2 / 302
2. お隣さんⅡ
しおりを挟む
瀬名さんからもらったケーキは悔しいことに絶品だった。その辺に売っている二個入りとかの安いショートケーキとは違う。オシャレな名前がついていそうなキラキラした可愛いケーキだ。漂う高級感はダテじゃなく、風呂に入る前と風呂から上がった後の計二回、パクパクと食べ進めてしっかり満足させられた。
風呂上がりのケーキを完食した後は、どうしようかと迷った末にローテーブルの前から腰を上げた。ベランダに出られる履き出し窓をカラカラと中から開ける。
背の高いビルが建ち並んでいる街中のように明るくはない。住宅街の静かな夜だ。
手すりの上に腕を乗せた。夏の初めの夜風を感じる。その風向きに合わせて微かに、煙たいにおいがここまで届いた。
「よう」
「……どうも」
煙の発生源はお隣。瀬名さん宅のベランダだ。仕切りがあるからお互いに身を乗り出しでもしなければ顔は見えない。風に混じって漂ってきた煙草の煙もすぐに消えて感じなくなった。
瀬名さんは喫煙者だ。だけど室内では吸わないらしい。吸う時はいつもベランダに出る。風向きによっては吸っていた煙草を、躊躇わずに消してしまうが。
煙草を消させているのは俺だろう。消してくれと頼んだわけじゃない。瀬名さんが俺のためと言ったこともない。けれどきっと、原因は俺だ。
前に一度このベランダで、漂ってきた煙草の煙にほんの少しだけ咳き込んだ。ケホッと思わず、ごくごく軽く。あれ以来瀬名さんは吸っていた煙草を何も言わずに消すようになった。
俺がベランダに出てくるという事は、喫煙中の瀬名さんを邪魔するということだ。でも俺は出てくるのをやめない。この人も不満のあるような事は言わない。瀬名さんとはしばしばここで、仕切り越しに言葉を交わす。
「……ケーキごちそうさまでした」
「食ったのか」
「ええ、さっき。ウマかったです」
「なら良かった。また買ってくる」
「結構です。もういりません」
ふっと、仕切りの向こうで瀬名さんが小さく笑った。
絶対にまた買ってくる気だ。それを今日みたいに強引に受け取らせて。俺はそれを受け取って。
「他に好きな物は?」
「言ったら買ってくるんでしょ」
「そうだな」
「じゃあ言いません」
「つれねえな」
言葉は不満を表すそれでも、穏やかな声の質はどこか満足げ。
瀬名さんは俺を否定しない。グイグイくるけど、一定の距離は保たれたまま。毎晩毎晩玄関の外から、贈り物を手渡していくだけ。
「なんでいつも、こんなに色々くれるんですか」
「お前の気を引きたい」
「……俺の気なんか引いて……どうするんですか」
仕切りがあるから顔は見えない。分かっているが、瀬名さんのいる右側は見ないようにしつつ問いかけた。
すると少々の間を置いた後、いたずらっぽく返されたそれ。
「どうしてやろうか?」
ヒクッと、自分の喉が鳴った。顔が強張る。緊張だ。緊張した。あとはちょっと、びっくりもした。
俺が何も言えずに黙っていると、瀬名さんは再び小さく笑った。
「冗談だ。見返りは求めないから安心しろ」
「…………」
「ただまあ、食事の一回くらいは付き合ってもらいたいもんだが」
初めて会った時からずっと、事ある毎に誘ってくる。そのくせいつなら暇かとか、何日後の何時ならどうかとか、そういう具体的な誘いは一切かけられたことがない。
急かしてこない。気長に待っている。しつこいくせに無理強いはしない。だから警戒していても、うっかりすると気が緩みそうになる。
もしも仮に俺と食事をしたとして、果たしてこの人は楽しめるだろうか。たぶん話は合わないだろう。働く会社員と呑気な学生だ。社会的な身分が違う。この人は立派な大人で、俺はまだまだ青くさいガキ。
きっとこの人は楽しくならない。俺だってどう思うか分からない。
俺達の共通点はただ一つ。男という性別に限る。この人は男で、俺も男で、俺の気を引いたところでこの人にはなんの得もない。
「……物好きって言われませんか」
「言われねえな」
「物好きですよ。あなたは絶対」
「お前が言うならそうなのかもしれない」
何が面白いのだか、楽しそうな雰囲気がその声から伝わってくる。
本当は単にからかわれている、だけなのかも。その線が一番妥当だろう。最もあり得る可能性だ。
人の事をからかって楽しんでいるだけかもしれないそんな男に、そんな男の言動に、いちいち動揺させられている俺はなんなのか。
「……瀬名さん」
「ん?」
嫌いじゃない。ここで話すのが。残念なことに嫌だとは思えない。
だから今ではこうしてしょっちゅう、このベランダにノコノコ出てくる。
「……プリンとか結構、好きかもしれません」
右側は見られないまま、ボソッと素っ気なく呟いた。聞こえなくてもおかしくないような声の大きさだったと思う。
聞こえていなければそれでいい。なんだって聞き返されたとしたら、なんでもないって、そう言えばいい。
自分のために用意した逃げ道だった。どうやら耳がいい瀬名さんによって、それはあっさり潰された。
「分かった」
飾り気のない返事が右隣から戻ってきた。心なしか嬉しそうに感じた。そう感じてしまったのは、俺の思い違いかもしれないけれど。
仕切りがあって良かった。声しか届かない場所で良かった。今の俺のこの顔は、瀬名さんにだけは見せられない。きっとそういう顔をしている。
風呂上がりのケーキを完食した後は、どうしようかと迷った末にローテーブルの前から腰を上げた。ベランダに出られる履き出し窓をカラカラと中から開ける。
背の高いビルが建ち並んでいる街中のように明るくはない。住宅街の静かな夜だ。
手すりの上に腕を乗せた。夏の初めの夜風を感じる。その風向きに合わせて微かに、煙たいにおいがここまで届いた。
「よう」
「……どうも」
煙の発生源はお隣。瀬名さん宅のベランダだ。仕切りがあるからお互いに身を乗り出しでもしなければ顔は見えない。風に混じって漂ってきた煙草の煙もすぐに消えて感じなくなった。
瀬名さんは喫煙者だ。だけど室内では吸わないらしい。吸う時はいつもベランダに出る。風向きによっては吸っていた煙草を、躊躇わずに消してしまうが。
煙草を消させているのは俺だろう。消してくれと頼んだわけじゃない。瀬名さんが俺のためと言ったこともない。けれどきっと、原因は俺だ。
前に一度このベランダで、漂ってきた煙草の煙にほんの少しだけ咳き込んだ。ケホッと思わず、ごくごく軽く。あれ以来瀬名さんは吸っていた煙草を何も言わずに消すようになった。
俺がベランダに出てくるという事は、喫煙中の瀬名さんを邪魔するということだ。でも俺は出てくるのをやめない。この人も不満のあるような事は言わない。瀬名さんとはしばしばここで、仕切り越しに言葉を交わす。
「……ケーキごちそうさまでした」
「食ったのか」
「ええ、さっき。ウマかったです」
「なら良かった。また買ってくる」
「結構です。もういりません」
ふっと、仕切りの向こうで瀬名さんが小さく笑った。
絶対にまた買ってくる気だ。それを今日みたいに強引に受け取らせて。俺はそれを受け取って。
「他に好きな物は?」
「言ったら買ってくるんでしょ」
「そうだな」
「じゃあ言いません」
「つれねえな」
言葉は不満を表すそれでも、穏やかな声の質はどこか満足げ。
瀬名さんは俺を否定しない。グイグイくるけど、一定の距離は保たれたまま。毎晩毎晩玄関の外から、贈り物を手渡していくだけ。
「なんでいつも、こんなに色々くれるんですか」
「お前の気を引きたい」
「……俺の気なんか引いて……どうするんですか」
仕切りがあるから顔は見えない。分かっているが、瀬名さんのいる右側は見ないようにしつつ問いかけた。
すると少々の間を置いた後、いたずらっぽく返されたそれ。
「どうしてやろうか?」
ヒクッと、自分の喉が鳴った。顔が強張る。緊張だ。緊張した。あとはちょっと、びっくりもした。
俺が何も言えずに黙っていると、瀬名さんは再び小さく笑った。
「冗談だ。見返りは求めないから安心しろ」
「…………」
「ただまあ、食事の一回くらいは付き合ってもらいたいもんだが」
初めて会った時からずっと、事ある毎に誘ってくる。そのくせいつなら暇かとか、何日後の何時ならどうかとか、そういう具体的な誘いは一切かけられたことがない。
急かしてこない。気長に待っている。しつこいくせに無理強いはしない。だから警戒していても、うっかりすると気が緩みそうになる。
もしも仮に俺と食事をしたとして、果たしてこの人は楽しめるだろうか。たぶん話は合わないだろう。働く会社員と呑気な学生だ。社会的な身分が違う。この人は立派な大人で、俺はまだまだ青くさいガキ。
きっとこの人は楽しくならない。俺だってどう思うか分からない。
俺達の共通点はただ一つ。男という性別に限る。この人は男で、俺も男で、俺の気を引いたところでこの人にはなんの得もない。
「……物好きって言われませんか」
「言われねえな」
「物好きですよ。あなたは絶対」
「お前が言うならそうなのかもしれない」
何が面白いのだか、楽しそうな雰囲気がその声から伝わってくる。
本当は単にからかわれている、だけなのかも。その線が一番妥当だろう。最もあり得る可能性だ。
人の事をからかって楽しんでいるだけかもしれないそんな男に、そんな男の言動に、いちいち動揺させられている俺はなんなのか。
「……瀬名さん」
「ん?」
嫌いじゃない。ここで話すのが。残念なことに嫌だとは思えない。
だから今ではこうしてしょっちゅう、このベランダにノコノコ出てくる。
「……プリンとか結構、好きかもしれません」
右側は見られないまま、ボソッと素っ気なく呟いた。聞こえなくてもおかしくないような声の大きさだったと思う。
聞こえていなければそれでいい。なんだって聞き返されたとしたら、なんでもないって、そう言えばいい。
自分のために用意した逃げ道だった。どうやら耳がいい瀬名さんによって、それはあっさり潰された。
「分かった」
飾り気のない返事が右隣から戻ってきた。心なしか嬉しそうに感じた。そう感じてしまったのは、俺の思い違いかもしれないけれど。
仕切りがあって良かった。声しか届かない場所で良かった。今の俺のこの顔は、瀬名さんにだけは見せられない。きっとそういう顔をしている。
152
あなたにおすすめの小説
病弱の花
雨水林檎
BL
痩せた身体の病弱な青年遠野空音は資産家の男、藤篠清月に望まれて単身東京に向かうことになる。清月は彼をぜひ跡継ぎにしたいのだと言う。明らかに怪しい話に乗ったのは空音が引き取られた遠縁の家に住んでいたからだった。できそこないとも言えるほど、寝込んでばかりいる空音を彼らは厄介払いしたのだ。そして空音は清月の家で同居生活を始めることになる。そんな空音の願いは一つ、誰よりも痩せていることだった。誰もが眉をひそめるようなそんな願いを、清月は何故か肯定する……。
【完結】君の穿ったインソムニア
古都まとい
BL
建設会社の事務として働く佐野純平(さの じゅんぺい)は、上司のパワハラによって眠れない日々を過ごしていた。後輩の勧めで病院を受診した純平は不眠症の診断を受け、処方された薬を受け取りに薬局を訪れる。
純平が訪れた薬局には担当薬剤師制度があり、純平の担当薬剤師となったのは水瀬隼人(みなせ はやと)という茶髪の明るい青年だった。
「佐野さんの全部、俺が支えてあげますよ?」
陽キャ薬剤師×不眠症会社員の社会人BL。
発情期のタイムリミット
なの
BL
期末試験を目前に控えた高校2年のΩ・陸。
抑制剤の効きが弱い体質のせいで、発情期が試験と重なりそうになり大パニック!
「絶対に赤点は取れない!」
「発情期なんて気合で乗り越える!」
そう強がる陸を、幼なじみでクラスメイトのα・大輝が心配する。
だが、勉強に必死な陸の周りには、ほんのり漂う甘いフェロモン……。
「俺に頼れって言ってんのに」
「頼ったら……勉強どころじゃなくなるから!」
試験か、発情期か。
ギリギリのタイムリミットの中で、二人の関係は一気に動き出していく――!
ドタバタと胸きゅんが交錯する、青春オメガバース・ラブコメディ。
*一般的なオメガバースは、発情期中はアルファとオメガを隔離したり、抑制剤や隔離部屋が管理されていたりしていますが、この物語は、日常ラブコメにオメガバース要素を混ぜた世界観になってます。
バツイチ上司が、地味な僕を特別扱いしてくる
衣草 薫
BL
理性的でクールなバツイチ上司・桐原恒一は、過去の失敗から、もう誰も必要としないと決めて生きてきた。
男が好きだという事実を隠し、「期待しなければ傷つかない」と思い込んできた部下・葉山直。
すれ違いと誤解の果てに、直が職場を去ろうとしたとき、恒一は初めて“追いかける”ことを選ぶ。
選ばれないと信じてきた直と、逃げないと決めた恒一。
二人の距離が近づくことで、直は「ここにいていい」と思える場所を見つけていく。
元ノンケ上司×自己肯定感低め部下の社会人BL。※ハッピーエンド保証。
今日もBL営業カフェで働いています!?
卵丸
BL
ブラック企業の会社に嫌気がさして、退職した沢良宜 篤は給料が高い、男だけのカフェに面接を受けるが「腐男子ですか?」と聞かれて「腐男子ではない」と答えてしまい。改めて、説明文の「BLカフェ」と見てなかったので不採用と思っていたが次の日に採用通知が届き疑心暗鬼で初日バイトに向かうと、店長とBL営業をして腐女子のお客様を喜ばせて!?ノンケBL初心者のバイトと同性愛者の店長のノンケから始まるBLコメディ
※ 不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる