君に捧げる―欠ける月

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シューベルト/ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調

9話 不思議の国のお話は、 こうしてゆっくり紡がれた。

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 今日は久しぶりに旧音楽室でお茶会が開かれた。別に昼休みに用があるってわけじゃないが練習に時間を使っていたいから。と本人の希望で今日まで集まっていなかっただけ。彼女なりに一段落ついたのか詳しくは分からないが僕たちをこの場所に招集した。
 正面に座る彼女の表情はいつもよりも硬く影がさしているようだ。その場にいる全員が察したのか話し始めない。だから僕は確認も兼ねて聞いてみることにする。
 
「麗華、調子はどう? 前にも弾いたことがあるって言っていたから大丈夫だとは思うけどやっぱり心配だから」
「…………。そうね、どうなるか分からないって感じね。それにしてもあの子は本当に上手ね。一緒に弾いている私が圧倒されるんだもの」
「おいおい。それで本当に大丈夫なのか? 神無月、お前学校に居られないとか言ってなかったか?」

 一瞬顔をしかめたような顔をしたが気の所為だと言わんばかりに紅茶を啜り始めた。
 きっと彼女にとっては気分がよくないだろうが岡崎は一番言いにくいことを言ってくれる性格。本当は知っているくせに知らないふりをして停滞を防ぐ、岡崎の癖の一つ。時折助けられるからとやかく言えない。
 
 ソーサーにカップを置き「どうしたものかしらね」と他人事のように話す。いつもと違う雰囲気があり冷たい印象を与える。
 
 すると重たい空気になることが嫌な一井さんは別のことを話し始める。
 
「そういえばさ、神無月さんって名前と言うか人をね昔、羽野くんから聞いたことがあったような気がするの。気がするだけで、もしかしたらないかもだけど」
「何だその中途半端な記憶は」

 ツッコむ岡崎を無視して一井さんは続ける。どうしてか岡崎の声帯の周波数はよく無視される傾向がある。今はそんなこと考えなくても岡崎だからいいや。
 
「うーんとね、小学生の頃なんだけど何年生かな? よく覚えてないんだけど給食の時間に流れる音楽を聞いて話してたんだよね」
「へぇどんなことを言っていたのかしら?」

 興味を持ったのか麗華は先を促すように一井さんに目を向ける。そんな彼女は悩むようにしてウンウン唸りその断片を話し始めた。

「たしかねーすっごくピアノがうまい人がいるって言ってた……かも?」
「それだけ?」
「ほとんど中身がなかったぞ」
「あ! そうそう、続きがあってねお屋敷だったとかも言ってたよ!」
「お屋敷……?」

 その言葉を聞いて一つの場面が蘇った。
 堅く閉ざした扉を力いっぱい引っ張る。背丈が足りずにうまく力が入らない。
 ようやく開けたと思った扉は少し変な形をしていた。
 そう、それは窓だ。
 僕は窓を開けていたんだ。観音開きのそれは豪華で印象深かった。
 そもそもどうしてこの窓を開けようなんて思ったのだろう。と考えていると素敵な音が部屋から聴こえてきた。
 そうだ! 薄っすらと聴こえてくる音につられて僕はその屋敷に入ったんだ。
 どんどん記憶が明瞭になっていく。
 聴こえてくる音は綺麗に繋げられ、僕は心躍るような気持ちにさせられた。
 すると途端に音は消え、代わりに足音が近付いてくる。

「あなたはだぁれ?」

 見上げると窓から一人の女の子が僕を不思議そうに上から見つめている。
 まるでお姫様のような格好。ヒラヒラとした服はその人の持つ雰囲気とよく似合い、本から出てきたのかと思った。
 なにより僕のクラスの人たちよりもずっと落ち着いた感じがしていたんだ。

「ピアノすごかった!」
「ふふ、そうなのね。じつは私が弾いていたの!」
「そうなの? じゃあじょうずなんだ!」
「そうよ、上手なの。いっぱいれんしゅうしたからね」

 胸を張るように彼女は告げる。彼女みたいに練習をすれば誰でも上手に弾けるんだって希望を抱いたっけな。確かリコーダーのテストがあったはず、だから印象に残っていた。
 
「きかせてよ!」
「もちろんよ、ちゃぁんときいていてね」
「うん!」

 彼女との出逢いなんて単純なきっかけにすぎなかったんだ。
 よくある幼い頃に逢っていた……僕は覚えていなかったし、きっとそうなんだろうと思ってもいた。だからこれまで彼女に感じていた気持ちは変わることなんてない。

 部屋から流れてくる音楽は幼い僕の心を捉えるのに十分だった。よく聴いてみると流れてくる音が近い、つまりピアノは窓に近い所に置かれていたんだろう。だからこうして僕がここまでノコノコとやって来たんだ。
 愉快なメロディを奏でる不思議なお姫様は時たまお菓子もくれる。この場所はまるでおとぎ話の世界のよう。そして楽しい時間はあっという間に過ぎる。

 街のどこからか5時を知らせる音楽が鳴り響くと「もう5時よ、帰りなさいね」とお姫様は僕をお家に帰らせようとする。
 
「もう少しきいていたいな」
「だめよ、またきなさい!」

 母親のように叱る君は始終笑顔で僕まで笑顔になってしまう。

「わかった! またきかせてね!」
「ええ約束よ」

 お姫様は窓から身を乗り出して小指を僕に差し出す。何をしているんだろうと一瞬考えたけどすぐに気が付いた。
 ――これは僕がよくやる指切りだ。
 そう分かると僕は明るい気持ちになった。

「それじゃあね」
「またねー!」

 それから僕は休みの日になれば必ずお姫様の屋敷を訪れるようになった。いつも違う曲が増えて、来るたびにとても楽しんだ。

 しかしそれは突然だった。

 いつもの入口からお姫様の窓までやって来ても音は聴こえない。グルっと屋敷を回ってみても人の気配がこれっぽっちもなかった。
 その日は諦めて帰ったけど異変はずっと続く。
 次のその次の、そしてその次の日も音は聴こえてこなかった。
 そこでようやく僕は引っ越したんだと理解する。悲しかったけどそれは仕方のないことだって母親から教えられていたから、涙は我慢できた。
 幼い子どもの興味は移り変わるのが早い。僕はあっという間にこの不思議なお姫様とお屋敷を忘れてしまったんだ。
 どこか絵本のような雰囲気があるから現実のものと思えず、ずっと記憶の底に沈んでいたんだ。
 ――それは妹も元気で楽しかった日々だから。

「おい羽野。何ぼっとしてんだよ」
「あぁごめんごめん。ちょっと思い出してね」
「何を?」
「麗華のこと」

 するりと口から出た言葉は真っすぐ正面に座る君に届いた。呆気に取られる様子だったけど僕に続くようにすらりと言葉を発していく。

「……本当なの?」
「あの時、麗華が自慢気に弾いていた曲はカノンだよね」
「……そうよ。とても安心するのよ」
「ちょっと! 二人だけの世界にはいらないでー!」

 隣に座る一井さんが僕を揺すってくる。椅子がガタガタと鳴っている。まずいこのままじゃ倒れてしまうぞ!

「待って一井さん! 落ち着いて!」
「落ち着くのはそっちだよー!」

 揺さぶるのを止めない彼女。その瞬間、椅子の脚が浮いてとうとう倒れてしまう。
 僕につられるようにして一井さんも体勢を崩す。
 とにかく受け止めなければ! そういえばこんなこと最近あったような……。
 咄嗟に抱き寄せ下敷きになる。

「怪我はない?」
「……ごめん」
「本当に何をしてるのかしら」
「お前ら大丈夫かよ」

 抱かれたまましゅんとなる一井さん。あの時もそうだったけど、こうしていると香りも身体の柔らかさも直に感じて僕の心臓に悪い。

「いっつもありがとね」

 耳元で囁かれる響きが身体をゾクゾクとさせる。
 これ程までに一井さんを女性として感じたことがなかったから、クラクラしてしまう。
 しまいにはより密着してくるし。

「痛っ!」

 いつの間に席を立ったのか麗華が僕に蹴りを入れた。

「何するの!?」

 驚いた表情の一井さんは僕の上で彼女に抗議をしていた。
 重い……とは決して口には出来ないけど、人はやっぱり重い。だから早くどいて!

「芳。このあとゆっくりお菓子でも食べながら幼い頃の話をしましょう?」
「だめだよ! わたしが怪我してないか保健室に連れてくから!」
「芳はそんなことで怪我なんてしないわよ、ね?」

 よしよしと頭を撫でられる僕。このままずっとこうしていようかな……なんてね。

「ごめん一井さんどいてくれない?」
「あっ! ごめん。ホントにケガとかしてない?」
「だいじょぶ」

 気の抜けた返事で特に何事もないと一井さんは悟ったのか、小さく息を吐いた。
 ただ麗華が蔑むように視線を向けている以外は無事だ。

 *

 私だけが取り残されたこの部屋。いつもの光景なのに中央に置かれたグランドピアノの光沢は鏡のように美しい。ありとあらゆる物の相貌が変わって見える。
 そう。芳が私のことを思い出しただけなのだ。たったそれだけのことなのだ。それなのにどうしてこんなにも嬉しいんだろうか。
 初めこそは思い出して欲しいと――きっと寂しさから思っていたのに。最近になるにつれてその気持ちは変化していったのだろうか。
 よくわからない。だけど満足に出来るかを差し置いてもピアノを引く理由には充分だった。
 やはり指先にはピリピリと電気が走っている感覚がある。これではテンポが崩れてしまう……いやそもそも技術がかなり落ちてしまうのだ。
 だから止めるのかと問われれば今の私はそんなことは決して口にはしない。なんせ今は気分がいい。あの時の思い出に少しでも浸っていられるならそれだけでいい。
 
 息を深く吸う。お腹の辺りまで空気が入ったらゆっくりと息を吐いていく。吸気と呼気それは鍵盤に指を沈める前のルーティン。いつも以上に緊張してしまう。もう私の起きている状態なんて分かりきっているのに、目を逸らしてしまう。

 ハンマーが弦に打ち据えられる。ようやく初めの音を奏でることが出来た。続けてもう一音鳴らす、それは段々とリズムを形成していき曲へと昇華していく。
 あゝ幾度となく奏でてきたけれど、テンポに乗っている瞬間はいつだって気持ちがいい。やっぱり私にはピアノしかない。
 
 でも私は何を原動力にして弾いているの?
 
「そうね。きっとそうなんでしょう。でもね、それはまだもう少し先に――
 とりあえずはあの日までは気付いていないフリをしましょう。考えるのはそれからでも遅くはないわ
 これからの未来をまずは掴みましょう」

 ――ピアノが私なのだから。

 多少精度は落ちてしまうかもしれない、だけど私はそれを越えるくらい努力をしてきた。大丈夫。
 弾けなくなった私を想像するのはまだ早い。だってこんなにも上手に弾けているのだから。

 
 今になってありえないことを想像してしまう。もし真実を先生に伝えていたら学校に留まれたんだろうか。満足に弾けなくなった私にはどれだけの価値があるんだろう。そんなものは現実とだ。リアルはもっと酷いシナリオを辿っている。甘美な嘘をいつまでも見ていたい。
「魔王」と言ってみるも返ってくるのは何もない。結局は幻想なのだ。
 アルコールの匂いとつまらない装飾が施してある箱に閉じ込められてしまった。四角いフレームからは夏の風物詩でもある積乱雲がよく見える。自然は美しいだって今の状態の私の心を癒してくれるから。
 感覚のない、まるで血の通っていない手を眼前に運ぶ。握ってみようとするけど痺れているのか微かに動くだけだった。
 どうして前腕だけなの……? 持っていくなら他の場所でもよかったのに。
 リノリウム特有の歩く音が廊下から聴こえてきた。そのまま通り過ぎるかと思った足音は扉の前で止まってしまう。
 扉の向こうにいる人物の名前を呼んでみようと思ったけど躊躇われた。今は口する気力も起きない、彼が扉を開ける前に眠れないだろうか。そんな淡い期待に任せて目を閉じた。
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