No morals

わこ

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第三部

110.ずっと、いつまでもⅡ

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 車でしばらく移動を続け、駅に繋がる大通りからは外れて知らない裏道に入っていった。
 辺りの景色にも馴染みがない。車のライトと街灯に照らしだされる。小さな工場や住宅地が入り混じった一帯だった。だが今は人通りがない。

 すっかり日も落ち、人影の一つも見当たらない道を進んだ。この車が出たのはどこにでもあるようなビルの前。隣には広々とした車庫らしきスペースがある。
 閉まっているシャッターの前にゆっくり車が寄せられた。するとどこからともなくやって来た一人の男。そいつは畏まった様子ですぐさま運転席のドアを開け、この人に向かって深々と頭を下げた。

「お疲れ様です」
「おーご苦労さん、あと頼むわ。行くで兄ちゃん」

 エンジンをかけたまま車から降りたこの人は男にそう告げ、警戒する俺を振り返ってにこにこと手招いてくる。
 この男は車庫番なのだろう。車と男をその場に残してこの人の後に俺も続いた。当然のようにビルの中に入っていく。ここに何があるかは知りたくもないが、この人について行かない限りはあいつの無事も確かめられない。

 ビルの外観は至って一般的。ガレージも、少なくともシャッターが閉まっていたさっきは周りの雰囲気に溶け込んでいた。平凡な地域の、どこにでもありそうなビルが、暴力団事務所であるなどと誰が想像できるだろうか。
 人のいないエントランスの受付を素通りし、階段を上っていくこの人に俺も黙って付いて行く。
 二階のフロアに上がれば見渡しで三つ。この人はそのままさらに上の階を目指そうとして、しかしそれより僅か程度はやく、手前のドアがガチャリと開いた。中から男が一人出てくる。

「……お前今までどこほっつき歩いてた。一人でフラフラすんじゃねえっつってんだろ」
「おーおー出よったな。ええやんけ少しくらい。カリカリしとると余計に人相悪なんで」
「誰のせいだと思ってる」

 足を止めたこの人。その男と向かい合った。
 見覚えのある男だ。見覚えと言うか、はっきり覚えている。つい昨日。夕べだ。二人で俺の前に現れた。部下だとか言う、その男。
 男と言葉を交わしながら、この人は後ろの俺に目を向けた。にっこりと笑みを投げかけてくる。

「兄ちゃん、こいつ昨日も会うたやろ? 神谷言うねん。俺の口うるっさい部下」
「誰が口うるさいだ。大体テメエいつまであの厄介なモン俺に預からせる気だ。こっちにだって仕事があんだよ。テメエが放ったらかしてる分のな」
「あースマンスマン。もうちょい待っとけや」

 神谷と言われた男は心底嫌そうに顔をしかめた。そしてその視線は俺にも向けられ、観察するように眺めてくる。だが特別何を言うでもなく、再びこの人に向けて悪態をついた。

「早いこと仕事に戻れ」
「分かった分かった、すぐやすぐ。上使うからちょっと誰も入れさせんといて。行こうや兄ちゃん」

 ヒラヒラと手を振りながら階段を上っていくのについて行く。ちらりと後ろを振り返れば、男も元いた部屋に戻っていった。
 ここの部屋のどれかに竜崎は居るのか。しかし、どこを探せば。

「…………あいつはどこにいる」
「そればっかやなあ。そないに心配? あいつ一回死にかけたんやもんなあ? あ、もしかしてトラウマなってる?」
「…………」
「そうかぁ。可哀想に」

 笑い声が気に障る。その背を睨みつけたまま、通されたのは三階のフロア。
 最奥の部屋のドアをこの人が開けた。こちらを振り返って手招きしてくる。

「入りや。平気やて、兄ちゃんに危害加える気あらへんから」

 背にそっと手を添えて部屋の中へと促される。数歩進めば後ろでパタンと音を立ててドアが閉まった。
 素っ気ないが、普通の部屋だ。中央にはテーブルがあり、それを囲い込むような形で長ソファーが向い合わせに置かれている。壁の前には大きなデスクが一つ。部屋の中央を向いて設置されていた。その他は書類やら何やらが並んだ棚がある程度。

「まあ掛けて。頼むから変な気だけは起こさんでな?」

 ソファーの前まで押し歩かされ、肩に力をかけられたためそれに従い腰を下ろした。
 見上げたその顔。小さく笑いながら棚の方に行ったこの人は、大判の茶封筒を持って俺の前のソファーにドサリと座った。
 封筒の中から取りだされた何か。書類か。何かが書いてある用紙が数枚、ひとまとめに閉じられている。怪訝に窺う俺をもう一度その目に映すと、にんまりと楽しげに口角を吊り上げた。

 スーツの内ポケットから取り出した煙草に火を点け、それを口にしながら空の封筒だけ自分の横に投げ出す。手元に残った中身の書類に目を向けたまま煙をふかしていた。

「おい……」
「宮瀬裕也。二十五歳。現在はバイトを掛け持ちしながらワンルームアパートで一人暮らし。家族なし。母親とは七才で死別。中学頃から素行に問題が生じ始め、高校では暴力沙汰乱闘騒ぎ他多数。大学教授の父親とは折り合い悪く卒業と同時に家を出て自立。その父親も半年前に膵臓癌により他界。他、親族と呼べるものはなし。……どう? ものっすごいザックリ言うとこんな感じに書かれてるんやけど何か訂正ある?」
「…………」

 忌々しいその顔を睨みつけた。手元の用紙にはより詳細な情報が隅々まで記されているのだろう。

「兄ちゃんもなかなかの苦労人やねえ。折角なんやし親父さんの遺してくれたもん使ったらええんとちゃうの? 結構な坊やのに今どき珍しいくらいマジメやね」
「……どういうつもりだ」
「殺気立った兄ちゃんええなあ。俺そういうのめっちゃ好き」

 機嫌よくペラペラと喋り、吸い始めたばかりの煙草を灰皿で押し潰した。書類はパサリとソファーの上へ。静かに席を立ち、そばまで近づいてくる。
 俺を見下ろすその顔には笑みが張り付いている。苛立ちを示して睨み付けていると、余計に口角を吊り上げて見せた。

「夕べあの公園で恭介がキレた理由、知りたない?」
「は……」
「あいつホンマに必死や。熱くなる言うことなんか知らんような冷血漢やったのに。一人で勝手に誤解して、兄ちゃんが俺に殺されるって本気で思っとるよ」
「なんだよ、それ……」

 竜崎は何かを恐れていた。そしてその何かを俺に知られないように、自分一人で背負いこんでいた。この人はその中身を知っている。

「恭介がこの前最後に実家戻った時な、俺もその場におってん。久々に会うたらなんやええ顔しとったわ。まあでも、変わったなあ恭介も。あいつはガキの頃から自分の親父嫌ってたけど面と向かって歯向かう事だけは絶対にせえへんかった。正面切って啖呵切ったところで倅に折れるような人でもないしな」

 ギリッと、ソファーに爪を立てている。無意識だったが、それに気づいた。この人の視線によって。
 俺が興味を示したことに気を良くしたのか、ふっと笑みを深めた。

「なんだかんだ言うてても親父の優秀な忠犬やったよ恭介は。あの人がやれ言う事には嫌ッそうな顔しながらも完璧に従うねん。どこぞのうさん臭い会社潰してこい言われればエゲツない手ぇ使うて潰すし、会費ちょろまかした組シバき倒せ言われればバチッバチにシバいてきよるし。事務所預かるようになれば、まあ親父に似たんかよう稼ぐしな。あの人も出来た倅やなんて自分でしょっちゅう言うてはった」

 和やかな昔話でも語るように、楽しそうに言い連ねてくる。今も昔も苦しんでいるあいつを、おもしろがっている。この人は。

「あないな親馬鹿が恭介を手放したがらへんのは当然の事やろ。いくら自分を憎んどってもな、倅が忠実で優秀な部下に育ったら親としてはそりゃあ何よりや。自分の後任せられるんは恭介しかおらん言うてそれだけは何があっても譲らへん。なのにそれがなあ……。ホンマ変わりよったであいつ」

 クスクスと、込み上げてくるらしい笑いを隠そうとする素振りもない。心底愉快に口角を吊り上げ、じっと俺を見据えてくる目は、ほとんど狂気に満ちている。

「恭介にとっての引き金は全部兄ちゃんや。いい意味でも悪い意味でも、兄ちゃんが絡むと急に人間染みた顔つきになる。根っからの極道が、似合いもせえへんのに」
「…………」

 ピクリと、目元に力が入った。それを見たこの人はさらに口の端を上げた。

「あの日もあの人やって本気やなかった。軽い冗談みたいなもんや。それが兄ちゃんの事でちょーっと脅された途端めっちゃキレてな、あれはホンマに自分の親殺す気やったで。あないに感情剥き出しにキレるあいつ見たのなんか初めてや」

 竜崎の首の切り傷は、未だに薄くその痕を残している。かかっていった。そして返り討ちにあった。あいつはそれだけ言っていたが、どうしてそうなったのかは知らなかった。

「あそこまで単純な奴ではなかったはずやねんけど兄ちゃんの事になると冷静じゃいられへんようやな。夕べ俺の顔見てブチキレたのもおんなじ理由や。俺が兄ちゃんこと消しに来たと思ってん」
「……あんたらは俺が邪魔なのか」
「あーちゃうちゃう、恭介が勝手に思い込んどるだけ。安心しぃや、そないな事あらへんから。兄ちゃんとこ行ったんはただな、あいつがあそこまでして必死に守りたい男ってどないなもんかなあって。この事務所見学しがてら、どんなツラしてんのか見てこよう思ってな。でもまあ……」

 そこで一度言葉を止め、品定めでもするかのようにその目が上から下まで動く。この人がついた手の下ではソファーがキシッと小さく鳴った。
 薄く笑みを浮かべながら、いくらかその身を屈めるようにして間の距離を埋めてくる。近い位置に顔を突き合わされた。ニヤッと歪んだ、その口角。

「気持ち分からんでもないわ、男や言うてもこれなら。なあどうなん? 兄ちゃん男シュミとちゃうやろ? そういう奴ってなんとなく匂いでわかんねん。でも兄ちゃんは違う」

 この人の眼下に据えられる。それがひどく、胸に悪い。不快感に顔をしかめ、そこでグイッと強引な動作で顎に手を掛けられた。
 払いのけた。反射的に、バッと。この人はより一層笑みを深めた。

「美人やね確かに。せやけどプライドは高い。おまけにヤクザもビックリな肝の据わりようや」
「…………」
「なのにええのん? 男の下なんか一番プライド傷付くんとちゃうか?」

 一瞬の空白。直後、パシッと、気づいた時にはとうとうこの手が出ている。けれどこの人の顔面に、掠めることすらかなわない。
 浮かべられる笑みに息を呑んだ。俺の足を跨ぐように、膝でソファーに乗り上げたこの人。逃げ出す間もなく、両手を背凭れにがっしり押さえつけられている。

「ッ……」
「そないに怖い顔せんでよ。イイ男が台無しや」
「放せっ、テメエふざけんなッ……」
「暴れたらアカンよ。暴力はやめとこうな」

 革張りのソファーが音を立てている。加減なく押さえ付けられた両手首がギリギリと痛んだ。

「っあいつどこだよ!? 話が違ぇだろ、今すぐ会わせろ!!」
「気ぃ強いなほんまに。苦労するやろそういう性格」
「いいから会わせろクソがッ……」
「おらんで」

 スッと、空気が温度を変えた。平然と吐かれたその一言。

「ここにはおらん。兄ちゃん簡単に騙されすぎや」
「…………」

 そんな。ギリッと奥歯を噛みしめて、この男を睨み付けた。

「……目的はなんだ」

 落ち着け。自分に言い聞かせるのもやっとだ。すぐ目の前にあると思っていた目的物が一瞬でかき消えた。
 この男の話をどこまで信じればいい。あいつはちゃんと無事なのか。今の一言で全てが振出しに戻った。目の前の笑ったこの顔に、いら立ちだけが沸々と込み上げてくる。

「ええ目しとるなあ。久々に楽しくなってきた。そう焦らんともうちょい聞いとけ。俺は親切やから教えといたるけど、兄ちゃん恭介にも騙されてるよ。あいつ実家と切った言うてんのやろ? それ嘘や」

 すぐにはその意味を判断できない。眉を寄せて睨み上げ、するともう一度投げて寄越された。

「組とは切れてへん」
「……なに言ってんだ」
「あいつは実家と絶縁なんぞしとらん。正確には脱退までは許してもらえへんかったいうんかな。形ばっかのもんやけど、この業界じゃ形式言うんは割と重いもんやねん。いくら堅気のフリしとったって除籍通知出回らんうちは指定暴力団の組員のままやで。それがどういう事か分かる?」

 反論は、咄嗟に口から出てこない。緊張感がそうさせるのか、喉の渇きが異様に目立った。
 不安定なあいつを知っている。泣きそうな顔で、離れたくないと、そう言っていたこともあった。
 様子のおかしいあいつを見るたび、俺の中の焦りが募った。それが急に現実味を帯びる。ほとんど硬直している体をなおも押さえつけられたまま、見下してくる、残酷なその目。

「兄ちゃんと俺らの違いってなんやと思う」
「……は」
「ヤクザやってなあ、普通の人間やねん。妻子養っとる奴もおれば親の面倒みてる奴やっておる。毎日労働しとるし税金やって納めとるし、そこら辺の無職者なんかよりも俺らの方がよっぽど国民としての義務は果たしてるよ。けどなあ、そこまでしとっても俺らには無いねん。アホみたいに平和なこの国で平等に与えられたはずの人権保障いうもんが。知らんうちに勝手に指定受けて、暴力団ってだけで簡単に社会から弾かれる。マル暴のがよっぽどアカン目ぇしとると思うけどな俺は」

 ゴクリと鳴りそうな喉を押し殺す。あちら側の言い分でしかない。しかし綺麗ごとだけでやっていけるほど、世の中がまともじゃないのも事実だ。

「まあ元々が流れモンの集まりやしね。指さして白い目で見られる事くらい今更どうとも思わん。けどあいつはどないやろね? 兄ちゃんこと騙して、いつまでもカタギ気取ってるのはそろそろツラいんとちゃうんかな」

 獲物を甚振るようなこの人の目が、薄気味悪く俺を捕らえている。

「あいつはそこいらのチンピラとはちゃうねん。業界内だけやない、サツやって名前だけなら知らへん奴はおらんよ。若頭の任は解かれた言うても指定暴力団員やって事実はずっと変わらへん。大仰な肩書やけど社会に紛れようとするにはまあまあ厄介なもんやで。あいつの名前には必ず竜崎組のブランドが付いてまわる」
「……何が言いたい」
「せやねえ、つまりはアレや。暴力団排除言うヤツ? 金融とか不動産とかは特に縛り厳しいからなあ、表向き力入れとかなあかんやろ。あいつは自分名義の口座一つ作れへんし、今寝床にしてるあの部屋やってしっかり本名出しとんのかは怪しいもんや。働くのやって簡単やない。俺らにはその手の制約がうんざりするほどいくつも課せられる。兄ちゃんが普通にできる事でもあいつにできへん事は多い。竜崎ともなれば尚更や」
「…………」

 知らない事の方が多い。あいつがどうやって生きているのか。あいつがなんだろうとそんなこと、今さらもうどうでもいいような事だが、実際に知るのは怖かった。
 あいつと俺の間には、いつも一定の隔たりがある。それをこの人が俺に示してくる。

「実家におった時あいつは組に縛られてたんとちゃう。守られとった。極道が似合いの男にむしろあそこ以外の場所は生きづらいだけや。組におればあいつは自由に生きられる。それをあのアホはしょうもない意地一つで全部ダメにするつもりらしいわ。どう思う?」
「……どう思うもクソもねえ。あいつは自分で選んでここにいるんだ。守ってもらいたいだなんてタマでもねえだろ」
「へーえ? そうなん?」

 ギリッと奥歯を噛みしめた。不安と怒りとを半々に伴う。
 イライラする。とぼけたその物言いも、何もかも。

「あいつは戻らない。あれだけ毛嫌いしてるテメエらの所になんか絶対、」
「でも言うたよ戻るって。ついさっき、俺の目の前で家戻る言いよった」

 当たり前のようにサラリと述べられた。目を見張り、急激にザワザワ込み上げてくる。
 どんな言葉もすぐには出てこない。楽しげに笑うこの人をただ見ていた。
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