君に捧げる―欠ける月

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シューベルト/ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調

5話 日常

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 結野さんは朝ご飯を食べた後はすぐに家を出ていってしまった。本来の彼女はこういうことをしない性格なのは昨日のうちに分かっていたこと。ただ心配なのは彼女の家庭の方。
 僕としては何か手伝ってあげたいけれど、無責任に首を突っ込む方がかえって邪魔になってしまうことはよくある。
 連絡先も交換していないからいつ会えるかは分からないけど、ここに現れた時にはできる限り力になってあげよう。

「一ヶ月後ね」
 旧音楽室でまたも僕たちは集まっていた。
「何をするかある程度は決まっているの?」
「いえ全然決まっていないわよ。ただ条件としては私が主体になっていないとダメということかしらね」
「えー? 主体じゃないとどうなるの?」
 僕たちの疑問を一井さんが口にする。
「私が学校にいる意味がないって判断をされてしまうのよ」
「マジかよ。流石に厳しすぎじゃないか?」
「それくらい私にピアノを弾いて欲しいのよ」
 こともなげに言う麗華にまだ僕は慣れない。そんなの自由がないみたいじゃないか。
「とにかく、私はまだこの学校には居たいのよ。だから何かしなくちゃいけないの」
「んーやっぱりピアノの演奏になるのかな」
「だろうな。それ以外じゃ認めてもらえないだろう」
「そうなるわよね。でもそれだと私としてはいつもと変わらないのよ」
 言葉尻には「つまらないのよ」と付いていそうな麗華。確かに彼女のやることはいつもと変化しないだろう。
 だからってそれ以外をするのも出来ないしがんじがらめの状態だ。
「そうね。何かいい案があればいいのだけれどね」
「そういえば一井の方はクラスで何すんだよ」
「わたしー? 確かねお化け屋敷するはずだよ」
「俺等のとこは普通の喫茶店だな」
「麗華はクラスの何か手伝うの?」
「……そうね。私はこうして自由にしてるけどクラスの人が嫌いって訳じゃないわ。だから普通に手伝うわよ。何をするかは聞いてないけどね」
「気になってたんだけどさ……なんで二人はずっと下の名前で呼び合ってるの?」
 ジト目で僕を見つめてくる一井さん。いつかは聞かれる内容だと思ってはいたけど、いざ聞かれるとなると妙に圧を感じてたじろぐ。
「いや、僕としても恥ずかしいよ」
「へー? 私のことを綺麗さっぱり忘れてしまってその態度なのね」
「え? 羽野くん神無月さんに昔会っていたの?」
「うん……そうらしいんだけど、まったく覚えてないんだ」
「へえ。そうなの……悪いんだけど神無月さん。羽野くん全然覚えてないらしいからその呼び方とかもやめよっか?」
 ニコニコとはしているけど口調が怖い。こんな一井さん今までに見たことなかった。
「あれ? 名前で呼ばれないからって嫉妬しているのかしら」
「いやいや嫉妬なんてする訳ないよ~。思い出とかがしっかりあるんだしね」
「おいお前らやめろって」
「なに?」
「なんの用?」
 間に入る岡崎を二人は容赦なくあしらう。思いも寄らない反応だったのか岡崎がダウンしてしまってた。
「まあまあ落ち着いてよ」
「羽野くん? お座り」
「芳。 静かにね」
 心に刺さってしまった。これが岡崎の気持ちなのか。ごめんよ岡崎、僕ならいけるんじゃないかって心のどこかで考えてた……。
 それにしても名前を呼ぶくらいでそんなにもめなくてもいいじゃないか。
「ふん! いいよ名前は許してあげる。ただし! 羽野くん私のことも名前で呼んでね!」
「へっ!?」
 虚を突かれたのか麗華は驚いた表情で固まっている。やっぱり恥ずかしいから名前で呼ぶのは避けたいんだけど、こうなったら一人も二人も変わらない。
「わかったよ……こ」
 ダメだ。全然恥ずかしいじゃないか。なんなら思い出がある分、麗華よりも恥ずかしい。これって一井は恥ずかしくないの……?
「…………」
 すごく照れていた。顔を手のひらで覆って見えないようにするくらい。でもぴょこっとある耳は赤く染まっていて彼女の恥ずかしさを直に教えてくれる。
「今度にしない?」
 ブンブンと首を縦に振って同意してくる。一井さんってこんなに照れる人だっけな?
「……けっ」
 その光景を見ていた岡崎は今にも恨み言を言いそうだった。
「もうむりー!」
 席を立ち駆けていく一井さん。あんまり運動はできないはずなのに今日の彼女は見違えていた。そして部屋には勝ち誇った顔でティーカップを口につける麗華と、頬杖をつき悪態をついている岡崎、事態を把握しきれていない僕が残された。

 陽が傾き空を茜色に徐々にだけど確実に染めている頃。校門で見たことのある制服の人物が立っていた。
 そう、今朝に別れてから、もうしばらくは会うことのないと思っていた結野さん。
「こんにちは」
 僕の存在に気付いたのかゆったりとした歩調で、目にかかる前髪を流し近付いてくる。
「こんにちは結野さん。あの後は大丈夫だった?」
「ええ、大丈夫です。両親は多少心配していたそうです。でも大事ないなら問題がないって」
 やはり彼女の言葉の端々から家庭の様子が窺い知れる。僕のしたことは決して褒められるようなものじゃない。だけどどうしたってこんなに冷たいんだ。
「昨日はありがとうございました……」そうこぼした瞬間、急速に結野さんとの距離が離れていくような感じがする。
 このままでは雨に濡れている彼女に戻ってしまう。彼女の現状維持にせめて僕が関与してあげたい。
「また、いつでも来ていいよ」
 下げた頭を上げ僕の視線を捉えてしまう。
「……いいんですか?」
 純粋な思いから紡がれていく言葉は驚きと嬉しさが混じっているような気がした。
「いいよ。だから絶対に昨日みたいにあんなことはしないで」
「……はい」その言葉は僕と君で反響して意味を伝え合っている。
 ああ――あの時の後悔がリフレインする、だけど今回はあの時よりもずっと優しく響く。
「名前を教えて下さい」
「羽野芳」
「羽野さん。……覚えました」
 僕の手を取り歩き出そうとする。
「今日は少し遊びましょう。ちょっと気分がいいんです」
 彼女の指先が僕の指先を捉え引っ張っていく。
 今更ながら気付く。結野綾音さん、君はピアノをしていたんだ。
「なにぼうっとしているんですか? 行きましょう」
 振り返りそのクールな表情を崩し微笑みかけてくる。何かの縁だろうか、きっとそうに違いない。

「これなんですか?」
 その視線の先にはUFOキャッチャー。ではなく中に閉じ込められた熊のぬいぐるみのことだろう。
 首には赤いリボン、片手で持てるほどのサイズで見た目こそはよく見るものだけど、平凡こそがいい。
「やってみようか」
 お金を機械に入れボタンを操作していく。アームがぬいぐるみをきちんと掴んで上がったかと思えば衝撃か何かで落ちて転がる。
「確かタグを狙うといいとか聞いたことがあるんだよね」
「タグに引っ掛けるんですか?」
「そうそう。そのままアームに引っかかったまま運ぶっていう方法」
 熊のお尻付近にタグがある。さっきのプレイで下まで降りることを確認したから、狙う価値は十分にある。こういうのは下手くそだけどやってみよう。
「おお!」
「うそ、成功するなんて」
 小さなタグの隙間にきれいにストンとアームが降りてそのまま絡めとって上昇していった。
 そのまま落とし穴の所で開き、ぬいぐるみが落下する。
「あげるよ」
「いいんですか?」
「家にいても仕方ないし結野さんにあげたかったから」
「ありがとうございます!」
 普段の凛とした表情も熊のぬいぐるみを前にしたら簡単にボロボロに崩れてしまうらしい。そういう緩急がとても可愛らしい人だなんて思っていると思い出したように彼女が声をあげる。
「ごめんなさい! 私そろそろ行かなくちゃならないんです。ちょっと夢中になってました。それでは!」
 慌てた様子で去っていくのを見届ける。僕の予想が正しければこれからピアノの練習なのだろう。
 でもどうして結野さんはピアノをしているんだろう。家庭から離れるため? 考えるにはあまりにもパーツが足りない。
 麗華のこともそうだけど、僕は第一に彼女を思い出さなければ。一体どこで出会ったんだろうか。
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