【完結】ニュートンの忘れ物

高城蓉理

文字の大きさ
7 / 7

倫理、エントロピーに溶け出す

しおりを挟む
◆◆◆


 手離したくないのに、それが正義なのかが分からない。でも背中を押されないと 自分を否定された気分になるし、逆に止められないのは 捨てられた錯覚さえ抱いてしまう。
 ほんの些細なボタンの掛け違い。それでも時間が経てば経つほど、折り合いを付けるきっかけが分からなくなる。そんな自分の子ども染みた言動が心底腹立たしかった。


「鞠子」

「…… 」

「コーヒーでも飲むか? 」

「うん 」

 予定外だった。
 目指していたのは親の背中を追いかけた薬剤師だったはずなのに、気付いたときには製薬に興味を抱いていた。薬剤師免許を取ってから院に進んだら、一体どれだけの歳月が掛かるのだろう。
 そもそも 自分たちの出会いは、人様に威張れるものではない。自分と先生との間には十歳近くの年の差があるし、先生は今だって現役の高校教師だ。法的な結び付きがあれば、外聞や体裁は 幾らかは緩和されるかもしれない。それなのに、これから更に数年以上の年月において先生を待たせてしまうという選択肢は、果たして赦されることなのだろうか……

 先生は初見とは思えない手付きでコーヒーサーバーを弄りながら、カートリッジの裏側を凝視していた。私にはコーヒー豆の産地なんて分からないのに、大人は何でも違いが分かってしまう。

 今度こそ、潮時かもしれない。
 思えば在学中から、不自由が前提の交際だった。
 十歳違えば、精神の成熟度が違う。
 寿命だって異なるし、細やかな幸せさえもが後回しになるかもしれない。
 私には先生の人生を束縛する権利などない。
 だけど別れを肯定されるのが怖くて、そんな不安を口にすることも出来ないのだ。

「鞠子。お前さん、今 すげー暗い顔をしてない? 」

「えっ? 」

「せっかくの二十歳の誕生日祝いなんだ。ほら、そろそろ水平線に夕日が沈む頃合いだぞ? 」

「あっ 」

 先生は私を半ば強引にベランダに連れ出すと、無理やりベンチに着席させる。そして淹れたてのコーヒーをチェストに置くと、改めるように こちらを振り返った。

「お前さ、本当は俺に何を求めてるんだ? 」

「えっ? 」

「俺はさ、ぶっちゃけ どっちでも良いと思ってるよ。お前さんのなりたいものになればいい。最初から年の差だって分かってたことだし、生徒に手を出した時点で 体裁を取り繕うのも今更だからな 」

「…… 」
      
 先生は私が結論を保留にしていることに 気付いているようだった。
 どちでも構わないって、先生は本心で言っているのだろうか? 十年先の未来を後押ししてくれるのは、やっぱり先生が先生だからなのだろうか。

 悔しいくらいに、先生の本心が分からなくない。今すぐ全て吐き出して楽になりたい。でも口にする勇気もない。

 立ち込めるコーヒーの湯気が、空気に静かに消えていく。何気ない化学式すら、今は意識するのが拒まれる気がした。

「…… 」

 私は無意識のうちにコーヒーに手を伸ばしていた。
 熱っッ……
 カップの中の液体は 想像よりも温度が高いようだった。味の違いなんて分からない。けれど深い苦味とコクのある香りは、まるで全身を巡り合う痛みにも感じられた。

「大人って、たまに狡い 」

「はあ? 」

「先生の答えは いつも模範解答過ぎるんです 」

「まあ、一応は教師だからな 」

 先生は少し息を付いてから席を立つと、何かを片手に直ぐに こちらへと戻ってくるのだった。

「鞠子、カップを貸せ 」

「えっ、あっ 」 

「この品種はミルクを入れた方が旨いのを忘れてた 」

 ブラックコーヒーを飲み慣れない姿を見兼ねたのだろう。冷蔵庫にでもあったのだろうか、先生の手には 小ぶりのサイズ牛乳パックが握られていた。

「…… 」

 熱いコーヒーが駄目なことも、ブラックコーヒーが駄目なことも見透かされてる。いつまで経っても、先生と生徒から脱却しきれないのが悔しい。でも 年の差があることも 元教え子な事実も、一生覆らない事実であることは、自分が一番よく分かっていることだった。

「お前さんが手にしているブラックコーヒーは、熱を帯びている。コーヒーもさ、何でこんなに高温になってしまったのか、自分でも自覚してないんだろうな 」

「……? 」

「でもある時 ブラックコーヒーは、ミルクを見つけるんだ。ミルクはしっかりしてて人気者なのに、頑張り屋だから放っておけなくて。
ついつい目で追いかけたくなってた。バカだよな、そいつは自分の教え子なのに 」

「あっ 」

 先生は私のコーヒーを少し飲むと、そのかさを埋めるようにミルクを注ぎ込んでいた。

「ミルクを入れた直後の一瞬は、コーヒーとミルクはくっきりと分かれてるんだけど、混ざり合ってくると そのうち区別がつかなくなる。 
ミルクがコーヒーとまだ混ざっていない状態は
エントロピーは小さい。だけどお互いが完全に混ざり合って安定してしまった状態は、エントロピーが大きくなるんだ。鞠子、つまり俺が何を言いたいかが分かるか? 」

「……あの、この場合は私がミルクってことでいいんですか? 」

「他に誰がいるんだよ 」

「あっ 」

 私は咄嗟に黙秘した。
 顔は赤くなっていたかもしれない。でも私はその答えを私は先生の口から聴きたくなっていた。

「つまりエントロピー増大の法則ってやつだよ。何事も、最終的に安定する【一方向】に物事が変化し続けるけど、逆はない。
つまりだな、この法則があるかぎり、俺の気持ちは多分何年経っても変わらない。多分 俺が死ぬまで続く。
お前さんは、どちらにせよ俺の熱からは逃げられないんだから、もう諦めて、細かいことに悩むのは諦めるんだな 」

「……なっ 」

 咄嗟に言葉が声にならなかった。それは細かいことで、全てが片付けられてしまったからだ。そんな先生の覚悟に 私はいつか追い付かなくてはならない。
 手にしたカップは じんわりと熱を失い、私の体温に溶けていく。混ざってしまったコーヒーからミルクは取り出せないなら、私は突き進んでもいいのかもしれない。
 私は静かに頷くと、そっと先生の肩に身体を寄せたのだった。






 



しおりを挟む
感想 1

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

妹小路ヘルヴェティカ
ネタバレ含む
2021.11.15 高城蓉理

お読み頂き、感想までお寄せ頂いてありがとうございます!
この話は回数を重ねるごとに、糖度を増し増しで頑張りました。後半はほぼ自分の欲望が丸出しです(笑)
この度は感想まで頂戴し、ありがとうございました。 

解除

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。