モリウサギ

高村渚

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第三章 刑事、慟哭す

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 次の湯島駅でいったん下車し、出口近くのカフェチェーンへ入る。
 コーヒーを注文し、トレイを手に二階へ上った。
 カウンター席から不忍池しのばずのいけ辯天べんてん堂が一望できる、那臣ともおみお気に入りの読書場所の一つだ。
 幸い客の姿は少なく、壁を背にする席ならスマホの画面をのぞかれる心配はなかった。
 画面に指を滑らせてメッセージの暗号を解く。『同伴出勤』は至急連絡されたし、の意味なのだ。全く、みはやももう少しマシな単語に設定してくれればよいものを。
「おはようございます。どうしました、恭さん?」
 メッセージを打ち込むとすぐ、恭士からの返事が返ってきた。     
「おう、莉愛ちゃんも結奈ちゃんも、奴らがらみの事件かもだってな。ったく河原崎親子、どんだけ鬼畜なんだか」
 表示されたメッセージをスクロールし、指を離すと、すぐに画面がれもん仕様に戻る。確かにほぼ他人には読みとられないだろうすぐれものだ、だがしかし。
 軽く息をついて、また指を滑らせた。
「……みははやから連絡が行きましたか? まだ情報も足りませんし、推論の域を出ません。ですが今日からは、公式にそちらの捜査に入ろうと思ってます」
 間髪置かずに返事が来た。が、復号しているはずなのに、何故か『爆笑』のスタンプだ。首を傾げていると、恭士のツッコミが送られてくる。
「お前、俺の発言、ちゃんと盗聴してるか?」
「してるわけないでしょう」
 恭士に渡ったスマホは、恭士が自分でロック操作をしないかぎり、端末周辺の音声を拾い続ける盗聴アプリもインストールされているのだ。
 那臣の味方をすることで、もし恭士の身に何か危険が降りかかることがあれば、その機能も役立つ機会があるかもしれない。
 だが、プライベートな会話や生活音まで、四六時中聞き耳を立てるのは、いかにも失礼だろう。
「お前だしそう言うと思ってたよ。だが那臣よ、脇が甘いな? 何で俺の周りのあんな会話やこんな音まで聞かれ放題で、自分のスマホがそうじゃないって思うんだ」
「はあっ?」
 と、思わずリアルで声を上げて立ち上がってしまった。
 窓際の席から振り返った若い女性客の冷たい視線に肩をすくめ、赤面を隠すように黙礼し、席に着く。
 確かに甘すぎた。逆もまた然りなのだ。
 あれから連夜のみはやとの捜査会議の内容は恭士にも筒抜けで、それ以前に那臣がこのスマホを身につけて行動していた時間すべて、その気になれば、恭士は盗聴し放題だったという訳だ。
 低くうなりながら、たどたどしく指を動かす。
「……すぐにみはやの奴に、盗聴機能ロックの方法を聞きますよ」
「そうしな。うっかり野郎の寝息まで聞かされちゃ、俺だって夢見が悪い」
 また爆笑スタンプがてんこもりで返ってきた。
 遊びはさておき、と、前置きして、恭士が続ける。
「あの豪華リゾートホテル会員権はAV契約金を当てにしたバカンスの予定だったかもな。莉愛ちゃんをった奴が強盗目的じゃないとなれば、捜査の方針も絞られる。
 小心者の大野くんの代役で来た久保田さんは、お前も知ってるとおり、そこそこ話のわかる人だし、少なくともがっつり河原崎派でないことは確かだ。
 莉愛ちゃんが『オーディション』とやらとどう関わってたか突き止めてやるから、こっちは任せろや」
「くれぐれも無理しないで下さい。それから俺とこうやって連絡取り合ってることも、バレないよう気をつけてくださいね」
「心配するなって。倉田主任がお店のおねえさんと楽しくお喋り、新宿中央署の普段通りの光景だろうが」
「……でしたね」
 そうやって意外なところから意外な情報を拾ってくるのが恭士の得意技なのだ。
 『オーディション』の周辺を探ることで恭士の身に危険が降りかかりはしまいか一抹の不安はあるが、まずは信頼できる先輩に一任することにしよう。
「じゃあ自分、出勤しますんで」
 残ったコーヒーを飲み干し、席を立とうとすると、また恭士が書き込んできた。
「おっと言い忘れてた。じいさんな、めでたく再就職が決まったってよ」
「え? そうなんですか?」
 恭士の言うところのじいさんとは、例の事件に関わり、那臣より先に警察を辞めさせられていた古閑こが正太郎のことだ。
 勤続四十二年、現場一筋で勤め上げてきた男である。
 銃の紛失をでっちあげられて不当に職を追われ、なにより突き止めた事件の真相が闇に葬られるのを、指をくわえて見ているしかなかった。
 その心労からか、つい先日、恭士やみはやとともに自宅を訪れた時には、ずっと部屋に引きこもり、かなりやつれた印象だったのだが。
 外に出て身体を動かすことが気分転換になるなら、新しい仕事にくのもよいかもしれない。
「いちおうお前にも知らせておいたほうがいいと思ってな」
「ありがとうございます。古閑さんがそれで元気になってくれるといいんですが」
「おう、めっちゃ張り切ってるってよ。ファンタステイ新宿商業フロア清掃の仕事だ。やりがいもハンパねえだろ」
「何ですって?」
 今その場所で、古閑が掃除だけして過ごす訳がない。
 標的はファンタステイ新宿をテナントにようする、新宿MLビルオーナー緑川紗矢歌さやか
 ひいては紗矢歌の愛人、河原崎尚毅だ。
「直接乗り込むなんていくらなんでも危険すぎます。あちらだって相当警戒しているはずだ。清掃員とはいえノーチェックで雇われたってことは、もしかしたら身元が判った上で誘い込まれているかもしれないじゃないですか」
 すぐにでも止めさせなければ。焦って再び階下へと走る那臣のスマホに、脳天気なメッセージが返ってくる。
「大丈夫! 清掃会社クレール・クリーンの新入社員、御年六十の鈴木次郎くんは経歴も確か、身元保証もばっちりだ。履歴書には本籍表示入り住民票だって付けたらしいしな」
 戸籍の偽装はみはやの得意技だ。ついでに過去の職歴だのの偽装くらい朝飯前だろう。
「…………みはや…………またやったな…………?」
 マグカップを載せたトレイが小刻みに震える。
 狭い階段を上ってきた学生らしき男性客が、那臣の怒りのオーラに恐れをなし、びったりと壁に張り付いて進路を空けた。
「ああ、そうそう。ごましお頭に似合わねえカツラかぶって、ほっぺにでっけえホクロ付けたじいさんの勇姿、一度拝みにいってやりな。見事に別人だぞ?」
 店を出た那臣は、スマホを仕舞うとがっくりと肩を落とし、深すぎる溜息をついた。
 店内のカウンターから、店員が、気苦労多いサラリーマンの背中に、哀れみの視線を向けてくれているのを感じた。
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