薫る袖の追憶を捨て、月光の君に溺愛される

あとりえむ

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第三帖

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宮中を包む空気は、磨き上げられた珠のように澄み渡っていた。

中秋の名月。
虚空に掲げられた銀の鏡が、地上のすべてを青白く、けれど残酷なほど鮮明に照らし出している。

殿上人たちが華やかな装束を競い、和琴や笛の音が夜の闇に溶けていく中、茜はひとり、宴の喧騒から離れた回廊の影に身を潜めていた。
彼女の目的は、この晴れの舞台で輝く「推し」の姿を一目拝むこと。
そして、匿名の文で助言を送り続けてきた主が、無事に政敵の罠を回避できたかを見届けることだった。

「……あの方の御衣の白さが、今宵の月よりも眩しい」

遠く、高御座に近い場所に座す暁の姿を認め、茜はそっと胸を撫で下ろした。
彼は以前の人生よりも、いっそう凛々しく、揺るぎない威厳を纏っているように見えた。
わたくしの言葉が、少しでもあの方の力になれたのなら、もう思い残すことはない。
茜が満足感と共に立ち去ろうとしたその時、背後から不快な衣擦れの音が響いた。

「こんな場所で何をしている。俺の側を離れるなと言ったはずだ」

高彬だった。
酒の匂いと共に、彼特有の傲慢な気配が近づいてくる。
茜は表情を一切変えず、薄衣を透かす夜気の刃を背に受けて立ち尽くした。

「少将様。わたくしのような地味な女が側にいては、あなたの華やかな宴に水を差してしまいますわ」

「嫌味か。最近の貴様の態度は、どうにも鼻に付く。俺という夫がありながら、誰をその目に入れている?」

高彬が茜の手首を強引に掴み、自身の方へと引き寄せた。
その無遠慮な接触に、茜の肌は粟立ち、魂が拒絶の叫びを上げる。
かつてはこの手に縋りたいと願った自分を、今や呪いたくなるほどの嫌悪感。
逃れようと身を捩ったその時、回廊の奥から、冷徹極まりない声が響き渡った。

「その手を離せ、不浄な者よ」

空気が一瞬にして凍りついたような静寂が訪れる。
歩み寄ってきたのは、暁その人であった。
彼の瞳は、滴る水が硬く結び、月を映す鏡となったかのように鋭く、冷淡な光を放っている。
高彬は驚愕に目を見開き、慌てて手を離して平伏した。

「と、東宮様……。これは失礼いたしました。妻が少々、体調を崩しておりましたので……」

暁は高彬の弁明を無視し、ただ茜だけを凝視していた。
その距離が縮まるにつれ、茜の胸の中で、かつて経験したことのない激しい鼓動が脈打ち始めた。

血の巡りが、雷で作られた太鼓を打つように早まり、魂が共鳴して震える。

暁の足が茜の前で止まった。
彼は吸い付くような所作で茜の顎を掬い上げ、その瞳を覗き込む。

「見つけた」

その一言に、茜は息を呑んだ。
暁の瞳の奥に宿っていたのは、冷徹な理性を焼き尽くすほどの、昏い執着の色だった。

「ずっと探していた。俺の魂にこれほどまでに響く香を纏い、俺の孤独を言葉で埋めてくれたのは、お前だったのだな」

「……わたくしは、ただの、名もなき……」

「否。お前は俺の、運命の番だ」

暁の手が茜の頬を撫でる。
その熱は、炭が爆ぜて散る朱の花びらよりも熱く、茜の肌を支配していく。
彼は背後に控える高彬など、もはや存在しないかのように切り捨て、茜を強引に自身の方へと引き寄せた。

暁の腕の中に閉じ込められた茜は、抗うことのできない絶対的な力の奔流を感じていた。

「東宮様、その女性は私の婚約者で……!」

高彬が絞り出すような声で抗議する。
しかし暁は、一瞥もくれずに冷たく言い放った。

「この女は、今日この時から俺のものだ。塵一つ触れることも、その名を呼ぶことも、俺が許さぬ」

暁の腕の力がいっそう強まり、茜は逃げ場のない檻の中に閉じ込められたことを悟った。
それは、恐ろしいほどの独占欲に満ちた、けれど甘やかな支配の始まりだった。


月光の下、茜の運命は、かつての絶望とは異なる、重厚な愛の深淵へと引きずり込まれていった。
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