一度でいいから、抱いてください!

瑞月

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憂鬱な転生【カノンの場合】

43.光と影のその先.2

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「少し休んだら、軽くシャワーも浴びてくるといいよ。落ち着くまで手を握っていようか?」

 城野院はそう言って、カノンに寄り添うように布団に入った。肘をついて、視線をあわせ手を握る。
 そうしていると、彼の香りと耳元で響く鼓動に、ざわついていた心が穏やかにほどかれていくのを感じた。

 ――先輩なら、

 彼なら、このどうしてもこびりついて離れないざわつきを聞いてくれるだろうか。
 このどうしようもない恐怖と淋しさを、彼は知ってくれるだろうか。
 荒唐無稽だと、笑われてしまうだろうか。
 でも笑い飛ばしてくれるなら、その方が胸が軽くなるのかもしれない。
 この苦しさを、遠ざけてくれるかもしれない。
 少しだけ悩んで、カノンは迷いながらも口を開いた。

「怖い、夢を見ていて……」
「うん」
「この世界の私は消えてしまう夢です。今ここに居る私は全てが消えて、何も残らないんです、この世界の全ては夢で、ここではない別の私に……」

 ――戻ってしまうんです。元の世界に、本当の姿に。

 最後の言葉は、言ったら今度こそ本当になってしまう気がして、言葉にすることができなかった。
 この数か月の苦悩も努力も、から回って涙したことも。全てが『悪い夢』の一言で済まされるくらい、非現実的で、どうやったってお伽噺にしか聞こえない。
 それなのに、誰ひとり知るひとのいなかったこの世界にいるより、元の場所に戻ることの方が今は怖くなってしまったなんて。
 それ以上言葉にすることができなくて、カノンは城野院の胸に顔を押し当てた。
 自由に演奏することがとても楽しいこと。
 撫でられることがこんなに心地いいこと。
 好きになったひとに優しくしてもらえると、こんなにも嬉しいこと。
 ここで知った数々のことを思い起こして、涙があふれる。

 ――こんなにも、失いたくない。
 知る前なら諦められた。手を伸ばす前なら平気だった。
 でも知ってしまったから。もうこれを失うなんて考えられない。

 カノンの涙が落ち着くまで聞いていた城野院は、おもむろに口を開いた。

「そっか、それは怖かったね……。僕には一つ下の妹がいるんだけど、小さい頃よくこうして眠る前は頭を撫でていたな。4歳くらいだったかな、夜になって目を閉じるのが怖いって泣くんだ。眠るともうここに戻ってこれなくなってしまうかもしれないって」

 感受性の強い子だから、古い家の中には本当に何かいたのかもしれないけれどね。そう言って城野院は少し懐かしそうに笑った。
 城野院のような兄がいるなんてどんな気持ちだろう。羨ましいな……そう思いながら彼の言葉を待つ。
 城野院の声は低くて、彼の奏でるチェロのように優しく耳に心地いい。

「ねぇ明晰夢って知ってる? 僕は眠っている時、殆どそれなんだよね」

 めいせきむ、カノンは口のなかでその言葉を、繰り返した。
 夢の中で、自分が夢をみていると気が付く状態だったと、思う。

「夢を見ているとね気が付くんだよ、あーこれ夢だなって。仕方ないから、空を飛んだり、曲を書いたり、演奏したりして過ごすんだけどね」
「へぇ……、すごいですね」

 カノンには、夢は無意識が見せる制御不能なものだという認識しかなかった。
 カノンになる前だって、大事な電車に乗り遅れる夢や、迷路から抜け出せないような夢ばかり見ていた。夢にはあまりいい思いがないということに、改めて気が付く。

「ふふ、それでね、あんまり妹が眠るのを怖がるから、言ったんだ。僕は夢の中でも好きに行動できる。だから、皐の夢の中にも行って、皐がどこにも連れていかれないように守るからって。だから僕のことを呼んでって」

 カノンの頭の中に、小さな城野院が幼い妹に言い聞かせる様子が浮かんで、口元が綻んだ。

「素敵ですね……、優しいお兄ちゃんだ」
「それで僕、本当にその日の夜、妹の呼ぶ声をたよりに、夢の中で本当に妹のこと探しに行ったんだよ。そうしたらね、妹の周りには、妹を連れて行こうとする黒いモヤモヤがあって。それで僕は一生懸命その黒いのを蹴飛ばしたんだ。」
「え、すごい」
「怖がりはしばらく治らなかったけれど、それから連れていかれる夢は見なくなったって言ってたな。まぁ子どもの他愛もない話だけれどね。それでね」

 途切れた言葉の先を求めて城野院の顔を見上げると、彼は優しい瞳でカノンのことを見つめていた。
 優しく細められた紫の瞳は、そのままどこまでも穏やかで温かい。

「良ければ、夢の中で君に会いに行ってもいいかな?」
「え……?」

 一拍おいて悟った言葉の意味に、胸の中に温かさが広がって、涙腺を押し上げる。

「その怖い夢を見た時は僕のことを呼んで。いつでも会いに行くから」

 手をぎゅっと握りしめて、城野院は微笑んだ。
 カノンの不安を慰めるように、優しく。
 この気持ちを言い表せる言葉をカノンは持っていなかった。感謝に似ている、愛に似ている。でも、それよりももっと、暗い水底に差し込む光を見たようなこの感情。
 最後の最後までカノンの中に残っていた、彼と自分を隔てていた糸が、ぷつりと緩んだ。

「……ありがとうございます……」
「礼なんていいよ、それより君の話をもっと聞きたいな」

 今度この部屋に呼ぶ時は、君の好きなものをもっと用意しておくから。
 そう言って城野院はカノンの頬にキスを落とす。
 その温かさを感じながら、カノンはもう一度城野院の胸にぎゅっと抱き着いた。
 そして彼にもっと自分の話を聞いてもらいたい、そう思った。
 彼の話ももっと聞きたい。家族のこと、好きなもののこと、何故髪を伸ばしているのかも聞いてみたい。

 水の底で泡となって消えるその日を想像するのは、きっといつまでたっても怖い。怖くなくなる日はきっと訪れない。
 でも、今貰えた言葉は、抱いた思いは消えることはない、そう信じられた。

 いつか、訪れるかもわからないその日が来るまで、この温もりにしがみついていよう。
 流されないように。消えないように。

 城野院の匂いに包まれながら、カノンは一つ大きく深呼吸をした。
 彼の香りと一緒に取り込まれた酸素は、冷えた指先に仄かな明かりを灯し、そして温かい涙となって吐き出された。

 心に消えない光を残して。

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