いつか、かえるところ

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1章

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全力で逃げだした。


 逃げるしかない。

 あの様子は確実に友好的じゃないだろう。意思の疎通ができるとも思えない。

 まして、此方は記憶が無い。得体の知れない状況で得体の知れないものを相手にしている余裕はない。

 走り出して直ぐに振り返って確認すると、急に逃げたのが意外だったのか、あいつは固まって此方を見ていた。


 暫く走ると、目覚めた小屋に辿り着いた。肩で息をしながら小屋に入り鍵をかけ、椅子に腰掛ける。


 あいつはなんだったのだろうか。あんなもの実在なんてしていなかったはずだ。

 思い出せないんじゃない、あれはありえない。やはりこの場所は普通じゃない。

 普通じゃないはず。……だが本当に普通じゃないのは、この場所なのかそれとも、記憶のない俺なのか? 

 そんな事を考えながら、テーブルの上のランプを眺めていると不意に、明かりが灯った。


 胡蝶蘭に似たそのランプの明かりは淡く優しい。

 決して強くないその光はそれでも、不思議と部屋全体を明るく暖かく照らし出した。

 急に明かりが灯り驚いたが、ランプを見ていると不思議と心が落ち着いていく。

 ふと、誰も座っていないもう一脚の椅子が視界に入った。何故か、寂しさと懐かしさが込み上げてくる。

 

 俺はここで誰かと過ごしていたのだろうか?そんな事を考えながらランプを見ているとある事に気づいた。

 

 いつからランプだと認識していた?

  最初に見た時は、只のガラス細工としか思わなかったはずだ。

  ……もしかしたら少しずつ記憶が戻っているんじゃないか?

 忘れているだけで、この場所やあの生物を知っているんじゃないか?

 何もわからないままで、何も解決していない。それでも、少し気が楽になった。


 扉を叩く音が聞こえてくるまでは。




 ――扉を乱暴に叩く音が響く。

 何故だか必ず二回殴った後、間を空けてからまた二回殴る。

 おそらく、先ほど遭遇したあいつだろう。

 人間じゃないかと一瞬期待したが、話しかけて来ない。乱暴に扉を叩き続けているうえに、扉の低い部分を殴っている事から、背が低く喋れないあいつが追いかけてきたのだと当たりをつける。

 窓から確認すると、やはり先程の謎生物だった。

 叩いているのではなく、殴り付けている。


 どうすればいい?

 この小屋から出るには扉をから出るか窓から出るしかない。

 だがあいつは扉の前に居て、窓が設置されているのは扉と同じ面。

 窓から飛び出して走れば逃げられないだろうか。足は俺の方が速そうだ。

 しかし、何処に逃げるのか。当ても無く、日が落ちたこの森の中で逃げてどうにかなるとは思えない。

 他の謎生物に出会う可能性すらある。


 なら籠城はどうだろう。

 扉か窓が破られる可能性がある。破られなかったとして、食料は4枚の焼き菓子だけ。飲み水も多くはない。

 いつ諦めるかもわからない。

 扉を見ながら、殴り続けているあれの姿を思い出す。

 そういえば、最初に見かけた時は急に現れたうえに暫くは動かなかった。

 もしかしたら日中は動けない、それどころか姿を消すはずだ。この考えが正しければ、一晩ここで耐えることができたら俺の勝ちだ。

 だが、もし消えなかったらどうする。

 それに、この音を聞き付けた他の奴が来る可能性もある。



 室内を見渡す。

 ここにあるのは椅子とテーブルとランプ。そして腰には、一本の無骨なナイフ。


 ……戦うのか?得体の知れない相手と。

 戦うと言えば聞こえはいいが、これからやるのは殺し合いだ。

 ゲームじゃない。格闘技じゃない。ルールも審判もなく、痛み分けで終わる事はない。

 殺すか、殺されるかだ。



 ――これから俺はあいつを殺す。



 自らが振るう暴力を思うと、興奮と不安が綯い交ぜになり妙な緊張感が生まれた。身体に力が入らない。

 震える右手で、ホルスターから慎重にナイフを抜く。刃渡りは30cm程だろうか? ランプの優しい灯りに照らされて、鈍く光る刃とその確かな重さが頼もしい。

 だが扉に向ける足取りは重い。

 速く浅くなる呼吸を抑え、相変わらず殴られている扉の前に立つ。

 いつでも開けられるように、かんぬきに震える左手を伸ばしタイミングを計る。

 今、俺はどんな顔をしているのだろう。


 扉が二回殴られた直後、かんぬきを外して扉を蹴り飛ばした。


 勢いよく開いた扉は標的に当たった。

 あいつが顔を押さえて俯いているのが目に入る。

 緊張で固くなった腕を無理やり振り上げ、後頭部目掛け全力でナイフを叩き付ける。

 頭に当たった瞬間、目を瞑り顔を逸らした。

 ナイフを通して伝わる、生々しい頭の硬さに手から力が僅かに抜け、振り切れず、ナイフを離してしまう。

 だが何かがおかしい。

 薄い肉と硬い骨、その中の軟らかいものを感じた直後、それらの手応えは、硬い何かが崩れるようなものへと変わった。

 幸い、直ぐにあいつが倒れ、ナイフが落ちる音が聞こえた。


 倒れた筈のあいつを見ると身動ぎせず、うつ伏せで倒れていた。

 そして、頭の中心から右の耳の中程までが弧を描く様に、削り取られたかの様に無くなっている。

 そしてその頭にはあるはずのものが何もなく、まるで岩の様な無機物な物でしかなかった。

 生き物ではなかったのか?本当に死んだのだろうか?

 触れたくないが確かめないといけない。


 仰向けにするために足を腹の下に入れると、石のように硬く、やけに軽い事がわかる。

 蹴り上げて転がした身体は、彫像の様に姿勢を崩すことはない。

 自分が殺した死体の顔を見るのは躊躇われるが、好奇心が勝った。

 そうして見た顔は幸いな事に、苦痛に歪めたというより、目を見開き驚愕した様な表情で固まっていた。

 こんな風に感情を表せるこいつの存在が余計わからなくなる。

 身体の方を見てみると、両手の拳が僅かに欠けていた。扉を殴った時に欠けたのだろうか。

 見下ろしていた顔を上げ考える。こいつは何度も殴っていた。そして必ず二回殴っては間を開けていた。

 何故二回殴ったのか? ――両手で殴っていたから。

 何故間を開けていたのか? ――俺の反応を待っていた? いや違う……拳が欠けるから。

 身体が欠けても殴り続ける。それは問題がないから。ならその間は何の為に?

 あいつの手を再び見ると、何事もなかったかのように、欠けている部分など見当たらなかった。


「……嘘だろ?」小さく呟き、一歩、二歩と後ずさる。

 すると、とても小さな音がしている事に気づいた。何の音だ?耳をすます。

 もし砂時計から音が聞こえるなら、こんな音だろう。場違いなそんな感想を抱く。そして、音の出所はあいつの頭だった。

 辺りが暗くて見えなかった。興奮していて視野が狭かった。そんな事想定できなかった。

 失った部分は粉々になっていたのだ。灰色の身体と同じ灰色の大地の上で。

 それが少しずつ、周囲から戻り再び結合している。ただ見ていることしかできない。

 

 考えろ! 何ができる?

 逃げる? いや、それは最終手段だ。なら、今ここで確実にできる事は?


 ――朝が来るまで殺し続ける!


 そう決めると、急いでナイフを拾った。

 そして再び殺すために、額目掛けてナイフを振るった。

 だがそれは遅かった。再生を終えたあいつは既の所で転がり、ナイフを避けた。


 初遭遇は数メートルの距離があった。その次は一枚の扉を隔てて。

 そして今度はもう、間には何も無い。距離も扉も。


 倒れている間身じろぎもしなかったあいつは立ち上がり、今やもう完全に目覚め、直ぐにでも襲い掛かってきそうだ。にやにやと笑っている。

 調子を確かめるように肩を回したりしながらも、俺から目を離したりはしない。

 扉越しだった時の覚悟など何処かへ行ってしまいそうだ。弱気になる自分を鼓舞するようにナイフを強く握る。

 特に何の予兆もなく、あいつは再び襲いかかってきた。

 一瞬で距離を詰め、勢いそのまま右の拳を腹を目掛けて放ってくる。

 それを慌てて後ろへ下がって躱すが、直ぐに左がフック気味に飛んできた。

 あいつの右手側に不格好に飛んで回避し、カウンター気味に首をナイフで切りつけようとするが、背の低いあいつはしゃがんで避け、そのまま足払いをかけてきた。

 それを避けることができず、倒れる瞬間ナイフを手放してしまう。

 完全に舐めていた。一度不意をついて殺せただけなのに、簡単に下せると。

 くそっ! 仰向けに倒れると痛みを堪え直ぐに立ち上がろうとするが、あいつがマウントを取りに来た。

 その時視界に入ったあいつの右手にはさっき落としたナイフが握られていた。血の気が一瞬で引く。

 灰色なのに、喜びに爛々と輝く瞳が此方を見下ろしてくる。あいつが右手を高く上げ、顔を目掛けて振り下ろしてきた。

 咄嗟に両腕出して顔を守ると、鈍い音が聞こえた気がした。それとほぼ同時に、熱く激しい痛みに襲われ叫んだ。

「っがああぁぁ!」

 そこまで痛がると思っていなかったのか、あいつはその様子に一瞬呆け、しかし此方を見ながら笑い出した。相変わらず声は出ていない。

 何故か、切れた訳ではなく腕は折れていた。 

 痛みだけじゃない、吐き気まで込み上げてくる。


 記憶を無くし、知らない場所で目覚め、化け物に殺される。

 記憶を無くす前の俺の行いは相当、糞だったらしい。


 何とか打開したいが、痛みと気持ち悪さが邪魔をしてまともに考えられない。

 俺の上にいるあいつが、にやにやしながら見せつける様にゆっくり腕を振り上げる。

 それを見ていて気付いた。あぁ、こいつはこのナイフの刃がどこに付いているか分からないのか。だから腕が切れなかったのかと。


 終わった。


 死を覚悟した瞬間。二つの事が起きた。


 遠くから誰かの声が聞こえ、目の前のあいつの頭が吹き飛んだ。

 声のした方に顔を向けると、少し離れた場所に暗くて顔は見えないが人が立っていた。

 それを見た途端、目の前が真っ暗になっていった。

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