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第六章 勝利の朝
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己の信念の赴くまま暴走し、その勢いを逆に河原崎親子に利用されて、組織から排除されるところであった。
すんでのところでみはやと出会い、再起のきっかけを与えられなければ、那臣は今頃、完全な敗北に打ちひしがれたまま、闇に沈んでいたことだろう。
ついこの間までの自分の姿を見ているようだ。
市野瀬に向けたほろ苦い笑みは、自分に言い聞かせるそれなのかもしれなかった。
覚えた苦いものを糧としなければ、次に進めない。
「被害者に同情し、非道な犯罪に対して怒る。そんなことは当たり前なんだ。人間なんだからな。そんなことは誰だって出来る。
俺たちはその、当たり前のことに加えて、俺たちにしかできないことをしなきゃならない、刑事としていま出来ること、それは何だ?」
那臣の冷静な瞳の温度が、見つめられた市野瀬にも伝わったようだ。
一度目を閉じ、呼吸を整える。
再び開かれた瞳は、剣道場での立ち会いの時と同じように、闘志を秘めながらも静かな気を湛えていた。
二人のやり取りに僅かに目を細めると、恭士は続けて問うた。
「……誘拐されたのは代々木東署に帳場が立ってるツガワの社長令嬢か」
伊武は中空に視線を泳がせたまま頷いた。
大手食品メーカー・ツガワの社長、津川美佐雄の娘万愉が学校からの帰途行方不明になり、目撃者の証言から、誘拐事件として捜査が進められていたところだ。
「監禁場所はどこだ」
「新宿MLビルの三十一階、紗矢歌さんのプライベートフロアです」
「尚毅の本丸にかよ? 足のつかない別の場所にしようとは思わなかったのか?」
「宮島教授のご要望で……絶対に邪魔をされない安全な場所の提供を、ということでしたので。
あそこなら、たとえ誰かに嗅ぎつけられても、簡単に踏み込まれる心配はありません」
「随分な自信だな」
と皮肉ってはみたものの、事前にみはやから知らされたMLビルのセキュリティの数々を考えると、部外者が容易に踏み込むことは、まず不可能である。根拠のない自信ではなかった。
「MLビルは古閑さんが張っていたんですよね? 定期的に出入りするVIPがいたら気付いててもよさそうですけど」
「じいさんが集中的に張ってたのは、上層階への直通エレベーターがある地下駐車場だろ? 低層階の商業施設あたりから紛れ込まれたらどうにもならん」
伊武に問いただすと、やはり宮島は、商業施設フロアを経由して非常階段へ出、オフィスフロアに再び入ってから、表のエレベーターを利用していたそうだ。毎回ルートを変更するなど、警戒していたという。
「宮島教授は、教育用アプリの開発プロジェクトで、ミッドロケーションプランニングの子会社と協力関係にあったこともあって、いつも代表の紗矢歌さん自らが接待していました。
今日も、紗矢歌さんと、そして尚毅さんは、宮島教授を出迎えるため、三十一階オフィスに来ることになっています」
これは重要な情報だった。
宮島、紗矢歌、そして尚毅を同時に押さえることが出来る千載一遇のチャンスだ。
だがしかし。
「もうあまり時間がない……どうする那臣? 今、午前三時だろ。
真っ当なルートを採るなら、署に戻ってこいつの調書作って令状請求するとして、発布されるまでざっと六、七時間ってとこか……だがなあ」
恭士が腰に手を当て、床に視線を落として唸る。
那臣も汲んで応えた。
「あまりに荒唐無稽な罪状ですしね、こいつの証言だけで有名企業のオフィスに踏み込む捜索令状を出せと言って、裁判官が納得してくれるとは到底思えません」
「だからといって補強証拠拾ってるような、時間的な余裕はない、と」
ちらりとソファの上の毛布にくるまれた物体を見遣る。それが、もぞもぞと反応した。
「……ええと、ちょっとお待ちくださいね……はい、とりあえず一昨日のものですが、MLビル商業施設と、非常階段に設置された監視カメラの映像から、宮島教授らしきおじさんの画像は拾えました。以上、寝言」
児童の深夜労働禁止、と、那臣によって強制就寝を命ぜられたみはやである。
毛布を被ってソファに横たわっているのだが、毛布の中では、もちろん、せっせと労働に勤しんでいた。
「ハッキングした映像を証拠に綴って令状請求できるか。寝言はそこまでにしておけ」
みはやが毛布を勢いよく跳ねのけ飛び起きる。
「え? じゃあ起きて喋ってもいいですか?」
「違う!……いや、狸寝入りならもういい……」
那臣は溜息を付きながら、みはやの捜査会議参加を黙認した。
みはやは、毛布とタブレットを抱えて、ソファの一角にちょこんと陣取る。
そのままさくさくと指を滑らせはしているが、表情は明るくなかった。
「……なんとか、宮島の身柄だけでも押さえられないですかね、もうこれ以上、被害者の子に酷いことは……」
那臣たちに向けられた市野瀬の目は、乱暴に擦ったせいか、微かに赤くなっている。
「いや……例えその糞野郎を、事を起こす前に押さえられても、その娘は今日明日には殺される。
最終上演ってなあそういうことだろ?
これまでの十六人のコロシと同様、いや、それ以上に、跡形もなく綺麗さっぱり掃除して、この一連の犯罪を、すべてなかったことにするつもりだ。そうじゃないか?」
低すぎる恭士の声は、逆に部屋の温度を上げたかのようだ。身体の内がかっと火照るような感覚を、捜査員たちは覚えた。
これまで清掃に派遣されていた、勇毅子飼いの、羽柴ら元警察官グループが使えなくても、河原崎親子にはいくらでもコネクションがあるはずだ。
現に遺体の処理には、専門の闇業者を雇っていたという。
今回、仕事場所に到着するなり那臣たちに捕らえられた闇業者たちは、今、この別荘の玄関ホールに縛られて転がっていた。
裏稼業の者たちへのコンタクトは、警察畑の元官僚で現職国家公安委員長勇毅ならお手のものだ。
宮島教授と、今回の『上演』に関わるすべての人間を同時に押さえ、そして主犯である河原崎尚毅、勇毅の身柄を一気に押さえるのが最上策だ。
しかしそれには時間も証拠も足りなさすぎる。
みはやの声も沈み気味だ。
「万愉さんが誘拐された二十六日以降の、宮島教授のMLビルへの出入り画像なら、まもなく揃えられるかと思います。
ですが、たとえこれが正規ルートの証拠でも、教授の身柄を押さえるところまで行けるかどうか……。
万愉さんの監禁場所について伊武さんの証言がありますから、人身保護優先で、容疑者不詳のままMLビルの捜索令状を狙いますか?」
「いや、それにしても弱すぎるな。
他に物証が何もない。出直してこいと令状部に門前払いを食らわされるのがオチだ」
恭士は首を振った。そして指揮官を見遣る。
皆の視線も一点に集中した。
ゆっくり一呼吸すると、那臣はおもむろに口を開いた。
すんでのところでみはやと出会い、再起のきっかけを与えられなければ、那臣は今頃、完全な敗北に打ちひしがれたまま、闇に沈んでいたことだろう。
ついこの間までの自分の姿を見ているようだ。
市野瀬に向けたほろ苦い笑みは、自分に言い聞かせるそれなのかもしれなかった。
覚えた苦いものを糧としなければ、次に進めない。
「被害者に同情し、非道な犯罪に対して怒る。そんなことは当たり前なんだ。人間なんだからな。そんなことは誰だって出来る。
俺たちはその、当たり前のことに加えて、俺たちにしかできないことをしなきゃならない、刑事としていま出来ること、それは何だ?」
那臣の冷静な瞳の温度が、見つめられた市野瀬にも伝わったようだ。
一度目を閉じ、呼吸を整える。
再び開かれた瞳は、剣道場での立ち会いの時と同じように、闘志を秘めながらも静かな気を湛えていた。
二人のやり取りに僅かに目を細めると、恭士は続けて問うた。
「……誘拐されたのは代々木東署に帳場が立ってるツガワの社長令嬢か」
伊武は中空に視線を泳がせたまま頷いた。
大手食品メーカー・ツガワの社長、津川美佐雄の娘万愉が学校からの帰途行方不明になり、目撃者の証言から、誘拐事件として捜査が進められていたところだ。
「監禁場所はどこだ」
「新宿MLビルの三十一階、紗矢歌さんのプライベートフロアです」
「尚毅の本丸にかよ? 足のつかない別の場所にしようとは思わなかったのか?」
「宮島教授のご要望で……絶対に邪魔をされない安全な場所の提供を、ということでしたので。
あそこなら、たとえ誰かに嗅ぎつけられても、簡単に踏み込まれる心配はありません」
「随分な自信だな」
と皮肉ってはみたものの、事前にみはやから知らされたMLビルのセキュリティの数々を考えると、部外者が容易に踏み込むことは、まず不可能である。根拠のない自信ではなかった。
「MLビルは古閑さんが張っていたんですよね? 定期的に出入りするVIPがいたら気付いててもよさそうですけど」
「じいさんが集中的に張ってたのは、上層階への直通エレベーターがある地下駐車場だろ? 低層階の商業施設あたりから紛れ込まれたらどうにもならん」
伊武に問いただすと、やはり宮島は、商業施設フロアを経由して非常階段へ出、オフィスフロアに再び入ってから、表のエレベーターを利用していたそうだ。毎回ルートを変更するなど、警戒していたという。
「宮島教授は、教育用アプリの開発プロジェクトで、ミッドロケーションプランニングの子会社と協力関係にあったこともあって、いつも代表の紗矢歌さん自らが接待していました。
今日も、紗矢歌さんと、そして尚毅さんは、宮島教授を出迎えるため、三十一階オフィスに来ることになっています」
これは重要な情報だった。
宮島、紗矢歌、そして尚毅を同時に押さえることが出来る千載一遇のチャンスだ。
だがしかし。
「もうあまり時間がない……どうする那臣? 今、午前三時だろ。
真っ当なルートを採るなら、署に戻ってこいつの調書作って令状請求するとして、発布されるまでざっと六、七時間ってとこか……だがなあ」
恭士が腰に手を当て、床に視線を落として唸る。
那臣も汲んで応えた。
「あまりに荒唐無稽な罪状ですしね、こいつの証言だけで有名企業のオフィスに踏み込む捜索令状を出せと言って、裁判官が納得してくれるとは到底思えません」
「だからといって補強証拠拾ってるような、時間的な余裕はない、と」
ちらりとソファの上の毛布にくるまれた物体を見遣る。それが、もぞもぞと反応した。
「……ええと、ちょっとお待ちくださいね……はい、とりあえず一昨日のものですが、MLビル商業施設と、非常階段に設置された監視カメラの映像から、宮島教授らしきおじさんの画像は拾えました。以上、寝言」
児童の深夜労働禁止、と、那臣によって強制就寝を命ぜられたみはやである。
毛布を被ってソファに横たわっているのだが、毛布の中では、もちろん、せっせと労働に勤しんでいた。
「ハッキングした映像を証拠に綴って令状請求できるか。寝言はそこまでにしておけ」
みはやが毛布を勢いよく跳ねのけ飛び起きる。
「え? じゃあ起きて喋ってもいいですか?」
「違う!……いや、狸寝入りならもういい……」
那臣は溜息を付きながら、みはやの捜査会議参加を黙認した。
みはやは、毛布とタブレットを抱えて、ソファの一角にちょこんと陣取る。
そのままさくさくと指を滑らせはしているが、表情は明るくなかった。
「……なんとか、宮島の身柄だけでも押さえられないですかね、もうこれ以上、被害者の子に酷いことは……」
那臣たちに向けられた市野瀬の目は、乱暴に擦ったせいか、微かに赤くなっている。
「いや……例えその糞野郎を、事を起こす前に押さえられても、その娘は今日明日には殺される。
最終上演ってなあそういうことだろ?
これまでの十六人のコロシと同様、いや、それ以上に、跡形もなく綺麗さっぱり掃除して、この一連の犯罪を、すべてなかったことにするつもりだ。そうじゃないか?」
低すぎる恭士の声は、逆に部屋の温度を上げたかのようだ。身体の内がかっと火照るような感覚を、捜査員たちは覚えた。
これまで清掃に派遣されていた、勇毅子飼いの、羽柴ら元警察官グループが使えなくても、河原崎親子にはいくらでもコネクションがあるはずだ。
現に遺体の処理には、専門の闇業者を雇っていたという。
今回、仕事場所に到着するなり那臣たちに捕らえられた闇業者たちは、今、この別荘の玄関ホールに縛られて転がっていた。
裏稼業の者たちへのコンタクトは、警察畑の元官僚で現職国家公安委員長勇毅ならお手のものだ。
宮島教授と、今回の『上演』に関わるすべての人間を同時に押さえ、そして主犯である河原崎尚毅、勇毅の身柄を一気に押さえるのが最上策だ。
しかしそれには時間も証拠も足りなさすぎる。
みはやの声も沈み気味だ。
「万愉さんが誘拐された二十六日以降の、宮島教授のMLビルへの出入り画像なら、まもなく揃えられるかと思います。
ですが、たとえこれが正規ルートの証拠でも、教授の身柄を押さえるところまで行けるかどうか……。
万愉さんの監禁場所について伊武さんの証言がありますから、人身保護優先で、容疑者不詳のままMLビルの捜索令状を狙いますか?」
「いや、それにしても弱すぎるな。
他に物証が何もない。出直してこいと令状部に門前払いを食らわされるのがオチだ」
恭士は首を振った。そして指揮官を見遣る。
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