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8.告白
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「大丈夫か?」
大学への道中はえらく車の中が静かだった。
「同じ部屋なんだからさ、もう一人で眠ることも無いし。元気出せよ」
「フェル。俺、こんなに人に大事にしてもらったこと無かった。フェルを好きだってこと知られた時は、みんなの顔見るの怖かった。でも誰も俺を責めたりしなくてさ。あんな風に家族になろうって言ってもらえて。俺なんかを受け入れてくれるなんて……」
少し間が空いて思い切ったように妙なことを言いだした。
「俺、決めた。風呂、ずっと一緒に入る」
「は?」
「お前、俺がいない時にバスルームに行くな。約束しろ」
「なんで!」
「もうお前に死なれたくない」
僕の首から上が一気に火を噴いた。
「あ あれは……もう忘れろよ! バスタブで溺れたりなんかしないよ!」
「いや、お前は溺れる。俺が目を離したら溺れて死ぬんだ」
「イヤなこと、言うな! 何決めてかかってるんだよ!」
「もうあんな思いはしたくねぇんだ……お前さ、俺の腕の中で息してなかった。思い出すと今でも震えが止まらなくなるんだ。
お前を死なせたら……お前の家族、きっと壊れちまう」
ブレーキをかけた。違うだろ? 壊れるのはリッキーだろ?
「リッキー。いい加減僕を信じるってことをしてくれよ。いつまで悪いこと引きずっていくんだ? どうしたい? あの寮を出るか? でも僕のバイトじゃきっとやっていけなくなる。どうすれば安心するんだ?」
返事が無いから僕は外に出てリッキーをドアから引きずり出した。
「僕を見ろよ」
のろのろとリッキーの顔が上がる。
「僕は最初リッキーのこと、なんとも思ってなかった。正直言って引いたし、勘弁してくれって思ってたよ。まさかリッキーが僕の中でパートナーにしたいって思うほど大事な存在になるなんて思ってもいなかった。でも今はリッキーにそばにいてほしい。頼むから安心してくれよ。僕はお互いに腫れ物に触るような生活なんてしたくない。それじゃやっていけない」
「……死なないか?」
「死なない」
「消えないか?」
「消えない。リッキーも僕の前から消えちゃだめだ。僕らはどっちも死なないし、消えない。相手を独りにしない。でも、それは相手を束縛するのとは違う。僕らは自由でいなくちゃならない。僕をただの大事な飾り物にするな。僕は僕だし、リッキーはリッキーなんだから」
「そういうのが……フェルの理想か?」
「ああ、そうだよ。リッキーの理想からかけ離れてる?」
「……それ、夢みたいだ。俺はフェルのものなのに自由なのか?」
「そう。好き勝手やるってことじゃなくって、縛り合わないってこと」
「そういうつき合い、したことねぇ。でも……俺もフェルに信じてもらえるように頑張る。誰彼構わず寝るなんてこともうしない。その代り寂しい時はお前に噛りつく。いやとは言わせねぇ。お前をうんと引きずり回す。いいか?」
「覚悟しとくよ。だからリッキーも覚悟しとけ」
リッキーはあの時の答えに辿り着いたんだと思う。初めにセックス在りき。その考え方が変わっていきそうな気がする。
大学には大学の匂いがあって、僕は決してそれが嫌いじゃない。けどリッキーにあんなこと言っておきながら、僕の背中にはどっしりと不安が乗っかっていた。
ここを出て行った時の経過を考えたら、リッキーを守り通すのは僕の責任だと思っている。僕が言った言葉と矛盾するのはよく分かっているけど、ここでは彼に何が起きても不思議じゃない。もうリッキーを誰にも襲わせない。
母さんは襲われて僕を産んだ。リッキーは男だから子どもは出来ないけれど、心にも体にも傷を負うのに変わりは無い。束縛じゃなくて、守ること。それは僕にも大きな課題かもしれない。
あっけらかんとしていたのは、シェリーだった。荷物を解いていた僕らの部屋にノックがあった。
「私を家に帰しておいて、自分も家に帰ったんだって?」
「あ! そうだった。ごめん。ちょっといろいろあってさ」
「言わなくていいわよ、そのためにロジャーがいるんだから」
リッキーでさえ吹いた。そうだった、ロジャーがいる。経緯は全部知れ渡ってるってことだ。
「リッキー、もうロジャーにキスするの許さないからな」
「あら!」
シェリーが僕らの顔を交互に覗く。
「ふぅん。あんたたち、そういう仲になったの。これは驚き! フェル、あんた頭でも打ったの?」
「そういう仲って……」
「黙って」
もう一度リッキーの顔を覗きこんだ。
「意外ね。あなた、すっごくいい顔になったわ。どうしちゃったの? フェルに洗脳された?」
シェリーには参る。物事をはっきり言うことにかけちゃ、僕なんか太刀打ち出来ない。
「友だちになれそうかな」
手を出したリッキーの手をすぐに握ったから本当にほっとした。
「ええ。前のあなたなら嫌いだったけどね。ね! フェルって凄いって聞いてたけどどうだった?」
「シェリー! なんてこと言うんだよ!」
「そんなに凄いの!?」
「食いつくなよ、リッキー!」
「ってことは、あんたたち、まだなわけ? あら、勿体ない!」
そう言って出ていった彼女に、つくづくカップルになるような関係じゃなくて良かったと思う。
「凄い……凄いんだ、フェル、凄い……」
なに感動してんだよ!
「寝ないからな!」
「そうだよな……キスであれだったんだから……」
「人の話聞けよ!」
「だめ、俺今夜寝たい。今すぐでもお前と寝たい。なぁ、俺しばらくヤッてない。だから…」
「うるさい、その顔やめろ!」
期待にうるうるしている目。すでに上気している顔。だめだ、猫のように擦り寄ってくるリッキーには僕は弱いんだ。
慌てて部屋を飛び出したところにロジャーが走ってきた。まずい、今リッキーが追いかけてきたら……。
「ねぇ! 聞いた?」
出た、お得意の言葉。ロジャーのスピーカーからファンファーレが鳴る。返事しなくっていいから助かる。どうせ勝手に喋ってさっさと行っちゃうんだから。
「テッドさ、学校やめたよ!」
「え?」
「あと、他に3人。そのメンバーってさ、君が叩きのめした連中だよね。やめさせるほど痛めつけたの?」
そこまで言ったロジャーが赤くなりながら僕の後ろに目をやった。振り返るとリッキーが立っている。その顔は真っ青だった。え? さっきは赤かったんだけど……。
「ロジャー、そいつら家に帰ったのか?」
「知らないよ、そこまでは。でもあの後すぐだったみたいだよ。どうなったのか調べてほしい? リッキーのためなら調べるよ」
「いや、止めとけ。首突っ込むな。分かったな?」
振り子のように頷くロジャーを置いて、部屋に入ったリッキーの後を追っかけた。さっきまでの猫はどこかに行ってしまって、険しい顔をしたリッキーがベッドに座っていた。
「どうした? あいつらの心配してたけど学校をやめたっていうのには驚いたよ」
「フェル。しばらく俺のそばを離れねぇでくれ。頼む、そうしてくれ」
あまりに真剣な言い方に違和感を感じる。いつものリッキーとは全然違う。
「なんだよ、どうした? 何かあるのか?」
「何も聞かねぇでくれ、ただそばにいて欲しいんだ」
「連中がやめたことに関係があるのか?」
リッキーは無言だ。
「何聞いても驚かないから」
沈黙の後、やっと開いた青い口から聞こえたのは思いもよらない言葉だった。
「フェル。俺、お前とパートナーにはなれないかもしんねぇ」
講義が始まり、大学らしい日々が始まった。ヒマなヤツが多いのは変わらない。相変わらず僕もリッキーもちょっかいを出され、そしてたいがい撃退した。
リッキーへの感情を露わにし、開き直った僕に怖いものは無かった。彼は弱いわけじゃなかったし、そこに春休みの間のトレーニングが功を奏し以前より怪我が減っている。それでも元々の地が出始めた僕は、口から血を垂らして帰って来るリッキーを見ると報復を考えるようになっていった。
「お前、やり過ぎじゃね?」
そんな言葉が、痣が残る苦笑いの彼から漏れる。
「今度はお前が飼うってわけ?」
「味見してどうだった?」
「相部屋だからヤりたい放題だろ」
僕の返事は、拳。リッキーを『所有物』として見る目が許せなかった。確かにそこに原因を作ったのは他でもないリッキーだ。本人も言った通り、誰彼構わずベッドを共にしたから蟻のように虫がたかる。でも今は僕がいる。リッキーと寝たいならまず僕という関門をくぐり抜けるべきだ。
さすがに正面からは来ないが、泥棒猫のように彼を掠め取ろうとする連中は徹底的に排除した。
「今は『僕のハニー』だって分からせないとね。それから今日の午後はバスケだから、僕のそばにいるんなら一緒に参加ってことで、よろしく」
あれっきりテッドたちのことも裏にあるらしい事情も話には出て来ない。深刻そうな顔も見せない。でもどこに行くのにもリッキーはついてきた。 彼は変わった。そばを決して離れない。時折り厳しい表情で周りを見て、僕と目が合うとその緊張がふっと緩む。
夜はさらに大きく変化した。元々、リッキーは僕の胸に顔をつけると安心して眠ってしまう。それが最近は昼間だろうとどこだろうと、くっつくとキスを強請りながら僕の胸で眠ることが増えた。眠った顔にかかる黒髪をそっとかき上げるとリッキーの綺麗な顔が現れる。閉じた目を縁どる長い睫毛が、僅かに震えていた。何をこんなに思い詰めているんだろう。眠っているリッキーの顔は前とは違って、いつも苦しそうな顔をしていた。
目の周りをそっと撫でる。だんだん目立ち始めている隈を指でなぞる。眠っていても僕のシャツを掴んでいる手が離れない。
――少し痩せたよな、リッキー……
――何を苦しんでる? 一体どうしたんだ?
聞きたいけれど聞けない……。出来ることはこうやって胸に抱いて眠らせてやることだけだった。
夜中にふと目が覚めると、そこに膝を抱いて目を見開いている彼がいた。
「眠れない? 来いよ」
ブランケットを持ち上げると黙って すり と潜り込んでくる。そんなことが何回かあって、僕は夜、リッキーが夜中に眠らないのを知った。
何も語らない彼に何も言わず、なるべく時間を取っては胸に抱いて眠らせる。どんどん静かになって痩けていくリッキーを見るのが辛かった。そうだ。うんと疲れさせればぐっすり眠れるかもしれない。
僕の友だちはみんな最初は遠ざかった。そりゃそうだよな、健全な青少年の見本みたいだった僕がいきなりゲイ宣言したんだから。でもあんまり僕が普通にしていたせいか、彼らはすぐに受け入れてくれるようになった。別にそういうカップルは珍しくもないし。
初めてリッキーをバスケに連れてった時の彼らの反応はほとんど同じだった。ため息が漏れる。みんな彼を間近で見たことがない。彼らにとって、リッキーは違う世界の人種だった。だから中間色の彼が放つ壮絶な色気に当てられてしまうんだ。
「なんか…すげぇな……」
「歩く えろ だよね…」
「本物?」
思わず手を伸ばしたヤツは、僕のパンチを喰らった。ま、たいした力じゃない。
「僕の。分かった? 僕のだから」
それを聞いて嬉しそうなリッキー。
「で? その……」
「リッキーでいいよ」
フランクなリッキーの言葉に、一気にみんなの力が抜けた。
「リッキーもバスケ、やるの?」
「ああ、一緒にいい?」
「結構荒っぽいよ?」
みんな顔を傷つけるんじゃないかと心配している。
「構わねぇよ、さんざんフェルに洗礼を浴びたから」
その言葉通りに、リッキーは最初から軽快に飛ばした。僕にあれこれつき合わされてるせいで……? No! おかげで、かなりのスタミナがついている。身体能力の高い彼はもっとスタミナがつけば、スポーツ選手としてだって活躍出来たかもしれない。カットもパスもなかなかのもんだ。
唯一不得手なのがゴールを決めること。補助的な役割には率先していくのに、なぜか勝敗を決める前線には出ない。僕と二人の時はあんなに上手いというのに。みんなには分からないほど自然だけど、違う。リッキーは目立つポジションに立つこと自体を避けているんだ。
「楽しかったよ! また来いよ」
何人もに背中を叩かれて紅潮しているリッキーの顔からは汗が滴っていて、陽を浴びながら水を煽る姿が眩しいほど鮮やかだ。風に流れる黒髪。大きな黒い瞳。歌うような誘うような赤い唇……。
「どうした? なに?」
無造作に水とタオルを掴んでこっちに来る姿を、僕は思わず抱きしめた。
「おい、フェル! そういうことは部屋でやれよ!」
「まったくだ! 見せつけんのもたいがいにしろよ!」
みんなの野次が飛んでくる。連中に反撃する前にリッキーの唇を奪う。口笛が鳴る。真っ赤になっているリッキーの肩に両手を乗せたまま振り返った。
「うるさい! 外野は黙ってろ! 僕がどこで抱きつこうとキスしようと僕の勝手だ!」
「俺……怖いくらいだ」
「何が?」
「幸せ過ぎて……いいのかな、これで」
バスケの帰りの芝生の上。呟く姿がやけに弱々しく見えた。寝転がせて頭を膝に乗せる。陽が高い時間は過ぎて、風がありほのぼのと暖かい。
「ここで寝ろよ、疲れたろ? バスケは体力使うからな。こうしてるから安心しろよ」
まるで癖になってるみたいに髪をかき上げてやる。いや、すでに癖になってる。リッキーの髪が指の間をさらさらと滑るのが僕は好きだ。
「いいんだよな、今だけはこうしてても」
握られた手にいくつものキスが贈られる。今だけ?
「いいんだよ、こうしていて。何が不安? 何かあるなら言ってくれればいいんだ。二人で解決していきたい、出来ることなら。でも無理強いはしないよ。事情があるんだろうってことくらい分かる。言うのも言わないのもリッキーが決めることだ」
形のいい唇に笑みが浮かんで目が閉じた。そのまま静かになったから眠ったんだと思って、身をかがめて額にキスした。
「フェル」
「なんだ、起きてたの?」
「俺、アメリカ人じゃない」
「……ひょっとして……スペイン?」
「ちょっと違う」
目を閉じたまま密やかな声で話し始めた。
「テッドたちは別の大学に今行ってる」
「え、そうなの?」
「だからちょっと安心した。消されたんじゃなくて」
度肝を抜くような言葉だ。
「消される って……確かに僕は連中をぶっ殺したいとは思っているけど。リッキーの言ってるのはそういう意味じゃないね?」
「違う。『排除』ってことだ」
後は黙って聞くしか無かった。
「俺の国はスペイン系の国だ。国名は聞くな、大国じゃない。大昔はスペイン領だったけど今は全く関係ねぇ。どっちかというと独裁国家で、首相はいるけど今実権を握ってんのは……将軍になった父なんだ。アイツはいろんな手を使って今の地位にのし上がった。その辺はアルに似てるか」
とんでもない! それって次元の違う話だよ! でも声には出なかった。
「副将軍の補佐だった男が死んでアイツはその後釜として候補に挙がった。けど対立候補がいた。選挙があるわけじゃない。副将軍の意向次第だ。そして……副将軍は母さんを気に入っていた」
まさか……?
「母さんは……」
唇が震えている。
「母さんは自殺した。アイツは補佐になった。それが残ってる事実だ」
なんて言えばいいんだ……?
「なんで俺がそれを知ったかって言うとさ、二人の言い争うのをこの耳で聞いたからだ。でもなんの力もないたった14の俺にはどうすることも出来なかった。15になってすぐに母さんは海に飛び込んだ。飛び出したけど間に合わなくって……俺の手にはスカーフだけが残った」
目の前で……。そんな……。
「俺は荒れた。そしてやっと進学した学校で…オモチャになった。アイツがそのことを知った時には俺にはもうそういうのが当たり前になっていた。つまり、セックスまみれってこと。16になる前には俺は立派な男娼になってたんだ」
目を閉じたまま囁くように語り続けるリッキー。まるでこの青い空ごと違う空間に切り離されたみたいだ。
「今じゃ将軍の地位に就いてる。たいしたもんだ、どんな方法を使ったとしても。でもその立場は強いけど脆い。俺の弟も殺された。出来た弟でさ、ビリーみたいに元気だったよ。狙われたのはアイツだけど死んだのは弟だ」
リッキーは膝から下りて自分の両手を枕に顔をうずめた。
「今でもさ」
くぐもった声がそれでもはっきり聞こえた。
「お目付けが見てんだよ。俺が目立ったことしやしないか。なんかの事件の原因になりやしないか。アイツに迷惑かけることしねぇかって」
乾いた笑いが聞こえる。
「セックスだけは好きにしてられるんだ。そういうのに夢中になってりゃかえって安心なんだろうな。でも、例えばお偉いさんになるとか何かの事業起こすとか。そういうのは禁止。社会的に表立った行動、しちゃいけない」
選んだのはシンプルな論文。読む本は専門書が多いのになぜか成績は中の下。留年にならない程度に抑えて実力を出さないリッキーが不思議だった。
「旅行だってな、この範囲までって決まってんだ。お前んち、ぎりぎり。生活は、困ったせいで警察のご厄介になっちゃまずいってんで、困らないだけ送られてくる。だから適当に生きていけんのさ」
『誰もいない』 あの言葉が突き刺さってくる。
「国に帰れば……友達、いるのか?」
リッキーはころんと空に顔を向けた。
「俺、幽霊なんだ」
「幽霊?」
「死んだことになってる。だから帰るとこ、無い。車ごと落ちて死んでんだよ、国では」
「……じゃ、家族には」
「二度と会えない。いいんだ、それはもう慣れた。いつも見張られてんのも、慣れた」
だから大学から外に出ない? だからセックスに身を任せるしかなかった? 怒りじゃなかった。震えるほどの哀しみが、凍るほどの壊れた心が伝わってくる。
「だからテッドにこれ以上構うなって言ったんだ、 後悔することになるって」
「リッキーはテッドたちが殺されたと思ったのか?」
「かもしんねぇと思ってエシューに頼んで調べてもらった。彼女はそういうの上手にやるんだ。感情交えないからな。他の大学に行ったことが分かってほっとしたよ。ま、ただ襲われただけだからな。
けどそれが元でまた騒動が起きて誰かが騒ぎでもしたらOUTだ」
泣きたいだろうに涙一つ零れてなかった。多分もう涙を落とす時期は過ぎたんだ、とっくに。
大学への道中はえらく車の中が静かだった。
「同じ部屋なんだからさ、もう一人で眠ることも無いし。元気出せよ」
「フェル。俺、こんなに人に大事にしてもらったこと無かった。フェルを好きだってこと知られた時は、みんなの顔見るの怖かった。でも誰も俺を責めたりしなくてさ。あんな風に家族になろうって言ってもらえて。俺なんかを受け入れてくれるなんて……」
少し間が空いて思い切ったように妙なことを言いだした。
「俺、決めた。風呂、ずっと一緒に入る」
「は?」
「お前、俺がいない時にバスルームに行くな。約束しろ」
「なんで!」
「もうお前に死なれたくない」
僕の首から上が一気に火を噴いた。
「あ あれは……もう忘れろよ! バスタブで溺れたりなんかしないよ!」
「いや、お前は溺れる。俺が目を離したら溺れて死ぬんだ」
「イヤなこと、言うな! 何決めてかかってるんだよ!」
「もうあんな思いはしたくねぇんだ……お前さ、俺の腕の中で息してなかった。思い出すと今でも震えが止まらなくなるんだ。
お前を死なせたら……お前の家族、きっと壊れちまう」
ブレーキをかけた。違うだろ? 壊れるのはリッキーだろ?
「リッキー。いい加減僕を信じるってことをしてくれよ。いつまで悪いこと引きずっていくんだ? どうしたい? あの寮を出るか? でも僕のバイトじゃきっとやっていけなくなる。どうすれば安心するんだ?」
返事が無いから僕は外に出てリッキーをドアから引きずり出した。
「僕を見ろよ」
のろのろとリッキーの顔が上がる。
「僕は最初リッキーのこと、なんとも思ってなかった。正直言って引いたし、勘弁してくれって思ってたよ。まさかリッキーが僕の中でパートナーにしたいって思うほど大事な存在になるなんて思ってもいなかった。でも今はリッキーにそばにいてほしい。頼むから安心してくれよ。僕はお互いに腫れ物に触るような生活なんてしたくない。それじゃやっていけない」
「……死なないか?」
「死なない」
「消えないか?」
「消えない。リッキーも僕の前から消えちゃだめだ。僕らはどっちも死なないし、消えない。相手を独りにしない。でも、それは相手を束縛するのとは違う。僕らは自由でいなくちゃならない。僕をただの大事な飾り物にするな。僕は僕だし、リッキーはリッキーなんだから」
「そういうのが……フェルの理想か?」
「ああ、そうだよ。リッキーの理想からかけ離れてる?」
「……それ、夢みたいだ。俺はフェルのものなのに自由なのか?」
「そう。好き勝手やるってことじゃなくって、縛り合わないってこと」
「そういうつき合い、したことねぇ。でも……俺もフェルに信じてもらえるように頑張る。誰彼構わず寝るなんてこともうしない。その代り寂しい時はお前に噛りつく。いやとは言わせねぇ。お前をうんと引きずり回す。いいか?」
「覚悟しとくよ。だからリッキーも覚悟しとけ」
リッキーはあの時の答えに辿り着いたんだと思う。初めにセックス在りき。その考え方が変わっていきそうな気がする。
大学には大学の匂いがあって、僕は決してそれが嫌いじゃない。けどリッキーにあんなこと言っておきながら、僕の背中にはどっしりと不安が乗っかっていた。
ここを出て行った時の経過を考えたら、リッキーを守り通すのは僕の責任だと思っている。僕が言った言葉と矛盾するのはよく分かっているけど、ここでは彼に何が起きても不思議じゃない。もうリッキーを誰にも襲わせない。
母さんは襲われて僕を産んだ。リッキーは男だから子どもは出来ないけれど、心にも体にも傷を負うのに変わりは無い。束縛じゃなくて、守ること。それは僕にも大きな課題かもしれない。
あっけらかんとしていたのは、シェリーだった。荷物を解いていた僕らの部屋にノックがあった。
「私を家に帰しておいて、自分も家に帰ったんだって?」
「あ! そうだった。ごめん。ちょっといろいろあってさ」
「言わなくていいわよ、そのためにロジャーがいるんだから」
リッキーでさえ吹いた。そうだった、ロジャーがいる。経緯は全部知れ渡ってるってことだ。
「リッキー、もうロジャーにキスするの許さないからな」
「あら!」
シェリーが僕らの顔を交互に覗く。
「ふぅん。あんたたち、そういう仲になったの。これは驚き! フェル、あんた頭でも打ったの?」
「そういう仲って……」
「黙って」
もう一度リッキーの顔を覗きこんだ。
「意外ね。あなた、すっごくいい顔になったわ。どうしちゃったの? フェルに洗脳された?」
シェリーには参る。物事をはっきり言うことにかけちゃ、僕なんか太刀打ち出来ない。
「友だちになれそうかな」
手を出したリッキーの手をすぐに握ったから本当にほっとした。
「ええ。前のあなたなら嫌いだったけどね。ね! フェルって凄いって聞いてたけどどうだった?」
「シェリー! なんてこと言うんだよ!」
「そんなに凄いの!?」
「食いつくなよ、リッキー!」
「ってことは、あんたたち、まだなわけ? あら、勿体ない!」
そう言って出ていった彼女に、つくづくカップルになるような関係じゃなくて良かったと思う。
「凄い……凄いんだ、フェル、凄い……」
なに感動してんだよ!
「寝ないからな!」
「そうだよな……キスであれだったんだから……」
「人の話聞けよ!」
「だめ、俺今夜寝たい。今すぐでもお前と寝たい。なぁ、俺しばらくヤッてない。だから…」
「うるさい、その顔やめろ!」
期待にうるうるしている目。すでに上気している顔。だめだ、猫のように擦り寄ってくるリッキーには僕は弱いんだ。
慌てて部屋を飛び出したところにロジャーが走ってきた。まずい、今リッキーが追いかけてきたら……。
「ねぇ! 聞いた?」
出た、お得意の言葉。ロジャーのスピーカーからファンファーレが鳴る。返事しなくっていいから助かる。どうせ勝手に喋ってさっさと行っちゃうんだから。
「テッドさ、学校やめたよ!」
「え?」
「あと、他に3人。そのメンバーってさ、君が叩きのめした連中だよね。やめさせるほど痛めつけたの?」
そこまで言ったロジャーが赤くなりながら僕の後ろに目をやった。振り返るとリッキーが立っている。その顔は真っ青だった。え? さっきは赤かったんだけど……。
「ロジャー、そいつら家に帰ったのか?」
「知らないよ、そこまでは。でもあの後すぐだったみたいだよ。どうなったのか調べてほしい? リッキーのためなら調べるよ」
「いや、止めとけ。首突っ込むな。分かったな?」
振り子のように頷くロジャーを置いて、部屋に入ったリッキーの後を追っかけた。さっきまでの猫はどこかに行ってしまって、険しい顔をしたリッキーがベッドに座っていた。
「どうした? あいつらの心配してたけど学校をやめたっていうのには驚いたよ」
「フェル。しばらく俺のそばを離れねぇでくれ。頼む、そうしてくれ」
あまりに真剣な言い方に違和感を感じる。いつものリッキーとは全然違う。
「なんだよ、どうした? 何かあるのか?」
「何も聞かねぇでくれ、ただそばにいて欲しいんだ」
「連中がやめたことに関係があるのか?」
リッキーは無言だ。
「何聞いても驚かないから」
沈黙の後、やっと開いた青い口から聞こえたのは思いもよらない言葉だった。
「フェル。俺、お前とパートナーにはなれないかもしんねぇ」
講義が始まり、大学らしい日々が始まった。ヒマなヤツが多いのは変わらない。相変わらず僕もリッキーもちょっかいを出され、そしてたいがい撃退した。
リッキーへの感情を露わにし、開き直った僕に怖いものは無かった。彼は弱いわけじゃなかったし、そこに春休みの間のトレーニングが功を奏し以前より怪我が減っている。それでも元々の地が出始めた僕は、口から血を垂らして帰って来るリッキーを見ると報復を考えるようになっていった。
「お前、やり過ぎじゃね?」
そんな言葉が、痣が残る苦笑いの彼から漏れる。
「今度はお前が飼うってわけ?」
「味見してどうだった?」
「相部屋だからヤりたい放題だろ」
僕の返事は、拳。リッキーを『所有物』として見る目が許せなかった。確かにそこに原因を作ったのは他でもないリッキーだ。本人も言った通り、誰彼構わずベッドを共にしたから蟻のように虫がたかる。でも今は僕がいる。リッキーと寝たいならまず僕という関門をくぐり抜けるべきだ。
さすがに正面からは来ないが、泥棒猫のように彼を掠め取ろうとする連中は徹底的に排除した。
「今は『僕のハニー』だって分からせないとね。それから今日の午後はバスケだから、僕のそばにいるんなら一緒に参加ってことで、よろしく」
あれっきりテッドたちのことも裏にあるらしい事情も話には出て来ない。深刻そうな顔も見せない。でもどこに行くのにもリッキーはついてきた。 彼は変わった。そばを決して離れない。時折り厳しい表情で周りを見て、僕と目が合うとその緊張がふっと緩む。
夜はさらに大きく変化した。元々、リッキーは僕の胸に顔をつけると安心して眠ってしまう。それが最近は昼間だろうとどこだろうと、くっつくとキスを強請りながら僕の胸で眠ることが増えた。眠った顔にかかる黒髪をそっとかき上げるとリッキーの綺麗な顔が現れる。閉じた目を縁どる長い睫毛が、僅かに震えていた。何をこんなに思い詰めているんだろう。眠っているリッキーの顔は前とは違って、いつも苦しそうな顔をしていた。
目の周りをそっと撫でる。だんだん目立ち始めている隈を指でなぞる。眠っていても僕のシャツを掴んでいる手が離れない。
――少し痩せたよな、リッキー……
――何を苦しんでる? 一体どうしたんだ?
聞きたいけれど聞けない……。出来ることはこうやって胸に抱いて眠らせてやることだけだった。
夜中にふと目が覚めると、そこに膝を抱いて目を見開いている彼がいた。
「眠れない? 来いよ」
ブランケットを持ち上げると黙って すり と潜り込んでくる。そんなことが何回かあって、僕は夜、リッキーが夜中に眠らないのを知った。
何も語らない彼に何も言わず、なるべく時間を取っては胸に抱いて眠らせる。どんどん静かになって痩けていくリッキーを見るのが辛かった。そうだ。うんと疲れさせればぐっすり眠れるかもしれない。
僕の友だちはみんな最初は遠ざかった。そりゃそうだよな、健全な青少年の見本みたいだった僕がいきなりゲイ宣言したんだから。でもあんまり僕が普通にしていたせいか、彼らはすぐに受け入れてくれるようになった。別にそういうカップルは珍しくもないし。
初めてリッキーをバスケに連れてった時の彼らの反応はほとんど同じだった。ため息が漏れる。みんな彼を間近で見たことがない。彼らにとって、リッキーは違う世界の人種だった。だから中間色の彼が放つ壮絶な色気に当てられてしまうんだ。
「なんか…すげぇな……」
「歩く えろ だよね…」
「本物?」
思わず手を伸ばしたヤツは、僕のパンチを喰らった。ま、たいした力じゃない。
「僕の。分かった? 僕のだから」
それを聞いて嬉しそうなリッキー。
「で? その……」
「リッキーでいいよ」
フランクなリッキーの言葉に、一気にみんなの力が抜けた。
「リッキーもバスケ、やるの?」
「ああ、一緒にいい?」
「結構荒っぽいよ?」
みんな顔を傷つけるんじゃないかと心配している。
「構わねぇよ、さんざんフェルに洗礼を浴びたから」
その言葉通りに、リッキーは最初から軽快に飛ばした。僕にあれこれつき合わされてるせいで……? No! おかげで、かなりのスタミナがついている。身体能力の高い彼はもっとスタミナがつけば、スポーツ選手としてだって活躍出来たかもしれない。カットもパスもなかなかのもんだ。
唯一不得手なのがゴールを決めること。補助的な役割には率先していくのに、なぜか勝敗を決める前線には出ない。僕と二人の時はあんなに上手いというのに。みんなには分からないほど自然だけど、違う。リッキーは目立つポジションに立つこと自体を避けているんだ。
「楽しかったよ! また来いよ」
何人もに背中を叩かれて紅潮しているリッキーの顔からは汗が滴っていて、陽を浴びながら水を煽る姿が眩しいほど鮮やかだ。風に流れる黒髪。大きな黒い瞳。歌うような誘うような赤い唇……。
「どうした? なに?」
無造作に水とタオルを掴んでこっちに来る姿を、僕は思わず抱きしめた。
「おい、フェル! そういうことは部屋でやれよ!」
「まったくだ! 見せつけんのもたいがいにしろよ!」
みんなの野次が飛んでくる。連中に反撃する前にリッキーの唇を奪う。口笛が鳴る。真っ赤になっているリッキーの肩に両手を乗せたまま振り返った。
「うるさい! 外野は黙ってろ! 僕がどこで抱きつこうとキスしようと僕の勝手だ!」
「俺……怖いくらいだ」
「何が?」
「幸せ過ぎて……いいのかな、これで」
バスケの帰りの芝生の上。呟く姿がやけに弱々しく見えた。寝転がせて頭を膝に乗せる。陽が高い時間は過ぎて、風がありほのぼのと暖かい。
「ここで寝ろよ、疲れたろ? バスケは体力使うからな。こうしてるから安心しろよ」
まるで癖になってるみたいに髪をかき上げてやる。いや、すでに癖になってる。リッキーの髪が指の間をさらさらと滑るのが僕は好きだ。
「いいんだよな、今だけはこうしてても」
握られた手にいくつものキスが贈られる。今だけ?
「いいんだよ、こうしていて。何が不安? 何かあるなら言ってくれればいいんだ。二人で解決していきたい、出来ることなら。でも無理強いはしないよ。事情があるんだろうってことくらい分かる。言うのも言わないのもリッキーが決めることだ」
形のいい唇に笑みが浮かんで目が閉じた。そのまま静かになったから眠ったんだと思って、身をかがめて額にキスした。
「フェル」
「なんだ、起きてたの?」
「俺、アメリカ人じゃない」
「……ひょっとして……スペイン?」
「ちょっと違う」
目を閉じたまま密やかな声で話し始めた。
「テッドたちは別の大学に今行ってる」
「え、そうなの?」
「だからちょっと安心した。消されたんじゃなくて」
度肝を抜くような言葉だ。
「消される って……確かに僕は連中をぶっ殺したいとは思っているけど。リッキーの言ってるのはそういう意味じゃないね?」
「違う。『排除』ってことだ」
後は黙って聞くしか無かった。
「俺の国はスペイン系の国だ。国名は聞くな、大国じゃない。大昔はスペイン領だったけど今は全く関係ねぇ。どっちかというと独裁国家で、首相はいるけど今実権を握ってんのは……将軍になった父なんだ。アイツはいろんな手を使って今の地位にのし上がった。その辺はアルに似てるか」
とんでもない! それって次元の違う話だよ! でも声には出なかった。
「副将軍の補佐だった男が死んでアイツはその後釜として候補に挙がった。けど対立候補がいた。選挙があるわけじゃない。副将軍の意向次第だ。そして……副将軍は母さんを気に入っていた」
まさか……?
「母さんは……」
唇が震えている。
「母さんは自殺した。アイツは補佐になった。それが残ってる事実だ」
なんて言えばいいんだ……?
「なんで俺がそれを知ったかって言うとさ、二人の言い争うのをこの耳で聞いたからだ。でもなんの力もないたった14の俺にはどうすることも出来なかった。15になってすぐに母さんは海に飛び込んだ。飛び出したけど間に合わなくって……俺の手にはスカーフだけが残った」
目の前で……。そんな……。
「俺は荒れた。そしてやっと進学した学校で…オモチャになった。アイツがそのことを知った時には俺にはもうそういうのが当たり前になっていた。つまり、セックスまみれってこと。16になる前には俺は立派な男娼になってたんだ」
目を閉じたまま囁くように語り続けるリッキー。まるでこの青い空ごと違う空間に切り離されたみたいだ。
「今じゃ将軍の地位に就いてる。たいしたもんだ、どんな方法を使ったとしても。でもその立場は強いけど脆い。俺の弟も殺された。出来た弟でさ、ビリーみたいに元気だったよ。狙われたのはアイツだけど死んだのは弟だ」
リッキーは膝から下りて自分の両手を枕に顔をうずめた。
「今でもさ」
くぐもった声がそれでもはっきり聞こえた。
「お目付けが見てんだよ。俺が目立ったことしやしないか。なんかの事件の原因になりやしないか。アイツに迷惑かけることしねぇかって」
乾いた笑いが聞こえる。
「セックスだけは好きにしてられるんだ。そういうのに夢中になってりゃかえって安心なんだろうな。でも、例えばお偉いさんになるとか何かの事業起こすとか。そういうのは禁止。社会的に表立った行動、しちゃいけない」
選んだのはシンプルな論文。読む本は専門書が多いのになぜか成績は中の下。留年にならない程度に抑えて実力を出さないリッキーが不思議だった。
「旅行だってな、この範囲までって決まってんだ。お前んち、ぎりぎり。生活は、困ったせいで警察のご厄介になっちゃまずいってんで、困らないだけ送られてくる。だから適当に生きていけんのさ」
『誰もいない』 あの言葉が突き刺さってくる。
「国に帰れば……友達、いるのか?」
リッキーはころんと空に顔を向けた。
「俺、幽霊なんだ」
「幽霊?」
「死んだことになってる。だから帰るとこ、無い。車ごと落ちて死んでんだよ、国では」
「……じゃ、家族には」
「二度と会えない。いいんだ、それはもう慣れた。いつも見張られてんのも、慣れた」
だから大学から外に出ない? だからセックスに身を任せるしかなかった? 怒りじゃなかった。震えるほどの哀しみが、凍るほどの壊れた心が伝わってくる。
「だからテッドにこれ以上構うなって言ったんだ、 後悔することになるって」
「リッキーはテッドたちが殺されたと思ったのか?」
「かもしんねぇと思ってエシューに頼んで調べてもらった。彼女はそういうの上手にやるんだ。感情交えないからな。他の大学に行ったことが分かってほっとしたよ。ま、ただ襲われただけだからな。
けどそれが元でまた騒動が起きて誰かが騒ぎでもしたらOUTだ」
泣きたいだろうに涙一つ零れてなかった。多分もう涙を落とす時期は過ぎたんだ、とっくに。
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