君に捧げる―欠ける月

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シューベルト/ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調

4話 運命

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 昼休み、旧音楽室に僕たちは集まっていた。
「さあ、みんないただきましょう」
 机の上には前回のお茶会と同様のものが置かれている。
 岡崎は詳しくないのか物珍しそうに、一井さんは驚いていた。
「これって高いのか?」
 ひょいっと口にマフィンを運びながら問いかける。
「そんなによ」
 対して神無月も大した値段ではないと答えているけど、一井さんがガクガクと震えていた。
 かく言う僕もこのお茶会で出されるものの値段なんてちっともわからないから、かえって怖いくらい。
「美味しいからそれ以上のことは気にしないほうがいいよ」
「確かに。私もそうしないと気軽に食べられないよ」
「ところでなんで俺たちが集められたんだ? 羽野だけでよくないか?」
 この二人、岡崎と一井さんに麗華が会いたいって言ったから呼んだんだけど、でもどうしてだろう。
「そうね、あなた達と芳は創立祭の時に私の手伝いをしてもらうわ」
「……え? 手伝いって言っても何をするんだ」
「そんなのはまだ決まってないわよ」
「私たちのクラスのことはどうすればいいの?」
「もちろんクラスの方も手伝ってもらうわよ」
「じゃあ僕たちは麗華とクラスの用意をするってこと?」
「ええ、そうね。そうしてもらうわ」
「でもなんで、そんなことしないといけないんだ?」
「私の親よ。あの二人が色々してるから自由だけど私が何もしなかったら今頃学校には居なかったわ」
 ……衝撃だった。
 確かに麗華はお金持ちと言えばお金持ちなのだろうと思っていたけど、何もしなければ学校に行くのを辞めさせるなんて。まるで本人の意思がないみたいじゃないか。
「きっとあなた達ならあの二人を恨むでしょうね。でも私は嫌いじゃないわ。昔からそうだったから」
 そう言って麗華は白磁に口をつける。
 ただ僕たちとは違う世界で動いている。その中で僕たちのような人がいるに過ぎない、そんな印象を受けた。
 やっぱり彼女は特別なのだろう。
「僕は麗華が困っていたら手伝うよ。そもそもこの前の劇と同じ状況だしね」
「そうだな。俺も劇を手伝いたかったんだけど、コンクールで出来なかったしな。両方出てスゲーやつを間近で見たいしな」
「もう羽野くん。この前から変わったと思ったけど、自分から手伝うようになるなんて。お姉ちゃん嬉しいよ、オヨヨ」
「一井さんいつから僕の姉になったのさ」
「とにかくありがとう。正直、芳が居なかったら学校は創立祭で辞めていたから助かったわ」
「とにかくよかったよ」
「ええ、ありがとう芳」
 それから僕たちは他愛もない会話をして過ごした。

 雨が降っていた。夕方からずっとこの調子で僕としては気が滅入る。だって外に出ないといけない時に限って降ってくるから。
 常夜灯の明かりと雨音が世界を覆う。
 雨音が一瞬弱まるような、落ち方が変わるような気がした。うつむきがちな傘を上げると眼前には女性がいた。
 傘もささずに制服のまま夜の街をゆっくり歩く。
 いつから濡れていたのだろう、びっしょりと水を含んだ制服と髪。
 これでも多少元気だったら僕は何もしなかっただろう。だけどその人の顔はこの世の終わりのような表情をしていた。
 脈打つ鼓動が早くなって僕の呼吸を浅くさせる。こういう人を見るとあの頃の記憶が蘇ってしまう。ああ、もうダメだ。
「……」
 濡れることなんて構わず傘をさす。僕の存在には気付いているのか曖昧だったけど、歩くのを止めた。
「大丈夫ですか?」
「……」
「どこか辛い所はありますか?」
「……」
 何を言っても返事は返ってこない。焦れったい気持ちが募る。
 ――あの時と同様、このままだと壊れてしまうような気がするから。
 だから、だったら居ても立ってもいられない。
「……!」
「ごめんね、せめて雨が凌げるところに連れて行かせてもらうよ」

 やってしまった。いくらなんでも僕の家に連れてくることなんてないだろう。
 思いっきり犯罪じゃないか。でも夜遅くだったし雨風を防げるところで近い場所なんて僕の家しかなかった。
 ポジティブに捉えるしかない。それにしてもこの子の制服って確か女子校のだったはず。
 タオルは渡したけど正直僕としてはお風呂にきちんと入ってもらって暖まってほしい。
 それを急に言っても……ヤバい人間だ。しかも家に連れ込んでるし。
「ホットココア淹れたから」
 自分用の分と一緒につくって遠慮せずに飲んでもらう作戦は成功して、マグカップにすぐに口を付けてくれた。
「寒いよね?」
 無言だったけど彼女はゆっくりと頷き返事をしてくれた。
「じゃあお風呂に入る?」
「うん」
 今度はしっかりと返事をしてくれた。もうそれだけで僕としては満足というか、ようやく一息つくことができた。
「着替えは悪いんだけど僕ので我慢してくれる?」
 こくりと頷き教えたお風呂場への方へ向かっていった。それからすぐにシャワーの音が響き、これからのことをどうすべきか考えてみよう。
 第一このまま彼女を家に泊めていいわけがない。それは僕にだって十分知っていることだ。だけど彼女はただならぬ雰囲気をまとっている。
 放置しておくのは僕としてはない選択肢。だったら警察に連絡すべきなのだけど、僕の記憶がそれを拒んでいる。どうしても彼女の雰囲気が似ているから。そんなことをしてはいけないと警鐘が鳴ってしまう。
 彼女にどうしてそうなったのかを聞きたいけど、それも取りあえずはしたくない。すべきなのに僕は気持ちを優先してしまう子どもなんだ。
 こうなったら、なるようになるだろう。僕の正義を貫いてみせよう。
 そうこうしているうちにシャワーの音が途絶えて、いよいよ彼女が帰ってきそうだった。
「ありがとう」と小さく言葉にし、身体と心が多少温まってくれたようで胸をなで下ろす。
「ちょっと大きいかな?」
 見るからにダボダボなワイシャツで落ち着かない。というか気にしていなかったけど、この人すっごく可愛い。雑に結んだポニーテールだろうけどよく似合っている。そして所々に凛々しさがありながら、あどけなさを多少含んでいる感じがとても、とてもいい。そんなことは絶対に本人には言えないけど。
「ううん。大丈夫です」
「お腹は空いてない?」
 みるみる顔が赤くなっていく、どうやら食べてはいないらしい。だったら身も心もしっかりと満たしてもらおうじゃないか。ただ僕は人前に出せる程の料理はできないけど。
「なにか食べたいものはある?」
「特にないです」と返事をした彼女の視線はローテーブルのチラシに釘付けだった。そこに置かれているピザのチラシ。ろくに料理もできないし、聞いてみよう。
「ピザって食べられる?」
「食べたことないです」
「え! じゃあ食べてみよっか。チーズはいける?」
「はい大丈夫です」

 家にピザが届くまでそう時間はかからなかった。待ち時間なにをすればいいか困ってたし、早く届いてくれて助かった。
「さあ食べようか」
「いいんですか?」
 今更ながら躊躇してしまったらしい。僕としては君に食べてほしいから頼んだんだけどね。
「遠慮はしなくていいよ。僕一人じゃ食べ切れないし、ほら食べて食べて」
 そこまで言ってようやく一切れを口に運んでくれた。閉じた口から伸びるチーズに戸惑っていてなんだか面白い。
「美味しいです」
「口に合うようでよかったよ」
 そして余程お腹が空いていたのか、無言のまま黙々と食べ始めた。あっという間になくなって、お腹が膨れたのか満足そうだった。
 食後の片付けをしている時に、彼女は今までのことを少しだけどゆっくりと話し始める。
「私……何日か家を出てるんです。お金も持ち合わせてなかったから……困ってたんです」
 よく話題になっている俗にいう神待ち? ってやつだろうか。大抵そういう人は何らかの事情を抱えていると聞く。この人もそうなのだろうか。ただ引っかかるのは彼女の制服。
 あの制服はいわゆる名門のものだったはず。お金には困窮していなさそうなのにどうしてだろうか。
「私の家って色々と厳しくて……」
 厳しい――そう聞いてなんとなく察せた。この人はきっとステレオタイプな価値観の家庭で育ってきたのだろう。子どもが言うことを聞かなければ家から追い出すみたいな。だってこの短い間で彼女は決して悪い子じゃないって確信が持てたから。
 今の時代に女の子を追い出すなんて正直許されることじゃない。だんだんと腹が立ってきた。
「どうしたらいいか分からなくなって」
「もういいよ。大丈夫だから。とりあえずはゆっくりしよう」
 語気が荒くは聞こえなかっただろうか。僕はこういうことをする人間は大嫌いだ。
 だからこそ必ず折り合いをつけなくちゃならない。それは明日にでもしよう。今は彼女の心身が一番大切だから。
「ベッドは使っていいよ」
「私が床でも大丈夫です」
「いや僕が床で寝るから大丈夫だよ。君は……そういえば名前とか聞いてなかったね」
 名前の話題はまずかったかもしれないと今更ながら後悔する。名前なんて家に直接関わっているものだし、嫌がられても仕方がない。そもそも偽名を言う可能性だってあるはずだ。
「私は結野。結野綾音」
 僕の勘が本名だと告げる。やはり彼女……結野さんはイイ人なんだと確信させてくれる。だからこうして僕は自分を責めずに行動ができる。あの時の後悔を繰り返さないように。
「君は絶対に床はだめ。そうじゃなきゃ僕が悲しむから」
「……はい。分かりました」
 そう夜が更けない内に僕たちは就寝した。まあ僕は多少寝付けなかったんだけど、余程疲れていたのか結野さんは数分の内に寝息を立てていた。

「んぁ」
 いい香りが鼻腔をくすぐる。よく聞くとジュウジュウと音を立てていた。これはきっと料理に違いない。
 でも一体だれが料理をしているんだろうか。昨日の記憶を手繰り寄せてみる。……一井さん? でも家の場所は教えていなかったはずだけどな。
「寝ぼすけさんですね」
 朗らかな声が聴こえ、それは鈴の音のような透き通った音。そこでようやく僕は思い出した。
「おはよう結野さん」
「おはようございます」
 ニコリとその細い目を輝かせて僕を見る。これが本来の彼女なのだろう、と思うとなぜだか僕が泣けてきた。
 とにかく、まあ元気になってくれてよかった。あのままずっと下を向いては欲しくなかったから。
「ごめんなさい。勝手にご飯を作っちゃって」
「いいよ。気にしないで! 僕全然作れないから助かったよ」
「ありがとうございます」
 その声には二重の意味が込められているような気がした。でも僕はそんな探るような思考を蹴飛ばして結野さんのこれからと麗華のことについて考えなければ。
 僕にどれだけのことができるかわからないけど、結野さんのことはできるだけ助けになってあげたい。
 ――僕の日常はさらに彩られていく。
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