【完結】マーガレット・アン・バルクレーの涙

高城蓉理

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神は僕を取り巻く環境を複雑にした

彼女は僕を川辺へと導いた 

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■■■■■■


練習が一区切りしたところで、椿は旅館の仕事があるからと、一足先に退散してしまった。なんでも温泉まつりの準備が佳境とかで、旅館の従業員一同いまは皆忙しく過ごしているらしい。

だから途中から、僕は彼女とマンツーマンで、稽古をする羽目になった。彼女の首筋から仄かに漂うシャンプーの香りと、触れる肌からじんわりと滲む汗が近かった。彼女を感じる諸々の要素は、僕の本能をダイレクトに揺さぶってきて、僕にとっては何とも言い表せない至高の精神力を試される時間になった。疚しい気持ちを抱いた件に関しては謝るけど、これじゃあ精神が落ち着くどころの騒ぎではない。



ーーーーーー

僕と彼女が下呂に帰ってきた頃には、既に日は少し傾き始めていた。
僕がいま必死に押し込めている、破廉恥な感情の数々を、彼女に知られていたならば、寄り道して帰ろうなんて誘われたりはしなかっただろう。ただ幸い、僕の胸の内は彼女に悟られなかったようで、稽古の後、最近何かと世話になりっぱなしだから礼をしたいと言ってきた。


「んっ! お稽古終わりのアイスは、美味しいね 」

「うん、そうだね…… 」

「川の音が、心地いいね。」

「うん 」

「私、こういうの前から、ずっとやってみたかったんだ 」

「こういうのって? 」

「学校の帰りに寄り道したり、部活をしたり、アルバイトをしたり、他にもいろいろあるかな 」

「……イギリスでは、クラブ活動とかしてなかったの? 」

「うん。勉強も忙しかったし、体も小さかったから。だから、今は毎日が楽しい。コーセーにはいつも助けてもらってばっかりだね。ありがとう 」

「…… 」


最近は匡輔と椿とセットなことが多いから、彼女と二人で下呂まで帰宅したのは、かなり久し振りだったかもしれない。彼女の奢りで近所のローソンでチョコモナカアイスを手に取ると、自宅がある方を通り過ぎる。そして行儀悪くも歩き食いをしながら、坂道を登っていた。
僕らは白鷺橋を越えた先にある、雨情公園を目指していた。温泉街の中心からは程近い場所にある、阿多野谷あたのだにの上流に広がる親水公園だ。公園の中央を流れる阿多野谷は、下呂の山の懐から流れ出る清流だ。地元の人間や観光客が、川のせせらぎを聞きながらのんびり散歩をしたり、夏には水遊びも楽しむことができる。雨情公園の名前の由来は、昭和の初頭に歌謡詩人【野口雨情】が下呂の地に来遊したときに作った【下呂小唄】にちなんで名付けられたらしいけど、僕はそのネーミングはとても雰囲気にピッタリだと思っている。

この一週間、本当に色んなことがあった。
結局アルバートの電撃来日でバタバタしてしまって、彼女は逆瀬川さんからのマーガレットの花束の余韻に浸ることも出来なかった。それに、佳央理と僕は相変わらずシーソーゲームを継続中だし、今日はまさかの倫理観を超えてくる、姉貴と先生のただならぬ関係を突き付けられたのが、かなり堪えた。その動揺もあってか、僕は匡輔にポロリと本音を漏らしてしまったし、彼女への気持ちに蓋ができなくなっているのも軽視はできない。

彼女の練習の補助というラッキースケベのおかげで、少しは気が紛れた。けれど僕の心はまだまだ、姉貴と先生と恋愛事情でいっぱいだった。
僕は自分自身、彼女に対して相当無謀な気持ちを抱いていると思っていたけど、世の中にはその上をいく強者がいる。しかも自分が血を分けあっている姉が、現在進行形で渦中にいるのだ。ここまでくると、僕の恋の障害は大したことがないような気もしてくる。まあ、僕の場合は気持ちは伝えないし、最優先は現状維持だから発展はしないのだけど。

「うわー 川が近い! 水の音が気持ちいいね 」

「ああ 」

彼女は公園の敷地内に入るなり、川岸に設置された階段を見つけると、そこから水面へと手を伸ばす。制服のスカートはギリギリ水面に着地はしていなかったけど、彼女は少し無防備な様子だった。

「んっ。冷たいー! 夏でも水は冷たいね 」

「まあ、この辺りは山だからね 」

僕はそう言うと、近くのベンチに腰かけた。
一瞬彼女の近くに寄って、一緒に水遊びをする妄想が浮かんだけれど、それはすぐさま却下する。彼女のことは、今日は物理的にかなり触れた。それにも拘らず、さらに心の距離を縮めるようなことをしたら、今日の僕は何をしでかすかわからない。そう、思ったのだ。

「コーセー? 」

「ん……? 」

「大丈夫? ごめんね、疲れてた? 」

「そう? そんなことはないよ。僕はいつも通りだけどなあ 」

「うーん、そうなのかな? 」

彼女はそう言うと、僕の目の前に回り込んで、しかも見下げるように視線を送り込んでくる。
彼女の腕には水滴が滴っていて、夕日に晒されて妙に艶かしい。

だから、さあ……
そういう仕草を悪気もなく連発されると、それが本当に身体の毒なのだ。
僕は何とかこの心のモヤモヤ取り繕おうとしているけれど、彼女の指摘は事実だ。だからその嘘の感情を押し通すにも、些か無理のある話だった。

「コーセー、何か悩んでることがある? 」

「だから、ないってば。強いて言えば、物理と数学の成績が悪すぎるのだけ 」

「でも最近、コーセーはいつも険しい顔をしてる。いつも眉間に皺が寄ってるもん。特に今日は凄く変な顔 」

「えっ……? 」

半分は君のせいなんだけど、という台詞が浮かんだが、僕はすぐさまそれを白紙撤回する。
多分トドメの一撃は、今日のことだ。
僕のハードディスクは容量を超えたのだ。毎日意識しないようにしてきたけど、僕はただの高校生だ。抱えられることには限度があった。

「私には、言えないことなんだね 」

「いや、それは、その…… 」

「大丈夫。詮索したりはしないから 」

彼女はそう言うと、僕の隣にピタリと体を引っ付けて腰を下ろしてくる。
何故だろう…… 
ここのところ、急に彼女の距離が近くなったように感じる。物理的にもそうなんだけど、彼女が僕に興味を示している。そんな印象なのだ。

彼女は僕を心配して、励まそうとしてくれている? 僕は今、それほどまでに情けない感じなのかと思うと、何だか少しだけ惨めになった。  

「……確かに、僕は悩みを抱えているかもしれない 」

「…… 」

「自分の進路とか、他にもいろいろ。でも今まで僕が悩んでいる殆どは、うまく飲み込んできたつもりだったんだ。でも今日できた悩みは、まだうまく整理できてなくて。
きっと僕の個人の悩みだったら、麻愛に相談していたと思う。だけど今日知ってしまったことは、他人事なんだ。他人事なのに胸が痛い。だから自分の中で受け入れるのに、時間が掛かりそうなんだ 」

「そっか 」

そんな弱音を吐露してしまったら、彼女は幻滅してしまうのではないかと、僕の頭の片隅に一抹の不安が過る。別にいつも強がっていたいとか、そういうことでは決してない。

彼女は僕の話を肯定も否定もせずに、うんうんと頷いて聞いていた。
僕が主語も言わずに抽象的な話しかしてないから、何を言ってるかは、わからないとは思う。
彼女はいつも探求心に溢れている。いつも質問に次ぐ質問で、実際にさっきの稽古中だってそうだった。

だけど、今、彼女は何も言ってはこない。
僕が口を開くのを、待っているわけでもない。
ただただ、側にいてくれるだけだった。

「本音では…… 僕は今すぐにでも、このモヤモヤした気持ちを誰かに打ち明けて、楽になりたい。でも、麻愛を巻き込むのは気が引けるんだ 」

「うん 」

「僕とは関係性が違うけど、麻愛もよく知っている人の秘密を知ってしまったんだ。だから辛い。きっと僕が子供で、その事実を処理しきれていないだけなんだと思う 」

「そう。それは、恒星は一人で辛かったね 」

「…… 」

「あのね…… ごめんね 」

「えっ? 」

「きっと、恒星は私のことでも困っていることがあるんだと思う。アルバートのことでも沢山助けてもらったし、わかってないわけではないの。私の方こそ、ごめんなさい。ずっと恒星に甘えてばかりで、気付いてても知らない振りをしていたから 」

「いや、それはその、アルバートに関しては僕の問題でもあるし 」

「……? 」

彼女は僕が言った意味がわからないようで、キョトンと小首を傾げた。まあ、いい。やっぱり全部には、気付いてないじゃないか。

「あのさ、悩んでるのは姉ちゃんのことなんだ…… 」

「マリコのこと? 」

「今日、村松先生に言われたんだ。姉貴と先生、付き合ってんだと 」

「えっ……? 」

「しかも、姉ちゃんが在学中から。で、将来も真剣に考えてるって言われた。つまり義理の兄になるかもしれないから、共有したくないようなプライベートなことは俺に言うなって、補講のときに釘を刺されたんだ。で、さすがに僕も吃驚して 」

「…… 」

「しかも父さんと母さんも知ってんだと。それで、ちょっと動揺してたんだ。父さんと母さんがいつから知ってるのかはわからないけど、僕だけ何も知らなかったから 」

「そっか。マリコと先生、お付き合いしてるんだ 」

彼女はさすがに冷静だ。
唐突な僕の告白に、ピクリもしない。もしかしたら禁断の恋の定義を知らない可能性もあるけど、彼女の方が精神は僕なんかよりも遥かに成熟しているから、そんなことはないと思う。

「麻愛は…… 驚かないの? 」

「驚いてる、とても。いま、本当は声を上げて叫びまわりたいくらいに 」

「えっ、そうなの? 」

「うん。マリコのことも先生のことも好きだから、嬉しいけどね。でも、二人は先生と生徒だったから、すんなり受け入れられるかっていうと、それは別のことだと思う 」

「悪い…… 巻き込んじゃって 」

「ううん。それはいいの。私も一緒に暮らしてるのに、自分だけ知らないままは嫌だなと思うから 」

「麻愛…… 」

「だって、私もいま凄くビックリしてる。だから家族からしたら、もっと複雑でしょ。マリコの相手が見ず知らずの先生ならともかく、村松先生は担任の先生だしね 」

「…… 」

彼女は僕の心を見透かすように、気持ちを代弁してくれるようなことを言ってくれた。
それも淀みなく、ナチュラルに。
そして僕の手を取ると、
「時間は掛かるかもしれないけど、きっと大丈夫だよ 」
と声をかけてくれた。

耳には、ずっと水の音が響いている。
風が深くなった緑の木々を揺らし、僕らの間合いを通過する。
彼女は僕に引っ付いていた。それもピッタリと。
いつもなら、こんなシチュエーションに出くわそうものなら、動悸や目眩が止まらない。
僕の心は翻弄されるハズなのに…… 
何だか、今日はその温もりを静かに受け入れることが出来ていた。

「それにね、コーセー 」

「……なに? 」

「ちょっと、変なこと言っていい? 」

「ああ? 」

「軽蔑しないでね 」

「……? 」

「私はお年頃だから、そんなこと聞いたら真っ先に変なこと想像しちゃう 」

「えっ? 」

僕はビックリして、思わず彼女の方を振り向いた。

「ご、ごめんなさい。私ったら凄ーく、ハシタナイこと言っちゃった! 」

彼女は顔を真っ赤に染めて、クルリと僕に背を向けた。

「いや、その…… 麻愛って、そういう考えとは無縁だと思ってた 」

「ごめんなさい、やっぱり今の発言は撤回させて! マリコと先生に申し訳ないし、弟のコーセーには絶対言っちゃ駄目な内容だもん! 」

彼女はアワアワしながらハンカチで額を拭うと、「はあー どうしよう! 」と大きく息をついた。
彼女の口からそんな単語が出てきたのも驚きだけど、それより何より彼女と僕と同じ発想をしていたことが、もっと衝撃的に感じられた。

「あのさ、麻愛…… 」

「ん?  」

「恥ずかしいけど…… 僕も、それが一番しんどいんだ 」

「へっ? 」

「僕にとって、その、そういうのって未知数なんだ。だから、すぐにそういう発想に云ってしまって、頭から離れなくて。そんな自分が嫌に思えたんだ。きっと本人たちの方が、僕みたいな外野よりも辛い思いを続けてきたはずなのに、その気持ちにすぐに寄り添えない自分がいて。それが恥ずかしいんだ 」

「大丈夫。恒星は別に悪いことなんてしてないよ 」

「でも…… 」

「大丈夫だよ。私たちは、子供だもん。まだ、それがどんなことか、よく知らないから  」

彼女はそう言うと、ベンチにゆっくりと膝をつく。そしてその腕を僕に向けると、頬にゆっくりと手を回す。その手はまだ水に少し濡れていて、触れられるとひんやりとした。

何をされるんだろう…… と思ったけど、如何いかがわしい感情は湧かなかった。
深海のような紺碧の瞳に、一瞬僕は吸い込まれてしまうかと思った。
彼女は僕とさらに距離を詰めると、温もりがゆっくりと背中へと回ってくる。そして優しく、ピタリとその身体をくっつけた。

「あの…… 麻愛? 」

「私にはこういうとき、どうするのが一般的なのかよくわからないんだけど…… ママは、よくこうやって私を抱きしめてくれたの 」

「…… 」

彼女は、僕を抱擁していた。
僕は、完全に腕のやり場に困っていた。
世界に熱風が吹き荒れたとさえ、思った。

でも、僕は舞い上がりはしなかった。
当たり前だ。彼女が僕に向けているのは情愛だからだ。
彼女は今まで必死に勉強してお医者さんになったのに、その能力を発揮する前にお母さんを病気で亡くしてしまった。僕なんかより、何倍も苦しい思いをしている。
僕は恵まれている。今の悩みだって、一人っ子の彼女からすれば贅沢な悩みだ。僕はとても自己都合なことで悩んでいるし、だからといって解決策があるわけでもない。何てちっぽけで、無力な存在なのだろうと思う。

僕は彼女の背中に手を回すと、その力に少しだけ力を込める。
不思議と、邪な感情は沸いてはこなかった。




僕は、彼女の本質を感じていた。
彼女は、やっぱり優しいのだ。


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