たとえクソガキと罵られても

わこ

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42.目隠しの女神Ⅰ

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「ひなたー。おかえりー」

 学校を終えてここにやってきてから二秒。比内法律事務所のエントランスにほんの数歩足を踏み入れたところで、通路の奥からヒラヒラ手を振りながら現れた中川さん。
 目の前に来るなり肩を組まれた。そしてテクテク歩かされた。

「来て早々に悪いんだけどさ、比内に熱くてにっがいコーヒーお願いできるかい」
「あ、はい。分かりました」
「陽向が行けばあいつの機嫌も多少はなおるだろうからね」
「……相談者の方はお帰りに?」
「うん、今さっき」

 この時間帯に来客予定があったのは知っていた。新規の相談者だったはずだ。

 事務室に入れば七瀬さんと長谷川さんに迎えられる。二人とも常に多忙だけれど、今は忙殺されている様子ではなく見たところいたって通常通り。それでも仕事は山積みだが。

 与えられたデスクにスクールバッグを置いて、中川さんに背を押されるまま給湯室へと移動した。
 用意するのは熱くて苦いコーヒー。中川さんも俺の隣で自分のためのカップを用意していた。そっちにはミルクと砂糖がたっぷりと投入されるだろう。

「お疲れのご様子ですか?」
「疲弊してるよ。こんな職業やってるくせにあいつは潔癖すぎるんだ」
「…………」

 ここには困っている人達が来る。現に今困っている人の全てが、弱者や被害者であるとは限らない。

「……今日は、どういう……?」
「ネット関連」

 ネットトラブルの相談受付も近年は爆増中らしい。良くあるのは削除依頼や、IPアドレスをはじめとする発信者情報の開示請求。
 どのお客さんについても依頼内容の詳細を俺は知らないが、この事務所も一般的な傾向の例外ではないようだ。ネットを介したトラブルに関する相談者も少なくない模様。やられた方だけではなく、やった方も同様に。

 誹謗中傷の書き込みによって自分自身に返ってくるのは、損害賠償という金銭面の責任だけにはとどまらない。
 最近もしばらく話題になっていた炎上騒ぎがいくつかあったが、そのうちの一件について逮捕されたという一般男性のニュースがつい先日に出たばかり。それでだろう。今回の相談者も。

 後ろ暗い何かがある奴ほど現実の報道を見せられてしまうと急に不安になってくる。
 これは比内さんの談だ。顔が見えなければ尊大に振舞えるがその実心臓はミジンコサイズらしい。

 ああいうのは批判の域を超えている。生身の人間に向かって尖った石を投げているのと変わらない。
 その石は群衆の中のあちこちから飛んでくる。誰が投げたのかは一見すると分からない。しかしそれを投げた張本人が後になってコソコソしながらこの事務所に慌てて駆け込んでくると、比内さんはいつも以上に無表情を張り付けた顔で法律上のアドバイスを淡々と行う。その先の依頼もあれば、必要に応じて実務的な処理も。






 相談者のうちのほんの一人を捌いた後の雇い主のために、熱々のコーヒーを持って行った。

 当然のように中川さんも一緒だ。自分のマグカップを持ったまま、応接用のふかふかソファーにどさっと遠慮なく沈み込んだ。それを無言で睨みつけているのはもちろんと言うか比内さんだが、出ていけと言っても無駄なのはよく分かっているのだろう。無意味な悪態をつく元気もないほどお疲れのようだ。
 顔をしかめたのをそれとなく見届け、机の邪魔にならない位置にコーヒーカップをそっと置いた。

「悪いな」
「いえ」

 こっちをニコニコ眺めていた中川さんは堂々と足を組んだ。ソファーの背もたれに左腕を乗っけた。
 この人も決して暇ではない。暇ではないけど比内さんをつつく。

「さっきのお坊ちゃんはなんだって? お坊ちゃんと言うにはいい年だったけど」
「聞かなくても分かるだろ。どいつもこいつも第一声は見事に同じだ」
「これは罪に問われるのでしょうかー???」
「人を後ろから刺しておきながら自分だけは罪にならないと考えてる連中は頭がおかしい」
「仕方ないって。自分が握ってるのは尖ったナイフじゃなくて綿あめだと彼らは思ってるんだ」

 中川さんの声は場違いに明るい。比内さんは苦々しそうに舌打ちを。

「あんなのにも弁護士を訪ねる権利は与えられてる事が残念だ」

 比内法律事務所の代表弁護士は弁護士が絶対に言ってはいけない事でも平気な顔をしてサラリと述べる。

「いいじゃん、いいじゃん。頭がフワッとしてるホモサピエンスから金巻き上げてるとでも思いなよ」

 代表弁護士の右腕たる大人も弁護士が言ってはならない発言を平気な顔してケロリとブチかます。

 比内さんからは手元のファイルを渡されて棚を指示された。
 資料がしょっちゅう山積みになっている中川さんの執務室とは違ってこの部屋は常に整然としている。分厚いファイルは定位置に戻した。

「……SNSの誹謗中傷で実際に訴えられる人ってそんなに増えてるんですか?」
「表向きの法整備は一応の所されてきたからな。一昔前に比べれば発信者を特定するまでのハードルも下がってる。だからって完全とは全く言えねえが、相談件数だけなら確実に増えた」

 一方的にやられるのをただ耐えるしかなかった側にも戦う手段が与えられた。世間の多くもそのシステムには好意的な論調だろう。誰だって醜いものは見たくない。

「ただし現実には刑事事件に発展するケースはほとんどないうえ仮に逮捕なんかされたとしても起訴にまで至るのは今のとこ稀だ。とはいえ公になれば大なり小なり社会的には死ぬだろうし、刑事罰が無理なら民事で訴えて賠償請求って手も残されてる」
「その辺のあさーい知識をネットで拾ってきて不安になるんだろうねえ。思い当たる節のある綿あめ達がオロオロしながらここに駆け込んでくる」
「ビビるくらいなら最初からやらなきゃいいものを」
「ちょっとしたお小遣い稼ぎだと思いなって」
「だったらテメエが担当しろ」
「俺は今からセコイ社長を法律から守ってこないと」
「クソが」
「こっちは大いなる金の生る木だよ」

 法人を担当することが多い中川さんは本人の言う通りここの稼ぎ頭だ。だからどう考えても暇ではないけどコーヒーを飲み終えるまでは比内さんにじゃれついて遊ぶ。

「今ですらそんな状態なんだから比内は俺にもっと感謝しな」
「あぁ?」
「親切な中川さんがあの時止めてやらなかったら一体どうなっていた事か。ネットトラブルの初回相談、無料にしなくて良かっただろう?」
「…………」

 そこで比内さんは口を閉じた。そういうやり取りが過去にあったのだろう。
 比内弁護士事務所の代表弁護士は口が悪くて粗雑に見えるが、周りの意見は信頼している。

 法律トラブルを抱えている人達は、いきなりここにやって来て即刻依頼という形にはならない。まずはヒアリング。適宜アドバイス。そのうえで本契約に進むか決めてもらう。基本的には最初から料金がかかるが、内容によっては初回無料での相談にも応じている。
 例えば借金の悩みを聞いてもらいたいとか。債務整理のアドバイスだけでも欲しいとか。実務にまでは及ばない色々だ。

 どんな相談内容を無料にするかの線引きは非常に難しい。常に公正や衡平を保てるほど人類は性能良く作られていない。
 近年は内容を問わず無料相談を実施している事務所も出てきているそうだ。中川さんの言うようにネットトラブルの相談をこの事務所でも無料開放していたら、もしかすると被害者以上に加害者の方が殺到していたかもしれない。

 無料相談であっても他と同じく面談は一時間。一時間を無料で拘束されようともここの弁護士さんは嫌な顔をしない。
 金になるかならないか。価値判断の基準はそこじゃない。経営者でもある比内さんにとってどうでもいい事柄ではないだろうが、誰であろうと態度は変えない。

 報酬を受け取る側にとって、お客様として優秀と言えるのはお金を稼がせてくれる相手だ。しかしどれだけ優秀なお客様でも、自業自得によって焦った加害者からの相談だと眉間の縦筋は深くなる。
 相談者の前では淡々と無表情を貫いているが、それが比内弁護士という人だ。熱くて苦いコーヒーに頼りたくもなってしまう程度にはダメージを受ける。

 潔癖すぎる。その通りだろう。
 心を殺す選択もできるはずなのに、比内さんは決してそれを選ばない。
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