薫る袖の追憶を捨て、月光の君に溺愛される

あとりえむ

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第四帖

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東宮、暁の宣言は、一夜にして都の勢力図を塗り替えた。

本来であれば、家門同士の約束である婚約を一方的に破棄することは、宮廷の法に背く不実な行いとされる。
しかし、暁は「天命」という一点において、すべての異論を力技でねじ伏せ、茜は、暁の手によって東宮御所の最も奥深い、桐壺の離れへと移された。

そこは、滴る水が硬く結び、月を映す鏡となったかのように清謐な、けれど逃げ場のない美しい檻だった。

「……信じられません。わたくしのような、地味で取り柄のない女を、なぜこれほどまでに」

茜は、几帳の陰で独りごちた。
彼女にとって暁は、遠くからその幸せを願うだけの「推し」であった。
彼の孤独を癒やすために智恵を貸し、彼が帝位へと昇る道筋を整えることだけが、二度目の人生の目的だったのだ。

それなのに、当の暁は、茜を自身の羽の下に閉じ込め、他者の視線から隠すことに異様な執着を見せていた。


暁からの贈り物は、日に日にその過熱を増している。
最高級の薄様に、命を削って輝く緋色の吐息を閉じ込めたような紅染めの衣。
それらはすべて、茜がかつて「美しい」と文に認めたものばかりだった。
暁は茜が自分に寄せる無私の献身を、愛ゆえの狂おしい恋慕であると、確信を持って受け取っていた。


一方、茜を失った高彬の転落は、目を覆うほどに早かった。
高彬はこれまで、茜が裏で家政を整え、彼が犯した数々の失態を和歌の贈答や贈り物で密かに取り繕っていたことに、全く気づいていなかった。
茜という支えを失った途端、彼の邸の台所事情は火の車となり、縁者たちも次々と彼に背を向け始めた。

何より、東宮の不興を買ったという事実は、出世を望む彼にとって致命的な傷となった。



ある雨の午後。
高彬は、禁じられているにもかかわらず、暁の留守を狙って茜の居所へと這いつくばるようにして現れた。

かつての華やかな装束は汚れ、その顔には隠しきれない焦燥と、どす黒い後悔が張り付いている。

「茜……茜、頼む。俺が悪かった。お前があんなに賢く、俺を支えてくれていたなんて知らなかったんだ」

御簾越しに聞こえる高彬の声は、濡れた土のように重く、湿っている。

「愛妾とは別れた。これからはお前だけを大事にする。家も、名誉も、お前がいなければ守れない。頼む、戻ってきてくれ」

茜は、几帳の向こう側で静かに目を閉じた。
かつての人生で、孤独死を迎える直前、これほどの言葉をかけてほしいとどれほど願ったことだろう。

けれど今、その声を聞いても、彼女の心にはさざ波一つ立たない。
ただ、耳元を通り過ぎる不快な羽虫の羽音と同じにしか感じられなかった。

「少将様。わたくしは、あなたに捨てられたあの離れで、一度死んだも同然にございます」

茜の声は、月を映す鏡のように冷ややかで、透き通っていた。

「今更遅いのです。わたくしにはもう、あなたという人間を映し出す心は残っておりません。わたくしの魂は、あの方、暁様の手の中にございます」

「そんな……嘘だ! お前は俺を愛していたはずだ!」


高彬が御簾に手をかけようとしたその時、背後から底冷えするような声が響いた。

「俺の番に、その汚らわしい指を触れさせるな」

暁であった。
彼は狩衣の袖を翻し、一歩、また一歩と高彬へと近づく。
その瞳には、滴る水が硬く結び、鋭い刃となったような殺気が宿っている。

「この男を連れて行け。二度と都の土を踏ませるな。家門は取り潰し、位階も剥奪する」

「な……東宮様! お慈悲を!」

叫びながら引き立てられていく高彬を、暁は一瞥もくれなかった。
彼は茜の元へと歩み寄り、御簾を荒々しく掲げると、彼女をその広い胸に抱き寄せた。

「茜……お前を、あの男の視界に一瞬でも晒したことが許せない。俺以外の誰もお前の名を呼べぬよう、このまま深い眠りに閉じ込めてしまいたい」

暁の腕は、茜の骨が軋むほどに強く、独占欲に震えていた。
その温もりは、炭が爆ぜて散る朱の花びらよりも熱く、茜の理性を溶かしていく。

茜は、もはや「推し」を遠くから見守ることなど許されない場所まで来てしまったことを悟った。


運命の番としての絆が、逃げ場のない包囲網となって、二人を永遠の深淵へと繋ぎ止めていた。
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