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15.強い大人と無力な子供Ⅰ
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たった数日で生活は見事に一変したが、比内さんと出会ってからはまだ二週間も経っていない。辿った時間を考えてみるとごくごく短いものだった。
事務所の定休は土日と祝日。土曜だろうが日曜だろうが比内さんは何かしらやっているけど、土曜日の今日は朝から外出の用があったようだ。昼過ぎには帰ると言ってスーツを着て出ていった。比内さんを玄関から見送った俺は、広い家に一人残って掃除やら洗濯やら。
部屋の中をパタパタ行き来しているうちに午前中が過ぎていた。そろそろ食事の準備をしよう。ベランダの布団をひっくり返してリビングに戻ったちょうどその時、玄関でガチャリと扉が開いた。
リビングに入ってきた家の主。仏頂面はいつも通りだ。
「お帰りなさい」
「ただいま」
出ていく時にも思ったけれど今日も仕事だったのだろうか。右手に持っているのは黒いバッグだ。朝はそんな物を持っていたっけ。
ソファーに腰を下ろした比内さんは、そのバッグをドサッとテーブルの上に置いた。
「陽向」
「はい?」
「来い。話がある」
俺の頭の中には昼食のメニューしかなかった。キッチンに行こうとするのを呼び止められたから素直に足を向け、斜め前の四角いソファーにちょこんと浅く腰かけた。
俺の目の前で比内さんは無造作にバッグへと手を突っ込んだ。そこから取りだされた何か。ボンボンとテーブルに積み上げられたのは、額面の一番大きな札束。
「……え」
「お前の金だ」
「……は?」
「正確には、お前ら親子の金か」
「…………」
ちょっと。ちょっと、意味が分からない。目の前に置かれた大量の万札。平然としている比内さんの顔と、その札束とを交互に見比べた。
口が利けない。言葉が出ない。喉が張り付いて引っかかっている。唖然とする俺とは対照的に、比内さんはいつも通り冷静だ。
「お前を追い立てていた奴らとここしばらく交渉を続けてきた。しかしまあクソ面倒な事にあいつら電話じゃ埒が明かねえ。仕方ねえから直接事務所に行ってきた。その金はついでだ。ちょうど良く金庫が置いてあったんでな。預かった」
「…………」
預かった。預かったってなんだ。返しておいてくださいとでもあいつらが言ったと言いたいのか。
「分かっていると思うがそれで全部じゃねえぞ。金庫はあっても中身は貧相なもんだった。隠し金なら他にもあるだろうが奴らもそこまで素直には出してこない」
「あ、の……」
「心配しなくても最後まできっちり取り返してやる。あともう少しだけ待ってろ」
心配しているのはそこじゃない。
どういうことだ。とうとう瞬きもろくにできなくなりながら、乾いた目で比内さんを窺う。
「……どうやって……」
こんな大金を弁護士に預ける闇金業者がどこにいる。金庫の中身もどこが貧相か。目の前にある紙幣の分量は決してささやかな枚数じゃなくて、それより何より俺が知りたいのはこの状況を作った事の経緯。
何をどうすればこうなるんだ。予兆も前触れも何もなかった。土曜日の昼過ぎに話があると言って差し出されたのが金の山。あり得ない。やっぱりおかしい、普通じゃない。比内さんの顔を凝視していれば、この人は堂々と言い放った。
「弁護士ナメんな」
「…………」
職業の問題じゃないと思う。
***
どんな話し合いをしてきたのかは本能がやめろと言うから聞けない。比内さんが言っていた通り、残りの金も数日後には俺の手元に戻ってきた。今まで奴らに払ってきた分そっくりそのまま全額だ。
俺と母さんは長い間あいつらに追い詰められてきた。それを比内さんはこの短期間で、一人であっさりと引き下がらせた。
減らない仕組みになっていた借金はもうない。あいつらが返せと言っていた金を払う必要はなくなった。
力のある大人と何もないガキの差がこれだ。全てから解放された俺に残ったのは金だけだった。比内さんに言われてその金も全て銀行口座にまとめて入れたが、口座は新しく開設した。これも比内さんの指示だった。
今まで使っていた口座は解約しろ。たとえ些細な繋がりだろうと残しておくのは得策じゃねえ。
妙な真似をさせないための措置。そう説明した比内さんは、相変わらず俺を家に置いている。
解放された。あいつらとの繋がりも切れた。怖いものはどこにもない。追いかけ回される生活は比内さんが終わりにさせて、殴られた顔を隠すために学校を休む必要ももうない。
これが普通の、当たり前の平和だ。目を覚まして朝食を作って学校に行って勉強もして、帰ってきたら家のことをする。無力な俺が唯一できる比内さんへの恩返しだ。
金で返そうとしても結局は受け取ってもらえなかった。あんなもん仕事のうちに入らねえ。取り返してくれた金の中からお礼を払おうとした俺に、比内さんにはそう言った。
「明日からはもう、送り迎えとか大丈夫です」
全部終わったはずなのに、俺は今も比内さんの保護下。借金は一円もないしその金も返ってきた。それでもまだ朝夕の送り迎えは欠かさずにしてもらっていて、念のためにと言った比内さんは今朝も俺を車に乗せた。
行き先である学校はもうすぐそこ。遠いと言うほどの距離ではないけど、手間であることは間違いない。
「あいつらとはもう切れましたし……」
「その判断は俺がする。お前は黙って俺に従え」
「でも……」
「口答えか」
柔らか味のない声に黙り込んだ。比内さんの言葉は絶対。俺は何に対しても無力。モヤモヤとくすぶるわだかまりをぶつける先が見当たらず、情けなく口を閉ざして俯き加減に視線を落とした。
その間にも車は進む。ハンドルを握る比内さんは、前を見たまま吐き捨てた。
「不満があるなら言え」
「そんな……」
「いい加減ウゼぇんだよ。四六時中ガキのシケた顔見せられるこっちの身にもなってみろ」
この顔がシケた顔に比内さんには見えるらしい。闇金から解放されて金まで取り返してもらったのに、そう言えば俺はまだ、ありがとうも言っていない。
説明のつかない気持ちだった。本当は分かっているけど、こんなことを認めたくない。
匿われてぬるま湯につかって、そうしているうちいつの間にか知らない所で決着がついていた。終わりの見えなかった地獄みたいな日々に、比内さんが終止符を打った。
一度は全てを失った。自分ではどうにもできなかった。それを比内さんはたったの数日で簡単に元へと戻した。
この人は俺と違う人だ。この人には、力がある。
「悔しいんだろ。お前」
運転席から投げつけられた。グッと奥歯を噛みしめた。
認めたくないと思う事まで、この人はこんな、容赦なく。
「あいつらに全部ぶっ壊された。手も足も出せねえでいるうちに札束だけが戻ってきた。お前の中に残ってんのはやり切れねえ感情一つだ。だが生憎それをぶつけるアテはない。手近なとこにいる俺に向かって食ってかかる訳にもいかねえだろうからな」
「…………」
「ガキってのは図星刺されるとすぐにだんまり決め込みやがる」
どれもこれも言い返せない。どれもこれもその通りだった。
金だけが戻ってきたって、失くしたものは返らない。
「たとえ無力なクソガキだろうとそんな事は関係ない。世の中はいつだってそうだ。この先もそれだけは変わらねえよ」
学校の裏門が見えてきた。比内さんの言葉を聞きながら拳をぎゅっと握りしめる。
敷地の塀に沿って車を停めた比内さんは、前を見たまま俺に向けて呟くようにそれを言った。
「理不尽なもんだろ。なあ?」
同意を求められたのか。ほとんど独り言のようだった。
誰にだって色々あるのは、俺もちゃんと知っている。
「強くなれなんて陳腐な事は言わねえが……」
比内さんはただ前を見ていた。不愉快そうな顔でもないし、怒っている時の顔とも違う。
「弱いままなら周りの奴らはすぐに嗅ぎ付けて足下見てくる。それが嫌ならせめてシケたツラは晒すな」
前を見ていたその顔が、一瞬だけ俺の方に向いた。けれどすぐあとには逸らされている。
「さっさと行け。遅刻するぞ」
「……はい」
結局ありがとうは言えなかった。
事務所の定休は土日と祝日。土曜だろうが日曜だろうが比内さんは何かしらやっているけど、土曜日の今日は朝から外出の用があったようだ。昼過ぎには帰ると言ってスーツを着て出ていった。比内さんを玄関から見送った俺は、広い家に一人残って掃除やら洗濯やら。
部屋の中をパタパタ行き来しているうちに午前中が過ぎていた。そろそろ食事の準備をしよう。ベランダの布団をひっくり返してリビングに戻ったちょうどその時、玄関でガチャリと扉が開いた。
リビングに入ってきた家の主。仏頂面はいつも通りだ。
「お帰りなさい」
「ただいま」
出ていく時にも思ったけれど今日も仕事だったのだろうか。右手に持っているのは黒いバッグだ。朝はそんな物を持っていたっけ。
ソファーに腰を下ろした比内さんは、そのバッグをドサッとテーブルの上に置いた。
「陽向」
「はい?」
「来い。話がある」
俺の頭の中には昼食のメニューしかなかった。キッチンに行こうとするのを呼び止められたから素直に足を向け、斜め前の四角いソファーにちょこんと浅く腰かけた。
俺の目の前で比内さんは無造作にバッグへと手を突っ込んだ。そこから取りだされた何か。ボンボンとテーブルに積み上げられたのは、額面の一番大きな札束。
「……え」
「お前の金だ」
「……は?」
「正確には、お前ら親子の金か」
「…………」
ちょっと。ちょっと、意味が分からない。目の前に置かれた大量の万札。平然としている比内さんの顔と、その札束とを交互に見比べた。
口が利けない。言葉が出ない。喉が張り付いて引っかかっている。唖然とする俺とは対照的に、比内さんはいつも通り冷静だ。
「お前を追い立てていた奴らとここしばらく交渉を続けてきた。しかしまあクソ面倒な事にあいつら電話じゃ埒が明かねえ。仕方ねえから直接事務所に行ってきた。その金はついでだ。ちょうど良く金庫が置いてあったんでな。預かった」
「…………」
預かった。預かったってなんだ。返しておいてくださいとでもあいつらが言ったと言いたいのか。
「分かっていると思うがそれで全部じゃねえぞ。金庫はあっても中身は貧相なもんだった。隠し金なら他にもあるだろうが奴らもそこまで素直には出してこない」
「あ、の……」
「心配しなくても最後まできっちり取り返してやる。あともう少しだけ待ってろ」
心配しているのはそこじゃない。
どういうことだ。とうとう瞬きもろくにできなくなりながら、乾いた目で比内さんを窺う。
「……どうやって……」
こんな大金を弁護士に預ける闇金業者がどこにいる。金庫の中身もどこが貧相か。目の前にある紙幣の分量は決してささやかな枚数じゃなくて、それより何より俺が知りたいのはこの状況を作った事の経緯。
何をどうすればこうなるんだ。予兆も前触れも何もなかった。土曜日の昼過ぎに話があると言って差し出されたのが金の山。あり得ない。やっぱりおかしい、普通じゃない。比内さんの顔を凝視していれば、この人は堂々と言い放った。
「弁護士ナメんな」
「…………」
職業の問題じゃないと思う。
***
どんな話し合いをしてきたのかは本能がやめろと言うから聞けない。比内さんが言っていた通り、残りの金も数日後には俺の手元に戻ってきた。今まで奴らに払ってきた分そっくりそのまま全額だ。
俺と母さんは長い間あいつらに追い詰められてきた。それを比内さんはこの短期間で、一人であっさりと引き下がらせた。
減らない仕組みになっていた借金はもうない。あいつらが返せと言っていた金を払う必要はなくなった。
力のある大人と何もないガキの差がこれだ。全てから解放された俺に残ったのは金だけだった。比内さんに言われてその金も全て銀行口座にまとめて入れたが、口座は新しく開設した。これも比内さんの指示だった。
今まで使っていた口座は解約しろ。たとえ些細な繋がりだろうと残しておくのは得策じゃねえ。
妙な真似をさせないための措置。そう説明した比内さんは、相変わらず俺を家に置いている。
解放された。あいつらとの繋がりも切れた。怖いものはどこにもない。追いかけ回される生活は比内さんが終わりにさせて、殴られた顔を隠すために学校を休む必要ももうない。
これが普通の、当たり前の平和だ。目を覚まして朝食を作って学校に行って勉強もして、帰ってきたら家のことをする。無力な俺が唯一できる比内さんへの恩返しだ。
金で返そうとしても結局は受け取ってもらえなかった。あんなもん仕事のうちに入らねえ。取り返してくれた金の中からお礼を払おうとした俺に、比内さんにはそう言った。
「明日からはもう、送り迎えとか大丈夫です」
全部終わったはずなのに、俺は今も比内さんの保護下。借金は一円もないしその金も返ってきた。それでもまだ朝夕の送り迎えは欠かさずにしてもらっていて、念のためにと言った比内さんは今朝も俺を車に乗せた。
行き先である学校はもうすぐそこ。遠いと言うほどの距離ではないけど、手間であることは間違いない。
「あいつらとはもう切れましたし……」
「その判断は俺がする。お前は黙って俺に従え」
「でも……」
「口答えか」
柔らか味のない声に黙り込んだ。比内さんの言葉は絶対。俺は何に対しても無力。モヤモヤとくすぶるわだかまりをぶつける先が見当たらず、情けなく口を閉ざして俯き加減に視線を落とした。
その間にも車は進む。ハンドルを握る比内さんは、前を見たまま吐き捨てた。
「不満があるなら言え」
「そんな……」
「いい加減ウゼぇんだよ。四六時中ガキのシケた顔見せられるこっちの身にもなってみろ」
この顔がシケた顔に比内さんには見えるらしい。闇金から解放されて金まで取り返してもらったのに、そう言えば俺はまだ、ありがとうも言っていない。
説明のつかない気持ちだった。本当は分かっているけど、こんなことを認めたくない。
匿われてぬるま湯につかって、そうしているうちいつの間にか知らない所で決着がついていた。終わりの見えなかった地獄みたいな日々に、比内さんが終止符を打った。
一度は全てを失った。自分ではどうにもできなかった。それを比内さんはたったの数日で簡単に元へと戻した。
この人は俺と違う人だ。この人には、力がある。
「悔しいんだろ。お前」
運転席から投げつけられた。グッと奥歯を噛みしめた。
認めたくないと思う事まで、この人はこんな、容赦なく。
「あいつらに全部ぶっ壊された。手も足も出せねえでいるうちに札束だけが戻ってきた。お前の中に残ってんのはやり切れねえ感情一つだ。だが生憎それをぶつけるアテはない。手近なとこにいる俺に向かって食ってかかる訳にもいかねえだろうからな」
「…………」
「ガキってのは図星刺されるとすぐにだんまり決め込みやがる」
どれもこれも言い返せない。どれもこれもその通りだった。
金だけが戻ってきたって、失くしたものは返らない。
「たとえ無力なクソガキだろうとそんな事は関係ない。世の中はいつだってそうだ。この先もそれだけは変わらねえよ」
学校の裏門が見えてきた。比内さんの言葉を聞きながら拳をぎゅっと握りしめる。
敷地の塀に沿って車を停めた比内さんは、前を見たまま俺に向けて呟くようにそれを言った。
「理不尽なもんだろ。なあ?」
同意を求められたのか。ほとんど独り言のようだった。
誰にだって色々あるのは、俺もちゃんと知っている。
「強くなれなんて陳腐な事は言わねえが……」
比内さんはただ前を見ていた。不愉快そうな顔でもないし、怒っている時の顔とも違う。
「弱いままなら周りの奴らはすぐに嗅ぎ付けて足下見てくる。それが嫌ならせめてシケたツラは晒すな」
前を見ていたその顔が、一瞬だけ俺の方に向いた。けれどすぐあとには逸らされている。
「さっさと行け。遅刻するぞ」
「……はい」
結局ありがとうは言えなかった。
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