たとえクソガキと罵られても

わこ

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7.ヘーゼルアイⅠ

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 比内さんが住むマンションまでは事務所から車で十五分程度の距離だった。
 オートロックの共用エントランスを通り、エレベーターが止まったのは八階のフロア。廊下の突き当たりに位置する部屋のドアを開け、招き入れられた室内は広いけれど殺風景だ。
 玄関に足を踏み入れるだけでも緊張した。俺の反応は間違っていなかっただろう。庶民が手を出すにはなかなかの勇気がいりそうなこのマンション。リビングだってやたらと広いが、反対に俺の肩身は狭い。

「座ってろ」

 物さびしいこのリビングにも空調が入れられる。比内さんは俺を残して部屋から一人出ていった。
 人様の家をあちこち見るのは良くないと分かりつつも見回す。小さくなりながら視線だけをぐるりと一周。どこもかしこもピカピカで綺麗で完璧な家だ。

「…………」

 居づらい。

 室内の配色は全体的に落ち着いている。白とか黒とか焦げ茶とかグレーとか。右側へと目をやれば曇りのない大開口の窓。ベランダに出られるのだろうその窓からは、昼間であれば申し分なく陽光が差し込んでくるはずだ。
 正面の大きな液晶テレビは壁面のテレビ台に収まっているためスッキリしていて無駄がない。その前にゆったりと空間を持たせて置かれているガラステーブルと、黒い布張りの長ソファー。同じタイプの一人掛けソファーはテーブルを囲うような形でエル字型に配置されていた。

 窓から見て左手側はオープンキッチンになっている。料理なんてあの人がするのだろうか。キッチン用品の類は目につかないから全て収納されているようだ。白いダイニングテーブルの上にも何が置かれている訳でもなく、かと言って室内のレイアウトの邪魔になるような事もなく。
 とても几帳面そうな部屋だ。完璧なまでに整っている。モデルルームと言われても疑わない。カタログやチラシで見かけるようなリビングダイニングの光景だ。欠片の生活感もない室内からは、シンプルを好むのだろう家の主の性格だけが窺えた。

 座っていろと言われたものの腰を下ろすのもはばかられ、身を硬くさせながらソファーの近くでアホみたいに棒立ちになっていた。潔癖で几帳面そうな人が過ごす高級感漂うリビング。そんな部屋に取り残される心境と言ったら結構過酷だ。

 着替えでもしているのか。はやく戻って来てほしいようなほしくないような。近くに居たら居たで怖いから、どちらであっても穏やかではいられない。
 一人そうして突っ立っていればバタンというドアの音が響いた。スーツを脱いでネクタイを外してラフな格好に着替えてきた比内さんがそこにいる。

 さっきまでの固い印象は少しだけ和らいでいた。シンプルなチノパンも白いシャツも至ってカジュアルなそのスタイル。雰囲気の変化に目を向けていると、綺麗な顔がフッと予告なくこっちに向けられたものだから慌てて目を逸らすことになった。
 挙動不審もいいところだ。強い視線を感じて身が竦む。

「比内さん……すみません、俺やっぱ帰りま…」
「あ?」
「…………」

 たった一文字に込められた威圧感。帰りますというその一言は車中で二度も阻止されていた。これでお見事三度目だ。
 逆らえずに付いて来てしまったがやはりこの状況はおかしい。なんの縁故がある訳でもない。俺が勝手にこの人の事務所前で寝ていただけだのこと。冷たくなっていたらしい俺をあの部屋へと運び入れ、一度は自分で追い出したくせに最終的にはこうして保護して。

 俺を助けても得にはならない。なにせ俺は無一文のガキだ。なのにどうして比内さんは、こんな奴に構うのか。
 会ったばかりの他人に無条件で居場所を提供されている。有りがたいけど、心苦しい気分にもなる。迷惑だなんだと言いながら自ら手を差し伸べたこの人に、これ以上の無意味な負担を掛けたいとは思わない。

「……どうしてここまで、してくれるんですか」

 ポツリと呟いた。ごくごく小さな声で。比内さんの眉間は鬱陶しそうに寄っている。

「別にとって食いやしねえよ」
「いえ、そうじゃなくて……。こんな得体の知れないヤツ、家に入れちゃっていいんですか」
「…………」

 俺を見下ろすその目元が少しだけ動いた。真意の分からないこの人のそばにこれ以上居座るのもどうかと思う。
 目元以外で表情の変化は見せられなかった。比内さんは冷静に言うだけ。

「くだらねえ事は考えなくていい。お前は大人しく俺に従え」

 押し黙る。言葉だけを聞けば感情のこもっていないような命令には顔も強張った。俺が閉口し、比内さんもそこで言葉を止めたから、この広い空間には居心地の悪い沈黙が流れた。
 すると溜息とまではいかないまでも、ごくごく小さく息をついたこの人。俺を見下ろし、渋々といったように口を開いた。

「……良くねえ事態に巻き込まれてる。それも急を要する深刻な状況の可能性が極めて高い。助けてくれる大人も頼れる大人も身近にはいないと推測できる。これがお前の現状だ。ここまで危なっかしいガキを放り出したなんて世間に知れてみろ。こっちは信用第一の商売してんだよ、俺の仕事に支障が出る。お前のためじゃねえ」

 拾ってしまったものは仕方がない。最後にはそう付け足された。
 倒れていた未成年を保護したとしても、普通の大人ならそれ以上の深入りをしようとはしない。何事かに巻き込まれていると判断できてしまったとしても、だからと言って助けになろうと思ってくれる人はそうそういない。
 俺のためじゃないと言う。だから戸惑う。だからこそ。これが当然とでも言いたげな顔をしているこの人が分からない。

「余計な事を考えるのも余計な事を言うのもやめろ。無駄な事は好きじゃない。こうしてお前に無意味な説明を強いられるのも鬱陶しい」
「……ごめんなさい」
「分かったならおとなしくしとけ。そもそもお前みてえなひょろいガキの得体が知れようが知れなかろうが大した問題にはならねえんだよ。下手なマネしやがったらその場で即刻後悔させてやるから安心しろ」
「…………」

 一瞬で固まった俺の腕に比内さんが手を伸ばした。目当てはコートだ。持っていたそれを慌てて返す。

「あ、すみません。ありがとうござ…」

 最後までは言えなかった。グイッと腕も掴まれている。
 何事か。引きずられるように歩かされて出てきた廊下。ドアの前に来たところでトンと軽く背中を押された。

「風呂入れ」
「は? え、え?」

 動揺する俺の目の前で開け放たれた白いドア。これまた几帳面に整えられた広い洗面所がそこにある。
 明るいオレンジの電灯に照らされる空間は脱衣スペースで、曇りガラスが嵌め込まれた中折れドアの向こうが浴室。それは一目で分かるけど、この展開は分からない。ドアの内側に俺だけ押し込み、比内さんは外からドアに手をかけた。

「ひな…」
「着替えとタオルは用意しておく。出てくる頃には部屋もあったまってるからしっかり浸かって来い。中川の野郎もどうせ一時間じゃ戻って来ねえ」
「ちょ…」
「心配するな。風呂なら沸いてる」

 いつの間に。そうか自動タイマーだ。いや、そんなことはどうでもいい。
 問題なのは風呂が沸いているか否かではなくて、初訪問となる人様のお宅の風呂場にいるというこの事態。

「あの…」
「ただでさえガキなんかめんどくせえのに体まで弱ってたら話にならねえ。風呂入って飯食ってしっかり寝ておけば風邪くらい適当に治るだろ」
「……え」
「あとは好きに使え」

 バタンと、ドアが閉められた。一人取り残された俺。結局何一つとして最後まで喋らせてもらえなかった。
 外に出て冷えた体は風呂でゆっくり温めろ。もしやそういう意味なのだろうかと、俺が気付くまでにはそこから結構な時間を要した。

「…………」

 風呂入ろう。着替えを持って比内さんが次にここへ来た時、このままボサッと突っ立っていたら後ろから蹴り入れられかねない。
 浴槽にブチ込まれる想像が浮かび、慌ただしく服を脱いだ。



***



 バスタオルと一緒に置かれていた服は袖と裾が少し余った。比内さんが普段着ている服だろう。それを身に纏い、恐縮しながらリビングに戻ると部屋は暖かくなっている。
 比内さんはキッチンにいた。手元で黙々と進められる作業。
 するのか、あの人。料理。

「比内さん……風呂お先に失礼しました。服もありがとうございます」
「ああ」
「……俺も何か手伝います」
「いや、いい。座ってろ」

 こちらに顔を向ける事もなく、顎でくいっと示されたのはキッチン前のダイニングテーブル。肩身の狭い心境のまま椅子にちょこんと腰かけた。
 調理をしている比内さんから暴言を聞かされることはない。無言で手だけを動かすその姿。見れば見るほど綺麗な人だ。

 借りて着ているこの服は自分の手足に合わせて端を折ってきた。手足も胸部も肩幅も、俺が着ると不恰好に余る。比内さんがこれを身につければ当然ぴったりのサイズだろう。男として多少なりとも体格の違いには落ち込まされた。俺も小さい方じゃないけど、この人は見事なモデル体型だ。
 する事もないし居心地悪くこの時間を持て余す。黙っている比内さんの方へとチラリと密かに目を向けた。
 鋭い視線がこちらに返される事はない。それをいいことにこっそり眺めた。

 クセのない髪の色は深い黒。けれど瞳は、何色だったか。鋭利な眼光は瞬時にはっきりと思い出せる。けれど視線が落とされている今、そこにある色までは浮かんでこない。
 髪と同じ黒、ではなかったと思う。白い肌と、黒い髪と、それに負けることのない色だった。
 一度考えてしまうと気になる。何色だったっけ。思ったその直後、答えを知る機会は突如訪れた。

「……あ」
「お前……」

 そうだ。その色。日本人に良く見られる典型的なこげ茶より、もっと綺麗で色素の薄い、時折光の加減によって繊細に変化するハシバミ色だ。
 パッと俺の中の疑問が解けた。呆けたまま見つめていれば、その色と共に本人がズカズカと俺のそばまでやって来た。

「っだ!」
「バカ野郎テメエふざけてんのか。濡れたままボサッとしてんじゃねえよ」

 ぼんやりしすぎた。キッチンにいたはずの比内さんはすでに俺を殴れる距離にいる。軽快に額を引っぱたかれて、思わず両手でその箇所を押さえた。
 比内さんは一度部屋を出ていくと、呆れと怒りを滲ませながらタオルを持って戻ってきた。痛いくらいの勢いでボスッと頭に被せられたそれ。わしゃわしゃと掻き乱されて首から上がグラグラ揺れた。

「ちょっ、あの、ヒナイさん……」
「治す気あんのかコラ」
「すみません……」

 雑な手つきで髪を拭かれる。デカい犬でも洗うかのようなその動作。

「ごめんなさい、自分でやるんで……」
「もうすぐ飯もできるからそれまでにちゃんと乾かしとけよ。脱衣所戻れ。ドライヤー出てる」
「……はい」

 確かにあった。ドライヤーが。洗面台の片隅にちょこんと。
 使っていいのかどうかが分からずこのまま出てきてしまったのだが、正解は使ってよかったようだ。と言うより使わないといけなかった。多分わざわざ俺のためにあの場所に置いてくれたのだろう。

「さっさと行けオラ。蹴り飛ばすぞ」

 髪が濡れていただけでこの怒られよう。そそくさと脱衣所に向かった。





 大慌てで髪を乾かして戻ってきたら、宣言通りテーブルの上には夕食が完璧に用意されている。
 正直なところ驚いた。綺麗なキッチンは飾りじゃないのかと実は内心で疑っていたのに。どうやら比内さんは料理ができる人のようだ。しかもかなりの腕前だった。
 席に着くよう促され、大人しく従えば目の前に来るのは小ぶりの土鍋。鍋の周りにはいくつかの皿。そぼろあんのかかったカボチャやら、程よく焦げ目の付いた魚の切り身やら、その他数品、少量ずつ。
 パチパチとまばたきを繰り返す。比内さんがパカリと音を立ててふたを開けた土鍋の中身は。

「食えるか。卵雑炊」
「ハイ……。すみません」

 子持ちのベテラン主婦みたいだ。
 栄養価を計算し尽くしたかのような食卓。綺麗な色合いは目にも優しい。男の一人暮らしとは思えないほど整った部屋だと思ったが、それは表面上だけの紛い物ではなく実態の伴った外観だった。
 口調は荒いが几帳面。料理を作らせればとびきりに繊細。知り合って二日目のこの人の、意外な一面を目の当たりにした。

「あの……比内さんは……」
「俺は後ででいい。お前の好みなんか知らねえから適当にあるもので用意した。食えるなら食え」

 料理の品数は多いが一つ一つの量は控えめ。素っ気ない口調に反してかなりの手間がかかったはずのこの配慮に縮こまる。

「……いただきます」
「ああ」

 ゆらゆらと湯気の立つ土鍋の中身にレンゲを持った手を伸ばした。散らされた三つ葉は視覚に色合いまで持たせてくる。適当に用意してできる物じゃない。
 ふんわりと程良く水分を含んだ卵雑炊を口へと運んだ。熱はほぼ下がっているし、だから味覚もしっかりしている。熱いと共にウマいという信号が舌から脳へと伝わった。
 喉を通る。食道を落ちていく。そしてじんわりと胃を温めた。ほっとした心地に辿り着けば、それは自然と声に出ている。

「……うまいです」
「なら食え」

 静かな声につられて顔を上げる。一瞬だけ視線は絡まったけど、すぐにふいっと外されていた。
 改めて認識した比内さんの瞳の色は、ついさっきまで威圧感の裏にひっそりと隠されてしまっていた。今はもうはっきり見えているから、綺麗だって素直に思える。

 第一印象から圧倒された。整いすぎたその顔立ちはどうにも日本人離れしている。朝比奈先生からはトウヤと下の名前で呼ばれていたし、名前を聞く限りはこの国の育ちなのだろうけれど。
 この国で多くは見られない目の色。全体的に整った文句のつけどころのない容姿。身近にはいないタイプだった。同じ男として羨ましく思う気持ちは確かに存在しているものの、この人を見ていると、なんと言うか。

「……ジロジロ見てんじゃねえよ」
「ぁっ……すみません」

 不躾な俺の視線にはさすがの比内さんも耐えかねたようだ。冷ややかな視線を送り返され、はっとして背筋を正した。この人の外見はなんだか危険だ。うっかりするとぼんやりしてくる。
 さっさと食えと言われてしまったからコクコク頷いて食事に専念した。どれに箸を伸ばしてもやっぱりウマい。味覚は確実に喜んでいる。だがここに来るはずの中川さんには一刻も早く姿を現してもらいたい。二人きりだと会話もないし場が持ちそうにはとてもなかった。

 何か喋るべきか。いやでも喋ったら喋ったで黙って食えとか言われそう。でもせめてこの重々しい空気は少しくらいどうにかしたい。
 恐る恐る上げた顔。バチッと目が合う。まさかのガン見だ。
 無表情が心から怖い。俺は再び視線を落とし、パクパクと必死に食いまくった。

「……おい」
「っふぁい!」
「ゆっくり食え。誰も取らねえよ」
「…………」

 顔が熱い。じわじわと熱が広がっていく。

「…………ハイ」

 食い意地の張ったがめついガキだと思われたに違いない。
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