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73.親切な国Ⅰ
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中川さんが帰ってきたのは夕方だった。夏のこの時間はまだまだ明るい。
一緒に出ていた七瀬さんと事務所に戻ってきたところを、迎え出たのは比内さんだ。
「おい中川、ツラ貸せ。会議室来い」
「嘘でしょ俺いま帰ったとこだよ。クタクタだよ。外めっちゃ暑いよ」
「いいから来い」
「超パワハラじゃん」
「うるせえ来い。七瀬はちゃんと休めよ」
「差!!」
比内さんについて俺も会議室に入る。大量に麦茶作っておいてよかった。
***
「麦茶どうぞ」
「助かったあ、天の恵だよ。もう喉カラッカラ」
中川さんが一息つくのをお待ちしてから、ホワイトボードの前に出た。
向かい合わせにピシッと並べてある白寄りカラーの長机。会議室で始まったのは作戦を立てるための話し合いだ。
とある会社の組織図と、依頼人周りの相関関係はさっき簡単に書き出しておいた。今は比内さんの説明に沿って、相談の概要を箇条書きにしながら横に適宜付け足していく。
依頼人はフルタイムで働く会社員の女性だ。勤務先のIT企業には大学卒業後に入社。現在二十九歳。既婚者。子供なし。勤務の形態としては裁量労働制が適用。
ここのところ休日出勤が常態化しているものの、与えられた代休の回数はゼロ日。本人によるとここ半年に渡る月の労働時間は三百五十時間をゆうに超えている。うちふた月は、四百時間を超えた。
このままだといつ過労で死んでもおかしくない。訴えの相手方は勤務先企業という事になるのだが、その中身は少々込み入っていた。なぜなら火元となっているのは依頼人の同僚だから。二人目の育休が明けて復職した女性従業員だそう。
第一子の育休中に妊娠したためそのまま第二子の産休育休に入っていた。復帰以降は育児短時間勤務に切り替えて就業中。依頼人は現在その同僚のサポートに付いている。しかしながらその実態はサポートの域を超えており、二人分以上の仕事量を背負わざるを得ないのが現状であると。
これによって生じた深夜や休日に及ぶ労働に対する割増賃金の未払い。その他諸々増加している、労働分には到底見合わないと言わざるを得ない不当な評価。要約するとこれらに関する慰謝料請求の訴えだ。
比内さんがざっと説明し終えたのに合わせ、俺もカチッとホワイトボードマーカーのキャップを閉じた。
椅子ごとホワイトボードに体を向けていた中川さんは冷たい麦茶をペーパーコースターに置いて、片肘をくいっと机についた。
「これって労基には通報したの?」
「してねえってよ」
「間すっ飛ばしてここに?」
「ああ」
「ふーん」
問題のある労働環境に身を置いている。時間だけ見てもそれは明らか。客観的にもそうであると自信を持って断言できる。にもかかわらず然るべき機関への通報は行わない。それはなぜか。
比内さんの問いに対する、依頼人の答えはこうだった。
『すでに退職を決めている企業に是正勧告を出してもらっても私にはなんの得もありません。世直ししたいわけではないんです。あの会社が今後どうなろうと私には一切関係ない。ただし辞めるに当たってこれまで奪われ続けてきた分はそっくりまとめて取り返さないと、いくらなんでも気が済みません』
「非常に熱のこもった訴えだった」
「結構なことじゃないの。世の中がギスギスすればするほど俺達みたいのが儲かるんだ」
目が笑っていない。全然笑ってない。分かりにくい中川さんの斜め向かいに座っている比内さんは、分かりやすくニコリともしなかった。
「あくまで矛先は会社に向けてる。育児中の時短社員を糾弾したがってるわけじゃねえ。制度利用は彼女の権利だから、自分にはそれについて異を唱える権利はないしそんな事があってはならない。そう言っていた」
「ほうほう」
「正直に言うと感情百パーの主張が展開されんだろうと思ってたよ。だが聞いてみたらそうでもない」
『こういうのはお互い様だから。いつも笑ってそう言うんです、彼女』
比内さんの前でソファーに浅く腰かけ、依頼人は淡々と語った。
先々月、その同僚は有給休暇を使ったそうだ。計画していた家族旅行のために。
何も問題ない。もちろんその通り。しかしその旅行日に当たる前日までの二日間、子供の体調不良を理由にその人は急遽欠勤していたらしい。
『お子さんの熱で月曜から欠勤するのもその翌日から有休を含め五日かけて家族旅行をして来るのも構いません。彼女は自分に与えられた正当な権利をなんら不備なく行使しただけです。周りがとやかく言う事ではないしそんな事は決してあってはならない』
彼女の権利だ。侵害されていいはずがない。ようやく社会の注意が向き始めた女性の働き方というものに水を差しては絶対にならない。ここで依頼人はそう強く言った。
その言葉に嘘はなかったが、思うところがないわけではない。
旅行を終えて帰ってきた翌日の月曜日から、クルーズ船やらフレンチフルコースやら星付きホテルでの宿泊体験やら、山積みの仕事を黙々と捌いている人間に旅行の思い出話を延々聞かせてくるその神経は一体どうなっているのか。
頼んでもいないのに子供の写真を次々見せてくるのはなんなのか。家族の自慢話はいつになったら尽きるのか。この人は果たして何をしに会社に来ているのだろうか。
時短になったせいで給料が下がったのは不公平。日本は働くママに不寛容。ワーママいじめを許す社会は絶対に間違っている。独身者の僻みにはもううんざりだ。
どの口で愚痴ばかり言い連ねるのか。
疲れたアピールするくらいならあなたも有休はちゃんと消化しな。休むのも仕事のうちだよ。もっと効率を重視して動けばいくらでも休めるはずなんだから。長時間ダラダラ作業してるだけで仕事したつもりになっているから日本人はいつまでも生産性が低いの。
他人のフォローで既定の休日さえ潰されている人間に対して、何をどう思いどう考えたらそんなことをズケズケと言えるのか。誰のせいでこうなっていると。
『彼女の有休は彼女の権利であって元々の予定通りに旅行をしてきた、それだけの事です。分かっています。時短制度の利用も子供のための急な休みも会社が彼女に与えている正当な権利ですから、彼女に対して不満を抱くのはお門違いだという事も忘れていません。これが働く女性全体の利益に繋がるとも信じてきました。だから休日出勤が避けられなくなれば自分の予定をキャンセルして必ず応えてきたんです。私生活を投げうってでも彼女のフォローをしてきたつもりです。それでもこれが私の努力として評価される事だけはありません。フォローという名目でほとんど私が最初から最後までやってきた仕事も、成果は全て彼女の方に流れるんですから』
「なんでよ」
「だいたい想像つくだろ」
もうひとつ、遠慮せずに言ってもいいならば、その同僚は元々大きな戦力では全くなかった。口はよく動くが手は動かない。余計なことを思いつくが、その思い付きを自分で処理できる程のスキルは持ち合わせていない。誰も表立っては言わないがそれが同僚間での評価だ。そのためその人の産休中は、これと言って大きな負担が増えたとは感じていなかったらしい。むしろどちらかと言えば、平和だった。
そもそもが激務であるものの、仕事は部署内で正常に回っていた。それが突如として回らなくなった。彼女が時短ワーキングマザーとして復帰してきた直後から。
『彼女がいると仕事が減るどころか増えます。どれだけ失言が多くても欠勤早退が日常茶飯事でも最低限の責任を果たしてくださる方なら特に何も思いません。それが彼女の場合、散々引っ掻き回すだけ引っ掻き回したあとは決まってお子さんが熱を出します。自信だけはおありのようでして率先してやりたがりますから、途中放棄された仕事の後処理で私の業務は倍増どころではない。ええ、言えるものなら言いたいですよ。ややこしくするだけならむしろ何もしないでほしいと。それを飲み込んで休憩も取れずに連日の残業と休日出勤をしながら最後の最後まで仕上げたところで、タイミングよく近寄ってくるのが彼女です。その仕事の成果は彼女一人の手柄になります』
「できないという実績だけは申し分なく作り上げてくれる。だからなるべく簡単な作業を回すと、時短社員に雑用しかやらせないのは差別だと言って騒ぐらしい」
「ギャグなの?」
「ギャグみてえな要求が本当に通る。依頼人の勤め先は子育てしながら働く女性を全力で応援しているそうだからな」
「日本ってやつはさあ」
「ちなみに役職者の女性割合は三十パー以上を目標にしてる」
「分かりやすいな」
「ついでに言うとその時短社員の方が依頼人より社歴は五年長い」
「分かりやすすぎて笑えてくるよ」
いち会社員として果たすべき義務である。それだけの根拠で依頼人は耐えた。耐えに耐えぬき、そしてついに折れた。折ったのは、サポートしている当の同僚。
『せっかく目の前にロールモデルがいるんだから、あなたもグズグズしてちゃダメ。子供は急いだ方がいいよ。いつかはって思ってると本当にタイミング逃しちゃうから。産休育休制度っていうのは賢く使った者勝ちなの。この会社はまあまあ手厚いし、私もすぐにまたもう一人くらい妊娠したらラッキーかなあなんて思ってるんだよね。……一言一句違わず覚えています。前日の帰宅時間にはとっくに終電がなくなっていた私に彼女はご親切にもアドバイスをくれました。あれでご自分がリーダー役を務めていると思い込んでいらっしゃるのだから感心しますよ。彼女がそう思い込むのを、助けているのがあの会社です』
そう語る依頼人は怒りを見せるどころか、もう完全に無表情だったらしい。
今それを聞かされてなんとも言えない顔をするのは中川さんだ。操作したタブレットを持って行って、横からそっと差し出した。
「こちら会社の資料です」
「おう、ありがと」
開いてあるのはダウンロードした企業情報。会社がホームページ内で公開している決算等IR情報の一部だが、中川さんはこれである程度の全体像を把握する。
スクロールしながら資料を見下ろす中川さんに、比内さんが続きを聞かせた。
『赤の他人に言われるまでもなく年々焦りは強くなります。でも今じゃないんです。日本の会社は個人の自由なタイミングでは子供を産ませてくれませんから。子育て中の女性を支援する制度が確立される事は女として望ましい。なのに頑張れば頑張るほど損をしていくこの国では、こんなにも簡単な事すらまともに機能していません』
言いたい事を飲み込み続けてきた。制度を信じた結果がそれだった。無表情の依頼人は、しかし意思を込めて言ったそうだ。
『無神経な人も図々しい人もどこにでもいると知っています。ですから特定の個人に対する嫌悪感と労働環境の問題点とでは、明確に区別して考えるべきと思って特に注意を払ってきました。そうでなければ下手をするとこちらがハラスメントで訴えられかねないので。中途半端に出たり休んだりするくらいならいっそもう十年くらい休んでいてくれとうっかり口走ってしまう前に、私が会社を辞めることにしたんです』
「限界を突き破った感じだね」
「溜め込んでたぶん恨みは深そうだぞ」
『人を増やせば改善される問題であっても人手はそう簡単には増えません。国内の働き手が不足してようやく女性活躍だなんだと都合よく耳障りのいいことを言い始めたから現場はここまでこじれました。後からならなんとでも言えますが、景気が良く人手も十分で環境を整える余裕があった時代に女性の待遇を見直していればここまでの悪循環には陥っていなかったはずです。現場の状況を知りもしないで今さらノコノコ中途半端な制度を作ってあとは企業に丸投げする国の怠慢を訴えたいところですが、それはあまりに現実的ではないので私は会社を訴えます。たとえ意地汚いと言われようとも』
「感情的なんだか理性的なんだか分かんねえだろ」
「聞くまでもないんだろうけどこれ上司は?」
「言うまでもねえんだろうがなんの役にも立たない」
「当てようか。男でしょ」
「正解。トラブルの内容を考えると男の自分が口を出すのは適切でないとかなんとか言って逃げるそうだ」
「なんのための管理職だろう」
「猫でも置いといた方がまだ役に立つな」
「即戦力が来てくれるかどうかは別として、増員のための募集かける余力くらいなら大分ありそうな会社に見えるけど。人員補強すれば解決する問題じゃないにしてもさ」
「マネージャーは上に掛け合ってみるポーズすらしねえってよ」
「もうそれ職務放棄だろ」
「依頼人によると学歴までは最上で部下からの人望はまるでないが上には仲良しが多いらしい」
「とことん分かりやすい会社だな」
『私自身いずれは子供が欲しいですし夫とも話し合っているので、こんな不毛な対立を望むはずがありません。そうは言っても人をサポートするからにはサポートする側にも余裕が必要になります。でもそれがあの会社にはない。百人で一人を支えているわけじゃないんです。その現状を放置していることが結果として働く母親を追い詰める事態になっていると、上層部は気づきもしないようですが』
「感情こもってる割に冷静だよね」
「ああ。むしろ感情で言うなら子持ち社員に同情的だった」
『少し前に、私が入った頃からずっとお世話になってきた先輩がご退職になりました。その方も働くお母さんです。家庭の事情とおっしゃっていましたが、それだけが理由だったとは思えません。あの会社では能力が高く責任感も強い女性ほど、子育てしながら働いている自分が周りの迷惑になっていると悩んで、実際にお辞めになっていきます』
その先輩社員も時短制度を利用していたそうだ。
時短でもフルタイムでも業務内容自体の差は基本的にはないという。子育て社員のほとんどは優秀な人達で、その先輩も子育てと仕事の両立が非常に上手くいっていたらしい。というより、上手くいっていないという泣き言や不満だけは決して誰にも漏らさなかった。
だから見ていて心配になるほど、家庭を理由に仕事に支障を来たす事がほとんどなかったと。
『本当にお世話になったのに……なんの力にもなれなかった。彼女たちはおそらくは意識して家庭内の話を職場でしません。異様なまでに子供の話をしないんです。効率よく働いて成果も上げている人達がですよ。時短を選択した人の多くは制約のある中でも確実に責務を果たします。早くに切り上げるというだけで給料は下がっているはずなのに愚痴の一つも零しません。業務のほとんどは時間内に片付けていきますが、保育園から急な呼び出しでもかかれば仕事は持ち帰っていきます。ですから彼女たちがいつ寝ているのか私には疑問でしかない。ほんの些細な言動が火種になりかねない現実を理解している人達ばかりが、悩まなくていいことで悩むんです』
自分が言われた失礼な言動については無表情で淡々と語った依頼人は、そこではじめて溜め息をついたそうだ。
『男か女か既婚か未婚か子ナシか子持ちか、問題はそんな事じゃない。優先順位すら分からずに大した成果も出せないままぶら下がっているフルタイムだって大勢います。そんな人たちが周りにいてもなお、子育てしながら働く事に負い目を感じる女性がいるんです。マイナスのシンボルになってしまっている同じ立場の時短の女が、身近にいたらなおさらでしょうね』
片や後ろめたさを感じて自分を追い詰める時短社員。片や配慮を求めるのを当然の権利として他人に凭れ掛かる時短社員。
何が正しいのか分からないと、依頼人は諦めたようにそこで零した。
「たとえ子持ちでも男だったら社内でここまで肩身の狭い思いをする事なんてないだろうに」
「て言われたの?」
「あれはわざわざそんな事を口に出すタイプの依頼人ではない。だがその目がはっきりそう言っていた。あの顔をお前にも見せてやりたかったよ」
「俺らはきっと問題の所在さえ分かってないんだろうね」
「どうしてこういうときに限って有馬が空いてねえんだ」
「なんでもトワちゃんに頼ろうとするなよ代表。できちゃうからって一人に負担を偏らせるのは良くないよねって話を今まさにしてるところじゃんか」
『国がいくら表向きの制度を作ろうと職場環境がそこに追い付いていなければなんの意味もありません。彼女に腹が立つのは私の気質の問題かもしれませんが、この現状を放置している会社が真っ当であるとだけは思わない。そしてこれが今後変わる見込みもない。そんな場所にこれ以上しがみついている意味も私にはありません』
「この人がマネージャーやればいいのに」
「その評価ができねえ組織だからこういうことになってる」
「ごもっとも」
「依頼人はこうも言っていた」
『周りの同僚には感謝しかない。いつも助けてもらっています。何も分からない新人の頃にはどれだけのご迷惑をおかけしたか。だからこそ組織内のサポート体制に加わる事は内部の人間として当然の義務だと思ってきました。たとえその過程で意図せずタダ乗りが発生してしまったとしても、それはむしろある種のバランスが成り立っている証拠です。全体を長期的に見れば理にかなっていますから。ですがそれは私から見て私が集団から受ける利益や恩恵のついでとしてその人が存在しているときに限った話です。あの会社で今起きているのは公平な分配ではありません。搾取です』
誰かの犠牲がなければこの社会は成り立たない。自分もまた誰かの犠牲の上に豊かな生活を築いてきたはず。それがこの世の循環であるなら、犠牲を強いられている側が自分を守るために戦う以外に生き残る道はない。
私は犠牲者でい続けるつもりはありません。最低限の義務は果たした。自分にできる限りの事はすでにし尽くしてきたのだから。依頼人は淡々と語った。
『何より私はただの人間なので、感情には逆らいきれない。これを助け合いだと自分で言えてしまう人にお互い様だから気にしないでなんて死んでも言いたくないんです。彼女一人の存在にこうも毎日イラ立つことは、人生の無駄でしかありません』
直属の上司には度々改善を求めてきた。だがそこ以外に報告するのは最低限に留めてきたそうだ。
労務コンプライアンス担当の部署に申し立てを行ったことはある。そして案の定、幾度となく曖昧な回答を受け、それ以降は意図して積極的な相談はしなかった。その理由も依頼人は答えた。
『改善を求めたという記録を事実として残すために私は自分の不利益な現状を会社に対して複数回示しました。ただし彼らが具体的な行動には移らないと想定できる範囲内で。下手に話しても内々で処理されてなあなあに済まされるのが関の山です。それだけは納得いきません。未払い分を請求する相手は会社ですが、ここには彼女個人に対する恨みももちろん入っているので』
「て言うと?」
「仮に裁判にでもなっちまえば会社は何かしらの対応を迫られる。朝晩のニュースで名指しされる程度の企業規模ではあるからな。もしそうなりゃたとえ一時的でも高確率でネットは燃えるだろ。いくら厚かましい女とはいえ、自分が原因で非難の的になった場所に居座り続ける勇気はないと思う。だとよ」
「すんっごい狙い撃ちしてんじゃん。早く子供産んだ方がいいよ発言がそこまで尾を引いちゃってる?」
「そのようだ」
「自ら斬り込みに行くのか」
「暇な世間に是非を問うだけ無駄だろ。そっち側からのハラスメントには過剰なくらい敏感な割にあっち側からのハラスメントとなるとなぜか見逃されるからな」
『彼女側から見れば悪者は私の方です。彼女の子供達には将来恨まれるかもしれない。世間からしてみればワーママに不寛容な子ナシ女になるんでしょうね。それで結構。社会の同意は求めていないので喜んで悪者になりますよ。嫌な奴にも優しいのがその社会ですから、制度の使い方がお上手な彼女に倣って私も利用できるものは利用します。彼女がアドバイスしてくれた通りに』
どちらの言い分が正しいか。私の言っている内容にはどれだけの客観性があるか。そんな事を争うつもりはない。やる事は一つだけだ。なぜなら私が大事なのは私。
依頼人はそう言ってさらに続けた。
『私の主張に筋が通っていない、あるいは要求に無理がある場合ははっきりそうおっしゃってください。私の人生にとってもこれは最善の選択ではありません。不満しかない会社にいつまでも在籍していたのは私ですが、本来であれば金銭に加えて時間も労力も全て含めて想定したとき最も自分の利益になるのは、停滞した組織から離れてもっと条件の優れた場所に一日でも早く移る事だけです』
「会社には黙っているらしいが、友人から誘いを受けたそうだ。自分の勤務先を受けてみないかと」
「会ったの?」
「会った」
「待遇は?」
「提示された報酬だけでも今の二倍」
「外資?」
「ああ」
「こうなるんだよ」
労働に対して不足のない賃金。成果に見合った正当な評価。
これらを期待するのはごく普通の事だ。依頼人はその普通を求めている。
『彼女だけが楽しているとか頑張ってないとか言うつもりはありません。そんなはずもないと理解しています』
誰が悪いと言いたいのではない。大変なのは誰だって同じ。こんな国で子供を育てながら働く女はなおさらだろう。
しかしパンクしそうに張りつめているのは、働く母親だけではない。だからこそ依頼人の主張は最初からずっと一貫していた。
『彼女の元々の人間性がそうさせるのか彼女の育ちにでも原因があるのか会社にいる時だけたまたま傲慢な人になるのか、どんな理由であの言動に至るのか私には知りようがない。私に分かるのはこれまで彼女が私に投げつけた言葉の数々。度重なる失言の事実だけです。この事実を作り出す彼女のために、長いこと私にタダ働きを強いてきたのがあの会社です』
「会社にもその時短社員にもできる限り思い知らせてやりたい。そのためできる限り大事にしたい。そういう事らしい」
「口は禍の元だ」
「その同僚に対してこれまで受けてきた精神的苦痛を理由に損害賠償請求叩きつけるってんならさすがに無理だと言って止めた。だがさっきも言った通り、訴えようとしてんのはあくまで会社だ」
「心底腹は立っているけど理性が勝ったって感じかな」
「どう思う」
「どう思うも何も。そう悩む事でもないだろうよキミらしくもない」
「キレてる人間なんかこっちも見飽きてるが、あそこまで理性的にあそこまでブチギレてる人間を久々に見て結構動揺してる」
「情けないこと言うんじゃないやい」
中川さんの手元にあるコップの表面は水滴でビッシリ覆いつくされている。それを紙のコースターごと持ち上げて、軽く口をつけてから比内さんの問いに応えた。
「本人はめっちゃ訴訟沙汰にしたそうじゃん。刺し違える覚悟でここに来たんだろう?」
「いいや」
「違うの?」
「最低でも金さえ取り返せるなら自分で自分を納得させて落としどころを見つけるそうだ。訴訟か示談かそれ以外か、その辺の判断も全てこっちに任せると」
「ほんと冷静だな」
「考え方が合わねえってだけの女とつまらねえ会社のために人生を棒に振るつもりはないってよ」
「引き抜きの件がなかったとしてもこの人なら自分でやっていけんじゃない?」
「かもな。必要なさそうな事まで語って聞かせてきたのもグチりたかったからじゃねえ。この可否を俺に答えせるためだ」
「なんて答えた?」
「今後の事を含めて利益を最優先に考えるのであれば大事にするのはお勧めしないが、可能な範囲で意思は酌む」
「無難にいったな」
「悪かったな」
それでも依頼人は納得したのだろう。でなければ比内さんは中川さんを呼んでいない。
一緒に出ていた七瀬さんと事務所に戻ってきたところを、迎え出たのは比内さんだ。
「おい中川、ツラ貸せ。会議室来い」
「嘘でしょ俺いま帰ったとこだよ。クタクタだよ。外めっちゃ暑いよ」
「いいから来い」
「超パワハラじゃん」
「うるせえ来い。七瀬はちゃんと休めよ」
「差!!」
比内さんについて俺も会議室に入る。大量に麦茶作っておいてよかった。
***
「麦茶どうぞ」
「助かったあ、天の恵だよ。もう喉カラッカラ」
中川さんが一息つくのをお待ちしてから、ホワイトボードの前に出た。
向かい合わせにピシッと並べてある白寄りカラーの長机。会議室で始まったのは作戦を立てるための話し合いだ。
とある会社の組織図と、依頼人周りの相関関係はさっき簡単に書き出しておいた。今は比内さんの説明に沿って、相談の概要を箇条書きにしながら横に適宜付け足していく。
依頼人はフルタイムで働く会社員の女性だ。勤務先のIT企業には大学卒業後に入社。現在二十九歳。既婚者。子供なし。勤務の形態としては裁量労働制が適用。
ここのところ休日出勤が常態化しているものの、与えられた代休の回数はゼロ日。本人によるとここ半年に渡る月の労働時間は三百五十時間をゆうに超えている。うちふた月は、四百時間を超えた。
このままだといつ過労で死んでもおかしくない。訴えの相手方は勤務先企業という事になるのだが、その中身は少々込み入っていた。なぜなら火元となっているのは依頼人の同僚だから。二人目の育休が明けて復職した女性従業員だそう。
第一子の育休中に妊娠したためそのまま第二子の産休育休に入っていた。復帰以降は育児短時間勤務に切り替えて就業中。依頼人は現在その同僚のサポートに付いている。しかしながらその実態はサポートの域を超えており、二人分以上の仕事量を背負わざるを得ないのが現状であると。
これによって生じた深夜や休日に及ぶ労働に対する割増賃金の未払い。その他諸々増加している、労働分には到底見合わないと言わざるを得ない不当な評価。要約するとこれらに関する慰謝料請求の訴えだ。
比内さんがざっと説明し終えたのに合わせ、俺もカチッとホワイトボードマーカーのキャップを閉じた。
椅子ごとホワイトボードに体を向けていた中川さんは冷たい麦茶をペーパーコースターに置いて、片肘をくいっと机についた。
「これって労基には通報したの?」
「してねえってよ」
「間すっ飛ばしてここに?」
「ああ」
「ふーん」
問題のある労働環境に身を置いている。時間だけ見てもそれは明らか。客観的にもそうであると自信を持って断言できる。にもかかわらず然るべき機関への通報は行わない。それはなぜか。
比内さんの問いに対する、依頼人の答えはこうだった。
『すでに退職を決めている企業に是正勧告を出してもらっても私にはなんの得もありません。世直ししたいわけではないんです。あの会社が今後どうなろうと私には一切関係ない。ただし辞めるに当たってこれまで奪われ続けてきた分はそっくりまとめて取り返さないと、いくらなんでも気が済みません』
「非常に熱のこもった訴えだった」
「結構なことじゃないの。世の中がギスギスすればするほど俺達みたいのが儲かるんだ」
目が笑っていない。全然笑ってない。分かりにくい中川さんの斜め向かいに座っている比内さんは、分かりやすくニコリともしなかった。
「あくまで矛先は会社に向けてる。育児中の時短社員を糾弾したがってるわけじゃねえ。制度利用は彼女の権利だから、自分にはそれについて異を唱える権利はないしそんな事があってはならない。そう言っていた」
「ほうほう」
「正直に言うと感情百パーの主張が展開されんだろうと思ってたよ。だが聞いてみたらそうでもない」
『こういうのはお互い様だから。いつも笑ってそう言うんです、彼女』
比内さんの前でソファーに浅く腰かけ、依頼人は淡々と語った。
先々月、その同僚は有給休暇を使ったそうだ。計画していた家族旅行のために。
何も問題ない。もちろんその通り。しかしその旅行日に当たる前日までの二日間、子供の体調不良を理由にその人は急遽欠勤していたらしい。
『お子さんの熱で月曜から欠勤するのもその翌日から有休を含め五日かけて家族旅行をして来るのも構いません。彼女は自分に与えられた正当な権利をなんら不備なく行使しただけです。周りがとやかく言う事ではないしそんな事は決してあってはならない』
彼女の権利だ。侵害されていいはずがない。ようやく社会の注意が向き始めた女性の働き方というものに水を差しては絶対にならない。ここで依頼人はそう強く言った。
その言葉に嘘はなかったが、思うところがないわけではない。
旅行を終えて帰ってきた翌日の月曜日から、クルーズ船やらフレンチフルコースやら星付きホテルでの宿泊体験やら、山積みの仕事を黙々と捌いている人間に旅行の思い出話を延々聞かせてくるその神経は一体どうなっているのか。
頼んでもいないのに子供の写真を次々見せてくるのはなんなのか。家族の自慢話はいつになったら尽きるのか。この人は果たして何をしに会社に来ているのだろうか。
時短になったせいで給料が下がったのは不公平。日本は働くママに不寛容。ワーママいじめを許す社会は絶対に間違っている。独身者の僻みにはもううんざりだ。
どの口で愚痴ばかり言い連ねるのか。
疲れたアピールするくらいならあなたも有休はちゃんと消化しな。休むのも仕事のうちだよ。もっと効率を重視して動けばいくらでも休めるはずなんだから。長時間ダラダラ作業してるだけで仕事したつもりになっているから日本人はいつまでも生産性が低いの。
他人のフォローで既定の休日さえ潰されている人間に対して、何をどう思いどう考えたらそんなことをズケズケと言えるのか。誰のせいでこうなっていると。
『彼女の有休は彼女の権利であって元々の予定通りに旅行をしてきた、それだけの事です。分かっています。時短制度の利用も子供のための急な休みも会社が彼女に与えている正当な権利ですから、彼女に対して不満を抱くのはお門違いだという事も忘れていません。これが働く女性全体の利益に繋がるとも信じてきました。だから休日出勤が避けられなくなれば自分の予定をキャンセルして必ず応えてきたんです。私生活を投げうってでも彼女のフォローをしてきたつもりです。それでもこれが私の努力として評価される事だけはありません。フォローという名目でほとんど私が最初から最後までやってきた仕事も、成果は全て彼女の方に流れるんですから』
「なんでよ」
「だいたい想像つくだろ」
もうひとつ、遠慮せずに言ってもいいならば、その同僚は元々大きな戦力では全くなかった。口はよく動くが手は動かない。余計なことを思いつくが、その思い付きを自分で処理できる程のスキルは持ち合わせていない。誰も表立っては言わないがそれが同僚間での評価だ。そのためその人の産休中は、これと言って大きな負担が増えたとは感じていなかったらしい。むしろどちらかと言えば、平和だった。
そもそもが激務であるものの、仕事は部署内で正常に回っていた。それが突如として回らなくなった。彼女が時短ワーキングマザーとして復帰してきた直後から。
『彼女がいると仕事が減るどころか増えます。どれだけ失言が多くても欠勤早退が日常茶飯事でも最低限の責任を果たしてくださる方なら特に何も思いません。それが彼女の場合、散々引っ掻き回すだけ引っ掻き回したあとは決まってお子さんが熱を出します。自信だけはおありのようでして率先してやりたがりますから、途中放棄された仕事の後処理で私の業務は倍増どころではない。ええ、言えるものなら言いたいですよ。ややこしくするだけならむしろ何もしないでほしいと。それを飲み込んで休憩も取れずに連日の残業と休日出勤をしながら最後の最後まで仕上げたところで、タイミングよく近寄ってくるのが彼女です。その仕事の成果は彼女一人の手柄になります』
「できないという実績だけは申し分なく作り上げてくれる。だからなるべく簡単な作業を回すと、時短社員に雑用しかやらせないのは差別だと言って騒ぐらしい」
「ギャグなの?」
「ギャグみてえな要求が本当に通る。依頼人の勤め先は子育てしながら働く女性を全力で応援しているそうだからな」
「日本ってやつはさあ」
「ちなみに役職者の女性割合は三十パー以上を目標にしてる」
「分かりやすいな」
「ついでに言うとその時短社員の方が依頼人より社歴は五年長い」
「分かりやすすぎて笑えてくるよ」
いち会社員として果たすべき義務である。それだけの根拠で依頼人は耐えた。耐えに耐えぬき、そしてついに折れた。折ったのは、サポートしている当の同僚。
『せっかく目の前にロールモデルがいるんだから、あなたもグズグズしてちゃダメ。子供は急いだ方がいいよ。いつかはって思ってると本当にタイミング逃しちゃうから。産休育休制度っていうのは賢く使った者勝ちなの。この会社はまあまあ手厚いし、私もすぐにまたもう一人くらい妊娠したらラッキーかなあなんて思ってるんだよね。……一言一句違わず覚えています。前日の帰宅時間にはとっくに終電がなくなっていた私に彼女はご親切にもアドバイスをくれました。あれでご自分がリーダー役を務めていると思い込んでいらっしゃるのだから感心しますよ。彼女がそう思い込むのを、助けているのがあの会社です』
そう語る依頼人は怒りを見せるどころか、もう完全に無表情だったらしい。
今それを聞かされてなんとも言えない顔をするのは中川さんだ。操作したタブレットを持って行って、横からそっと差し出した。
「こちら会社の資料です」
「おう、ありがと」
開いてあるのはダウンロードした企業情報。会社がホームページ内で公開している決算等IR情報の一部だが、中川さんはこれである程度の全体像を把握する。
スクロールしながら資料を見下ろす中川さんに、比内さんが続きを聞かせた。
『赤の他人に言われるまでもなく年々焦りは強くなります。でも今じゃないんです。日本の会社は個人の自由なタイミングでは子供を産ませてくれませんから。子育て中の女性を支援する制度が確立される事は女として望ましい。なのに頑張れば頑張るほど損をしていくこの国では、こんなにも簡単な事すらまともに機能していません』
言いたい事を飲み込み続けてきた。制度を信じた結果がそれだった。無表情の依頼人は、しかし意思を込めて言ったそうだ。
『無神経な人も図々しい人もどこにでもいると知っています。ですから特定の個人に対する嫌悪感と労働環境の問題点とでは、明確に区別して考えるべきと思って特に注意を払ってきました。そうでなければ下手をするとこちらがハラスメントで訴えられかねないので。中途半端に出たり休んだりするくらいならいっそもう十年くらい休んでいてくれとうっかり口走ってしまう前に、私が会社を辞めることにしたんです』
「限界を突き破った感じだね」
「溜め込んでたぶん恨みは深そうだぞ」
『人を増やせば改善される問題であっても人手はそう簡単には増えません。国内の働き手が不足してようやく女性活躍だなんだと都合よく耳障りのいいことを言い始めたから現場はここまでこじれました。後からならなんとでも言えますが、景気が良く人手も十分で環境を整える余裕があった時代に女性の待遇を見直していればここまでの悪循環には陥っていなかったはずです。現場の状況を知りもしないで今さらノコノコ中途半端な制度を作ってあとは企業に丸投げする国の怠慢を訴えたいところですが、それはあまりに現実的ではないので私は会社を訴えます。たとえ意地汚いと言われようとも』
「感情的なんだか理性的なんだか分かんねえだろ」
「聞くまでもないんだろうけどこれ上司は?」
「言うまでもねえんだろうがなんの役にも立たない」
「当てようか。男でしょ」
「正解。トラブルの内容を考えると男の自分が口を出すのは適切でないとかなんとか言って逃げるそうだ」
「なんのための管理職だろう」
「猫でも置いといた方がまだ役に立つな」
「即戦力が来てくれるかどうかは別として、増員のための募集かける余力くらいなら大分ありそうな会社に見えるけど。人員補強すれば解決する問題じゃないにしてもさ」
「マネージャーは上に掛け合ってみるポーズすらしねえってよ」
「もうそれ職務放棄だろ」
「依頼人によると学歴までは最上で部下からの人望はまるでないが上には仲良しが多いらしい」
「とことん分かりやすい会社だな」
『私自身いずれは子供が欲しいですし夫とも話し合っているので、こんな不毛な対立を望むはずがありません。そうは言っても人をサポートするからにはサポートする側にも余裕が必要になります。でもそれがあの会社にはない。百人で一人を支えているわけじゃないんです。その現状を放置していることが結果として働く母親を追い詰める事態になっていると、上層部は気づきもしないようですが』
「感情こもってる割に冷静だよね」
「ああ。むしろ感情で言うなら子持ち社員に同情的だった」
『少し前に、私が入った頃からずっとお世話になってきた先輩がご退職になりました。その方も働くお母さんです。家庭の事情とおっしゃっていましたが、それだけが理由だったとは思えません。あの会社では能力が高く責任感も強い女性ほど、子育てしながら働いている自分が周りの迷惑になっていると悩んで、実際にお辞めになっていきます』
その先輩社員も時短制度を利用していたそうだ。
時短でもフルタイムでも業務内容自体の差は基本的にはないという。子育て社員のほとんどは優秀な人達で、その先輩も子育てと仕事の両立が非常に上手くいっていたらしい。というより、上手くいっていないという泣き言や不満だけは決して誰にも漏らさなかった。
だから見ていて心配になるほど、家庭を理由に仕事に支障を来たす事がほとんどなかったと。
『本当にお世話になったのに……なんの力にもなれなかった。彼女たちはおそらくは意識して家庭内の話を職場でしません。異様なまでに子供の話をしないんです。効率よく働いて成果も上げている人達がですよ。時短を選択した人の多くは制約のある中でも確実に責務を果たします。早くに切り上げるというだけで給料は下がっているはずなのに愚痴の一つも零しません。業務のほとんどは時間内に片付けていきますが、保育園から急な呼び出しでもかかれば仕事は持ち帰っていきます。ですから彼女たちがいつ寝ているのか私には疑問でしかない。ほんの些細な言動が火種になりかねない現実を理解している人達ばかりが、悩まなくていいことで悩むんです』
自分が言われた失礼な言動については無表情で淡々と語った依頼人は、そこではじめて溜め息をついたそうだ。
『男か女か既婚か未婚か子ナシか子持ちか、問題はそんな事じゃない。優先順位すら分からずに大した成果も出せないままぶら下がっているフルタイムだって大勢います。そんな人たちが周りにいてもなお、子育てしながら働く事に負い目を感じる女性がいるんです。マイナスのシンボルになってしまっている同じ立場の時短の女が、身近にいたらなおさらでしょうね』
片や後ろめたさを感じて自分を追い詰める時短社員。片や配慮を求めるのを当然の権利として他人に凭れ掛かる時短社員。
何が正しいのか分からないと、依頼人は諦めたようにそこで零した。
「たとえ子持ちでも男だったら社内でここまで肩身の狭い思いをする事なんてないだろうに」
「て言われたの?」
「あれはわざわざそんな事を口に出すタイプの依頼人ではない。だがその目がはっきりそう言っていた。あの顔をお前にも見せてやりたかったよ」
「俺らはきっと問題の所在さえ分かってないんだろうね」
「どうしてこういうときに限って有馬が空いてねえんだ」
「なんでもトワちゃんに頼ろうとするなよ代表。できちゃうからって一人に負担を偏らせるのは良くないよねって話を今まさにしてるところじゃんか」
『国がいくら表向きの制度を作ろうと職場環境がそこに追い付いていなければなんの意味もありません。彼女に腹が立つのは私の気質の問題かもしれませんが、この現状を放置している会社が真っ当であるとだけは思わない。そしてこれが今後変わる見込みもない。そんな場所にこれ以上しがみついている意味も私にはありません』
「この人がマネージャーやればいいのに」
「その評価ができねえ組織だからこういうことになってる」
「ごもっとも」
「依頼人はこうも言っていた」
『周りの同僚には感謝しかない。いつも助けてもらっています。何も分からない新人の頃にはどれだけのご迷惑をおかけしたか。だからこそ組織内のサポート体制に加わる事は内部の人間として当然の義務だと思ってきました。たとえその過程で意図せずタダ乗りが発生してしまったとしても、それはむしろある種のバランスが成り立っている証拠です。全体を長期的に見れば理にかなっていますから。ですがそれは私から見て私が集団から受ける利益や恩恵のついでとしてその人が存在しているときに限った話です。あの会社で今起きているのは公平な分配ではありません。搾取です』
誰かの犠牲がなければこの社会は成り立たない。自分もまた誰かの犠牲の上に豊かな生活を築いてきたはず。それがこの世の循環であるなら、犠牲を強いられている側が自分を守るために戦う以外に生き残る道はない。
私は犠牲者でい続けるつもりはありません。最低限の義務は果たした。自分にできる限りの事はすでにし尽くしてきたのだから。依頼人は淡々と語った。
『何より私はただの人間なので、感情には逆らいきれない。これを助け合いだと自分で言えてしまう人にお互い様だから気にしないでなんて死んでも言いたくないんです。彼女一人の存在にこうも毎日イラ立つことは、人生の無駄でしかありません』
直属の上司には度々改善を求めてきた。だがそこ以外に報告するのは最低限に留めてきたそうだ。
労務コンプライアンス担当の部署に申し立てを行ったことはある。そして案の定、幾度となく曖昧な回答を受け、それ以降は意図して積極的な相談はしなかった。その理由も依頼人は答えた。
『改善を求めたという記録を事実として残すために私は自分の不利益な現状を会社に対して複数回示しました。ただし彼らが具体的な行動には移らないと想定できる範囲内で。下手に話しても内々で処理されてなあなあに済まされるのが関の山です。それだけは納得いきません。未払い分を請求する相手は会社ですが、ここには彼女個人に対する恨みももちろん入っているので』
「て言うと?」
「仮に裁判にでもなっちまえば会社は何かしらの対応を迫られる。朝晩のニュースで名指しされる程度の企業規模ではあるからな。もしそうなりゃたとえ一時的でも高確率でネットは燃えるだろ。いくら厚かましい女とはいえ、自分が原因で非難の的になった場所に居座り続ける勇気はないと思う。だとよ」
「すんっごい狙い撃ちしてんじゃん。早く子供産んだ方がいいよ発言がそこまで尾を引いちゃってる?」
「そのようだ」
「自ら斬り込みに行くのか」
「暇な世間に是非を問うだけ無駄だろ。そっち側からのハラスメントには過剰なくらい敏感な割にあっち側からのハラスメントとなるとなぜか見逃されるからな」
『彼女側から見れば悪者は私の方です。彼女の子供達には将来恨まれるかもしれない。世間からしてみればワーママに不寛容な子ナシ女になるんでしょうね。それで結構。社会の同意は求めていないので喜んで悪者になりますよ。嫌な奴にも優しいのがその社会ですから、制度の使い方がお上手な彼女に倣って私も利用できるものは利用します。彼女がアドバイスしてくれた通りに』
どちらの言い分が正しいか。私の言っている内容にはどれだけの客観性があるか。そんな事を争うつもりはない。やる事は一つだけだ。なぜなら私が大事なのは私。
依頼人はそう言ってさらに続けた。
『私の主張に筋が通っていない、あるいは要求に無理がある場合ははっきりそうおっしゃってください。私の人生にとってもこれは最善の選択ではありません。不満しかない会社にいつまでも在籍していたのは私ですが、本来であれば金銭に加えて時間も労力も全て含めて想定したとき最も自分の利益になるのは、停滞した組織から離れてもっと条件の優れた場所に一日でも早く移る事だけです』
「会社には黙っているらしいが、友人から誘いを受けたそうだ。自分の勤務先を受けてみないかと」
「会ったの?」
「会った」
「待遇は?」
「提示された報酬だけでも今の二倍」
「外資?」
「ああ」
「こうなるんだよ」
労働に対して不足のない賃金。成果に見合った正当な評価。
これらを期待するのはごく普通の事だ。依頼人はその普通を求めている。
『彼女だけが楽しているとか頑張ってないとか言うつもりはありません。そんなはずもないと理解しています』
誰が悪いと言いたいのではない。大変なのは誰だって同じ。こんな国で子供を育てながら働く女はなおさらだろう。
しかしパンクしそうに張りつめているのは、働く母親だけではない。だからこそ依頼人の主張は最初からずっと一貫していた。
『彼女の元々の人間性がそうさせるのか彼女の育ちにでも原因があるのか会社にいる時だけたまたま傲慢な人になるのか、どんな理由であの言動に至るのか私には知りようがない。私に分かるのはこれまで彼女が私に投げつけた言葉の数々。度重なる失言の事実だけです。この事実を作り出す彼女のために、長いこと私にタダ働きを強いてきたのがあの会社です』
「会社にもその時短社員にもできる限り思い知らせてやりたい。そのためできる限り大事にしたい。そういう事らしい」
「口は禍の元だ」
「その同僚に対してこれまで受けてきた精神的苦痛を理由に損害賠償請求叩きつけるってんならさすがに無理だと言って止めた。だがさっきも言った通り、訴えようとしてんのはあくまで会社だ」
「心底腹は立っているけど理性が勝ったって感じかな」
「どう思う」
「どう思うも何も。そう悩む事でもないだろうよキミらしくもない」
「キレてる人間なんかこっちも見飽きてるが、あそこまで理性的にあそこまでブチギレてる人間を久々に見て結構動揺してる」
「情けないこと言うんじゃないやい」
中川さんの手元にあるコップの表面は水滴でビッシリ覆いつくされている。それを紙のコースターごと持ち上げて、軽く口をつけてから比内さんの問いに応えた。
「本人はめっちゃ訴訟沙汰にしたそうじゃん。刺し違える覚悟でここに来たんだろう?」
「いいや」
「違うの?」
「最低でも金さえ取り返せるなら自分で自分を納得させて落としどころを見つけるそうだ。訴訟か示談かそれ以外か、その辺の判断も全てこっちに任せると」
「ほんと冷静だな」
「考え方が合わねえってだけの女とつまらねえ会社のために人生を棒に振るつもりはないってよ」
「引き抜きの件がなかったとしてもこの人なら自分でやっていけんじゃない?」
「かもな。必要なさそうな事まで語って聞かせてきたのもグチりたかったからじゃねえ。この可否を俺に答えせるためだ」
「なんて答えた?」
「今後の事を含めて利益を最優先に考えるのであれば大事にするのはお勧めしないが、可能な範囲で意思は酌む」
「無難にいったな」
「悪かったな」
それでも依頼人は納得したのだろう。でなければ比内さんは中川さんを呼んでいない。
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