モリウサギ

高村渚

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第一章 刑事、獣の主人(あるじ)となる

3(挿絵あり)

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 戦場を渡る風が、濃い血の臭いを運んでくる。
 傷つき疲弊ひへいした身体によろいは重く、数多の命を吸い上げた剣は、さらに重く右手にった。
 魂まで凍り付かせる死の風景。その直中ただなかに立つ俺は、ひとりではなかった。
 罪に汚れた左手を温める、小さなけもの
 柔らかな毛並みにそっと手を沿わせると、獣は小さく鳴いて、俺にまた寄り添う。
 そんな馬鹿げた夢を、見ていた。


 そして現実は、さらに馬鹿げている。
 那臣ともおみはベッドの上でむくりと上半身を起こした。
 まだ一昨日までのアルコールが残っているのか、微かにこめかみがうずく。ぼんやりと、夢が続いているようだ。
 左手には変わらず暖かな体温が伝わってくる。長い髪をゆっくり指でいてやると、さらさらと心地よい感触を覚えた。
 ……髪?
(……………………嘘だろ、おい)
 状況を認めたくはなかったが、那臣は仕方なく手元のリモコンで明かりを付けた。
 学生時代から使っている折りたたみ式のシングルベッド。眠れりゃいいとばかりに適当に揃えた安物の布団と毛布をめくると、そこには小さな獣……もとい人間の少女が那臣に寄り添い、すやすやと可愛らしい寝息をたてて横たわっていたのだった。
 那臣はしばらく硬直し、そして今更だが彼女の髪に絡めた指を慌てて解く。すると少女、みはやが小さくうなって目を覚ました。
「おはようございます那臣さん! ぐっすり眠れましたか?」
 ふわふわの白いフリースのパジャマを着たみはやが、朝陽のようにまぶしい笑顔を那臣に向けてきた。
「……なんのエロゲだ?」
「なろうラブコメジャンルの二大巨頭、サイトウマオ先生や手塚とぴあ先生も読書履歴に入ってましたよね。
 目覚めてびっくり美少女と添い寝!的なライトノベルはお好みじゃなかったですか?」
「悪いが学園ハーレム系は軽くたしなむ程度でね。じゃなくだな、何で君が俺のベッドで寝てるんだ?」
「コスチュームも含めて完璧な演出をしたつもりだったんですが……そもそも参考文献を読み間違えていたとは無念です。
 では明日は官能時代小説の大家、安永路子先生風に、妖艶ようえんな遊女と後朝きぬぎぬの別れ、で攻めてみますね。
 ちょっぴり色気と胸は足りませんけど、頑張りますので乞うご期待!」
「……乞うご期待! じゃなく……」
 那臣は態勢を立て直すため大きく息をつく。
 その隙に、みはやは軽やかにベッドから飛び降り、ドアの向こうへ駆け出した。
「朝ご飯、作ってきます! お話はそのあとに。あ、そうそう」
 くるりと振り向いて、ドアの隙間から大きな瞳だけのぞかせる。
「朝からがっつり派とうかがってますが、スクランブル、卵いくつ焼きますか?」
「どこで伺ったんだよ……」
 いつの間にか、すっかりみはやの小気味よい会話のペースに巻き込まれている。
 がっくりと首を折った那臣は、うっかり指を三本立てて合図してしまった。
 

 フィクションをフィクションとして楽しむのは、ひとつの才能なのだそうだ。
 つくりものの世界で、いもしない人物たちが繰り広げるお芝居。それを虚構と割り切って、日々の娯楽として消費する。
 空から謎の美少女が降ってきたり、突然生き別れの可愛い妹が現れたり、街角でぶつかっただけのアイドルに、一目惚れされて押しかけ女房志願されたりといった夢のシチュエーションは、ただのフィクションとして楽しむべきものなのだ。
 そう、フィクション、虚構。
 虚構はたいていの場合、現実化されるべきではない。
 夢のシチュエーションは現実化した瞬間、付加処理せねばならないタスクの多さも可視化されることとなる。
 さかのぼること十三時間前。
 久々の出勤による軽い肉体的疲労と、比べものにならない精神的疲労を抱えて、那臣は自宅であるアパートの階段に足をかけた。
 わずか十数センチ足らず上脚を持ち上げる労作が、重く気怠けだるい。思わず、普段意識して使ったこともない、さびの浮いた細い手すりに左手をり、体重を預ける。外付け階段のたわみに付き合って、昭和に建てられた古い木造の建物全体が、みしりと音を立てた。
 ふいに二階奥の自室に人の気配を感じ、足を止める。
 今の自分は、命を狙われる危険のある身だ。防犯上非常によろしくない旧式のディスクシリンダー錠を容易たやすく突破した刺客が、室内に待ち受けていても不思議はない。
 一瞬、全身に緊張感を走らせた那臣は、しかしすぐにそれを緩めた。いぶかしげに眉根を寄せて、軽く首をかしげる。
 室内にいる人間は、全く気配を隠そうとしていない。
 それどころかまるで我が家のごとく振る舞っているようだ。
 外廊下に接したキッチンからは、包丁とまな板が奏でる楽しげなリズム、そしてなんともご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。
 夕刻の空きっ腹にはたまらない鰹節と味噌の極上の匂いを、換気扇が外廊下へと送り出していた。
 鼻歌の主は、年少の少女のようだ。留守中に自室に上がり込み、料理を作るようなごく親しい知人に、該当する年代の少女など当然存在しない。しないはずだ。
(……いや、まさか……な)
 那臣はふいに浮かんだ心当たりをすぐに否定し、強めに首を振ってみた。
 昨日知り合ったあの少女。
 ほんの少しの言葉を交わしただけ、時間にすれば数分の関わり合いではあった。
 だが、まるで何年も前から知り合い、心を許しあった親友であるかのような感覚すら覚えた。
 叶うならもう一度、彼女とゆっくりヴァルナシア旅行団シリーズについて話り合ってみたいものだ、そうは思っていたが。
「……それとコレとは、話が別だ……別……だよな」
 先刻、上司の部屋をなんとか辞したあとも残る強烈な精神的疲労が、また那臣にのしかかってくる。
 那臣は中毒と呼んで差し支えないレベルの読書好きだ。
 フィクションをフィクションとして楽しむ才能を与えられ、人生とほぼ同じ年月、その才能に磨きをかけてきた人間だった。
 だからこそ言える。虚構は、現実化した瞬間に、ただの厄介事と化す。
 しかし那臣は、無造作にドアノブに手を掛けた。
 刺客である危険がないのなら、躊躇ためらう必要はない。室内の人間が何者なのか、この目で確かめれば済むことだ。
 今朝出勤したときにうっかり鍵をかけ忘れ、知人の部屋と勘違いした誰かが入り込んでいるのかもしれない。苦しい説明だが、ありえないと思う事態も、世間ではまれに起こりる。
 思い切りドアを開き室内を見ると、はたして心当たり通りの人物の、あってはならない歓迎が那臣に向けられたのだった。
「おかえりなさい那臣さん! イヤミな上司さんとの面談お疲れ様でした! 美味しいお食事の用意と、お風呂も沸いてますけど、まずはこの可愛いみはやちゃんとのハグからですよね?」
 キッチンのガス台前から三歩、軽やかな足取りで玄関先に駆け寄り笑顔満面で出迎えた人物に、即、この台詞が言えた自分を、那臣は後々まで褒め称えてやることにする。
「……住居侵入の現行犯。補導だ」


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