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第3話 氷の王子が甘く溶ける瞬間、そして居場所
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ミハエルの執務室は、相変わらず山積みの書類と冷たい空気に支配されていた。
コンコン、と控えめなノックの後、ミアが純白の磁器の皿を恭しく銀の盆に乗せて入室する。
「殿下。公務のお疲れを癒すためのお菓子をお持ちいたしました」
ミハエルは走らせていた羽ペンを置き、眉間を深く揉みながら皿を見た。
そして、彫刻のように端正な顔立ちを険しく歪める。
「……ミア。私を試しているのか?」
皿の上に鎮座していたのは、艶光りする黒くて丸い物体だった。
ミハエルにはそれが、丁寧に丸めた泥団子か、あるいは黒光りする石ころにしか見えなかったのだ。
「見た目は少し驚かれるかもしれませんが、騙されたと思って一口だけ召し上がってください。絶対に後悔はさせません」
ミアの真っ直ぐな瞳に、ミハエルは小さく息を吐き、添えられていた銀の黒文字を手に取った。
黒い塊に刃を入れると、予想に反してすっと柔らかく沈み込む。
ミハエルは半信疑のまま、それを口に運んだ。
その瞬間、彼の執務室の時間が完全に止まった。
「っ……!?」
ミハエルの深く冷たい碧の瞳が、限界まで見開かれる。
口いっぱいに広がったのは、力強くもどこか懐かしい、奥深い甘みだった。
王宮の職人が作るような、どぎつい砂糖の暴力ではない。
小豆という素材そのものが持つ上品でふくよかな甘さが、絶妙な塩気によって極限まで引き立てられている。
そして、外側のしっとりとした豆の食感を抜けると、内側からは驚くほどしなやかでもっちりとした穀物が現れた。
噛むほどに米の甘みが滲み出し、あんこと口の中で完璧な調和を見せる。
「なんだ、この食感は……。外側の豆は力強く、中の穀物は驚くほどしなやかだ。それにこの甘み……今まで食べてきたどの菓子よりも深く、優しい」
ミハエルの冷徹な仮面が、音を立てて崩れ落ちた。
気がつけば、彼は無我夢中で二つ目の黒い塊に手を伸ばしていた。
「兄上!ずいぶんと美味そうな匂いをさせているじゃないか!廊下までとんでもない香りが漏れ出しているぞ!」
「ミハエルお兄様、ずるいですわ!厨房からずっとこの香りを辿ってきたんですのよ……きゃあっ、何これ真っ黒!」
突然、重厚な扉を勢いよく開けて乱入してきたのは、第二王子のカイルと、第一王女のシャルロッテだった。
「おい、お前ら。これは私の……」
ミハエルの制止も聞かず、抗いがたい香りに理性を奪われたカイルが、野性的な勘で一番大きな塊を口に放り込み、雷に打たれたように硬直した。
「……ウマい。なんだこれ。甘いのに全然胸焼けしないし、絶妙なしょっぱさがある。これならいくらでも食えるぞ!」
「本当ですわ!泥かと思いましたのに、信じられないくらい優しい味がします……!口の中でとろけますわ!」
シャルロッテも王女としての上品さを完全に忘れて、目を輝かせながら頬張っている。
ミアは思わず吹き出しそうになった。
第一王子も、第二王子も、王女様も。
誰もが見惚れる高貴な顔立ちを台無しにするほど、口の周りに黒いあんこをべったりとつけたまま、幸せそうに咀嚼しているのだ。
「殿下!お耳に入れたき儀がございます!」
和やかな空気を引き裂くように、執務室の扉が再び乱暴に開かれ、王宮専属の洋菓子職人長であるピエールが血相を変えて転がり込んできた。
彼の鼻息は荒く、その丸々と太った体は怒りで小刻みに震えている。
「先ほど、男爵家から流れ着いたとかいう薄汚いメイドが、殿下に泥を固めたような得体の知れないものをお出ししたと聞きました!我が国の由緒正しき食文化への冒涜です。あのような不衛生なものを……」
ピエールの言葉は、そこでピタリと止まった。
彼の目に飛び込んできたのは、第一王子、第二王子、そして第一王女の三人が、その泥の塊を巡って真剣な顔で睨み合っているという、信じがたい光景だったからだ。
しかも、高貴なる三人の口の周りには、真っ黒な何かがべったりと付着している。
「……ピエール。誰の許可を得て入室した」
ミハエルの底冷えする声が、部屋の空気を一瞬で凍りつかせた。
先ほどまでおはぎを奪い合っていた熱狂はどこへやら、三人の王族が絶対零度の冷ややかな視線を一斉にピエールへと向ける。
「ひっ……!も、申し訳ございません!しかし、そのような泥を口になさるなど、殿下のお体に障ります!砂糖とバターと最高級の生クリームをたっぷり使った私の芸術的なケーキこそが、高貴なる方に相応しい至高の……」
「黙れ」
カイルが苛立たしげにピエールの言葉を遮った。
「お前の作るケーキは確かに手が込んでいるが、重すぎて訓練の後には食えたもんじゃない。それに比べて、ミアの作ったこのおはぎはどうだ。甘いのに全く胃にもたれず、活力が体の底から湧いてくる」
「その通りですわ。あなたのケーキは一口で十分ですけれど、ミアのお菓子はいくらでも食べられそうですもの」
シャルロッテも扇子で口元を隠しつつ、ピエールを心底見下すように冷笑した。
「そ、そんな馬鹿な……!この私が丹精込めて泡立てた生クリームが、あんな家畜の餌に劣るというのですか!?」
「ピエール、それ以上彼女を侮辱するなら、不敬罪で厨房から追放するぞ」
ミハエルの碧の瞳が、絶対的な権力者の光を放った。
執務室全体が軋むような、圧倒的なプレッシャーだ。
「ミアは今日から、我々王族の専属お菓子係に任命する。彼女の仕事に一切の口出しは無用だ。分かったらさっさと退室しろ」
「ひぃぃっ!し、失礼いたしましたぁ!」
三人の凄まじい覇気に当てられたピエールは、顔面を蒼白にしながら、転がるように執務室から逃げ出していった。
遠ざかる情けない悲鳴を聞きながら、ミハエルは残った最後の一つを素早く自分の皿に確保すると、鋭い、しかしどこか熱を帯びた視線をミアに向けた。
「ミア。お前は私の専属だ。他の奴には決して菓子を作らせない。私の執務室の隣に部屋を用意させよう」
「えっ?あの、私は王宮の厨房を使わせていただければ……」
「兄上、それは横暴だ!俺の騎士団の演習後にも、こいつの菓子が絶対に必要だ!」
「私のお茶会にもミアは不可欠ですわ!お兄様だけのものにするなんて許しません!」
口の周りをあんこだらけにした王族三人が、たった一人のメイドを巡って本気で睨み合う。
ミアは小さく息をつき、そして心の底からふわりと微笑んだ。
地獄のような男爵家では、自分がどれだけ睡眠時間を削って尽くしても、ゴミのように扱われるだけだった。
けれど今は違う。
自分の作ったお菓子が、こんなにも誰かに求められ、笑顔を作っている。
(……お父さん。私、ここで生きていけそうだよ)
ミアは窓の外に広がる、雨上がりの澄み切った青空を見上げた。
追放された地味なメイドが、最高権力者たちの胃袋と心を甘く掴んで離さない、極甘な王宮生活の幕開けだった。
コンコン、と控えめなノックの後、ミアが純白の磁器の皿を恭しく銀の盆に乗せて入室する。
「殿下。公務のお疲れを癒すためのお菓子をお持ちいたしました」
ミハエルは走らせていた羽ペンを置き、眉間を深く揉みながら皿を見た。
そして、彫刻のように端正な顔立ちを険しく歪める。
「……ミア。私を試しているのか?」
皿の上に鎮座していたのは、艶光りする黒くて丸い物体だった。
ミハエルにはそれが、丁寧に丸めた泥団子か、あるいは黒光りする石ころにしか見えなかったのだ。
「見た目は少し驚かれるかもしれませんが、騙されたと思って一口だけ召し上がってください。絶対に後悔はさせません」
ミアの真っ直ぐな瞳に、ミハエルは小さく息を吐き、添えられていた銀の黒文字を手に取った。
黒い塊に刃を入れると、予想に反してすっと柔らかく沈み込む。
ミハエルは半信疑のまま、それを口に運んだ。
その瞬間、彼の執務室の時間が完全に止まった。
「っ……!?」
ミハエルの深く冷たい碧の瞳が、限界まで見開かれる。
口いっぱいに広がったのは、力強くもどこか懐かしい、奥深い甘みだった。
王宮の職人が作るような、どぎつい砂糖の暴力ではない。
小豆という素材そのものが持つ上品でふくよかな甘さが、絶妙な塩気によって極限まで引き立てられている。
そして、外側のしっとりとした豆の食感を抜けると、内側からは驚くほどしなやかでもっちりとした穀物が現れた。
噛むほどに米の甘みが滲み出し、あんこと口の中で完璧な調和を見せる。
「なんだ、この食感は……。外側の豆は力強く、中の穀物は驚くほどしなやかだ。それにこの甘み……今まで食べてきたどの菓子よりも深く、優しい」
ミハエルの冷徹な仮面が、音を立てて崩れ落ちた。
気がつけば、彼は無我夢中で二つ目の黒い塊に手を伸ばしていた。
「兄上!ずいぶんと美味そうな匂いをさせているじゃないか!廊下までとんでもない香りが漏れ出しているぞ!」
「ミハエルお兄様、ずるいですわ!厨房からずっとこの香りを辿ってきたんですのよ……きゃあっ、何これ真っ黒!」
突然、重厚な扉を勢いよく開けて乱入してきたのは、第二王子のカイルと、第一王女のシャルロッテだった。
「おい、お前ら。これは私の……」
ミハエルの制止も聞かず、抗いがたい香りに理性を奪われたカイルが、野性的な勘で一番大きな塊を口に放り込み、雷に打たれたように硬直した。
「……ウマい。なんだこれ。甘いのに全然胸焼けしないし、絶妙なしょっぱさがある。これならいくらでも食えるぞ!」
「本当ですわ!泥かと思いましたのに、信じられないくらい優しい味がします……!口の中でとろけますわ!」
シャルロッテも王女としての上品さを完全に忘れて、目を輝かせながら頬張っている。
ミアは思わず吹き出しそうになった。
第一王子も、第二王子も、王女様も。
誰もが見惚れる高貴な顔立ちを台無しにするほど、口の周りに黒いあんこをべったりとつけたまま、幸せそうに咀嚼しているのだ。
「殿下!お耳に入れたき儀がございます!」
和やかな空気を引き裂くように、執務室の扉が再び乱暴に開かれ、王宮専属の洋菓子職人長であるピエールが血相を変えて転がり込んできた。
彼の鼻息は荒く、その丸々と太った体は怒りで小刻みに震えている。
「先ほど、男爵家から流れ着いたとかいう薄汚いメイドが、殿下に泥を固めたような得体の知れないものをお出ししたと聞きました!我が国の由緒正しき食文化への冒涜です。あのような不衛生なものを……」
ピエールの言葉は、そこでピタリと止まった。
彼の目に飛び込んできたのは、第一王子、第二王子、そして第一王女の三人が、その泥の塊を巡って真剣な顔で睨み合っているという、信じがたい光景だったからだ。
しかも、高貴なる三人の口の周りには、真っ黒な何かがべったりと付着している。
「……ピエール。誰の許可を得て入室した」
ミハエルの底冷えする声が、部屋の空気を一瞬で凍りつかせた。
先ほどまでおはぎを奪い合っていた熱狂はどこへやら、三人の王族が絶対零度の冷ややかな視線を一斉にピエールへと向ける。
「ひっ……!も、申し訳ございません!しかし、そのような泥を口になさるなど、殿下のお体に障ります!砂糖とバターと最高級の生クリームをたっぷり使った私の芸術的なケーキこそが、高貴なる方に相応しい至高の……」
「黙れ」
カイルが苛立たしげにピエールの言葉を遮った。
「お前の作るケーキは確かに手が込んでいるが、重すぎて訓練の後には食えたもんじゃない。それに比べて、ミアの作ったこのおはぎはどうだ。甘いのに全く胃にもたれず、活力が体の底から湧いてくる」
「その通りですわ。あなたのケーキは一口で十分ですけれど、ミアのお菓子はいくらでも食べられそうですもの」
シャルロッテも扇子で口元を隠しつつ、ピエールを心底見下すように冷笑した。
「そ、そんな馬鹿な……!この私が丹精込めて泡立てた生クリームが、あんな家畜の餌に劣るというのですか!?」
「ピエール、それ以上彼女を侮辱するなら、不敬罪で厨房から追放するぞ」
ミハエルの碧の瞳が、絶対的な権力者の光を放った。
執務室全体が軋むような、圧倒的なプレッシャーだ。
「ミアは今日から、我々王族の専属お菓子係に任命する。彼女の仕事に一切の口出しは無用だ。分かったらさっさと退室しろ」
「ひぃぃっ!し、失礼いたしましたぁ!」
三人の凄まじい覇気に当てられたピエールは、顔面を蒼白にしながら、転がるように執務室から逃げ出していった。
遠ざかる情けない悲鳴を聞きながら、ミハエルは残った最後の一つを素早く自分の皿に確保すると、鋭い、しかしどこか熱を帯びた視線をミアに向けた。
「ミア。お前は私の専属だ。他の奴には決して菓子を作らせない。私の執務室の隣に部屋を用意させよう」
「えっ?あの、私は王宮の厨房を使わせていただければ……」
「兄上、それは横暴だ!俺の騎士団の演習後にも、こいつの菓子が絶対に必要だ!」
「私のお茶会にもミアは不可欠ですわ!お兄様だけのものにするなんて許しません!」
口の周りをあんこだらけにした王族三人が、たった一人のメイドを巡って本気で睨み合う。
ミアは小さく息をつき、そして心の底からふわりと微笑んだ。
地獄のような男爵家では、自分がどれだけ睡眠時間を削って尽くしても、ゴミのように扱われるだけだった。
けれど今は違う。
自分の作ったお菓子が、こんなにも誰かに求められ、笑顔を作っている。
(……お父さん。私、ここで生きていけそうだよ)
ミアは窓の外に広がる、雨上がりの澄み切った青空を見上げた。
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