白船亭事件考

隅田川一

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第9章

決意

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 村越警部が稲荷千太郎の借間に訪れたことに関しては他にも理由があった。この日の晩に、幸一の通夜が行われることになっていたからだ。

村越警部は、特に捜査の必要性があるわけでもないが、個人的に通夜に列席しようと思ったわけである。通夜に参列する前に稲荷千太郎の部屋にやってきたが、村越警部はかれこれ稲荷千太郎と数時間は話し込んでいた。

 幸一の通夜は午後六時半から白船亭の一室を利用して執り行われる予定であった。葬儀屋は、白船亭の御曹司が亡くなられたのだから、数百人分のお清めの用意をしなくてはいけないのでは、と喜平にアドバイスをした。確かに喜平は付き合いが広く、この白船亭も東京内では名前も響いている。数百人の列席があるのは当たり前であった。葬儀屋と喜平は相談して、三百人程度が入れ替わりになっても飲み食いできる量の寿司とツマミ、飲み物を用意することにした。

 幸一の通夜に列席した人の数は、喜平の予測通りに三百人は超えた。しかし、お清めをして帰る人は少なかった。やはり、この白船亭という場所で、その長男が殺害されたと聞けば、お清めとはいえ、飲食をして帰ろうと思う人は少ないだろう。

 通夜は、真言宗の坊さんに来てもらい、白船亭内で行った。お清めも白船亭の大広間を利用して用意した。寿司が大量にテーブルの上に置いてあるが、お清めをする人が少ないため、大広間はやや閑散となっていた。

 そこへ、稲荷千太郎と、村越警部がやってきて、腰を下ろして、寿司をつまんだ。村越警部は余り過ぎた寿司から好きなネタの寿司を食べた。大した会話もないままに、村越警部と稲荷千太郎は時を過ごした。 

「そろそろお暇しようかね」

 村越警部が稲荷千太郎にそうつぶやくと、そばでテーブルを片していた乳井しんは、その手を休めた。

「警部さん。今日はあんまり人も多く来ないし、この通り、ここもガランとしています。
よろしければそう急がずに、もう少しゆっくりしていって下さいな」

「いやあ、その言葉だけで十分。明日は、捜査があるので、私はこれで失礼します」

「そうですか。それは残念ですわ。では、少しご自宅へお寿司をお持ちになりませんか。遠慮せずに」

「いえ、私はこんな中年ですが、未だに独身なのですよ。持って帰っても食べる人は居ないし、既に十分頂きましたので、これ以上は遠慮しておきます」

 乳井しんは、残念そうな顔で、

「分かりました。しかし、警部さんが独身だなんて、世間の女は男性を見る目がないのですね」

 と、微笑みながら言った。

 村越警部は、テーブルに一旦右手を付けて、ゆっくり立ち上がった。

「では、お先に失礼します」

 村越警部は目で稲荷千太郎に挨拶をして、その場から立ち去った。

「稲荷先生は、まだお時間あるのでしょう。どうせ、この家で寝るのですから」

「えっ?まあ・・そうですね」

 稲荷千太郎の周囲から人が居なくなったことで、妙な緊張感から解放されたように彼は穏やかな微笑みを浮かべた。

「稲荷さんもお疲れでしょう。私も参列者が皆さんお帰りになったことで、落ち着きました。少し稲荷さんと一緒にお寿司でも頂きます。先ほどから拝見していると、お話ばかりしてあまり召し上がっていないようですね。お腹が空いたのではないかしら?新しいお茶も入れましょう」

「いやあ、乳井さん、色々気を使っていただいてありがとうございます」

 稲荷千太郎は、ニッコリと笑った。そして、箸で寿司を摘まんだ。

「こんなにマグロの寿司が残っていますから、玉子なんかではなく、マグロを摘まんで下さいな」

 乳井しんは、稲荷千太郎の湯呑に熱い日本茶を注ぎながら言った。

 稲荷千太郎が、ふと大広間の隅を見ると、一人の男が黙々と寿司を食べていた。乳井しんのせがれの新吉だった。

 乳井しんは、稲荷千太郎の視線を感じとって、やや申し訳なさそうな面持ちで言った。

「あの子は本当に愛想もない子で、申し訳ありません。私や稲荷さんが居ても、ああして一番隅で人と話もせずにお寿司を食べているなんて、親の目から見ても恥ずかしいです。まあ気にしないでください」

「気にしていませんよ。たぶん、新吉さんは彼なりの悩みもあるのでしょう。何となく気持ちも分かりますよ」

「そうですか。そう言っていただけると、助かります」

 乳井しんは、マグロの寿司を美味しそうに食べた。

「まあ、美味しいお寿司。この緑寿司さんのお寿司は、近所でも評判なのですよ」

 稲荷千太郎もマグロの寿司を口に入れた。

「本当に美味しいですね。人気のあるお店のお寿司なのですね」

「そうです」

「しかし、こんなに大量のお寿司をその人気店が良く作れましたね」

「私が自分で言うのも、おかしいのですけど、白船亭からの発注なので、無理をおして作ってくれたのだと思いますよ。感謝しないといけません。だけど、残念なことに、幸一さんが殺されたことによるお通夜だったから、遠慮をしてお清めをしないで帰る人も多い様で、こんなにお寿司が余ってしまいましたね」

 稲荷千太郎が周辺のテーブルを見ると、ほとんどの寿司がそのまま残っていた。

「本当ですね。しかし、私と乳井さんではこんなに食べることは不可能ですね」

 乳井しんは、クスクスと笑って

「本当に・・・・」

 と、言った。

「しかし乳井さんは和服がお似合いですね」
 
乳井しんは、その日はいつもの和服姿だった。

「え?」

「いや、幸一さんが殺された日は、買い出しの帰りだったということもあって、洋服でしたよね」

「あぁ、そうでした」

「その時の洋服姿よりも、やっぱりいつもの和服姿の方が似合います」

「あはは。こんな婆さんのような女を褒めても何も出て来ませんよ」

「婆さんのような女なんてことは思いませんよ」

「そうですか。それは嬉しい」

 二人で他愛もない話をしていた。稲荷千太郎も少し気分が良くなってきて多弁になっていた。流石の彼も白船亭で寝泊りを始めてから気持ちも体も休める暇がなかった。彼にとっては、こんな場面でも十分に脳みそを休めることが出来たのだろう。

 ふと、稲荷千太郎は人の背後に気配を感じた。振り向くと、先ほど隅の方で黙々と寿司を食べていた新吉が突っ立っていた。

 乳井しんもそれを見て一瞬驚いた。

「あんた、黙ってぬっと突っ立っているなんて気持ち悪い真似は止めなさい」

 乳井しんは、新吉に向かって軽く怒鳴りつけた。穏やかで怒ることも知らないような初老の婦人が怒鳴ったことで稲荷千太郎の方が驚いた。

「いやあ、乳井さん。そんなに怒鳴らなくても・・・」

「いえ、親として叱らないといけません。この子は、たまにこういう薄気味悪い態度をとることがあるのです」

 新吉は、親である乳井しんの忠告を無視するかの如く、超然と稲荷千太郎の背後に立ち、
彼を睨みつけた。

「稲荷さんと言いましたっけ?」

「はい。稲荷です」

「あなたは、この家の用心棒と言うことで旦那様に雇われてここにいると聞きましたが、
その用心棒の役目を全く果たしていないのではないでしょうか」

 新吉は、激しい口調で稲荷千太郎に詰め寄った。
「そ、その・・・。その通りです。申し訳ありません」

「恐らく私は犯人とやらには狙われていないと思います。しかし、そんな私でもこの状況は恐ろしくたまりませんよ。幸一さんが殺害されてしまった。次は誰ですか?それを想像するだけで、私は怖くて眠れない。ここにいる母だって、口には出しませんが同じ気持ちだと思います。早く犯人を捕まえてください。それが出来ないのなら、せめて用心棒の役目だけはしっかり果たして下さい」

 新吉は、息をつかさず稲荷千太郎を責め立てた。稲荷千太郎は、新吉の言うことが逐一正しく反論もできないので、そのまま黙りこんでしまった。しばらく、沈黙の状態が続いた。

 乳井しんは、助け舟を出すように言った。

「新吉。稲荷さんは、一生懸命に頑張っていますよ。あんたは何てことを言うの」

「いえ、私の言っていることは間違いありませんよ。誰が聞いても正しい」

 稲荷千太郎は困惑しながら、真剣な顔つきで答えた。

「乳井さん。先ほども申し上げた通り、新吉さんの言う通り、私は反省しなくてはいけません。用心棒の役目も果たしてはいませんし、犯人も特定できない」

 そして、一息ついて更に稲荷千太郎は言った。

「しかしです。この事件は難しい。そして短期間で連続して人が殺されてしまった。この事実はご理解いただけますか?」

「はい。それは私もそう思います。私は稲荷さんが悪いと言っている訳ではありません。
もう少し頑張ってもらいたいのです。そのために激しい口調で責めるように言ってしまった」

 新吉もやや落ち着きを取り戻した。

「分かりました。私もより努力致します。ときに新吉さん。あなたの意見をお聞かせいただけませんか?」

「意見?」

「はい。まずは、ここに座って寿司でも一緒に食べましょう」

 新吉はテーブルを挟んで稲荷千太郎の正面に座った。乳井しんは、急須に新しい湯を入れ、側にあった使ってない茶碗にお茶を注いで新吉に差し出した。

「新吉さんは、犯人は土井宗次郎、幸二さんのどちらだと思いますか?」

 稲荷千太郎は、いきなり新吉に聞いた。

 新吉は、寿司を口に放り込み、口を動かしながら咳込んだ。

「えっ?私の考えですか?私にそんなことが分かるはずがない」

「はい。それは分かっています。外れても良いから意見を聞きたいのですよ」

「そうですか・・・」

 新吉はしばらく黙っていたが、

「それは土井宗次郎という人でしょう」

 と、答えた。

 「なぜ?」

「殺されてしまった幸一さんは、犯人を幸二さんだと言って、礼次郎さんも、その幸一さんの考えに同調して犯人は幸二さんだと思っているらしいですが、私個人的な考えではそうは思いません。そうだ、稲荷さん。今話していることは、この家の人には言わないでください」

「もちろん、言いません。しかし、なぜ?」

「当たり前でしょう。私はただの居候の身ですよ。礼次郎さんが犯人は幸二さんだと断定しているわけですから、居候の私が何の根拠もなしに、その考えを否定することは図々しい話です」

「そうですね。そりゃそうですね。そういう意味では、新吉さんには聞いていはいけないことを聞いてしまっているのかもしれません」

 新吉は湯呑を口に当てジュルジュルと音を立てて日本茶をすすった。

「これは熱い。母さん、これは熱いですよ。こんなに熱くては稲荷さんも飲めません」

「あらあら、これはごめんなさい。熱いお茶の方が美味しいかと思ってね」

「まあ、いいです。そう、稲荷さん。先ほどの話ですが、ここだけの話、犯人は土井宗次郎だと考えています」

「その理由は?」

「簡単ですよ。幸二さんは、渡辺先生を殺害する動機がない。ところが、土井宗次郎という人にはその動機があるわけでしょう。旦那さまを恨む理由があると聞き及びました」

「そ、そうなのですよ。実は、私もそこが一番悩んでいるところなのです。しかし、はっきりした動機とは言えませんが、幸一さんの話ですと、幸一さんが幸二さんに会ったときに、渡辺さんは死ねばよいと言っていたそうです。幸一さんは、そのセリフをもって幸二さんは渡辺さんを殺害したに違いないと思っていました」

「稲荷さんも優秀な刑事、いや、行政書士ならご理解いただけると思いますが、死ねばよい良いと言ったことが、直ちに殺人犯人とは言えませんよね。動機としては不十分というか、そもそも動機になり得ません」

「それもその通りなのですよ。その点でも私も頭を痛ませているのです。しかし、更に突っ込んで考え見ると、幸二さんが渡辺さんを指して、あいつは死んだ方が良い、と言った理由があると思うのです」

「それは稲荷さんの言う通りかもしれませんが、その点は私には分かりかねますね。しかし、人を殺すほどの意味合いがその言葉にあるとは思えません。客観的に考えても、渡辺さんは幸二さんに殺されるほどの恨みを買うような行為を行ったのでしょうか?その点、土井宗次郎と言う人は、渡辺さんと旦那様に片腕を斬り落とされたという事実はあるわけですから、それだけで復讐という動機がはっきりしています」

 稲荷千太郎は、この当たり前と言うか、正論と言うかは別として、新吉の言葉に対して反論することができなかった。

「では、話を少し変えますが、あなたのお母さんは、もしかしたら犯人は土井でも幸二さんでもなく、第三者かもしれないと大胆な可能性を言ったのですが、それについてはどう思いますか?」

 と、その場に一緒に座っている乳井しんをチラリと見ながら稲荷千太郎は言った。

「えっ、母さんがそんなことを言ったのですか?」

 乳井しんは、気まずそうな顔つきで下を向いた。

「そんなバカなことはないでしょう。母さんは時々変なことを言います。気にしない方がいいです」

 下を向いたままだった乳井しんが、顔を上げて新吉を睨みつけた。

「お母さんは、バカではないですよ。もしかしたらそういう可能性もあるかと思って言ったのです。だって、そうでしょう。犯人が土井なのか、幸二さんなのか分からないのですから、一層のこと頭を白紙にして考えれば、第三者の可能性も出てくるかもしれない」

 新吉は横に大きく首を振り、

「いやいや、そんなことは絶対にない。今、論点は、土井か幸二さんかに絞られているのだから、母さんが言ったことは捜査をかく乱させてしまう恐れもある」
 
稲荷千太郎は、この二人の親子ケンカのような状態を耐えきれなくなって、

「分かりました。私ももう少し考えてみます。この議論は止めにしませんか?」

 と、言った。

「そ、そうですね。ついカッとなってしまった」

 新吉は、苦笑した。

「ときに新吉さん。あなたは役者だそうですね」

 新吉は、タコの寿司を割りばしで摘まみ、口に放り込んだ。

「え?まあ、そうです」

 と、言いながらムシャムシャと口を動かし軽く微笑んだ。

「変な話ですが、役者と言うの仕事の収入は良いのですか?」

「えっ?あはは・・良いわけないじゃないですか」

「そんなものですか」

「そんなものですね」

「役者と言えば華々しいイメージしかないものですから」

「稲荷さんね。役者と言っても様々な役者がいるのですよ。私は、舞台役者ですし、脇役ばかりで収入も少ないです。日雇いで働いた方が収入は良いはずです」

「それでも役者は続けているのですね」

「そうです。夢ですね。夢を抱き続けたいのです。たとえ収入が少なくてもね」

 稲荷千太郎はニッコリと笑った。

「羨ましい限りです。男はいくつになっても夢を失いたくないものです」

「稲荷さんには夢はないのですか?」

「ないです」

「それは悲しい」

「でも夢がない分、収入は凄いのでしょう?」

「収入もないですね。家賃も滞納していたくらいですから」

「滞納?稲荷さんが?」

「はい。恥ずかしい限りです」

 乳井しんが、お茶のお代わりを稲荷千太郎の湯呑に注いだ。

「稲荷さんも大変なのですね。私も、この新吉には、有名な役者などになる夢は捨てて、どこぞの会社にでも就職しなさいと言っているのですけど、この子は言うことも聞きやしませんよ」

「まあ、男の夢は大事ですよ。ねえ、新吉さん」

「あはは。稲荷さんの言う通り。私はそう簡単に夢を捨てません」

「今度、拝見しに行っていいですか?」

「芝居をですか?」

「ええ」

「是非、来てください」

「今は、どんなお芝居を?」

「現代の家族を主人公にした喜劇です」

「ほお、喜劇ですか?有名な喜劇ですか?」

「いえ、座長が脚本をかいたオリジナルの喜劇です」

「オリジナルですか。面白そうですね。是非、拝見したいと思いますが、どこで公演しているのですかね?」

「えっ。話の順序を間違えましたが、実はこの芝居はまだ稽古中なのですよ。来月が初公演となります。今は稽古で忙しいというのはそういう訳なのです」

「では、来月必ず行きます。それまでにこの事件を解決しないといけませんね」

 稲荷千太郎は苦笑した。

「ときに、新吉さん。あなたの所属している劇団は何と言う名前なのですか?」

「弦遊舎です」

 稲荷千太郎は、特に芸能に詳しいだけではないので、この弦遊舎という名称は過去に聞いたことがない。聞くところによると文京区の本郷に本拠がある劇団だということだった。この劇団は、所属の団員が十五名程度で、趣味で集まった人間が、いつしか演劇を職業にしようとこの劇団を立ち上げ、細々と運営されていた。実際には、アルバイト等を兼業しながら、この劇団の俳優をしている人間が大半で、プロ集団と言えるほどの劇団ではない。
団長は橘健作という三十代の若手俳優だった。もとより、この橘健作もこの弦遊舎での演劇が主な仕事だったので、収入はたかが知れていた。

 新吉は、兼業はせずに、俳優業に専念していたが、ほとんど収入はなかった。彼が、そのような生活が出来た理由は、乳井しんの給料が高かったことと、家賃が不要だったことである。

「弦遊舎は、喜劇だけでなく時代劇もやるんですよね?」

「はい、喜劇だけではありませんよ。時代劇もやりますし、海外の演劇もやります」

「忠臣蔵とかもやりますか?」

「あはは。忠臣蔵は登場人物が多すぎて出来ませんよ。オリジナルの脚本による時代劇もありますし、江戸の町を題材にした素朴な話が大半ですね」

「今の喜劇ではどんな役柄を?」

「主人公となっている家族がいるのですが、私はその家族のメンバーではなく、近所の魚屋の主人です」

「ほお・・」

「家族劇なのですが、ストーリーの流れから、その家族の家の近所の人々も出てくるわけです。私は、その近所の魚屋の主人です」

「なるほど。失礼な話ですが主役とかもすることがあるのですか」

 新吉は少しムッとした表情になった。

「今のところは経験がないです。まだまだ演技がダメですね。努力しないと」

「こ、これは失礼なことを聞きました」

 すると、今まで黙って二人の話を聞いていた乳井しんが横から口を挟んだ。

「ねえ稲荷先生。先生の口からも、有名な役者になる夢などは捨てて、普通の会社に就職するようにこの子に言ってあげて下さい。このままでは結婚も出来ませんよ」

「母さん。またそれを言う。稲荷さんにそんなことを頼んでも迷惑ですよ。僕は自分の夢を捨てる気はないし、これからも役者を続けます」

 稲荷千太郎は、この親子の会話には無言で対応するしかなかった。

「だけどね。あなたはいつになったら主役に成れるの?それも人数が少ない無名の劇団に過ぎないのに」

「ひどいな。その言い方は」

 稲荷千太郎は、たまらずこの口論に割って入った。

「まあまあ、お二人さん。待って下さい。私の前で喧嘩をしないで下さい。私が聞いても解決する問題ではないのですから」

 稲荷千太郎がそう言うと、一瞬会話が止まった。そして、少しの間、沈黙が続いた。

「さて、今日も遅くなりましたので、私はそろそろ床に入ります」

「そ、そうですね。稲荷先生もお疲れですよね。変な親子喧嘩をお見せして済みませんでした」

 乳井しんは稲荷千太郎に申し訳なさそうな顔で詫びを言ったが、新吉は怒ったまま黙り込んでいた。

「新吉さん。色々お話しを聞かせて頂いてありがとうございました」

 稲荷千太郎がそう言うと、新吉は無愛想なまま軽く会釈をした。

 稲荷千太郎は、立ち上げるとゆっくりとその場を去った。

 恐らく、三十分程度は、乳井親子と話をしただろうか?事件の話もしたが、演劇の話などで盛り上がったため、稲荷千太郎も気分を変えることが出来た。

 稲荷千太郎は自室に戻ると直ぐに床に入った。体も精神も疲れているので簡単に眠ることが出来るだろうと考えていたが、どうも寝付きが悪かった。色々なことが脳裏に浮かんだが、先ほど乳井新吉に執拗に迫られた言葉が気になって仕方がなくなってきた。それは新吉が「早く事件を解決しろ」と稲荷千太郎へ真剣に詰め寄ったときの言葉である。

 確かに新吉の言う通りだと稲荷千太郎は思った。壁掛け時計を見ると夜中の二時になっていた。稲荷千太郎は、蒲団の中で「事件を解決する必要がある」と真剣に思った。最も今まで彼が不真面目であったということではない。ただ、彼自身が自分の頭の切れに満足できていなかった。警察時代には、もっと推理が働いたし、事件の解決に対する危機感もあった。ところが今はどうだろうか、このままで良いのだろうかと自問自答した。
 四時になった。稲荷千太郎はそのまま自然に眠りについた。
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