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41.スーツⅡ
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目印のまち針がテキパキと縫い留められた。買ってもらったスーツは店に預けてきた。
試着室とレジ前で俺達が色々しているうちに中川さんは一人でフラリと。店員のお姉さんからスーツの引換券を渡された今も、まだ戻ってこないまま。
「よし、陽向。今がチャンスだ」
「え?」
「行くぞ」
「え、でも中川さんがネクタイ見に……」
「それでいい。今しかねえ、撒く」
ぐいっと腕を引かれて付いていった。足がもつれそうな勢いでガツガツと引っ張られる。おそらく三人で退店したら、中川さんは今日という休日を俺達と一緒に過ごすだろう。
地下駐車場に繋がる出入口はすぐそこ。自動ドアが見えてきたその時、しかし後ろから声をかけられた。
「ちょっとーぉ、待ってよー!」
思わず振り返る。中川さんがいた。手を振りながら駆けてくる。子供か。
透明フィルムが中央に張り付けてある縦長の小箱を胸元に抱えていた。それを見せつけるかのように、比内さんの前にズズイッと繰り出てきたこの人。
「ねえねえねえねえ見て見て見てネクタイ買っちゃった、これ。どう? 似合う?」
「…………」
ワフワフと犬みたいにまとわりつきながら、フィルム越しに堂々と見せたのは綺麗な暗緑色のネクタイ。比内さんに見せびらかした後は俺にもグイグイ見せてくる。
あからさまに鬱陶しそうな様子で盛大に顔をしかめた比内さん。対照的に中川さんは買い物の成果物を得て満足そうだ。
「こういう色ちょうど欲しかったんだよ」
「知ったことか」
「ところでこれ経費で落ちたりする?」
「七瀬にそれの領収書を見せた時点でお前はクビだ」
中川さんのネクタイは経費で落ちないが置いてきぼりは諦めたようだ。
邪魔そうに中川さんを押しのけながら比内さんは再び歩き出した。隙のない靴音は心なしかイライラしている。いいや、完全にイライラしている。
三つの人間を感知した自動ドアがウィーッと広い出口を開けた。明かりの入らない駐車場に繰り出す。一方向を目指してゾロゾロ進んだ。
ちょうど欲しかったという色のネクタイを紙袋に突っ込んだ中川さんは、普段着に戻った俺を楽し気に眺めていた。
「記念すべき人生初のスーツなんだし仕立てた方が良かったんじゃない?」
「とんでもない。あれだって俺にはもったいないくらいです」
「謙虚だなあ。趣味も楽しみもない比内が持ってるもんなんてお金くらいしかないんだからもっとドーンとタカればいいのに」
「とんでもない……」
縮こまって首を横に振った。窺うように斜め前に目を向ける。聞こえただろうけど聞こえなかった態度でスタスタと車を目指す比内さんに遅れないよう付いていく。
スーツを買ってもらってしまっただけでもすでにだいぶ肩身が狭い。そのうえ庶民の高校生がオーダースーツなんて着ちゃダメだ。
「でもホント素材がいいとなんでもキまるから最高だよね。てか陽向やっぱ背ぇ伸びたな」
隣から頭に手を置いて何事かを確かめられた。中川さんは高性能測定器とかじゃないから手を置いただけで身長は分からない。
「高校生の男の子は伸びる時はあっという間だ。ねーえ比内?」
「多少は育ってもらわないと俺がなんも食わせてねえみたいになる」
「少年の成長が嬉しいならそうと言えばいいじゃん、素直じゃないねえ」
地下駐車場の暗がりの中、比内さんの背中からは無言のプレッシャーを感じた。その圧を一身に食らっても押し潰されない中川さんは超人だ。
「服替えてみただけでずいぶんと大人びるもんだよ。元々が上品な顔してるからかな。大学生くらいのお兄さんって感じだった」
「ウチのガキをジロジロ見んじゃねえ」
「独り占めすんなよ。陽向は皆のものじゃんか」
「お前のものではない。それとさっさと帰れ」
「何言ってんの、これから三人でゴハン行くんでしょ」
「テメエは帰れ」
これからご飯に行くようだ。昼飯何作ろうかなってさっきから考えていたがどうやら必要なくなった。夕飯は何作ろうかな。
スーツが出来上がるのは一週間後。あれなら弁護士事務所をウロチョロしていてもひとまずは恥ずかしくないだろう。
ちゃんとした服装なんて、中高の制服以外には七五三の時の袴くらいだったか。
「引換え券失くすなよ」
「あ、はい」
一歩半後ろをついていく。その広い背中に向けて答えた。比内さんの歩き方はいつもキビキビとして無駄が無い。
プライベートでもそれは同じだ。今日のこれは完全に業務外で、中川さんのネクタイと同様、あのスーツも経費で落ちない。
比内さんは貴重な土曜日でも俺のために惜しみなく使う。バイトのガキの買い物のために、時間と金を提供してくれた。
「あの……」
「ああ」
「どうして急に、スーツ……」
比内さんにとってははした金だろう。それでもあれはしなくてもいい買い物だった。スーツはなくてもバイトはできるが、比内さんは俺をここに連れて来た。
そういえばまだきちんとお礼を言えていない。スーツの着せ替えをさせられるとはまさか思っていなかったから、言うタイミングを完全に逃した。それよりも余計な買い物をさせた申し訳なさが先に立つ。
中川さん曰く比内さんという人は欲のない男だ。俺もそう思う。
そろそろ車くらい買い替えなよ。中川さんは比内さんにしばしばそう言っている。さっきマンションから出てきた時も、道中で同じようなやり取りをしていた。
車購入の度重なる勧めは適当に聞き流すような人が、居候のガキには新しいスーツを当たり前のように買ってくれた。ありがとうを伝える前になぜと聞いてしまっても、比内さんが気分を害した様子はない。
この人は無意味な質問を嫌うが、これにはちゃんと答えてくれた。
「つくづく哀れなガキだと思うが、お前はよく分かってる」
「え……?」
「その不安は賢明な証拠だ。どんな綺麗ごと並べ立てても現実ってのは理想通りにはいかねえ」
その目は一向にこっちを見なかった。だからチラリと、隣の中川さんに視線を移した。さっきまであれだけペラペラ喋っていたのにここでは何を言う事もせず、ただニコリとして返される。
すでに見慣れた黒い車はすぐそこに迫っていた。見劣りなどしない立派な車体ではあるが、システムは一世代前のタイプ。
スマートエントリーの高級車くらいいくらでも買えるだろうに、比内さんは車に興味がないのか、それともあれがお気に入りなのか。
駐車スペースの近くまで来ると、その手にキーレスキーが握られた。
「きわめてクソ下らねえことに、こんな社会で生きていく限り身なりで判断される場面は多い」
ピピッと、解錠の電子音。比内さんの愛車はもう目の前。
「土建屋よりスーツ着たリーマンの方がコンビニ店員への態度悪いなんて言ってるような奴でもな、いざ自分の目の前で何かが起きるとそんな考えは一瞬で吹っ飛んじまう。作業着の人間とスーツの人間が真逆の証言してたとすれば、九割五分はスーツの話を信じる」
「…………」
それは大体、最初の三秒で決まる。身なりを見て、次に肩書を気にして、中身に目を向けるのはほとんど最後。
もっと酷ければ奥の方は見もしない。それが世の中だ。俺だってそうだ。
運転席側のドアに向かうはずだったこの人の足は途中で止まった。一歩分遅れて俺も止まれば、僅かに距離は縮まっている。
比内さんの顔がこっちに向けられた。ポンと、頭に乗ったのは大きな手のひら。
「学校の制服が気になるようなら、客が来るときはあれ着とけばいい」
無表情なのにどことなく穏やか。そんな口調で言われて、確信を得た。
やっぱりそうだった。気づかれていた。たぶん、おそらくは、最初から。言葉にはしないでいてくれただけで。
いま俺に向けられている、その真意は何か。それが分かった。屈するためでは決してない。世の中に従えという意味なんかじゃない。
これはこんなクソみたいな世界で、上手く生きるための術だ。そうでなければ戦いの土俵にも上がれないのだと、この人は知ってる。
「汚すんじゃねえぞ」
「……はいっ。ありがとうございます」
弱いままなら足元を見られる。それが嫌ならせめてシケたツラは晒すな。
前にも言われた。そういう意味だ。だから雇い主から、スーツを支給された。
これは俺のユニフォーム。たかがスーツ。そんな事はない。中川さんの感想によれば、大学生くらいには見えるようになるらしい。
けれど見た目だけ学生っぽくなれたところで引換券を紛失させでもしたらこのクソガキって蹴られるかもしれない。
慎重にしまった俺の横では、中川さんが軽快なテンポで明るく肩をたたいてきた。
「さーてと。目的を果たすとお腹減ってくるよね」
「知るかよ帰れ」
「ごちそーさまでーす」
「誰が奢ると言った。テメエはさっさと散れゴミが」
スタスタと運転席に向かった比内さんに続き俺も助手席へ。行くつもりだったが、肩にはガッと隣から手を回されている。難色しか示さない比内さんの言動は中川さんには届かなかったようだ。
ぐいぐいと引っ張られていったその先、押し込まれたのは後部座席。俺を右奥へと座らせると、その隣に中川さんも騒がしい動作で乗り込んでくる。
バダンと、元気よくドアが閉められた。
「よっしゃ全員揃った」
「定員オーバーだ。テメエは降りろ」
「やだよ、俺だって乗組員だもん。出発進行ーっ」
苦々しそうな舌打ちが一つ。けれども車は緩やかに発進。丁寧にバックしてから、出口に向けて走り出した。
隣からは再び腕がガバッと肩に回される。歌でも歌い出しそうなテンションでもって、俺を左右にゆらゆら揺らした。
「いい買い物したなぁ。ねえー?」
「あぁ……はぁ……どうも」
「ハイじゃあそこのスーツデビューした陽向くん! 何食いたいですかー。今決めて。五秒で」
「え?」
「ごーぉ、よーん、さーん」
「え、え……」
「にーぃ、いーち」
「あっ、え、えっと、天丼!」
反射で叫んだ。ニコッと笑った中川さん。この顔は咄嗟に前を向く。
ルームミラー越しにパチリと目が合った。どうとも言い難い、その無表情。
「……お前天丼好きなのか」
「…………はい」
好きだけど、恥ずかしい。天丼って。なぜよりにもよって天丼なんて。恥ずかしい。
天丼には一切の罪などないが、頭に浮かぶどんぶりのシルエットと名前の響きがなんとも恥ずかしい。
比内さんの家で天丼を作った事はない。あるはずがない。あの部屋に天丼は凄まじく似合わない。それ以前にこの人は天丼なんてものを食うのか。ていうか天丼とか知ってんのかな。
雇い主兼居候先の主の前で顔を上げられなくなった。そんな俺の左隣と前方間では、大人達がこの後の予定を二人で話し合っている。
「でー? どうするよ比内」
「……この近辺にある天丼屋を探せ」
「いぇっさー」
中川さんは意気揚々とスマホを手に取った。
比内さんが天丼についてどう思っているかは知らないが、この二十五分後に三人で老舗っぽい天丼屋に入った。
どんぶりの蓋を開けるとおっきいエビが三本も乗っていた。本当は三本もいらなかったが、比内さんのガッツリ食いやがれオーラが俺に向いた結果に負けた。
専門店の絶品天丼は外がサクサクで中はしっとりジューシー。甘味と塩味が絶妙なタレのかかったどんぶりは美味いとしか言いようがない。巨大なエビが三匹いても、問題なくペロッと平らげた。
一週間で太って幅広になったら、お直しが無駄になるので気を付けよう。
***
そういった経緯で雇い主からユニフォームを支給された翌週。お直しの済んだそれがとうとう俺の手元にやって来た。
そこから最初のバイトの日には、たまたまお客さんの来訪予定が。
七瀬さんはいつものようにヒアリングの準備に抜かりがない。その最中に事務所のインターフォンが鳴らされ、近くにいた俺を呼んだ。
「陽向くん、ご案内お願いできる?」
「はい!」
もちろんだ。喜んでやる。何せ俺には土俵に上がるための戦闘服が用意されている。
その時から俺の時給労働における作業内容は一個増えた。お客さんへのお茶出しが加わり、ネズミのようにカサコソ隠れる不審な行動はスッパリやめた。
試着室とレジ前で俺達が色々しているうちに中川さんは一人でフラリと。店員のお姉さんからスーツの引換券を渡された今も、まだ戻ってこないまま。
「よし、陽向。今がチャンスだ」
「え?」
「行くぞ」
「え、でも中川さんがネクタイ見に……」
「それでいい。今しかねえ、撒く」
ぐいっと腕を引かれて付いていった。足がもつれそうな勢いでガツガツと引っ張られる。おそらく三人で退店したら、中川さんは今日という休日を俺達と一緒に過ごすだろう。
地下駐車場に繋がる出入口はすぐそこ。自動ドアが見えてきたその時、しかし後ろから声をかけられた。
「ちょっとーぉ、待ってよー!」
思わず振り返る。中川さんがいた。手を振りながら駆けてくる。子供か。
透明フィルムが中央に張り付けてある縦長の小箱を胸元に抱えていた。それを見せつけるかのように、比内さんの前にズズイッと繰り出てきたこの人。
「ねえねえねえねえ見て見て見てネクタイ買っちゃった、これ。どう? 似合う?」
「…………」
ワフワフと犬みたいにまとわりつきながら、フィルム越しに堂々と見せたのは綺麗な暗緑色のネクタイ。比内さんに見せびらかした後は俺にもグイグイ見せてくる。
あからさまに鬱陶しそうな様子で盛大に顔をしかめた比内さん。対照的に中川さんは買い物の成果物を得て満足そうだ。
「こういう色ちょうど欲しかったんだよ」
「知ったことか」
「ところでこれ経費で落ちたりする?」
「七瀬にそれの領収書を見せた時点でお前はクビだ」
中川さんのネクタイは経費で落ちないが置いてきぼりは諦めたようだ。
邪魔そうに中川さんを押しのけながら比内さんは再び歩き出した。隙のない靴音は心なしかイライラしている。いいや、完全にイライラしている。
三つの人間を感知した自動ドアがウィーッと広い出口を開けた。明かりの入らない駐車場に繰り出す。一方向を目指してゾロゾロ進んだ。
ちょうど欲しかったという色のネクタイを紙袋に突っ込んだ中川さんは、普段着に戻った俺を楽し気に眺めていた。
「記念すべき人生初のスーツなんだし仕立てた方が良かったんじゃない?」
「とんでもない。あれだって俺にはもったいないくらいです」
「謙虚だなあ。趣味も楽しみもない比内が持ってるもんなんてお金くらいしかないんだからもっとドーンとタカればいいのに」
「とんでもない……」
縮こまって首を横に振った。窺うように斜め前に目を向ける。聞こえただろうけど聞こえなかった態度でスタスタと車を目指す比内さんに遅れないよう付いていく。
スーツを買ってもらってしまっただけでもすでにだいぶ肩身が狭い。そのうえ庶民の高校生がオーダースーツなんて着ちゃダメだ。
「でもホント素材がいいとなんでもキまるから最高だよね。てか陽向やっぱ背ぇ伸びたな」
隣から頭に手を置いて何事かを確かめられた。中川さんは高性能測定器とかじゃないから手を置いただけで身長は分からない。
「高校生の男の子は伸びる時はあっという間だ。ねーえ比内?」
「多少は育ってもらわないと俺がなんも食わせてねえみたいになる」
「少年の成長が嬉しいならそうと言えばいいじゃん、素直じゃないねえ」
地下駐車場の暗がりの中、比内さんの背中からは無言のプレッシャーを感じた。その圧を一身に食らっても押し潰されない中川さんは超人だ。
「服替えてみただけでずいぶんと大人びるもんだよ。元々が上品な顔してるからかな。大学生くらいのお兄さんって感じだった」
「ウチのガキをジロジロ見んじゃねえ」
「独り占めすんなよ。陽向は皆のものじゃんか」
「お前のものではない。それとさっさと帰れ」
「何言ってんの、これから三人でゴハン行くんでしょ」
「テメエは帰れ」
これからご飯に行くようだ。昼飯何作ろうかなってさっきから考えていたがどうやら必要なくなった。夕飯は何作ろうかな。
スーツが出来上がるのは一週間後。あれなら弁護士事務所をウロチョロしていてもひとまずは恥ずかしくないだろう。
ちゃんとした服装なんて、中高の制服以外には七五三の時の袴くらいだったか。
「引換え券失くすなよ」
「あ、はい」
一歩半後ろをついていく。その広い背中に向けて答えた。比内さんの歩き方はいつもキビキビとして無駄が無い。
プライベートでもそれは同じだ。今日のこれは完全に業務外で、中川さんのネクタイと同様、あのスーツも経費で落ちない。
比内さんは貴重な土曜日でも俺のために惜しみなく使う。バイトのガキの買い物のために、時間と金を提供してくれた。
「あの……」
「ああ」
「どうして急に、スーツ……」
比内さんにとってははした金だろう。それでもあれはしなくてもいい買い物だった。スーツはなくてもバイトはできるが、比内さんは俺をここに連れて来た。
そういえばまだきちんとお礼を言えていない。スーツの着せ替えをさせられるとはまさか思っていなかったから、言うタイミングを完全に逃した。それよりも余計な買い物をさせた申し訳なさが先に立つ。
中川さん曰く比内さんという人は欲のない男だ。俺もそう思う。
そろそろ車くらい買い替えなよ。中川さんは比内さんにしばしばそう言っている。さっきマンションから出てきた時も、道中で同じようなやり取りをしていた。
車購入の度重なる勧めは適当に聞き流すような人が、居候のガキには新しいスーツを当たり前のように買ってくれた。ありがとうを伝える前になぜと聞いてしまっても、比内さんが気分を害した様子はない。
この人は無意味な質問を嫌うが、これにはちゃんと答えてくれた。
「つくづく哀れなガキだと思うが、お前はよく分かってる」
「え……?」
「その不安は賢明な証拠だ。どんな綺麗ごと並べ立てても現実ってのは理想通りにはいかねえ」
その目は一向にこっちを見なかった。だからチラリと、隣の中川さんに視線を移した。さっきまであれだけペラペラ喋っていたのにここでは何を言う事もせず、ただニコリとして返される。
すでに見慣れた黒い車はすぐそこに迫っていた。見劣りなどしない立派な車体ではあるが、システムは一世代前のタイプ。
スマートエントリーの高級車くらいいくらでも買えるだろうに、比内さんは車に興味がないのか、それともあれがお気に入りなのか。
駐車スペースの近くまで来ると、その手にキーレスキーが握られた。
「きわめてクソ下らねえことに、こんな社会で生きていく限り身なりで判断される場面は多い」
ピピッと、解錠の電子音。比内さんの愛車はもう目の前。
「土建屋よりスーツ着たリーマンの方がコンビニ店員への態度悪いなんて言ってるような奴でもな、いざ自分の目の前で何かが起きるとそんな考えは一瞬で吹っ飛んじまう。作業着の人間とスーツの人間が真逆の証言してたとすれば、九割五分はスーツの話を信じる」
「…………」
それは大体、最初の三秒で決まる。身なりを見て、次に肩書を気にして、中身に目を向けるのはほとんど最後。
もっと酷ければ奥の方は見もしない。それが世の中だ。俺だってそうだ。
運転席側のドアに向かうはずだったこの人の足は途中で止まった。一歩分遅れて俺も止まれば、僅かに距離は縮まっている。
比内さんの顔がこっちに向けられた。ポンと、頭に乗ったのは大きな手のひら。
「学校の制服が気になるようなら、客が来るときはあれ着とけばいい」
無表情なのにどことなく穏やか。そんな口調で言われて、確信を得た。
やっぱりそうだった。気づかれていた。たぶん、おそらくは、最初から。言葉にはしないでいてくれただけで。
いま俺に向けられている、その真意は何か。それが分かった。屈するためでは決してない。世の中に従えという意味なんかじゃない。
これはこんなクソみたいな世界で、上手く生きるための術だ。そうでなければ戦いの土俵にも上がれないのだと、この人は知ってる。
「汚すんじゃねえぞ」
「……はいっ。ありがとうございます」
弱いままなら足元を見られる。それが嫌ならせめてシケたツラは晒すな。
前にも言われた。そういう意味だ。だから雇い主から、スーツを支給された。
これは俺のユニフォーム。たかがスーツ。そんな事はない。中川さんの感想によれば、大学生くらいには見えるようになるらしい。
けれど見た目だけ学生っぽくなれたところで引換券を紛失させでもしたらこのクソガキって蹴られるかもしれない。
慎重にしまった俺の横では、中川さんが軽快なテンポで明るく肩をたたいてきた。
「さーてと。目的を果たすとお腹減ってくるよね」
「知るかよ帰れ」
「ごちそーさまでーす」
「誰が奢ると言った。テメエはさっさと散れゴミが」
スタスタと運転席に向かった比内さんに続き俺も助手席へ。行くつもりだったが、肩にはガッと隣から手を回されている。難色しか示さない比内さんの言動は中川さんには届かなかったようだ。
ぐいぐいと引っ張られていったその先、押し込まれたのは後部座席。俺を右奥へと座らせると、その隣に中川さんも騒がしい動作で乗り込んでくる。
バダンと、元気よくドアが閉められた。
「よっしゃ全員揃った」
「定員オーバーだ。テメエは降りろ」
「やだよ、俺だって乗組員だもん。出発進行ーっ」
苦々しそうな舌打ちが一つ。けれども車は緩やかに発進。丁寧にバックしてから、出口に向けて走り出した。
隣からは再び腕がガバッと肩に回される。歌でも歌い出しそうなテンションでもって、俺を左右にゆらゆら揺らした。
「いい買い物したなぁ。ねえー?」
「あぁ……はぁ……どうも」
「ハイじゃあそこのスーツデビューした陽向くん! 何食いたいですかー。今決めて。五秒で」
「え?」
「ごーぉ、よーん、さーん」
「え、え……」
「にーぃ、いーち」
「あっ、え、えっと、天丼!」
反射で叫んだ。ニコッと笑った中川さん。この顔は咄嗟に前を向く。
ルームミラー越しにパチリと目が合った。どうとも言い難い、その無表情。
「……お前天丼好きなのか」
「…………はい」
好きだけど、恥ずかしい。天丼って。なぜよりにもよって天丼なんて。恥ずかしい。
天丼には一切の罪などないが、頭に浮かぶどんぶりのシルエットと名前の響きがなんとも恥ずかしい。
比内さんの家で天丼を作った事はない。あるはずがない。あの部屋に天丼は凄まじく似合わない。それ以前にこの人は天丼なんてものを食うのか。ていうか天丼とか知ってんのかな。
雇い主兼居候先の主の前で顔を上げられなくなった。そんな俺の左隣と前方間では、大人達がこの後の予定を二人で話し合っている。
「でー? どうするよ比内」
「……この近辺にある天丼屋を探せ」
「いぇっさー」
中川さんは意気揚々とスマホを手に取った。
比内さんが天丼についてどう思っているかは知らないが、この二十五分後に三人で老舗っぽい天丼屋に入った。
どんぶりの蓋を開けるとおっきいエビが三本も乗っていた。本当は三本もいらなかったが、比内さんのガッツリ食いやがれオーラが俺に向いた結果に負けた。
専門店の絶品天丼は外がサクサクで中はしっとりジューシー。甘味と塩味が絶妙なタレのかかったどんぶりは美味いとしか言いようがない。巨大なエビが三匹いても、問題なくペロッと平らげた。
一週間で太って幅広になったら、お直しが無駄になるので気を付けよう。
***
そういった経緯で雇い主からユニフォームを支給された翌週。お直しの済んだそれがとうとう俺の手元にやって来た。
そこから最初のバイトの日には、たまたまお客さんの来訪予定が。
七瀬さんはいつものようにヒアリングの準備に抜かりがない。その最中に事務所のインターフォンが鳴らされ、近くにいた俺を呼んだ。
「陽向くん、ご案内お願いできる?」
「はい!」
もちろんだ。喜んでやる。何せ俺には土俵に上がるための戦闘服が用意されている。
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