モリウサギ

高村渚

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第五章 刑事たち、追い詰める

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 そろそろ地下室では、地獄の門が口を開きかけていることだろう。機械室の操作盤の前で伊武は、腕時計をぼんやりと見つめていた。
 自分が見ている視界を、まるでモニター越しに見る遠い世界のように、どこか現実味のないものとして、脳がとらえている気がした。
 この別荘の地下室に客を招待したのは、これが初めてではない。
 かつて尚毅が女たちを監禁暴行したときのメンバーで、その事実を盾に尚毅を強請ゆすってきた男たちがいた。
 彼らに数億の現金を渡し、豪勢な料理と酒を並べて歓待し、これからも無限に金をしぼり取れるという極上の夢を見せておいて、尚毅は伊武に、空調を操作するよう命じた。
 換気口は一カ所。端から処分に使用するため強力な排気力に改造された装置は、働かせば何の細工もなく、部屋の客から生存のための酸素を奪える。
 五月蠅うるさい愚連の輩を、まとめて処分できたことで満足した尚毅を東京まで送り、後片づけのため別荘に戻った伊武が地下室で見たものは、壮絶な地獄絵図であった。
 積まれた札束、美食に美酒。
 つい一刻前まで彼らの心身に麻薬のように染みていたであろう人間の欲望の象徴が、無惨に床に散らかりただのゴミくずと化している。
 そしてゴミで汚れた黒光りのする床には、ゴミとして処分された、先刻まで人間であったものが、点々と落ちていた。
 扉をかきむしった指の血の跡を拭き、憤怒と恐怖で血走った目を、極限まで見開いたまま息絶え床に転がった死体を引きずって、袋に詰める。
 あのとき、その行動をする自分が、何故か自分ではない誰かであるような、不思議な感じを覚えた。
 今、同じように、自分でない自分が排気装置を操作し、それをもう一人の自分がモニター越しに見ている。
 ただの観客である伊武には、その見せ物が喜劇だろうと悲劇だろうと、さほど興味もなかった。
 いびつな感覚の片隅で、わずかに何かの気配を感じる。
 伊武は今日、ゴミを処分するために、専門の業者を呼んでいた。
 羽柴たちのように河原崎の子飼いではない、裏社会で、金と引き替えに死体を始末することを生業にするものたちだ。彼らが到着したのだろう。
 玄関を開けねば、と、振り返ろうとした瞬間、心臓の真裏にごり、と、固い感触の何かが押し付けられた。
「動くなよ」
 解離していた意識が一気に身体に取り込まれ、ざっと血の気が引く。
 抑制を失った心臓の音が、耳の奥にどくどくと響く。
「ここに羽柴たちが来ていたはずだ。どこにいる?」
 声はあくまで低く穏やかで、だからこその凄みを含んでいた。主人、尚毅とはまた別の、そして尚毅よりも強靱きょうじんで揺るがない圧を覚えて、伊武は即座に反抗の意志を手放した。
「奴らは……地下室だ。……が」
「が、何だ?」
「換気を操作して、外の空気が行かないようにした……まもなく奴らは、酸欠で死ぬはず……」
 伊武が話し終わる前に、別の何者かが換気装置を操作する音が聞こえた。その人物から発せられた冷酷な視線が、伊武の横顔に突き刺さる。
 挙げた両手を頭の後ろに回され、続けて壁に向かってひざまずかされた。取り戻した現実感は、今まさに、何者かによって自分が殺されようとしていると告げている。
 だが何故か、状況の緊迫感に不似合いな、はじけた空気が襲撃者の一部から発せられていた。
那臣ともおみさん、その調子です! そのまま足にして不敵に高笑いしちゃってください!」
 背後で少女の声がはやし立てる。
 すぐ後ろに立つ人物がついた深い深い溜息が、伊武の脳天をくすぐった。
「……それじゃ本物の悪の頭領だろうが」
 那臣はげんなりした表情で伊武のジャケットのポケットを探り、鍵をみはやへと投げてやる。
 受け取ったみはやは扉の影から、悪だくみに生き生きと輝く瞳を覗かせた。
「おや? なにか問題でも? 我らたち組一同、悪の金字塔として歴史に名を刻むべく励んで参りましたものを」
「違う!」
 那臣と名波の合唱が機械室に響く。二人の声を背に、みはやは、きゃはっ、と笑って、風のように廊下へと姿を消した。


 人は、命の危機に直面すると、過去の記憶が走馬燈のように目に浮かぶのだという。
 過去の経験から、危機を脱却する方法を、超高速で検索しているのだという説を聞いたことがあるが、眉唾ものだと羽柴は思った。
 刻一刻と部屋の中の空気が薄くなっていき、きりでかき回されるような激しい頭痛と息苦しさで、意識が朦朧もうろうとしていく。
 なんとか部屋を脱出しようと足掻あがいていた他の男たちも、今は床に転がり、吐瀉としゃ物にまみれてうめくのみだった。
 もうダメだ、このまま死ぬのだ。
 と、わずかに薄目を開いた羽柴の狭い視界を、突然赤いタータンチェックが埋め尽くした。
 スカートが揺れ、黒のハイソックスに包まれたすらりと伸びた足が現れる。
「…………これが……危機を、脱する方法……?」
 なんとか両目をしっかりと見開く。すると目前に、セーラー服姿の女子中学生が現れた。
 大きな淡い黒の瞳と視線が合う。すると少女は目をついと細め、嬉々として羽柴の側へとしゃがみ込んだ。ツインテールがさらりと床に落ちる。
「危機一髪! 館組お助け隊到着、ですよ? あわやのところお助けできて何よりです。感謝感激! 那臣さん最高! みはやちゃん天使! ですよね? 
 ええ判っておりますとも! 心配無用。我らが太っ腹な組長は、羽柴さんや皆さんとの不幸な過去など綺麗さっぱり忘れて、みなさんの命を狙う不逞ふていの輩から、みなさんを守ってあげたいとお考えです!」
 このとき、那臣と名波はようやく伊武を拘束し、みはやの後を追いかけてきた。
 そして心配された地下の惨状を確かめる間もなく、二人は、白々しすぎて赤面ものの、みはやによる啖呵たんかを聞かされることとなる。
「そんな、まさか、お礼なんて要りませんよ? 我ら館組、都民の皆様の平穏無事な生活だけが望みです。みなさんが追っ手の心配などせず、安心して老後を迎えられるよう、きっちり保護させていただきますよ。
 三食作業付き、お正月にはおせちも食べられ、同室の仲間たちと心温まる共同生活が送れる素敵な隠れ家、ご用意しちゃいます!
 隠れ家に追っ手が来ないか心配ですか? 
 ですよねえ、もしかするとご自分たちも、刑務所内まで追っ手を差し向けちゃってた側です。
 それこそ心配無用です。いたって簡単、さっくり解決です。追っ手総元締めのお二方も、我々館組にて保護させていただきましょう。
 だからお礼なんて、そんな。
 河原崎さん親子の悪行の証言と引き替えだなんて、そんなこと言うわけないじゃないですか。
 ねえ、那臣さん?」
 絶好調のみはやの、この上なく楽しげな高笑いが地下室にこだまする。
 同意を求められても、どう答えろというのか。
「これぞ、ザ・館組流証人保護プログラム、です! 
 さあ! 遠慮なく守られちゃってください!」
 床で羽柴が力尽き気絶した。
 名波は眉間のしわを揉んで、ぼそりと吐き出す。
「……これはどう考えても、自分たちのほうが悪人でしょうな」
 然り、完全無欠の脅迫だ。
 那臣はがっくりと肩を落としてうなるしかなかった。 
 仁王立ちのみはやが、どうやら明日の方向らしいどこかを、びしりと指さし宣言する。
「さあ那臣さん! 館組大逆転トゥルーエンドに向かってラストスパート全力爆走!ですよ? 
 うつむいて地面とお見合いしているヒマなどありません! 見つめるならこの勝利の女神みはやちゃんの可愛いお顔推奨です、きゃ」
 いまみはやがつくっているであろう勝ち誇ったどや顔を、愛らしいと形容できる自信はない。心に酸素を送る猶予が必要だ。
 那臣は両手で顔をわしゃりと揉んだ。
 一呼吸ついて脱力した全身に、なんとかむちを入れなおす。
 これぞ絶妙といったタイミングで、ハイテンションから一転押さえたやや低めの声で、みはやが告げた。
「そろそろ予定されたゴミ処理の終了時刻です。優秀で忠実でマメな側近伊武さんなら、尚毅さんに、ミッション完了のご連絡を入れるタイミングでしょうか」
 その一言で那臣のふやけた心身に再びスイッチが入った。
 かたわらのみはやを見る。
 主人の指示を無心で待つ獣の、強い光を宿した瞳が那臣を捉えていた。
 全力でふざけて遊んでみせた後の全力の戦闘態勢。
 この落差も込みで、これが自分の頼もしい相棒だ。
 もう一度深く呼吸して、脳と全身の筋肉に酸素を送る。
 そしてみはやの視線を真正面から受け止め、不敵に笑ってみせた。
「よし、一気に詰めるぞ」
 みはやの全開の笑顔が返ってきた。
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