【完結】マーガレット・アン・バルクレーの涙

高城蓉理

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神は彼女に新たな選択肢を赦した

神は僕に余計な気を使った

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■■■

 今年は、五月病を感じる余裕もなかった。

 彼女がここへやって来てから二ヶ月くらい経ったが、最近は二十四時間が短く感じるようになった。
 僕の日常は学校と部活と家の往復、そしてたまにバイトに駆り出されることを繰り返すだけ。やっていることは今までと同じ、過ごす場所は一緒なハズだった。

 なのに、彼女という隕石が突然目の前に落下して、僕の生活は一変した。
 彼女が見せてくれる新しい世界は、僕の心を確実に射ぬいてくる。彼女のパワーは、いつも流れ星のように一瞬で、留まることなく僕に降り注ぐ。

 世界はどこにいても見え方によって、如何様にも変化する。
 彼女はときに太陽のように強くて、月のように儚かった。

◆◆◆


「ただいまー 」

「あっ、恒星、おかえりっッ 」

「って…… なんで麻愛が店番してるの? 」 

 僕が補習から帰宅すると、薬局の受付には彼女が着席していた。店内には客はいない。彼女は制服の上から明らかにサイズの合わない白衣を羽織って、やや上目使いでこちらを見ていた。

「稜子ママたちが調剤室で作業中だから。私が代わりに店番してるの 」

 僕は反射的にオイオイ、もうすぐ中間テストなのに勉強しなくていいのか? と言いたくなったが、彼女は既に大卒で、ついでに言ってしまえば医者だ。
 彼女はそもそも高校に通う必要もないし、そんなツッコミをするのは野暮かつ全く意味がないことないことは、僕が一番よくわかっていた。

「私はイギリスでしか医者ではないけど、日本の医療に興味がないわけじゃないから 」

 彼女は僕にそう言いつつ、製薬会社の医療用薬品のパンフレットを手にしていて、端末に英文でメモを残していた。

 、彼女は初めて自らを医者と名乗った。
 そしてその日を境に、彼女は僕とうちの両親の前だけでは、医学の話をするようになった。

「今は、何を調べてるの? 」

「抗がん剤。私の専門ではあんまり抗がん剤は使わないけど、患者さんが併用していることもあるから、副作用とか知っときたくて 」

「そうなんだ 」

「恒星も薬の名前、けっこう知ってるよね? 前もイブプロフェンとか知識があったし 」

「いや、そんなことはない…… と思う。ただ父さんと母さんの話で、よく薬の名前とか効能とか禁忌とかを聞くから、有名な薬はなんとなく覚えてるかも知れないけど…… 」

「そっか…… ここにはたくさんの薬があるのに、恒星は興味ないの? 」

「えっ……? 」

「ここにあるもので、たくさんの命を支えられるんだよ? 」

「それは…… その…… 」

 僕は無意識に、彼女の何気ない質問を疑問形で返答していた。確かに彼女からすれば、この空間は宝箱に近い感覚なのかもしれない。
 彼女のベクトルは、医療にある。
 だから僕みたいな立場の人間が、この大量の錠剤の山に興味を抱かないことが、単純に不思議なのかもしれない。

 僕は少しだけ息を吐くと、改めて店の中にある市販薬や調剤室を見渡してみた。
 年季の入った待ち合いソファーや木製の薬箱は、じいちゃんの頃からの備品だが、調剤室はリフォームして、異様に近代的かつ最新設備が整っている。
 僕にとってのこの場所は、一見アンバランスな空間で、でもここは我が家……という認識しかない。やっぱり、それ以上の感情や感想は抱けなかった。

 彼女とそんなやり取りをしていたさなか、店の引き戸が勢いよく開いた。
 よく見るとそれは父さんで、白衣姿で大きめのジュラルミンケースを肩から下げていた。

「ただいまーって、どうしたんだ? 二人でこんなところにいて 」

「父さん、お帰り。配達に行ってたの? 」

「ああ。今日はけっこう回ったなー 忙しかった 」

 父さんは大きく息をつきながらそう言うと、荷物を降ろし、中身を机に広げ始めた。するとその様子を見た彼女は席を立つと、机の上を凝視した。

「侑哉パパ…… 何でこの中に、シクロホスファミドがあるの? カペシタビンもあるし 」

「ああ、それは在宅医療の患者さんから回収した分。薬が変わったから 」

 僕には何のことかさっぱりよくわからなかったが、彼女は「なるほど」と納得した様子を見せると、端末で何かを調べ始めた。

「……何だ? そのシンクロとかカサスって? 」

「恒星、それは胃の抗がん剤の名前だよ。麻愛ちゃんは流石によく知ってるね。麻愛ちゃんの専攻は心臓外科だから、癌はあんまり縁はないかも知れないけど 」

 心臓には腫瘍はできづらい。それは一応僕でも知っている。彼女は自分の専門外のことでも、チャンスがあれば吸収しようとする。それはまるで前向きの塊みたいな性格なのだ。

「うちは訪問医療の薬も配達してるからね。いまは生き方を選ぶ時代になってるから、在宅で闘病する道を選ぶ人も沢山いるんだよ。ポート(点滴を行うために皮膚の下に埋め込んで使用する器具のこと)を使えば点滴でも治療は出来るし、在宅でも治療の幅は増えてるんだ。だからどんな場所でも、こういう街の小さな薬局でも地域医療には貢献してるし、配達事業も年々ウエイトはでかくなってるね 」

 父さんはそう語ると、もうここは大丈夫だから裏に戻っていいよと言った。
 僕は部屋に戻ったが、彼女はまだ暫く店で父さんと何やら話をしているようだった。


◆◆◆

 
 その日の晩飯はロールキャベツで、終始彼女は「初めて食べた!美味しい!」と連呼していた。
 母さんは作るのに時間が掛かるからと、今までは休日くらいしか煮込みメニューを作らなかったが、最近買った電子圧力鍋のお陰でレパートリーが増えたとご機嫌だ。

 「……というわけで、恒星、麻愛ちゃん。私たちは来週の連休の間、名古屋に新しい抗がん剤の勉強会行くから 」

「はい? 」

 僕は思わず手にしていた茶碗をテーブルに置くと、今一度母さんの発言を聞き返した。
 両親の表情を見ると、明らかに口角が弛んでいて、何だか瞳をキラキラさせている。 

「だから暫く留守番を宜しくね。あと、恒星はちゃんと中間テスト頑張るよーに 」

「えっ……!? 」

 つまり……それは……
 その期間、この家から両親が不在という状況になる、ということだよな?

「いやー、僕ら輪番で今年はゴールデンウィークもなかったからねぇ。名古屋楽しみだよねー 」

 気づくと、父さんも何だかテンションが上がっていて、母さんと目を会わせてニヤニヤしている。
 それって、何だか若干息抜きを旅行を兼ねた講習会になってないか?  

「恒星、こっちも多くは望んでないから、ちゃんと勉強して赤点だけは回避しなさいよ 」 
 
「というより、店はどうすんだよっ? 」

「大丈夫。もう田部さんに頼んであるから。土曜日は試験も終わってるし、恒星もピッキング手伝ってね。悪いけど麻愛ちゃんも 」

「えっ、ああ…… それはいいけど…… 」

 と言うより、いま僕が最優先で何とかしなくてはならない問題はそこではない。
 どちらかと言うと、問題は彼女と暫く二人きりで過ごすという謎のシチュエーションを、どうするかのほうが先決だ。それは自分でも重々承知しているハズなんだけど、何だか思考が働かない。

 僕は恐る恐る、彼女の反応を確認する。
 すると彼女は何かを考えるように、一点を見つめていた。

「あの…… 」

「どうしたの? 麻愛ちゃん? 」

「そのセミナーは薬剤師さんしか行けないの? 」

「えっ……? 麻愛ちゃん、興味あるの? 」

「はい。私の専門では抗がん剤を使うことはあんまりないけど、併用している患者さんを治療することはあるから。だから副作用も含めて薬のことは知っときたくて。特に日本の医療に触れられる機会は少ないし。もちろん高校生って立場では、難しいのはわかってるんだけど 」

「まあ、その辺りは麻愛ちゃんの本名出せば余裕でエントリーは出来ると思うよ…… その辺りは、麻愛ちゃん次第だけど 」

 彼女の本名【マイ・マーガレット・ミサカ】は日本の医療従事者の中でも知らない者はいないくらい、有名人らしい。世界中の関係者は彼女の一挙手一頭足に注目し、十六歳で医者になった日系人として話題をさらった。

「ほんとに…… じゃあ! 」

「でもね、セミナーは金曜日から開催なのよ。来週は中間テストもあるでしょ。単位はいらないだろうけど、テスト受けないと進級は出来ないわよ。初日はオリエンテーションがメインだろうから、金曜日は残念だけど参加は諦めて、テスト受けてからから来たら? 」

「……うん。わかった。ありがとう、稜子ママ! 」

「……? 」

 いや、待て待て……
 何か話がわからなくなってきたぞ。
 つまり彼女はセミナーとやらに、母さんたちとは時間差で向かうということなのか?

 「母さん……たちは、いつからセミナーに行くの? 」
 
「私たちは木曜日から名古屋に泊まるから。だから木曜日は二人で留守番しなさい 」

「へっ……? 」

 僕とあまりにも唐突に……
 一晩彼女と一つ屋根の下で二人きりで 過ごすことになってしまった。


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