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シューベルト/ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調
8話 このように運命は扉をたたく
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いい香りが部屋いっぱいに広がっている。味噌汁やお肉、ある時は焼き魚。朝食にうってつけなものを彼女、結野さんがここ数日間料理をしてくれていた。
初めこそ怪我をしないかと思ってあたふたとしていたけど、その手際の良さからすっかり安心してしまう。
「今日も悪いね」
「いえいえ、気にしないでください! 私が好きでやっていることなので♪」
「家ではあんまり作れないって言ってたから、正直ここまで料理ができるなんて思ってなかったんだけど?」
「それはですね、教えてくれてた人がいるからです」
「それって?」
「お手伝いさんです。私の両親は厳しくて習い事しかさせてくれないんですよ。料理は怪我をすると他のものに影響が出るからダメだってことで」
鍋に沈めているお玉をまったりと動かす。そろそろ完成しそうな様子だ。
「今だって自由に出来ているのはその人のおかげなんですよ? 例えば羽野先輩の家に泊まった時だって両親をうまく誤魔化してもらったわけですし」
そういうカラクリだったのか。年頃の娘が外泊なんて……とてもそんな状況じゃなかったんだけど、それが許されるように上手く取り繕ってもらっていたんだ。
確かにその人なら料理だって練習や教えてもらえそうだなんて感心していると、異変が起きた。
ちょうどこちらまでエプロンを置きに来た時、彼女はバランスを崩した。
「うわあぁ!」
勢いよく僕の方に倒れ込んで来る彼女。なんとかして怪我だけは避けなければ! 咄嗟に抱きかかえるように大きく腕を広げる。
「大丈夫? 怪我はない?」
「はい、特にどこも痛くないです。先輩が受け止めてくれたから……」
息をすればお互いにかかってしまう距離。だから僕たちはぎこちなくなってしまう。抱きしめる両腕の感覚と密着する身体から伝わる体温と、頭をくらくらとさせるような彼女の香り。密着しているからこそ分かる結野さんのボディーライン。このままではよろしくないと警鐘が鳴り続けている。
「ごめん!」勢いよく飛び退け、距離をとる。
今でも心臓がバクバクと音を立てて落ち着かない。
「私こそごめんなさい」
座り直した君の顔は真っ赤になっていて、僕の顔の熱を呼び覚ます。
「とりあえず食べよっか……」
彼女は小さく返事をして今度こそ準備にかかる。一井さんや麗華とは違う香りで思わずドキドキしてしまう。
朝食は美味しく食べ終わる頃には僕たちはいつもの調子に戻っていた。正直あのまま微妙な雰囲気だと困っていたし助かった。
家を出るにはまだ時間はある。いつもなら他愛のない会話をするけれど、今日は少し違う話題。
「羽野先輩はピアノってどれくらい知ってますか?」
「まったく全然」
想像通りだったのか、はたまた意外だったのか破顔する。
「そうですね。基本的なことを言ってもつまらないと思いますので……ソナタ形式って分かりますか?」
「ソナタ形式ね。名前は聞いたことがあるんだけど、どんなものかイマイチわかってないんだよね」
「簡単に言うと曲の物語みたいなものです。初めにその曲の特徴的な部分である提示部があってその後に展開部、続いて再現部そして終結部。最後の終結部はCodaとも言われます」
「へぇソナタ形式ってそうなんだ。知らなかったよ。でもどうしてソナタ形式を教えてくれたの?」
「交響曲第5番です」と言いキッチンへと向かっていく。
交響曲第5番って一体何なんだ? 交響曲といっても5やら6やら9やら沢山あるし何が言いたいんだろう? そもそも誰の交響曲なんだ……。
果物ナイフ(そんなもの家にはなかったはずなのに)を取り出してリンゴに刃を通していく。食後のデザートまで用意してくれるらしい。何から何までしてもらって、これじゃお世話されているといった感じ。
趣味とは言っていたけど、僕は何も返していないし申し訳なさが募っていく。
「本当に助かるよ。ここ最近朝ご飯をしっかり食べてるからか授業中調子がいいんだ」
「…………」
返事がなくどうしたものかと様子を見ると結野さんは硬直していた。刃をリンゴに当てたままピクリとも動かない。
ちらっと覗かせている横顔は真っ赤に染まっていた。しかも耳まで紅潮して恥ずかしさを堪えきれていない。
「どうしたの?」と聞くと驚いたのか身体が跳ねる。
「痛っ」
「……怪我したの?」
「ちょっとだけですよ! 気にしないでください!」
問答無用に怪我を確認すると指先から一筋の赤い線が滴っていた。血は止まることを知らずに溢れ出ていく。
どうやら深く切ってしまったようだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですって!」
「うっ……」
痛むのを無視して傷口を洗う。一瞬流れが止まったかと思えば溢れ出てくる。
やっぱり刃が深い所までいってしまったんだ。
「正直に答えて。これじゃ練習は厳しい?」
口ごもってしまうが彼女は「厳しいです」と白状した。
「本番には間に合うと思います。ですが問題なのが私と神無月さんとの息なんです」
「これまでの練習でも合わなかったの?」
「いえ、息はそこそこ合っていたんですが、しばらくすると神無月さんの調子が崩れていくんです」
「崩れる?」
「はい。一緒に弾いている私しか分からない機微なんです。神無月さんが弾けなくなったって言っていた原因はきっとそれなんだなと……」
「じゃあ麗華の方がまずいって感じなんだ」
消毒をして絆創膏を切った指先に巻き付け、ひとまず処置は完了した。二人の息はこれまでの経験の蓄積でうまくいきそうなのに、やはり問題は麗華の方なのか。とりあえず治るまで練習は出来ないと麗華に伝えよう。
「……ん」
「どうしたの?」
僕の裾をつまんだまま何も言わない。確かに彼女にとっては怪我をしないと言っていた手前、申し訳ないのだろう。
だけど事故は何事にもつきものだ。切り替えてこれからを考えた方がいい、だってそうしないと僕のように妹のことで過去を引きずってしまう。
「すみません……」
俯いたと思えば耳が赤くなっていく。どうして照れているんだろうか? 転けてから事あるごとに照れているぞ?
「とりあえずは包丁禁止ね」
「はい」今度は悔恨の念にかられるのか、きちんと謝るように言う。温度差が掴めないでいて困ってしまう僕だった。
*
芳から連絡が来た。どうやら結野が怪我をして練習ができないらしい。
助かった。
今のピリピリとする指先では満足に練習も出来やしない。うまいこと都合が転がってきたものだ。
今回課題に設定したチャイコフスキー「くるみ割り人形」の花のワルツ。
明るくテンポのいいリズムで流れていく。私はこの曲が好きなのだけど……今の状況を鑑みれば鼻で笑ってしまいそうになる。
前にも一度この痺れるような感覚はあった。だけどそれは夢から醒めるとすっかり消えてしまう。
なのにまだ夢は醒めていない。
夢の続きがずっと続いているのだ。まだ絶望するのは早い。寝違えたみたいなものかもしれない。
だけど私はベートーヴェン交響曲第5番――『運命』の話を否応なしに思い出してしまう。
あの特徴的なメロディ。それを彼は「このように運命は扉をたたく」と答えた。実際には改ざんされたとされ信憑性に問題はあるけど……。
運命の音がゆっくりと近づいている、そんな感じがずっとする。
今日はどうにも練習をする気にはなれない。きっと出来なかった時が怖いから。
ひらり、ページをめくる。
「”希望”は羽をつけた生き物――
魂の中にとまり――
言葉のない調べをうたい――」
今の私には希望があるのだろうか? 魂に希望があるのだろうか? 意味のない言葉は言葉なの……?
「そして聞こえる――強風の中でこそ――甘美のかぎりに――
嵐は激烈に違いない――」
嵐は今まさに私を襲いかかろうとしている。
「わたしは冷えきった土地でその声を聞いた――
それはわたしに――パン屑をねだったことがない」
小鳥たちが絶望しないのは言葉を持たないから、私の聴く嵐の音に気が付かないでいるから、甘美なのだ。
後悔をするのはやはり人間だけ。言語を持つから反実仮想が可能になるわけで論理空間を持たない小鳥は事実ではない。
静かな部屋に今日も少しずつ積もっていく埃。毎日掃くことに意味はあるのか?
結局人は死んでしまう。
――私はこの世界に何をしたかったのか?
初めこそ怪我をしないかと思ってあたふたとしていたけど、その手際の良さからすっかり安心してしまう。
「今日も悪いね」
「いえいえ、気にしないでください! 私が好きでやっていることなので♪」
「家ではあんまり作れないって言ってたから、正直ここまで料理ができるなんて思ってなかったんだけど?」
「それはですね、教えてくれてた人がいるからです」
「それって?」
「お手伝いさんです。私の両親は厳しくて習い事しかさせてくれないんですよ。料理は怪我をすると他のものに影響が出るからダメだってことで」
鍋に沈めているお玉をまったりと動かす。そろそろ完成しそうな様子だ。
「今だって自由に出来ているのはその人のおかげなんですよ? 例えば羽野先輩の家に泊まった時だって両親をうまく誤魔化してもらったわけですし」
そういうカラクリだったのか。年頃の娘が外泊なんて……とてもそんな状況じゃなかったんだけど、それが許されるように上手く取り繕ってもらっていたんだ。
確かにその人なら料理だって練習や教えてもらえそうだなんて感心していると、異変が起きた。
ちょうどこちらまでエプロンを置きに来た時、彼女はバランスを崩した。
「うわあぁ!」
勢いよく僕の方に倒れ込んで来る彼女。なんとかして怪我だけは避けなければ! 咄嗟に抱きかかえるように大きく腕を広げる。
「大丈夫? 怪我はない?」
「はい、特にどこも痛くないです。先輩が受け止めてくれたから……」
息をすればお互いにかかってしまう距離。だから僕たちはぎこちなくなってしまう。抱きしめる両腕の感覚と密着する身体から伝わる体温と、頭をくらくらとさせるような彼女の香り。密着しているからこそ分かる結野さんのボディーライン。このままではよろしくないと警鐘が鳴り続けている。
「ごめん!」勢いよく飛び退け、距離をとる。
今でも心臓がバクバクと音を立てて落ち着かない。
「私こそごめんなさい」
座り直した君の顔は真っ赤になっていて、僕の顔の熱を呼び覚ます。
「とりあえず食べよっか……」
彼女は小さく返事をして今度こそ準備にかかる。一井さんや麗華とは違う香りで思わずドキドキしてしまう。
朝食は美味しく食べ終わる頃には僕たちはいつもの調子に戻っていた。正直あのまま微妙な雰囲気だと困っていたし助かった。
家を出るにはまだ時間はある。いつもなら他愛のない会話をするけれど、今日は少し違う話題。
「羽野先輩はピアノってどれくらい知ってますか?」
「まったく全然」
想像通りだったのか、はたまた意外だったのか破顔する。
「そうですね。基本的なことを言ってもつまらないと思いますので……ソナタ形式って分かりますか?」
「ソナタ形式ね。名前は聞いたことがあるんだけど、どんなものかイマイチわかってないんだよね」
「簡単に言うと曲の物語みたいなものです。初めにその曲の特徴的な部分である提示部があってその後に展開部、続いて再現部そして終結部。最後の終結部はCodaとも言われます」
「へぇソナタ形式ってそうなんだ。知らなかったよ。でもどうしてソナタ形式を教えてくれたの?」
「交響曲第5番です」と言いキッチンへと向かっていく。
交響曲第5番って一体何なんだ? 交響曲といっても5やら6やら9やら沢山あるし何が言いたいんだろう? そもそも誰の交響曲なんだ……。
果物ナイフ(そんなもの家にはなかったはずなのに)を取り出してリンゴに刃を通していく。食後のデザートまで用意してくれるらしい。何から何までしてもらって、これじゃお世話されているといった感じ。
趣味とは言っていたけど、僕は何も返していないし申し訳なさが募っていく。
「本当に助かるよ。ここ最近朝ご飯をしっかり食べてるからか授業中調子がいいんだ」
「…………」
返事がなくどうしたものかと様子を見ると結野さんは硬直していた。刃をリンゴに当てたままピクリとも動かない。
ちらっと覗かせている横顔は真っ赤に染まっていた。しかも耳まで紅潮して恥ずかしさを堪えきれていない。
「どうしたの?」と聞くと驚いたのか身体が跳ねる。
「痛っ」
「……怪我したの?」
「ちょっとだけですよ! 気にしないでください!」
問答無用に怪我を確認すると指先から一筋の赤い線が滴っていた。血は止まることを知らずに溢れ出ていく。
どうやら深く切ってしまったようだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですって!」
「うっ……」
痛むのを無視して傷口を洗う。一瞬流れが止まったかと思えば溢れ出てくる。
やっぱり刃が深い所までいってしまったんだ。
「正直に答えて。これじゃ練習は厳しい?」
口ごもってしまうが彼女は「厳しいです」と白状した。
「本番には間に合うと思います。ですが問題なのが私と神無月さんとの息なんです」
「これまでの練習でも合わなかったの?」
「いえ、息はそこそこ合っていたんですが、しばらくすると神無月さんの調子が崩れていくんです」
「崩れる?」
「はい。一緒に弾いている私しか分からない機微なんです。神無月さんが弾けなくなったって言っていた原因はきっとそれなんだなと……」
「じゃあ麗華の方がまずいって感じなんだ」
消毒をして絆創膏を切った指先に巻き付け、ひとまず処置は完了した。二人の息はこれまでの経験の蓄積でうまくいきそうなのに、やはり問題は麗華の方なのか。とりあえず治るまで練習は出来ないと麗華に伝えよう。
「……ん」
「どうしたの?」
僕の裾をつまんだまま何も言わない。確かに彼女にとっては怪我をしないと言っていた手前、申し訳ないのだろう。
だけど事故は何事にもつきものだ。切り替えてこれからを考えた方がいい、だってそうしないと僕のように妹のことで過去を引きずってしまう。
「すみません……」
俯いたと思えば耳が赤くなっていく。どうして照れているんだろうか? 転けてから事あるごとに照れているぞ?
「とりあえずは包丁禁止ね」
「はい」今度は悔恨の念にかられるのか、きちんと謝るように言う。温度差が掴めないでいて困ってしまう僕だった。
*
芳から連絡が来た。どうやら結野が怪我をして練習ができないらしい。
助かった。
今のピリピリとする指先では満足に練習も出来やしない。うまいこと都合が転がってきたものだ。
今回課題に設定したチャイコフスキー「くるみ割り人形」の花のワルツ。
明るくテンポのいいリズムで流れていく。私はこの曲が好きなのだけど……今の状況を鑑みれば鼻で笑ってしまいそうになる。
前にも一度この痺れるような感覚はあった。だけどそれは夢から醒めるとすっかり消えてしまう。
なのにまだ夢は醒めていない。
夢の続きがずっと続いているのだ。まだ絶望するのは早い。寝違えたみたいなものかもしれない。
だけど私はベートーヴェン交響曲第5番――『運命』の話を否応なしに思い出してしまう。
あの特徴的なメロディ。それを彼は「このように運命は扉をたたく」と答えた。実際には改ざんされたとされ信憑性に問題はあるけど……。
運命の音がゆっくりと近づいている、そんな感じがずっとする。
今日はどうにも練習をする気にはなれない。きっと出来なかった時が怖いから。
ひらり、ページをめくる。
「”希望”は羽をつけた生き物――
魂の中にとまり――
言葉のない調べをうたい――」
今の私には希望があるのだろうか? 魂に希望があるのだろうか? 意味のない言葉は言葉なの……?
「そして聞こえる――強風の中でこそ――甘美のかぎりに――
嵐は激烈に違いない――」
嵐は今まさに私を襲いかかろうとしている。
「わたしは冷えきった土地でその声を聞いた――
それはわたしに――パン屑をねだったことがない」
小鳥たちが絶望しないのは言葉を持たないから、私の聴く嵐の音に気が付かないでいるから、甘美なのだ。
後悔をするのはやはり人間だけ。言語を持つから反実仮想が可能になるわけで論理空間を持たない小鳥は事実ではない。
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