化猫恋物語

句外

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化猫恋物語 六

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 夕暮れの中。門の影が、くたびれた長屋の前に立ち並んでいる。
 その中で、八末は汗を流しながら猛烈に悩んでいた。
 姿は、藍色の着物の右目の無い娘であった。
 八末は門の前で立ちすくんでいる。あと一歩、その足を踏み出せずに。

『時折人間の姿で居れば良いと思いますよ?』

 智里の声が頭の中に蘇る。
 あれから既に何日も経ったが、八末はいまだに人間の姿で矢助に会うことができずにいた。
 別に、矢助と行き違っているわけではない。単純に、己に自信が無くて立ち往生しているのだ。
 ひょっこりと矢助の居る長屋へやって来て、愛しの彼へ微笑みかける自分を想像してみる。
 想像の中で彼は驚いて……それから。
 それからが、八末には想像がつかなかった。

「……やっぱり……無理」

 こうして八末は、今日も三毛猫の姿になった。その姿で門をくぐると縁側に男が見え――。
 にゃあー。
 間延びした声が、矢助の耳に届く。

「今日は遅かったな」

 ほとんど毎日やって来る猫に、矢助も随分と慣れたようであった。
 実は矢助が慣れるよりも、猫の方が慣れていなかったのだが、矢助はそんなことを知るよしもない。
 お妙に相談して、わざわざ猫のなで方を教えてもらった。それだけではなく、お妙はいろんなことを教えてくれた。
 顎の下をなでる、耳の後ろを掻いてやる、尻を軽く叩いてやる――。前二つは気に入ったようだが、尻を叩いてやったら、三毛猫は飛び上がって逃げた。
 お妙はげらげら笑って「尻を叩いて喜ばすには、小さい頃からの教育が必要ですよ」と言った。矢助はその姿を見て、ムッとしていた。八末はというと、その後で金華に泣きついた。
 色々とあったが、矢助はもう猫に緊張はしない。猫も、逃げ出すことは少なくなっていた。

 みゃあおう、みゃおう。

 まるで遊んでくれと言わんばかりに猫は鳴く。矢助もその気になって、猫を膝の上に乗せた。
 猫は最初、足を突っ張らせて座っていたが、矢助が背を優しくなでてやると次第に落ち着いて丸くなった。
 恥ずかしそうに前足で顔を覆うのを見て、矢助は小さく笑った。

「いい子だ。いい子」

 よしよし、と猫をなでる。猫は前足をきゅうと縮める。それがどうしても愛おしい。

「そんなに恥ずかしがることはないのに」

 猫に語りかける癖は、相変わらずあった。周りから見ればきっと変な男なのだろうが、猫の動きを見ていると語りかけずにはいられない。
 最初は直そうとつとめたが、結局そのままになってしまった。
 縁側に腰かけて、猫の毛並みをゆっくりとなでる。悪くない毛並みは、どこかの飼い猫を思わせた。
 いや、もしかすると、飼い猫よりも毛並みが良い気さえする。となると、この猫はとても大切にされている猫かもしれない。
 いつかはきっと、突然現れた三毛猫に、やはり突然別れを告げる日が来るのだろう。その時、自分は悲しい気持ちになるのだろう。
 夕焼け雲を仰いで、矢助はどこか寂しい気持ちになった。
 猫と出逢ってから――いいや、この気持ちは祭りの夜にも味わった。
 あの〝八末〟という娘と話をしてから、どうにも贅沢になっているようだ。いけないことだと、矢助は頭を振る。振ってから、また驚いて逃げるのではないかと、膝の上の猫のことを気にした。
 しかし、猫は動かない。
 それどころか。

 ……ぷすー……ぷすー……。

「……まさか、寝ているのか」

 桜色の鼻からは、規則正しい寝息が聞こえたのであった。三毛猫は実に幸せそうに、矢助の膝の上で眠っていた。
 猫が訪れるようになってから四苦八苦したが、側で、しかも膝の上で寝るなどというのは初めてのことだ。
 このような光景が見られるのには、もっと時間がかかるものだと思っていただけに、心が躍る。
 そっと触れてみたい気持ちに駆られたが、触れてしまっては猫が起きてしまう。折角眠っているのに、起こしてはかわいそうだ。
 それに、もっともっと猫の重みを感じていたい。

「こりゃあ、懐かれたなあ」

 その顔は、柔らかに微笑んでいた。
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