a stray dog

わこ

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少年のキズ

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「言っておくがタダ飯を食わせてやるつもりはねえ。自分から付いてきたからには働け」
「分かりました」

言うが早いが身を翻す。俺は咄嗟にその腕を掴んだ。

「オイ、ちょっと待て。どこに行く気だ」
「え? 仕事に」
「…………何をしに」
「客を取りに」

請け負った殺しの現場から子供を連れ帰った翌日。予想よりはるかに汚い物を目にしてきたらしい子供の言葉に若干眩暈を憶えた。
今からちょっくら身売りしてきますがそれが何か。とどのつまりはその態の事をあたかも当然のごとくキョトンと言われてさすがに戸惑う。純情純朴ぶっておきながら、この子供は体で稼ぐ術を熟知しているようだった。

「……カラダ売れとは言ってねえ」
「え……あー…でも一番金になるのはこれですし……」
「ちげえよアホが。てめえに大金稼いで来いなんて言ってねえだろ。家事労働だって一つの仕事だ。お前はここで家の中を保て」

買春しか知らない少年には頭を抱える他ないが、しかしまあこの街にいればそれも仕方のない事か。
俺の意図していた労働形態が余程想定外だったのか、子供は呆気に取られたような顔をして人の顔を見上げていた。

「……そんなことでいいんですか?」
「重要な事だ。人間として生きていたいなら衣食住は整えろ。それがお前の仕事だからしっかりやれ。手は抜くな」

見下し言い諭すがこの子供はどこか納得がいっていない。しばらく眉間を寄せて頭を悩ませた末、唐突に閃いたらしきそれを酷くすっきりした顔つきで俺に言い放った。

「それならせめてあなたにご奉仕します」
「あ?」
「え?」

駄目だコイツ。どこで仕込まれてきたか知らねえがかなりの程度でドップリ浸かってる。

「あの……ダメ、ですか……? たぶん俺、あなたの事満足させられると、っったぁ!」
「黙れバカ野郎。それ以上言うな」

思わず殴った。この顔であっけらかんと下衆の極みみたいな事を言われると何やら居た堪れない。

俺が引っぱたいた額を涙目になりながら摩りつつ、子供はどこかシュンとして下から俺を見上げてきた。
その狙ったかのような上目使い。これだけの容姿を持っていれば確かに金を得る手段としては最適だっただろう。

「……とにかく。お前は必要以上にここから出るな。子供がうろちょろしてたら仕事に差し支える」
「子供じゃありません。俺の名前は、」
「いい、それも言うな。必要ない」

捨てるつもりだった子供だ。無暗に個人を交換する必要などない。
俺は名乗るつもりなどないし、この子供の名を知りたいとも思わない。だからそう返した俺を見て、子供は困ったように首を傾げた。

「名前呼ぶとき困るじゃないですか」
「番号でも付けとくか。ゼロゼロイチ番とかでいいだろ」
「嫌ですよ」

めんどくせえな。ついつい舌打ちすると子供は怯む事なく、う゛ぅぅっと唸っていた。
犬みてえだ。尻尾垂らしたり唸ったり。

「…………クオン」
「え?」
「お前に名前をくれてやる。クオンだ」
「クオン……?」

子供は余計に首を傾げた。その様子が少しおかしい。

「なんですかそれ?」
「ギリシャ語」
「意味は?」
「犬」
「……ひっど」

ピシッと子供の表情が張り付き、必要以上の落胆ぶりが面白くてとうとう笑いが声に漏れた。
それを耳にするや否や、今度はパッと頬を紅潮させて俺を見つめてくる。

「……なんだ」
「笑った! 今笑いましたよねッ?」
「……俺だっておかしけりゃ笑う」

ニコニコと、寸前まで不満げな表情で恨みがましく俺を見ていたと言うのに今は馬鹿みたいに嬉しそうだ。ころころ変わる表情を見下ろし、身近に接する事のなかった子供の顔がここに来て気の引けるものに感じた。
連れてくるべきではなかったか。早くも後悔の念が浮かび上がり、子供の前から離れようと背を向けた。しかしそこで、ガシッと腕を掴み阻まれる。

「あなたの事は何て呼べばいいですか?」
「……適当に呼べ。少し出てくる。放せ」
「ちょっと待って下さい、それじゃ困りますよ。名前教えてくれたっていいじゃないですか」
「忘れた」
「嘘つき」

ああ、全く。特大のため息とともに振り返り、子供を見下げて睨み落とすが反対に迫られる。
俺が人を殺める瞬間を見ていたはずなのに恐れの類を抱かないこの子供はなんなのだろうか。不審に眉を顰めて目を合わせていると、またもやグウゥウっと犬みたいに唸りながら俺の前へと回り込んできた。

「……好きに呼べばいい」
「わかりました。じゃあ、マスターって呼びます」

マスター。飼い主でも意図してか。自ら犬に成り下がってどうする。

「……勝手にしろ」
「マスター」
「なんだよ」
「マスター」
「しつけえ。分かったから退け」
「マスター」
「…………」

またか。こいつは気づけばヘラヘラと笑みを浮かべている。

「あなたは俺のマスターです。犬でもいい。あなたに飼われたい」
「……そうかよ」

なにが、そんなに嬉しい。あの現場を見ていて、それでもなお俺に笑顔を向ける理由が何処にある。

「どこに行くんですか? 仕事ですか?」
「お前が知る必要はない」
「俺も連れていってください」
「駄目だ」

そうして纏わりつかれる。身の回りを、パタパタパタパタと。尻尾を振った犬のように。
鬱陶しくて、慣れない笑顔に居心地が悪くて。顔を顰めて見下す子供は、昔から懐いていた相手と接するかのように俺の傍を離れようとしなかった。

うるせえ犬だ。一発ぶちのめしてやれば静かにするだろうか。
そう考えもしたが、体を痛めつけてもこの子供は引き下がらないだろうと直感的に感じた。

「……分かった、言う。ただの買い出しだ。付いてきたって楽しくもなんともねえぞ」
「荷物持ちします」
「要らねえよ。お前はここで大人しくしてろ」
「嫌だ。あなたの傍にいたい」
「…………」

こいつは。

「マスター。明日からはちゃんと留守番もします。だから今日は一日一緒にいて下さい。あなたの事をもっと知りたい」
「…………勝手にしろ」

思えば出会った当初から、この子供は人を口説き落とすのが上手かった。









***










請け負った仕事を終え、自分のテリトリーへと戻って最初にする事と言えば昔から水浴びだ。
頭からシャワーを浴びて、虫けら共の血飛沫を受けた体を洗い流す。血生臭い感覚と匂いとを排水溝へと流し込み、仕事の痕跡を消してからクオンの眠る部屋に入った。


「……ん」

狭くはないが、特別広く誂えている訳でもない。ベッドの上、片側半分にその身を丸くして眠る子供。もう片半分にそっと潜り込めば、ささやかな振動を敏感に感じ取った子供は緩く身じろいだ。

触りたい。しかし今触れれば確実に起こす。
こちらに体を向けて浅い眠りの中をさ迷う子供を暗がりの中で見つめながら、頭を撫でたいのを堪えて自らも体を横たえた。拳一つ分の距離を開けるのは、元より眠りの深くない子供は俺が触れればすぐに目を覚ますから。朝までまだ時間はある。せめてそれまで寝かせてやりたい。

クオン……と。唇だけ動かして囁いた。
この子供の名を俺は知らない。言おうとしていたのを自分で止めさせた。本来の名で呼びたいと思う日がこようとは三年前の俺は微塵も思っていなかったが、馴染んだ呼称をこの口で刻めばそこには恵愛と庇護欲しか含まれていない。

ただの子供だ。爛れた街に身を置いて、外に出たがっていた小さな子供。どれだけ酷い目に遭ってきたかなど、時折見せる冷めた眼と何事にも動じない精神からだいたいの想像はつく。
ひたすら無邪気なだけなら早々に追い出していただろうが、社会の裏を知りすぎた子供を中途半端に放置するのはどうにも惜しかった。

本当の名はなんと言うのだろうか。それを俺が音にした時、この子供はどんな顔をするのだろうか。

「……クオン」

俺が与えた最低な名が空気に乗った。囁くよりも、もっとさらに小さな声だ。だがその些細な音の振動で、この子供は眠りの中からたちまち舞い戻ってくる。

「んん……」
「…………」

起きたな。これはもう覚醒寸前の気配だ。
案の定クオンは身じろぎと共にゆっくりと瞼を上げ、傍らに俺の姿を認知すると寝起きにも拘らず柔らかに微笑んだ。

「……おかえりなさい」
「……ああ」

ストンと胸に何かが落ちる。温かく、じんわりと。
拳一つ分の距離をクオンは躊躇わずに埋めてきて、俺にぴったりとくっつくと肩口に顔を埋めて舌足らずに囁いた。

「抱きしめて」
「…………」

言われずとも、勿論そうする。起きてしまったのであれば遠慮など不要だ。三年前よりは大分育ったが、それでも幼さの残る体をしっかりと腕に抱いた。手に馴染む形のいい頭を撫で、髪越しに額へと唇を落とす。
クスクスと腕の中から漏れ聞こえる笑い声。溜息をつきたくなるような充足感に包まれ、自ずと抱きしめる腕にも力が入る。

「マスター」
「……なんだ」
「俺、明日で十六です」

唐突に告げられた。年齢は、この子供に関して俺が知っている数少ない情報のうちの一つだ。
明日でこいつは十六歳になる。その年を強調するクオンに、俺もすかさず言いたい事の意味を悟った。

「……そうだな」
「約束、覚えてますか?」
「…………」
「明日になったら、三年前の約束ちゃんと守ってくださいね」
「…………早く寝ろ」

俺の答えに、明らかに不満げな様子で食いついてこようとする。それをきつく抱きしめて制し、強引に黙らせて俺は目を閉じた。しかしこの子供がそれで納得するはずもなく。

「マスター、ちょっと。はぐらかさないでください。覚えてるんでしょう?」
「……疲れてるんだ。寝かせろ」

軽くあしらおうとするがこいつもこいつでなかなか折れない。自分で抱きしめろと言ったくせに、俺の胸に手を付いて埋まっていた顔をピョコッと上げた。
暗がりに慣れた目ははっきりとまではいかなくともおおよそ相手の顔を捉える。不満そうな顔つきは、どうやら俺を逃がす気はないと訴えていた。

「飼い主なら犬の世話はきちんとしないと」
「バカでもいいが駄犬を飼った覚えはない。俺を困らせるな」
「だって……あなたのものになりたい」
「もうなってるだろ」
「違う。まだです。まだなれていない」

切なげに歪む顔。この表情は珍しい。小さく息をつき、ポンポンと頭を撫でて宥めた。
しかしそれが、むしろこいつの不満を煽る。俺を見つめる眼には確かな熱が込められていた。

「……こうやってあなたに触られるのは嬉しいけど、子ども扱いはもう嫌だ」
「…………」
「マスター。俺じゃダメなんですか……?」

ポスっと、再び顔を埋めて擦り寄ってくる。背を軽く撫でて落ち着けようとするものの、この動作こそクオンの言う子ども扱いなのだろう。
一瞬はたと動きを止めたかと思うと、より一層甘えた仕草で体を密着させて、上掛けの下では子供のスラリとした足が俺の足に絡んできた。

「……クオン」
「男だから? それともまだ大人じゃないから?」
「……違う」
「じゃあどうして。俺はあなたが欲しいのに」

声は平坦だが僅かな震えが滲んだ。出会った翌日に身売りを提言してきた少年は、その後数か月すると俺の物になる事を望んだ。
子供の口が、そう刻んだのだ。抱いて下さいと。幼い顔つきと未成熟な体を目の前に晒し、真っ直ぐ俺を見上げて言いのけた三年前の子供には心底驚かされた。

本音を言ってしまえば今すぐにだって抱きたい。子供だろうが男だろうが、全身で俺への好意を示す少年を愛しく思わないはずがなかった。
抱いて、自分の物にして、かつて子供が相手をしてきた大人達の痕跡をひとつ残らず俺で塗り潰してしまいたい。俺だけで埋め尽くして、いっそもう二度と離れられないくらいにその記憶に深く刻み込んでやりたい。

そこまで思う。この子供が俺を欲しがる以上に、俺はこの子供が欲しくて仕方がない。これまでの人生の中で感じた事のない程の独占欲と情欲は、成長とともに子供の身の内から溢れる色気が増すごとに刻々と大きくなっていった。
抱きたい。食らい尽くしてしまいたい。快楽だけで目一杯満たし、一人では上がって来られなくなるまで深く深く溺れさせてしまいたい。

けれどきっとそれは子供の望みを叶えた事にはならない。満たせるのは己の醜い欲望だけで、口でなんと言おうともこの子供はおそらくそれを求めてはいないのだろう。

「……あなたに抱かれたい」
「よせ」
「なんで……っ」

自覚さえ持てない、深い闇の中。この子供は、自らの体が示す反射的な拒絶を察知していない。

だってお前は泣くだろう。俺が欲情を込めた手で触れば途端に、お前は俺を嫌悪するだろう。
たとえそれが無意識的であっても。一つの境界を保つ事で手に入れる事の出来たお前を、みすみす逃してしまうのは俺の本意ではない。不快感に染まった眼が憎しみを含めて俺を見上げるのかと思うと、それはいっそ死とは比べ物にならない程の恐怖を抱かせた。

誰に憎まれようとも殺しと言う生きるための術をやめる事は無かった。しかしこの子供に憎悪の念を抱かれるのかと思うと、これ以上触れる事は決してできそうにない。




手酷く、扱われた事もあったのだろう。小さな心は恐怖で打ちのめされた事だろう。深く意識を落とす事の得意でない子供は、時々浅い眠りの淵で夢にうなされる。いやだ。やめろと。うわ言のようにか細く泣きながら。
ここに連れてきてからしばらく経った頃、この子供が抱えている恐怖の深さに気付かされた。普段はほんの微細な音や振動だけで目を覚ますはずの子供が、夢に囚われているその時は揺すってもなかなか起きない。隣で苦しむ幼い子供を悪夢を呼び起こす記憶の中から拾い上げようと、頬に伝う涙に唇を寄せて細い体を抱きしめた事があった。

「っ……!」
「クオン……?」

しかしその直後、この子供が見せた姿は紛れもなく本心でしかなかった。ぱちりとただでさえ大きな目を見開き、恐れと憎しみの感情を剥き出しにして俺を拒絶したあの時の顔。

「や、だ……っ……嫌だッ、触るな……」
「おい……クオン……」

腕の中でがむしゃらに暴れだし、肩やら胸やら手当たりしだいに殴り掛かってくる。泣き叫ぶその眼は俺を映さず過去の記憶に怯え、カタカタと震える小さな体は力の限り大人の男の腕を拒否した。

「やだ、ヤダっ、やめろ!」
「っクオン……」

叫んだその瞬間、ピタッと子供は暴れるのをやめた。途端に大きな目からはボロボロと涙が溢れ出す。やがて嗚咽を漏らしながら纏わりつく俺の腕に打ち震え、再び眠りに落ちるまで恐怖心を露わにさせて泣き続けた。



翌朝目を覚ましたクオンにその晩の記憶は無かった。しかしそれ以来、俺はどんなに隣でうなされていようとも夢の中にいるクオンには触れる事ができなくなった。

こいつは泣くから。人殺し相手に簡単に懐く子供が、大人の男の腕には恐怖しか抱かない。
数年経っても尚、悪夢に苦しみ夜中にうなされなければならない子だ。徐々にではあるが折角薄れてきた過去の記憶を、俺がこの手で上書きしてしまう事は許されていい事ではない。

今こうしてクオンを腕に抱く俺にあるのは愛欲ではない。気を緩めればたちまち顔を出すそれは胸の奥に深く押し沈め、慈しみと労わりだけを込めて子供の細い体を抱きしめる。
これ以上は進めない。痛いと口に出さぬまま傷付いてきた子供を、俺がこの手で苦しめる事なんてできない。

「マスター……」
「寝ろ」
「……捨てないで」

ズキリと心臓が痛むことを、この子供に出会って学んだ。泣きそうな声で紡がれたそれ。対価なくして物を与えられる事はあり得ないと、そう信じる子供に胸が痛んだ。

「なぜそう思う」
「……分かりません」
「俺はお前を手放す気はない。お前は俺の傍にいるんだろう?」
「……はい」

額に口付けを落とし、何も恐れる事は無いと言い含めた腕でクオンを抱き直した。足はいまだ絡んだまま。ゆっくり離れようとすればすかさずクオンが追いすがるから、俺も諦めて目を閉じた。

「マスター」
「…………」
「…………好きです」

それが耳に届いても目は開けない。あやすように子供の背を叩き、これが俺の応えられる限度だと無言で訴えた。

今よりも幼かったあの頃から頭のいい子供ではあった。しかしこいつは俺を好きだと言う。俺が応えられない事を知りながら、それでも懸命に手を伸ばしてくる。
好きだから俺と共にいるのだと。好きにしていいから捨てないでくれと。見返りなどなくとも、俺はこの子供を手放す事などできないのに。

「……俺にはあなたしかいない」
「…………」

そこに打算は無く、しがみ付いてくる手は弱々しい。

三年前、自らの体を差し出してきた子供を適当にあしらう形でその場しのぎの約束を交わしたのは俺だ。抱いてくれと言って聞かず、余りにも煩かったから。お前が十六になったら抱いてやる、と。
まさかその時が来るのをあれ以来待ち続けていたなんて。生活の中で触れ合う端々、時折見せる子供らしくない妖艶な顔。それを知らなかったと言うのは白々しすぎるし明らかな嘘だけれど、それにしたってここまで強く執着されるとは。

頼むからこれ以上煽ってくれるな。俺にまで、娼婦の真似事なんてしなくていい。

「……クオン」
「…………」

俺の反応を拒絶と捉えたらしい子供は、大人しく腕の中に収まりつつもすっかり臍を曲げてしまった。普段であれば黙れと言っても喋り続けるその口が、物を語る事を封じて俺に対するささやかな抵抗を見せる。
叱りつけてやればいい。立場を分からせるにはちょうどいい機会だ。しかし年相応に子供らしい態度に愛着を覚えるくらい、俺はどうやらこの少年におかしくなっているようだった。腐った世の中への諦観を抱く冷めた大人の顔よりも、この子供には幼さを含めたガキっぽい表情を浮かべていてほしい。そう思うのはきっと俺のエゴに違いない。

「お前は俺のものだ。お前が泣いて嫌がったとしても逃がす気はない。今さら手放せる訳がねえだろう。こんなにも……」
「…………」
「……愛しているのに」

これまでにも、囁いてきた事はある。時にはちょこまかと周りで騒ぎ立てるこいつにせがまれるがままに。時には宥めすかすための道具として。
愛していると、その時々によって含む温度と色合いに差はあれど。だがそれを口にするときに、一度たりとも本心でなかった事はなかった。人を想う事など気づいた頃には忘れ去っていたこの俺が、たった一人の小さな存在に容易く心を奪われた。

足枷でしかない。生きるにしても死ぬにしても、誰かを愛するには俺の足元は地下深くに埋まりすぎていた。
俺にその資格はない。けれどもう手遅れだ。この子供を拾ったあの日から、いとも簡単に俺を囚えたあの眼差し。

「……クオン」

腕の中で子供は小さく身じろいだ。埋めていた顔を上げ、ゆっくり俺と視線を交わす。

「……ごめんなさい。あなたはやっぱりいい人だ。俺も悪い子供なんかじゃなくていい子供になりたかった」
「なにを…」
「おやすみなさい、マスター。朝まで抱きしめていてくれますか?」

にっこりと、今し方の言葉のやり取りなどなかったかのように笑みを浮かべた。言いかけた俺を遮ったその幼い顔つきに子供らしさは無い。心だろうと言葉だろうと思うままに偽る術を知る少年は、従順な態度を作って俺との間にたちまち隔たりを築いた。

押し黙る俺の応えを待たず、子供は再びこの胸元に顔を埋めた。こうなっては心を開かせることは難しい。これ以上の問答は諦め、頭を伏せて子供の柔らかい髪に唇を押し付けた。
クスクスと、腕の中で漏れ出す笑い声。一見すれば温かなそれに、子供の本音を見る事はできない。

「くすぐったいです」
「許せ」
「マスターいい匂い」
「血生臭えだけだろ」
「そんなことない。あなたはいつもいい匂いだ」

血と硝煙に塗れてきた身体。確かにそれは洗い流せば落ちる。それでも長年続けているせいか、常に鼻に付く錯覚を起こしては汚れた己を思い知らされた。
そんな俺を、またしてもこの子供は。綺麗だとかいい匂いだとか、俺には相応しくない言葉を用いて毎日毎晩柔らかく口説いてくる。

「マスター」
「……もう話は終わりだ。寝ろ」
「もっと強く抱きしめて」

妖艶に、色香を纏い。本気であればあるほど子供らしさを取り戻す少年は、冗談にしたければしたいほど夜の色を強くさせる。
不安定な心はいまだ閉ざされたまま。自分を受け入れてほしいと強請る子供は、決して俺をある一定の境界から内へとは踏み込ませない。

「おやすみなさい」
「……ああ。おやすみ」

カラダの奥に鈍く突き刺さる。おそらくは悲しいとか切ないとかその類なのだろうが、とうの昔にそんなものは捨て去ったとばかり思っていた俺には良く分からない。
手に入れたいと望むのは俺の方だ。本当はこの子供自身が、無意識にそれを遠ざけている。

こんなにも欲しい。こんなにも愛している。けれど手に入る事だけは無い。守るべき親愛なる存在を抱きしめ、俺は今夜も無理矢理に目を閉じる事しかできなかった。




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