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8.城主による糾弾
しおりを挟む「失礼します。物音が聞こえたので駆けつけました。すぐに掃除いたしますね」
アグネスは頭を下げると、割れた花瓶を見、床にへたりこむエウリッタとジェレニーを見た。眉をひそめて、けれど落ち着いた声で「召使のベッキーから報告がありました。すぐ医者を手配いたします」と続ける。
「……この城は召使のしつけが出来てないね。医者を呼ぶことを私は許していないよ。花瓶だけ片付けて出て行きなさい」
「おそれながら、できません」
「できません?」オウム返しにしながら、ソファに立てかけていたステッキで床を叩いて、伯爵が立ち上がる。
アグネスは素早く頭を下げた。声は震えていた。
「……おそれながら、ソロモン卿は替えのきかない方です。でも、わたしはいくらでも替えがききますから、勝手なことをする罰はわたしが受けましょう」
「何か勘違いをしているね。おまえなどどうでもいい。おまえの失敗は、城主の責任となるのだよ」
「いいえ、どうかわたしを罰してください!」
特権階級と呼ばれる、貴族の中でも有力な家に逆らえば、平民なら打ち首もありえる。アグネスも知っているはずだ。
エウリッタは今になって泣いた。
ジェレニーとアグネスがここまで頑張ってくれたことと、自分の不甲斐なさで、心が押し潰されそうだった。
ジェレニーのほとんど意識のない体を、エウリッタはそっと用心して横たえる。それから客間を横切って、伯爵からアグネスを守るような位置へ割り込んだ。
「アグネスさん、花瓶を片付けてください。わたしがお医者を呼びに行きます」
「リッタ、ロドニス君が不利になるよ」
「旦那さまがいない今、城の主はわたしです。召使の失敗は城の主の失敗だと仰るなら、罰はわたしが受けましょう」
エウリッタはジェレニーとアグネスを守りたかった。
それと同じくらい、何もできない自分に辟易していた。これ以上わたしを掻き回すならやってみろという自暴自棄な気持ちさえあった。
伯爵が頭2つ背の低い彼女を見つめる。
「……庇い合いか。一番退屈な展開だ」
やがて、伯爵はゆったり息を吐いた。不満そうな言葉だったが、どこか予想していたかのような、穏やかでさえある口調が不気味で、エウリッタとアグネスは、緊張にこわばった顔を見合わせる。
「私は帰らせてもらおう」
唐突に、伯爵が壁際にかかる帽子と外套を取った。
「おまえだけは少し面白かった。アグネスだったかな。ロドニス君は良い人材を娘の周りにつけてくれているようだ。安心したよ」
じゃあ、また来る、と帽子のつばを軽く指で押さえて、伯爵がアグネスの頬にキスした。
アグネスは雷に打たれたかのように硬直し、エウリッタは声を失う。
重体の男と呆然と立ち尽くす二人の女を置いて、伯爵はステッキの音を悠然と鳴らしながら去った。
ジョナルダ伯爵が客間を出てすぐに、エウリッタは医者を呼んだ。
医者はジェレニーの主治医だった。城下町にあるジェレニーの家まで運びますかと聞かれたが、すぐ休ませた方がいいと思って城の客間に寝かせた。
父が城門を出たという報告が入って、ようやくエウリッタは崩れた。
リュヘムの涙は強力な媚薬だ。持続性はないはずだが、使用量の目安よりずっと多く飲んだ分、長く体に残るかもしれないと医者に言われて、エウリッタは発汗のために何度か風呂に入った。水分を多くとり、利尿効果のある茶を飲む。早く成分を体から追い出すためだ。アグネスはほとんどつきっきりで一緒にいてくれた。
気づくと窓の向こうに月が浮かんでいた。
3度目の風呂に浸かりながら、自分の髪が水面に銀色のさざなみを揺らしているのを眺める。ふと、ありえない音が聞こえた気がして顔を上げた。
「どうしました、奥方様?」
アグネスが目ざとく反応する。
「ううん、馬車の音が聞こえたかと思って」
「馬車でございますか?」
「ありえないかな、正門は遠いしな」朦朧として、エウリッタは素で話をするようになった。ちょうど異父姉のリヴと話をするときのように。
その砕けた言葉遣いをアグネスは初め戸惑いながら指摘した。けれどもう何も言わない。薬でつらい今だけ、エウリッタを甘やかしてくれているのかもしれなかった。
エウリッタは入浴を終え、アグネスに手伝われながら簡単な夜着を纏う。ふらふらしながら寝室に戻る。
水を飲んで、寝台の上に横になった。アグネスが慌ててタオルでエウリッタの長い髪を乾かす。
「……いいのに」
「風邪をひきますよ。ただでさえ熱があるんです。そうだ、さっき馬車の音が聞こえたと仰ってましたね。裏門の方だったのかもしれません。追加分の薬草が届いたのかも」
「ソロモン卿にあげて」
「わかってますよ。ほら、熱さましです。呑んでください」アグネスがグラスを支えてエウリッタが飲むのを手伝ってくれる。
「にがいまずいしんどい」
「はいはい。寝てください」
ひんやりとした手のひらがエウリッタの額を撫でる。
熱にぼんやりしながら、エウリッタはその感触に驚かされた。
「ひんやりする」
「冷たすぎますか?」
「……ううん」
泣きそうになって、多分泣いた。疲れと薬の効果とで、いろんな感情の歯止めがきかない。
アグネスの手の懐かしいような感触にうつらうつらしていると、どれだけ経ったのか、突如、寝室の戸が開け放たれた。
物凄い音だったので、エウリッタは飛び起きた。アグネスも弾けたように寝台から降り立つ。
「シャ、シャンティー卿!」
ロドニスだった。
アグネスが驚いた声を上げるのを一瞥し、彼は、足を止めることなく寝台の傍へ来た。背後の戸を閉じるのも忘れている様子だった。
「何があった?」
ロドニスが聞くが、エウリッタは思考が現状に追いつかない。だって、ロドニスは20日間仕事があるんじゃなかったか。今はまだ16日目だ。
ぼんやりと彼を見ているエウリッタの肩を彼が掴んだ。
「ジェレニーに何があった。――何か言え!」
ロドニスがエウリッタに声を荒げるのは初めてのことだった。
エウリッタは全身が感電したようにびくっと揺れた。見開いた目に、ロドニスの見たことのないような厳しい表情が映っている。
皮手袋をしていて、外套は羽織ったまま前だけ開けている。ついさっき城に帰ったのだろう。浴室で聞いた馬車の音はロドニスだったのかもしれない。ジェレニーの容態を知って血相を変えてここへ来たようだ。
「……ジョナルダ伯爵が、来られていて」
「それはジェレニーのところで聞いた。リュヘムの涙とかいう薬を飲んだんだろう。催淫材だと医者が言った。ジェレニーは特殊な体質だ。試したことのない薬を意味なく飲んだりしない。だから聞いている。何があった?」
エウリッタは空気に喘ぐ。
急に胸が苦しい。
ロドニスの敵愾心に満ちる目で睨まれているせいだ。
「……ジョナルダ伯爵が、リュヘムの涙をわたしに飲めと仰って、でも量が多かったので、ジェレニー様に声をかけることになりました。わたしの判断でした。ジョナルダ伯爵がそれをよしとして」
「なぜジョナルダ伯爵があんたとジェレニーに媚薬を飲ませようとするんだ?」
「たわむれで」
刹那ロドニスの目の奥が燃え上がった。
青く醒めた理性で抑え込まれていた獣が、エウリッタを引き裂かんと牙を剥いたのが見えた気がした。
唐突にロドニスが手を離した。エウリッタに背を向けて、燭台に両手をついて頭を垂れると、大きく深呼吸した。
間合いにいたままだとエウリッタを傷つけたかもしれない。それを未然に防ぐためのような動きだった。
「……あんたたち『高貴な生まれ』ってやつらは、心底……」
小さな声で、吐き捨てるようにロドニスが言う。
エウリッタは目を見張る。
「あんたたち……?」
頭のなかで繰り返したつもりが、声にもなっていた。
エウリッタはジョナルダ伯爵と同じなんかじゃない。
ロドニスもそれを解ってくれていたのではないのか? だから伯爵を『クズ狸』と呼んで、エウリッタには優しくしてくれたのではなかったのか。
「あんたたち?」
「あ゛あ?」
「あんたたち?」
思わずエウリッタは夫を睨んだ。その目に滲む涙を見て、ロドニスは狼狽えたように押し黙ったが、すぐに冷たい真顔になった。
「ああ、『あんたたち』だ。あんたの家のたわむれとやらのおかげで俺の戦友が一人死にかけている。何か文句があるのか貴族女」
エウリッタは無言で唇を噛んだ。
ジェレニーが重体なのも、それがエウリッタ自身の提案のせいなのも、すべて事実だ。エウリッタは否定する気はない。文句などあるはずもない。
冷たい侮蔑をこめた口調で、ロドニスが彼女を突き放すのも仕方ない。
「……シャンティー卿」
震える声が横やりを入れたのはそのときだった。
「奥方様をどうか責めないでくださいませ。奥方様は、ご自身の体もつらいのに、薬草やお医者を優先してソロモン卿のもとへ送るよう仰いました。自分のことは後回しで、……それを、たわむれで薬を盛ったなどと、あんまりでございます」
召使頭のアグネスにとって城主に意見することは通常許されないという考えなのだろう。それでも、声を震わせながらエウリッタを庇ってくれた。エウリッタは新しい涙が溢れた。
「……解毒剤のようなものはありません」
ロドニスの鋭い視線に間近から見下ろされて慄きながら、エウリッタは続ける。
「でも効果を和らげる薬草はあって、運よく城下町で手に入れることができました」
「ずいぶん詳しいんだな」
「リュヘムの涙は結婚前に父に無理やり呑まされていたとき散々調べましたから」
「無理やり?」
「わたしが思いつくのはこれくらいです。お医者様なら何か他にも思いつくかもしれません。……わたしはわたしを守るために一番いい方法をとったつもりでした。でも、ソロモン卿の体質のことを知らなくて、恐ろしいことをしてしまいました。ソロモン卿に謝っても謝り足りません。出来ることがあるなら何でもします」
不意に、涙で滲む世界がぐにゃりと危うげに傾いだ。
アグネスの悲鳴が聞こえた気がした。ベッドから転げ落ちそうになった寸前、エウリッタは自分をしっかりと支えた腕を感じた。
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