薫る袖の追憶を捨て、月光の君に溺愛される

あとりえむ

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第二帖

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婚約が整って数日が過ぎた頃、高彬が茜の邸を訪れた。

春の陽光が御簾の隙間から差し込み、室内をうっすらと黄金色に染めている。
かつての人生であれば、茜はこの日のために何日も前から香を焚き染め、彼に贈る和歌を推敲し、胸を高鳴らせて待っていたはずだった。

しかし今の彼女が手にしているのは、色褪せた古歌集と、東宮へ送るための極上の薄様である。

「やあ、茜。相変わらず、地味な暮らしをしているのだな」

断りもなく上がり込んできた高彬の声には、隠しきれない傲慢さが滲んでいた。
彼は右近衛少将としての華やかな装束に身を包み、都で流行の香を漂わせている。
その香りは、茜にとってはあまりに鼻につく、浅はかな自己主張の塊にしか感じられなかった。

茜は書から目を離すことなく、静かに応えた。

「これは、少将様。わざわざお越しいただけるとは思いもしませんでした」

その声には、喜びも、照れも、微塵も含まれていない。
まるで、通りすがりの風に挨拶を返したかのような、透明な響き。
高彬は一瞬、拍子抜けしたように目を見開いた。
彼は、茜が自分に深く心酔していると信じて疑っていなかったのだ。

「……何だ、その態度は。婚約が成って、少しは殊勝な顔を見せるかと思っていたが」

高彬が苛立たしげに茜の隣へ座り、彼女の手元を覗き込もうとする。
茜は流れるような所作で書を閉じ、彼の手が触れる前に、すっと身を引いた。

「あなたの好む香も、綴る歌も、今のわたくしには濁った水の音と同じにございます」

「何だと……?」

「わたくしはただ、家門の義務としてあなたとの縁を受け入れたに過ぎません。それ以上のものを求められても、差し出せる心は、もう持ち合わせていないのです」

高彬の顔が、屈辱に赤らんだ。
これまでの茜であれば、彼が少し機嫌を損ねるだけで、泣いて許しを請うていた。
その「自分を絶対視する存在」が、突然、底知れぬ無関心の底に沈んだことに、彼は激しい困惑を覚えた。

彼にとって茜は、いつでも手に入る、価値の低い装飾品のようなものだった。
だが、その装飾品が自分を映す鏡であることを止めた瞬間、高彬の自尊心に、鋭い夜気の刃が突き立てられたような寒気が走った。

「ふん、強がりを。すぐに音を上げて、俺の寵愛を乞うことになるのが目に見えているぞ」

吐き捨てるように言い残し、高彬は足早に立ち去った。

その背中を見送ることさえせず、茜は再び机に向かった。
彼のために使う時間は、一刻として惜しい。


茜は硯に水を差し、墨を静かに摺り始めた。
これからの彼女の目的は、未来の知識を使い、正体を隠して東宮・暁を支えることにある。
暁は現在、宮中の派閥争いの中で孤立を深め、その心は孤独な影に覆われている。

茜は彼が好む和歌の旋律を知っていた。
彼が直面するであろう、政務上の落とし穴も知っていた。

「わたくしは、ただの影として。あの方の歩む道に、一筋の光を添えられればいい」

筆を執り、流麗な文字で助言を認めていく。
それは、かつて彼が「このような知恵を持つ者が側にいれば」と独りごちていた言葉を、一通の文に纏めたものだった。
完成した文に、茜はあえて自身の香ではなく、夜の闇に紛れるような、かすかな水の匂いを焚き染めた。

その頃、東宮御所では、暁が届けられた一通の無記名の文を手に、眉をひそめていた。
そこには、今まさに彼が頭を悩ませていた土地の境界争いに関する、驚くほど的確な解決策が記されていた。

「誰だ。俺の胸の内を、これほどまでに見透かしている者は」


暁の瞳に、奇妙な光が宿る。
それは、冷徹な彼の心に、命を削って輝く緋色の火種が、密かに落とされた瞬間であった。
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