜平は、側に立て掛けて置いた杖を手にした。 

「しかし、いつ見ても重そうな杖ですね」

「樫の木で出来ていてね。重いことは重い」

「かえって疲れませんか?」

「いや、私は年寄りのくせに大柄なので、頑丈な杖の方が体の支えに不安がなくて安心なのだ。重いほうが楽と言えば楽でね」

「そうでしたか?ちょっと持たせ下さい」

「いいよ。どうぞ」

 と、喜平は稲荷千太郎に杖を持たせた。

「こ、これは重い。一体重さは?」

「一キロ半はあるな。かなり頑丈だ」

「まるで、木刀のようですね」

 と、稲荷千太郎は杖をまじまじと見ながら言った。

「護身用にもなる」

「なるほど。ありがとうございました。あっ、そうだ。浅草橋警察に行き、私が廃業してきたことを村越警部にも伝えてきます」

「そうか。分かった。私は、また自室で一休みする」

 稲荷千太郎は、浅草橋警察の三階に向かった。三階廊下の一番奥の部屋に、「白船亭事件捜査本部」と書かれた墨書きの長い半紙がドアの横に貼ってあった。

 ドアは、開けっぴろげになっており、中から人の声が聞こえていた。

 稲荷千太郎は、開いているドアをノックした。すると、奥の机の上に腰を下ろしている村越警部が彼の方を見た。村越警部の周りに二名の刑事が立っており、三人で打ち合わせをしている風であった。

「稲荷さん。良く来たな。どうぞ入って」

「突然お邪魔します」

 稲荷千太郎は、村越警部のいる机に近づいた。
 
机の上は、書類の束と灰皿が置いてあった。灰皿には、村越警部が好んで吸っているゴールデンバットの吸いがらが山のように積み重なっていた。室内もタバコの匂いが染みついていた。

 村越警部は、ゴールデンバットを一本取り出すと口に咥えて火を付けた。

 「どうも、難事件に遭遇するとタバコの量が増えていかんね。早く解決して警視庁に戻らんといかんし、イライラしてる」

 と、言いながらタバコの煙を吐き出した。

「ときに稲荷さん。突然、やってきて何かありましたかね」

 稲荷千太郎は、ニヤリと微笑んだ。

「はい。実は今日、行政書士を廃業してきました」

 村越警部は、それを聞くとタバコの煙を吐き出して、ゴホゴホと咳込んだ。

「何だと?」

「今日から探偵になりました」

「えっ?あんた気は確かか?」

「確かです」

 村越警部は一瞬驚いたが、すぐさま人をあざ笑うかのような表情をした。

「どうして?」

「村越さんがそう言ったからですよ」

「私が?」

「ええ、あなたが」

「覚えていないな」

「今回の事件が起きて、久しぶりにあなたに再開したとき、探偵でもやれば、と言ったでしょう」

「そんなこと言ったかな」

 稲荷千太郎は、鼻毛を抜き始めた。

「まあ、そんな原因はどうでも良いのです。そう言われて、確かにそうかもしれないと、ひそかに思っていたのです。あくまで自分で決めたことです」

「そうだよな。あんたが自分で決めたことだ。しかし、食っていけるのか?」

「そんなことは分かりません。ただ、今は今回の事件のことで頭が一杯です。本格的に探偵と名乗ることで推理に意欲が湧いてきました」

「きっと、あんたなら食っていけるさ。そう考えると確かに行政書士よりも、こっちの方が向いているね」

「だから、それは村越さん。あなたが言い始めたことです」

 村越警部の横に立っている刑事二名が二人の会話を聞いてクスクスと笑っていた。

「だから、それは忘れた。この話は、白船さんには言ったのかね?」

「はい。先ほどまで白船さんとは一緒にいました。もちろん、伝えてあります」

「驚いただろうね」

「最初は驚きましたが、後から私が事件を解決することに関する期待感に変わりましてね。最終的は、賛成してくれました」

「そうか。しかし、事件を稲荷さんが解決するというのは良くないな。それは、警察の仕事だ。もっと言うなら私の仕事だよ。私にもプライドがあるから、稲荷さんには負けたくない」

「そうですよね」

 と、二人は声を出して大笑いをした。

「ときに、村越さん。その後、捜査に進展はありましたか?」

 村越警部は、机の上の灰皿に持っていたゴールデンバットのタバコをもみ消した。

「少しね。まあ、そこにお座りなさい」

 村越警部の側に立っていた刑事二名は、それぞれ自分の机に戻った。

 村越警部は、自分の机の隣りに置いてある応接セットのソファーに座った。応接セットと言っても、みすぼらしい物で、社長室にあるような豪華な物ではなく、テーブルはニスの色がはげ、ソファーは所々タバコのコゲ後等が残っていた。

村越警部は、机の灰皿を右手に持ち、応接セットのテーブルの上に置いた。

「さあ。こちらに」

 稲荷千太郎は、村越警部の正面に座った。

「で、何か捜査に進展があったのですか?」

「うん。まず、土井宗次郎の件だがね。戸籍や軍隊の記録を調べた。その結果、やはり、彼は戦地において失踪していることになっている。これは白船さんの言う通りだね。戸籍だが、帰国しないまま数年経過後に女房が失踪宣告の申し立てを裁判所にしておって、そのまま期間が経過して失踪宣告が下っている。つまり、戸籍上は死亡したのと同じことになっている」

「土井に子供は居たのですか?」

「戸籍上は居ないな。女房だけ。その女房が失踪宣告を申し立てということだね」

「土井は財産があったのですね」

 特に失踪者に財産がなければ、しばらくは行方不明という扱いにしておいても残った人間に不都合はない。しかし、財産があれば、早めに失踪宣告を受けて相続手続きをしたいのが普通であるため、土井にはそれ相当の財産があったのではないかと稲荷千太郎は推測した。

「それが、そうでもないらしい」 

 と、村越警部は言った。

「と、いうのは?」

「土井の女房も既に死んでいてね。土井の住所へ行っても、そこは他人の家になっている。赤羽なのだがね」

「王子の先で埼玉の手前の赤羽ですね?」

「そう、その赤羽。まあ、土井の住所地へ行って周辺に聞き込みもした。土井の住所地の人は、土井の女房から土地を購入した後に、建物を壊して新築したということだった。その人は、土井の知り合いでもないらしく、以前の売主であった土井の女房のことも、うすら覚えだった。そこで、かえって、近所の人に聞き込みをした方が良いだろうということになって、付近のお宅に聞きまわったのだよ。その結果、分かったことは、土井の女房は、旦那つまり宗次郎の借金が残っていたので家を売って引っ越したという話だった。似たような話を数件から聞けたので、おそらく間違いないだろう」

「なるほど、むしろ借金の返済をしたり、金銭的に色々な必要性があったわけで、裕福ではなかったのですね」

「そのようだった」

「では、土井宗次郎が犯人だとした場合、彼は失踪宣告を受けたまま、こっそりと日本に戻ってきた、というストーリーしかありませんね。誰にも知れることなく」

「そういうことしかないね。彼は密入国みたいなことをしないといけない。そしてこっそりと生活をしている、ということしか考えられない」

「し、しかし、そんなことが現実に有り得ますかね。生きていれば八十歳に近い老人ですよ」

「有り得るね」

 村越警部は、珍しく自信あり気な顔つきで強く言った。

「村越さんは、やはり犯人は土井宗次郎だと?」

「おそらく、間違いない」

「その根拠は?」

「まず、土井は片腕を斬られても何とか生き延びたのだろう。そして、中国の田舎の村落で生活をしていた。何せ、中国と言う国は広い。戸籍などを持っていない人も大勢いるということだから、土井宗次郎が中国に戸籍などなくてもどうにか生きていける。そして、彼は老人になった。おそらく人生最後の総仕上げとして、渡辺新造さんと白船さんに対して復讐しに来たのだろう。日本には、中国からの貨物船でも利用してこっそりと来たわけだ」

 稲荷千太郎は、村越警部の推理に対して、
「う~ん」と、唸り声を上げた。

「いやあ、村越さんの推理の凄まじさは昔とちっとも変りませんね。恐れ入りました」

「そうだろう。そもそもの話だがね。犯罪と言うのは必ず動機があって起こるものだよ。亡くなった幸一さんは幸二さんが犯人だとしつこく言っていたが、幸二さんには渡辺新造さんを殺す動機がない。もちろん、子供の頃に母親と自分を捨てた白船さんに恨みを抱くことは分かる。しかし、くどいようだが渡辺新造さんを殺す動機は見当たらないのだよ。それに引き換え、土井宗次郎が犯人だとした場合、渡辺新造さんと白船さんの双方に恨みがある。ことは単純なことだ」

「第三者の可能性はありませんか?」

「第三者?なんだそれは?」

「いえ、犯人が土井宗次郎でも幸二さんでもない第三者という可能性はありませんか?」

 村越警部は、あきれた表情で稲荷千太郎を見つめ、

「そんなものは居ない」

 と、言った。

「ただ・・」

「ただ?」

「捜査本部は土井宗次郎を一義的に犯人だと思っているのだが、念のために幸二さんについても調査はしている」

「ほお。どちらかと言えば、そちらの話が聞きたいですね」

「なんだ。稲荷さんは幸二さんを犯人だと思っているのかね」

「いえ、そういう訳ではありませんが、この事件には何らかの関係を持っていると思っています」

「そうか。しかし、残念なことに、幸二さんの情報は、未だに行方知れず、ということしか分からなくてね」

「それだけですか?」

「仕事を辞めた経緯や、家賃を払っていない状況等は再度捜査したが、以前の情報のままで何等の変更がない」

 稲荷千太郎は、残念そうに舌打ちした。

「母親の恵美子は十年前に病死しており、幸二さんは、その後は一人暮らしをしているようだ。戸籍上は独身ということになっている」

「幸二さんが行方不明になったのは、ちょうどこの一連の事件が起きる前でしたね?」

「そうだ」

「どう考えても、何らかの関係があるようにしか思えない」

「時期的にはそういうことになるかも知れないが、とにかく動機が見当たらない。特に渡辺さん殺害に関してはね」

「まあ、確かに動機は分かりません。しかし、幸二さんが失踪した時期と事件が起きた時期は、そんなに離れていないわけで、この時期的一致は注目すべきではないですか?」

「だからこそ、捜査中なのだよ。幸二さんが犯人であるという可能性はゼロだとは言っていない」

「そうですよね。少し熱くなってしまいました」

「ときに、稲荷さん。服毒自殺をした良子さんの件についても、当時の資料を県警で調べさせてもらったよ」

 村越警部は、ゴーデンバットを一本取り出し、マッチで火を付けて深く肺に吸いこみ天井に向かって煙を吐き出しながら言った。

「そ、その話も教えてください」

「まず、良子さんが死亡した日だがね。乳井さんが言っていたのと少し日がずれていたね」

「と、いうのは?」

「たぶん、乳井さんの記憶も曖昧だったのだろうけど、良子さんが亡くなったのは、紗枝さんが生まれて十日経った日だ。乳井さんの話だと五日と言っていたが」

「なるほど」

「紗枝さんが生まれてから、良子さんが自殺するまでの十日間は、紗枝さんは渡辺産婦人科に居たそうだ。少し未熟児だったようで、産婦人科のほうで預かっておったらしい。その間、紗枝さんの面倒は乳井さんが見ていた。毎日、良子さんの世話をしに借家に行っていたといことで、自殺した日も、乳井さんは良子さんの所へ顔を出した。ところがノックしても返事がない。ドアに手を掛けたらドアが開いた。鍵が掛ってなかったということだ。中に入ると、良子さんが倒れていた。コップが転がっていて、何かを飲んだことが直ぐに分かった。それで警察と救急に電話をした」

「毒の種類は乳井さんの話ではトリカブトでしたね」

「そうだ。検死の結果がそういうことだっった」

「そうですか。それで、良子さんがどうやって、そのトリカブトを手に入れたかは分かりましたか?」

「それがだね」

村越警部は、タバコを灰皿にもみ消した。

「渡辺産婦人科の裏庭に自然生息していたらしいのだ」

「えっ?」

「警察の記録によるとね。良子さんがある時、渡辺産婦人科の裏庭で植木等を観察していたことがあった。その時に、紫の花を見て、綺麗だ、と言ったらしい。渡辺産婦人科は、ちょうど道の角にあったらしいのだが、側道でその時、乳井さんと、近所の老婆が立ち話をしていた。側道から産婦人科の裏庭が見えるのだが、乳井さんが近所の老婆と話しをしているときに、良子さんの姿が見えた。紫の花を見て綺麗だと、独り言を言っていた良子さんに向かって、近所の老婆が言った。それは綺麗な花だけど、毒だから触ってはいけないと。すると、それを聞いた良子さんは、花から少し離れて触れようした手を引っ込めた。そして、老婆に、何と言う毒なのですか?と聞いたらしい。老婆は、トリカブトだよ、と良子さんに教えた。良子さんは、しばらく黙って何かを考え込んでいた。老婆は、乳井さんに向かって、あんたは渡辺先生の従業員なのだから、あんな毒は早く刈り取るように先生に言いなさいよ、と叱ったらしい。乳井さんは、前からそう言っているのですけど、先生は面倒臭いと言ってなかなか刈り取ってくれない、と老婆に言った。ちなみに、その婆さんは、渡辺産婦人科の直ぐ側に住んでいたヨネという人だが、既に病気で亡くなっていて、今の話は当時の捜査記録に書かれている内容だ。但し、記録では警察はヨネ自身からこの話を聞いたと書かれていた」

 稲荷千太郎は、急にニコニコとし始め、鼻毛を抜き始めた。

「あんた、またそのクセかね」

 村越警部はあきれた顔をして稲荷千太郎を見つめた。

「そういう経緯で良子さんは、トリカブトという存在に気がついたわけですね。しかし、最大の疑問は、それが毒だと分かっても、どうやって良子さんは、その植物から毒を精製したのでしょうかね。それが非常に知りたい」

「記録によると、その辺が曖昧だったな。自分で精製方法を調べたと推定される、みたいな言葉になっていた。それ以上のことは分からん」

 分かりました。乳井さんなら何かを知っているかもしれませんので、直接聞いてみます」

「そうだね」

 二人は世間話も含めてかれこれ一時間は話をした。稲荷千太郎は、行政書士を廃業して立場を明確にしたせいか、この日は心が晴れたような気分で白船亭に帰った。
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