【完結】マーガレット・アン・バルクレーの涙

高城蓉理

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神は彼女に嫉妬した

神は僕と彼女を再会させた

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 神は彼女に嫉妬した。
 僕は、そう思った。





・・゜・
・゜・゜・
  ゜・ ・゜・・゜・ ・
     ゜ ・゜゜・ ゜・・゜・゜
           ゜・゜・゜゜・゜・
             
                     







 ったく、母さんは人使いが荒いっッ……
 今日は奇跡的に部活も用事もない、たまの休みのハズだった。
 なのに今現在、僕は珍しく高山本線の上り電車の中にいる。正確に言うならば下呂よりも上る電車に乗る機会は皆無に近いという意味だ。

 昼下がりの日曜日の自由席、しかも桜のシーズンともなると車内は外国人観光客で溢れかえっている。それに下呂からの乗車だと既に座席は高山から帰る観光客でいっぱいで、当然座ることは出来ない。
 僕の身長は一般的な高さよりも少しあるからまだマシだけど、ここは酸素濃度を疑うレベルに人が密集している。 ほんの数年前まではこの路線にはこれ程多くの外国人はいなかったのに、今は半数以上が異国の言葉を話す人たちばかりだ。頑張れば英語の聞き取りの練習になるのかもしれないが、今日の僕は周りに聞き耳を立てて己の向上を目指すようような余裕はない。

 それにしてもここから二時間近い道のりを、ボーっと過ごすのは忍びない。
 僕は周りに注意を払いながら、鞄から小説を取り出すと無造作にページを開いた。出掛けに父さんの本棚から適当に失敬した一冊は、三島由紀夫の潮騒だった。面白いかどうかはわからない。でも今は取り敢えず何かを手にしておかないと落ち着いていられそうになかった。

 また夕方には再びこの風景を見ることになる。
 それを考えると、さらに気は滅入るような気がした。


 何故ならば……
 今日の帰り道はからだ。

 そしてその究極の事実が、いまの僕の思考の大半を占めている。

 あと数時間もしないうちに彼女と会うのだ。
 緊張しない訳がない。 

 結局、僕は大して小説を読み進めることはなかった。
 何とか辿り着いた岐阜駅で電車を降りると、ややギリギリのタイミングで飛び込むように東海道本線に乗車した。ここまでもけっこうな長さを電車に揺られたはずなのに、気持ちが高ぶっているのか不思議と疲れは感じなかった。



 何年振りだろうか……
 彼女は僕に気づくだろうか……

 そんなことより僕は彼女がわかるだろうか……
 いや、流石にそれは大丈夫か。
 彼女はちょっとしただ。
 英語はよくわからなかったが、僕の方は彼女に関するネットの記事も検索したし写真も確認した。だから僕は彼女のことはわかるし、その辺りは問題ないはずだ。

 僕は今日の最終目的地の名古屋に到着すると、看板を見ながら出来るだけ速やかに新幹線改札に向かった。
 母さんからの急な頼まれ事だったから、待ち合わせ時間に余裕はない。久しぶりの都会の人混みに僕は少しビビりそうになったが、今はとにかく無心を意識して歩を先に進めた。

 彼女は、もうここにいるのだろうか……

 電話は出来ればしたくない。
 久し振りに交わす会話は、目と目を合わせないと何を話していいかもわからない。

 僕は深呼吸をした。
 そして人目を憚らず、辺りを大きく見回した。

 水の中を歩くように人の波がスローモーションに見える。
 一瞬が永遠になる……
 彼女の存在は…… 
 いま雑踏に溶け込んでいる。
 だけど僕が今見渡せるこの空間に中に、僕にとって他人でない存在は彼女しかいない。

 それは何だか不思議な感覚で、どこかでまだ実感が沸かない自分もいる。
 彼女が現実に現れる。
 もうすぐ目の前に現れる。

 そして…… 
 次に目の前の風景に焦点が合ったとき、僕は見つけた。

 新幹線改札の向こう側……
 人混みに紛れて、彼女らしき人が待っていた。

 彼女は幼少期の印象とそれほど変わってなかった。
 水色のストライプのワンピースに、亜麻色の髪が肩の辺りで鮮やかに映える。華奢な身体で赤いスーツケースを抱えている姿は、遠目からでもなかなかの大荷物に見えた。

 気づいたときには僕は小走りで彼女に駆け寄っていた。

 だんだん自分の鼓動が早くなっていく。
 きっと慌てて走り出したせいだと、僕は自分に言い聞かせた。
 彼女に会う日が再び来るとは思わなかった……
 それに今回は会うだけでは終わらないのだ。

 僕の身体全体には自分のものと思えないような鼓動が響いていた。

 一息ついて呼吸を整える。そして、僕は覚悟を決めた。

「あの…… 」

「……? 」

 彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。
 その深い碧色の瞳が、僕だけを見つめている。それが感じられる距離だった。

「御坂 麻愛まいさん?ですか? 」

「……はい 」

「あの…… 遅くなってごめんなさい。僕、恒星です。荒巻恒星。えっと、覚えてます? 」

「コーセー? 」

「あの、昔、東京で会ったことあるんだけど…… 僕の姉さん………鞠子と、うちの母さんと 」

「ああ。マリコとコーセー……覚えてる。ちっちゃい頃だよね。今日は、リョーコさんはいないの? 」

「母さんは店番してる。ちょっと、いろいろあって…… 」

「そうなんだ。それは大変なときにお邪魔しちゃったね 」

「ううん。全然大した理由じゃないんだ。麻愛ちゃんは全然気にしないでもらえると助かる 」

「うん…… ありがとう 」

 彼女は少し笑みを浮かべると、宜しくねと言った。
 話し方は少し淡々としている。だけど表情から感じる朗らかな印象は子供の頃のなんら変わらない。やっぱり僕には彼女はにしか見えなかった。


「あの、改札越しじゃアレだから、このチケットと新幹線のチケット重ねて通して 」

「……うん 」

 彼女は切符を受けとると、それを少しだけ凝視して改札に乗車券を通した。

 僕は彼女からスーツケースを受けとると、今来た道を逆走し始める。多分、僕の名古屋駅の滞在時間は十五分もなかった。 

「本当は母さんが迎えに来るはずだったんだけど、こんな時期に父さんが風邪引いてさ。店閉めるわけにもいかなくて、急遽僕が来たからギリギリになっちゃったんだ。長旅で疲れてるのにごめん。待った……よね……? 」

「ううん、そんなに待ってない。コーセー、迎えに来てくれてありがとう 」

 彼女はキョロキョロと視線を動かしながら僕に返事した。
 僕ですら、こんなに人が行き交う名古屋という街は物珍しく感じるのだ。きっと彼女にとっては見るものすべてが未知の世界なのだろう。

 帰り特急の出発までは時間に余裕がなかったので、僕と彼女は簡単なお菓子とお茶を買って電車に乗り込んだ。駅の売店で品物を探す彼女の目は、好奇心に満ち溢れていた。本当は土産に赤福でも買いたかったのだが、それは残念ながら売り切れていて少し残念な気持ちになった。

 荷物が多いだろうから、と母さんは復路だけはグリーン車を取っていたらしい。
 往路のギュウギュウ鈍行一人旅とは打って変わり、座席は広々してスーツケースを置いても余裕がありそうだが、彼女は車内を見回すと怪訝な表情を浮かべた。


「誰もいないね…… 」

「日曜だからね 」

「そっか…… 」

 日曜日の夕方に観光地である高山方面に向かう人が、そもそも少ない。 彼女は座席に腰かけると出発前から隣りのホームを行き交う人々を静かに観察し始めた。

 一般的には十六歳の男女が二人きりでグリーン車に乗るなんて光景は…… 周りからは好奇の目で見られるのかもしれない。でも幸い今ここには僕と彼女しかいないから、その辺りは気にする必要はなかった。

「ここからは、うちの家…… 下呂までは特急だと一時間半くらいかな。ちょっと時間かかっちゃうんだけど 」

「うん…… 」

「寒くはない? 羽織るものがなければ、僕の予備のマフラー貸すけど 」

「うん…… 」

 彼女は明らかに空返事をしていた。
 もしや僕は再会早々、というかほぼ初対面みたいなものだが、早速彼女に嫌われたのか? だけどしつこいと思われるほど話しかけたつもりもない。

 僕は少し背中に汗を感じたが、恐る恐る彼女の視線の先にあるものを確かめた。

 彼女は……
 向かいのホームの家族連れを見つめていた。
 父親が寝むりこける小さな子どもをおんぶし、その脇には母親らしき女性がいる。彼女の横顔は僕の色眼鏡のせいもあるかもしれない。だけどその瞳はこの世の切なさをすべて受け入れたような、そんな表情に見えたのだ。

 どんなに彼女が優れていても彼女もまだ大人ではない。
 不条理だ。でもどうしようもない。
 僕にどうこう出来ることはない。だからこの場は取り敢えず彼女の気持ちは知らぬ振りをして、あの親子の風景から意識を逸らすしかないと思った。


「麻愛ちゃん、もうすぐ電車でるよ。あと、これお茶 」

「……あっ 」

 彼女は少しだけハッとした表情をしてこちらを振り向く。そしてゆっくりと手を出すとペットボトルを受け取った。

「ありがとう。コーセーのは、それは何? ブラックティー? 」

「あぁ、これは麦茶。麦を炒って煎じたお茶だよ。イギリスには……ないのかな? 」

「イギリス……? ちょっと違う、イギリス見たことない。どんな味がするの? パンみたいな味? 」

「いや、パンみたいではないかな。でも香ばしい味がするよ。飲んでみる? 」

 彼女は麦茶を受けとると、蓋を開けて恐る恐る口に運んだ。

「……おいしい。初めて飲んだ 」

 彼女はペットボトルを見つめると、少し目を細めて成分表示を凝視し始めた。そういう何気ない行動はいろんな意味で、やっぱり普通の十六歳とは着目する観点が違うのだなと思ってしまう。

「麦茶ってカフェインレスなんだね。これならエクセプティングマザーやインファントも、みんな安心して飲めるね。あっ……ごめんなさい。ちょっと興奮しちゃって 」

「よかったら交換しよっか。麻愛ちゃんのと 」

「えっ? いいの? 」

「僕は飲めれば何でもいいから 」

「あっ、ありがとう…… 」

 彼女は素直に礼を言うと麦茶を凝視した。麦茶でこんなに感激する人を僕は初めて見たような気がした。

「麻愛ちゃん、もうすぐ発車時刻なんだけど 」

「……? 」

「この電車、ちょっとだけ面白いんだ 」

「面白い? 」

 彼女は不思議だと言わんばかりの顔をして、僕を振り返る。

「うん。麻愛ちゃんは乗り物酔いとかはしない? 」

「三半規管には自信があるけど…… って、ワァーオっッ! 」

 すると次の瞬間、彼女は僕が想像した以上のリアクションを見せて 目を真ん丸くして声を上げた。電車が逆向きに進行したからだ。

「コーセー、この電車は逆に進んでない?? 合ってるの?? 」

「大丈夫。合ってるよ。いろんな都合があるらしくて、岐阜駅までの二十分間、反対向きに進むんだ。変な感じでしょ 」

「へー、面白い! なんか遊園地みたいね 」

 彼女はまた少しだけ優しい顔をすると、窓越しに逆走する名古屋の街並みを見つめていた。その表情の豊かさは、小さい頃会ったときと何ら変わりないように思える。


 彼女にとっての日本は紛れもなく故郷で、それと同時によく知らない外国でもあった。



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