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第十五章 躍進
百三十三話 端歩突き
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翌朝、お祈りと朝ごはんを済ませた頃合い。
連絡事項を伝えに銀月(ぎんげつ)さんが部屋に来た。
「正妃さまのご意向で、後宮の方が東庁(とうちょう)に出入りするのはまかりならん、という次第に決まりましてございます。麗侍女どのが手伝いで行かれるのもしばらく見合わせということで」
昨日に私が聞かされたように、これからしばらくの間、東庁に行くことはできない。
調べ物も情報収集も、今までとは別のアプローチが必要だ。
「いつまでなん?」
特に関係もなさそうな漣(れん)さまが、なにやら不機嫌そうな顔で銀月さんに訊いた。
思いがけない質問と思ったのは銀月さんも同じようで、多少の狼狽を見せて答える。
「はっきりとは申し上げられませぬが、少なくとも中書堂の工事が終わるまでは、みなさまにもご自粛いただくことになるかと……」
「ふうん。早う工事が進んだらええね」
漣さまはそう言って、箱庭遊びの続きに没頭なされた。
昨日のうちに私が、龍の彫られた金属製の文鎮を見つけていたのだ。
それを箱庭の東に据えて、うんうん、と納得の声を漏らすほどにご満悦である。
「前も少しあったんですけど、漣さま、なにか中書堂で気になることでもあるんでしょうか?」
私は雑務の間、疑問に思ったことを先輩侍女の孤氷(こひょう)さんに尋ねる。
この部屋に来た初日も、漣さまは中書堂再建の進み具合を気になさっていた。
問いに関する孤氷さんの答えは、実に意外なもので。
「あの建物の姿が、単にお好きだったようですね。戌(じゅつ)の賊徒に燃やされてしまったときは、珍しく涙を流しておられましたし」
「え、可愛い」
「こら、そういう言い方をするのではありません」
「ッス、サーセン」
漣さま、純粋かよ~。
確かに立派で重厚で、センスのいい木造建築だったけれどね。
箱庭造りもそうだけど、漣さまは建築や土木の好みにこだわりがあるのかな?
男の子が工業地帯のパイプや煙突にロマンを感じるのと似たようなものなのかも。
スチームパンク、私も好きだけれどね。
ただ、陛下のお部屋に呼ばれる以外では、滅多に後宮の外に出ない漣さまである。
その少ない機会に、ちらりと中書堂を横目で眺めることが、彼女にとっての貴重な癒しの時間だったのだろうか。
なんか、切ない話だなと私は思った。
「孤氷さん、私ちょっと正門の周りをお掃除しに行きますね」
「はい、よろしくお願いします。寒いですからもう一枚、着て行きなさい」
東庁に行けなくとも、外出自体は禁止されていない。
私は口実をつけて門の外に出て、隠し持っていた小さな鈴を一回だけ、鳴らした。
とある人との連絡用器具であり、ちょっとその人に話があるから呼び出すのだ。
敵が後宮、及びその周囲、皇城区域のあたりにいる、と仮定して。
私の行動が制限されたことで、連中は油断しているか、喜んでいるだろう。
それこそが神台邑(じんだいむら)流気合活殺術、一の型。
「敵が調子に乗っているときこそ、こちらが敵を仕留める絶好の機会」
なのである。
随一の使い手である翔霏(しょうひ)がいない今この場においても、その指針のもとに私は動かねばならない。
相手に動きがあったということは、私がおかしな動きを見せれば、相手は対応できない可能性が高いからだ。
分からないことだらけ、曖昧模糊なこの局面を。
力がないなら、知と意で切り裂け、北原麗央那。
「気安く呼ばないでくれるかなあ。こう見えてもあたし、暇じゃないんだけどね」
はたして、鈴の音につられて目的の人が寄って来た。
そう、除葛(じょかつ)軍師の命を受けて諜報活動をしている、乙さんである。
「こんにちは、ちょっといろいろ思いついたんで、お知らせしたいと思って」
侍女と女官が立ち話しているだけなので怪しまれはしないと思うけれど、一応は人気のない場所に移動する。
そこで私は彼女に、今まで得た情報と、これからどうするべきかを話して聞かせた。
「央那ちゃん、頭の使いすぎでおかしくなったかい? 少しゆっくり寝た方が良いんじゃない? 目のクマひどいよ? あ、もともとそういう目つきなだけか」
私の顔をじろじろ見て、呆れたように言う、間者の乙さん。
顔の話はやめろよォ!
今までに得た情報の報告部分はともかく、私がこれからやろうとしていることを話すうちに、乙さんの表情はどんどんと歪んで行った。
その結果、このようにバカにされているのである。
乙さんが目に入るものを手当たり次第に罵るのは、今に始まったことじゃないけれどね。
「いたって正気、いやもともとおかしいと評判ですけど。とりあえず、真面目に考えた結果です。どうしても、やってほしいんです」
私はある一通の封書を、周りに人目がないことを確認して手渡す。
ここは後宮の門を出て、塀に沿って歩いた西側。
午前中は日陰になり、目ぼしい施設も近くにないため、滅多に人は来ない。
そこで私たち二人、悪巧みを進行する。
「あたしがそんな頼みを聞く義理はそもそもないんだけどねえ」
「そんなこと言わないで下さいよ。仲間じゃないですか」
「央那ちゃんに仲間だと思われてたなんて、こりゃ驚きだ。雷が落ちて来ないように気を付けないと」
実に様々な悪態がその綺麗なお口から出て来ますこと。
気を付けようがないだろ、雷なんて。
私は引き攣った笑顔を向けて、乙さんに言った。
「今言ったこと、椿珠(ちんじゅ)さんたちとも情報の共有をお願いします。もし知らせたうえで軽螢(けいけい)が『やめろ』って言ったら、やらないでください」
これから私が仕掛けることは、リスクを大きく伴う。
その是非の判断を、私は軽螢に預けるのだった。
「あの短髪の男の子かい。いっつもヤギと一緒にいるけど、あの子らデキてんのかね? なんであの男の子に実行の鍵を握らせるのさ」
いや、軽螢とヤギがそういう関係かもしれないのは、私も多少疑ってるけど。
それは今どうでもいい。
「軽螢が一番、私たちの中で楽天家で、現実主義者だからです。そんな軽螢が懸念を示すなら、それは本当に危険なこと、しないほうがいいことなんですよ」
よほどのことがない限り、軽螢は私や翔霏がすることにブレーキをかけることはない。
しかしなんでもかんでも、すべての状況でOK小僧というわけでもない。
軽螢なりに言葉にしにくい基準が確実にあり、彼がダメだと言ったなら、それはもうどうしようもなく、ダメなのである。
知恵や経験と言うより、生まれ持った霊感、シックスセンスなのだろう。
「へえ。随分と信頼し合ってることで。羨ましいね」
このときばかりは皮肉ではなさそうな優しい顔で、乙さんは言った。
誰も信用してなさそうだもんね、この人。
だからと言って、そんな暮らしが平気なわけじゃないんだろう。
「諜報員の仕事が終わったら、乙さんも神台邑(じんだいむら)に来ませんか? なにもないけど、楽しいと思いますよ」
「ふん、そんな楽園が天の下、いったいどこにあるってのさ。いろいろごちゃごちゃあるくせに、ちっとも面白くないのが世の中だよ」
去っていく乙さんの背中に、私は一つとして反論できないのだった。
乙さんの人生観はともかくとして、種は撒いたぞ。
上手く行けば、一度に多くのことがわかる、発覚するはずだ。
もし、この策が空振りなら?
私たちが、煩悶を抱えてのた打ち回るだけである。
「敵の正体がわからないなら、私の方こそわけがわからんことをしてやるしかないんだ」
不明には不明を、不穏には不穏を。
不可知には、不可知をぶつけてやる。
私と相手、どっちが想像を超えているのか。
勝負のときが迫っていた。
「麗、寝る前に少し、良いですか?」
お祈りと夕食が終わり、漣さまもお休みになった自由時間。
塀(へい)貴妃は特に無駄話をせず、お祈り後にはすぐに戻った。
さて本でも読もうかなと思っていた私に、孤氷さんが声をかけた。
「どうかしましたか?」
「少し、遊び相手になって欲しいと思いまして」
そう言った孤氷さんは、卓の上に遊具を広げた。
「軍兵駒(ぐんぺいごま)」と呼ばれる盤上遊戯で、言ってしまえばチェスや将棋と似たようなものである。
「麗は遊び方、知っていますか?」
「銀月さんにちょっと教えてもらったくらいです」
腕に自信はないけれど、ルールはすでに知っている。
将棋の亜種なので楽に覚えられたのだ。
八×八のマスに区切られた盤面の上で、歩兵や騎馬兵など兵種が分かれた石彫りの駒が戦う遊びだ。
将棋と違うところは、王将が決まっておらず、自分で好きな駒を王将に設定できること。
駒の裏に目印を打つことで、どんな兵種の駒でもリーダー、このゲームにおいては旗手と呼ばれる役割を与えることができる。
相手の王がわからない将棋と言うわけで、ルールにのっとった攻略とともに、心理的駆け引きも楽しめるのだ。
ああ、漣さまが寝入った今だからこそ、こういう戦術遊びをしたいと孤氷さんは思ったのだな。
「たまには駒を握っておかないと、鈍りますから」
言い訳するように呟きながら盤面に駒を並べる孤氷さん。
その顔はいつになく楽しそうだった。
「お手柔かにお願いします」
私と孤氷さんのハンデなし、一本勝負である。
「私からですね」
ずい、と先手孤氷軍の前列歩兵が前に出る。
普通なら敗北条件の旗手をいきなり前に出してこないだろうから、この駒は旗手ではないだろう。
しかし、そう思わせておいて実は~? という疑心暗鬼にも似た読み合いも含めて、このゲームは楽しむものだ。
加えて将棋盤より狭いのに機動力が高い駒が多く、そのために展開が速い。
旗手を見破られまいとするお互いの思惑以上に、全体的に「攻める方が強い」設計思想になっているのだ。
待って守って逃げた方が強いゲームは、だいたいクソゲー化するからね。
画面端でしゃがんで待ってるやつが一番強いゲームとか、明らかにおかしいでしょと私は思うのです。
「受けて立ちましょう」
私も歩兵を前に出し、その後はしばらく殴り合いの駒交換が続く。
持ち駒を打つことはできないので、取られた駒は死にっぱなし。
「読めました」
キラリと眼光を放ち、孤氷さんの騎兵が私の軍の右翼を切り崩しにかかった。
味方に固く守られている戦車兵の駒が、私の旗手、敗北条件だと思ったのだろう。
相手の旗手をいち早く見抜いて、その地点に攻撃リソースを集中して注ぐのが、このゲームの攻略法の一つである。
「孤氷さん、強いですね!」
序盤、中盤、終盤、隙がないと思う。
でも、私は負けないよ。
「旗手がそれだけ味方に囲まれていては、もう逃げられません」
孤氷さんが怒涛に攻める混戦の中。
私は騎兵を突出させて、孤氷さん側の陣地奥深くに斬り込んだ。
「なんの、これから逆襲です」
その一手に孤氷さんはぴくり、と反応し。
「苦し紛れにこっちの場を荒らそうとしても、無駄ですよ」
槍兵でさくっと殺せそうな駒を、あえて軽騎兵を動かし、私の攻めを撃退する。
軽騎兵は前後に桂馬の動きができる、中距離飛び道具的ユニットである
私はそれを皮切りに、左翼中ほどで日和見を決めていた部隊の駒を、どんどんと前線に送る。
「くっ……!」
動揺の色を見せながらも、孤氷さんの方針は変わらず、右翼に構える私の戦車兵を仕留めるため、執拗に攻撃を続けた。
その右側の混戦から弾かれるようにあぶれた駒も、私は孤氷さんの陣地に斬り込ませる。
私の陣地の右と、孤氷さんの陣地の中央でバチバチの応酬が続き。
孤氷さんがとうとう、狙っていた私の戦車兵の駒を陥落する。
が、しかし。
「あ……!?」
それは、私の旗手ではなかった。
単なる兵の一つである駒を、孤氷さんは旗手であると思い込んで、膨大な戦力を消費させてしまったのだ。
「これで、詰みです」
次の手番で、私は孤氷さんの陣中央に堂々と構える槍兵に、三つの駒が利いた王手を仕掛けた。
正面、斜め、真横からその駒は狙われており、逃げても逃げても論理的にいずれは落ちることが確定している形だ。
「な、なぜこの駒が、私の旗手だとわかったのですか?」
悔しそうに投了して、槍駒をひっくり返す孤氷さん。
その裏には旗手である証拠の朱色が打たれていた。
検討、感想戦として私は答える。
「孤氷さんは、私の『動いていない駒』を旗手だと思い、攻めて来ました。だからきっと、孤氷さんの旗手は『動いていないか、動きが少ない駒』だと思ったんです」
人間、自分がされて嫌なことを、相手も嫌がるだろうと思う傾向がある。
固く守って構える駒が狙われるのは、孤氷さんにとって嫌なことなのだ。
だから私は序盤、中盤戦で動く駒と動かない駒、守られる駒と散開する駒にメリハリをつけて、孤氷さんがどこを狙って来るのか様子を見た。
守られた動かない駒を孤氷さんが狙って来たと言うことは、弧氷さんの旗手駒が、あまり動かない安全な位置にいるだろうと私は予測しただけのこと。
「自分の攻め手が、相手に情報を与えていたとは……ところで、麗の旗手は結局、どの駒だったのです?」
悔しさと勝負の充実の両方を表情ににじませながら、孤独さんは訊いた。
私は、孤氷さんの旗手を詰めた三枚の駒の内、横に置かれた歩兵の駒を裏返す。
端の列にいた歩兵が、ノコノコとここまでやって来て、必殺の一助となった。
そう、私の旗手は、相手陣地に殴り込んで、自ら敵将を討ち取ったのだ。
「そ、そんな攻め方が……」
孤氷さんは呆れと驚きから、掌で頭を抑えた。
激戦地の只中、最前線に王将が歩兵に化けて突出し、立場も弁えず殴り合いをしていたのだ。
「やっぱり旗手は先頭に立って、味方を鼓舞しませんと」
駒と盤を片付けながら、私は知った風な口を聞くのであった。
こんな手は二度三度と通じるものじゃないけれどね。
一度かましてやると、その後も相手に「こいつはこういうことをするやつだ」と思わせることができるので、重要なのはそこである。
さて、私はやれるだけのことはやった。
あとは乙さん、椿珠さん、想雲(そううん)くん、軽螢(けいけい)、ついでにヤギ。
私が動き回れない間のことは、任せたぜ。
連絡事項を伝えに銀月(ぎんげつ)さんが部屋に来た。
「正妃さまのご意向で、後宮の方が東庁(とうちょう)に出入りするのはまかりならん、という次第に決まりましてございます。麗侍女どのが手伝いで行かれるのもしばらく見合わせということで」
昨日に私が聞かされたように、これからしばらくの間、東庁に行くことはできない。
調べ物も情報収集も、今までとは別のアプローチが必要だ。
「いつまでなん?」
特に関係もなさそうな漣(れん)さまが、なにやら不機嫌そうな顔で銀月さんに訊いた。
思いがけない質問と思ったのは銀月さんも同じようで、多少の狼狽を見せて答える。
「はっきりとは申し上げられませぬが、少なくとも中書堂の工事が終わるまでは、みなさまにもご自粛いただくことになるかと……」
「ふうん。早う工事が進んだらええね」
漣さまはそう言って、箱庭遊びの続きに没頭なされた。
昨日のうちに私が、龍の彫られた金属製の文鎮を見つけていたのだ。
それを箱庭の東に据えて、うんうん、と納得の声を漏らすほどにご満悦である。
「前も少しあったんですけど、漣さま、なにか中書堂で気になることでもあるんでしょうか?」
私は雑務の間、疑問に思ったことを先輩侍女の孤氷(こひょう)さんに尋ねる。
この部屋に来た初日も、漣さまは中書堂再建の進み具合を気になさっていた。
問いに関する孤氷さんの答えは、実に意外なもので。
「あの建物の姿が、単にお好きだったようですね。戌(じゅつ)の賊徒に燃やされてしまったときは、珍しく涙を流しておられましたし」
「え、可愛い」
「こら、そういう言い方をするのではありません」
「ッス、サーセン」
漣さま、純粋かよ~。
確かに立派で重厚で、センスのいい木造建築だったけれどね。
箱庭造りもそうだけど、漣さまは建築や土木の好みにこだわりがあるのかな?
男の子が工業地帯のパイプや煙突にロマンを感じるのと似たようなものなのかも。
スチームパンク、私も好きだけれどね。
ただ、陛下のお部屋に呼ばれる以外では、滅多に後宮の外に出ない漣さまである。
その少ない機会に、ちらりと中書堂を横目で眺めることが、彼女にとっての貴重な癒しの時間だったのだろうか。
なんか、切ない話だなと私は思った。
「孤氷さん、私ちょっと正門の周りをお掃除しに行きますね」
「はい、よろしくお願いします。寒いですからもう一枚、着て行きなさい」
東庁に行けなくとも、外出自体は禁止されていない。
私は口実をつけて門の外に出て、隠し持っていた小さな鈴を一回だけ、鳴らした。
とある人との連絡用器具であり、ちょっとその人に話があるから呼び出すのだ。
敵が後宮、及びその周囲、皇城区域のあたりにいる、と仮定して。
私の行動が制限されたことで、連中は油断しているか、喜んでいるだろう。
それこそが神台邑(じんだいむら)流気合活殺術、一の型。
「敵が調子に乗っているときこそ、こちらが敵を仕留める絶好の機会」
なのである。
随一の使い手である翔霏(しょうひ)がいない今この場においても、その指針のもとに私は動かねばならない。
相手に動きがあったということは、私がおかしな動きを見せれば、相手は対応できない可能性が高いからだ。
分からないことだらけ、曖昧模糊なこの局面を。
力がないなら、知と意で切り裂け、北原麗央那。
「気安く呼ばないでくれるかなあ。こう見えてもあたし、暇じゃないんだけどね」
はたして、鈴の音につられて目的の人が寄って来た。
そう、除葛(じょかつ)軍師の命を受けて諜報活動をしている、乙さんである。
「こんにちは、ちょっといろいろ思いついたんで、お知らせしたいと思って」
侍女と女官が立ち話しているだけなので怪しまれはしないと思うけれど、一応は人気のない場所に移動する。
そこで私は彼女に、今まで得た情報と、これからどうするべきかを話して聞かせた。
「央那ちゃん、頭の使いすぎでおかしくなったかい? 少しゆっくり寝た方が良いんじゃない? 目のクマひどいよ? あ、もともとそういう目つきなだけか」
私の顔をじろじろ見て、呆れたように言う、間者の乙さん。
顔の話はやめろよォ!
今までに得た情報の報告部分はともかく、私がこれからやろうとしていることを話すうちに、乙さんの表情はどんどんと歪んで行った。
その結果、このようにバカにされているのである。
乙さんが目に入るものを手当たり次第に罵るのは、今に始まったことじゃないけれどね。
「いたって正気、いやもともとおかしいと評判ですけど。とりあえず、真面目に考えた結果です。どうしても、やってほしいんです」
私はある一通の封書を、周りに人目がないことを確認して手渡す。
ここは後宮の門を出て、塀に沿って歩いた西側。
午前中は日陰になり、目ぼしい施設も近くにないため、滅多に人は来ない。
そこで私たち二人、悪巧みを進行する。
「あたしがそんな頼みを聞く義理はそもそもないんだけどねえ」
「そんなこと言わないで下さいよ。仲間じゃないですか」
「央那ちゃんに仲間だと思われてたなんて、こりゃ驚きだ。雷が落ちて来ないように気を付けないと」
実に様々な悪態がその綺麗なお口から出て来ますこと。
気を付けようがないだろ、雷なんて。
私は引き攣った笑顔を向けて、乙さんに言った。
「今言ったこと、椿珠(ちんじゅ)さんたちとも情報の共有をお願いします。もし知らせたうえで軽螢(けいけい)が『やめろ』って言ったら、やらないでください」
これから私が仕掛けることは、リスクを大きく伴う。
その是非の判断を、私は軽螢に預けるのだった。
「あの短髪の男の子かい。いっつもヤギと一緒にいるけど、あの子らデキてんのかね? なんであの男の子に実行の鍵を握らせるのさ」
いや、軽螢とヤギがそういう関係かもしれないのは、私も多少疑ってるけど。
それは今どうでもいい。
「軽螢が一番、私たちの中で楽天家で、現実主義者だからです。そんな軽螢が懸念を示すなら、それは本当に危険なこと、しないほうがいいことなんですよ」
よほどのことがない限り、軽螢は私や翔霏がすることにブレーキをかけることはない。
しかしなんでもかんでも、すべての状況でOK小僧というわけでもない。
軽螢なりに言葉にしにくい基準が確実にあり、彼がダメだと言ったなら、それはもうどうしようもなく、ダメなのである。
知恵や経験と言うより、生まれ持った霊感、シックスセンスなのだろう。
「へえ。随分と信頼し合ってることで。羨ましいね」
このときばかりは皮肉ではなさそうな優しい顔で、乙さんは言った。
誰も信用してなさそうだもんね、この人。
だからと言って、そんな暮らしが平気なわけじゃないんだろう。
「諜報員の仕事が終わったら、乙さんも神台邑(じんだいむら)に来ませんか? なにもないけど、楽しいと思いますよ」
「ふん、そんな楽園が天の下、いったいどこにあるってのさ。いろいろごちゃごちゃあるくせに、ちっとも面白くないのが世の中だよ」
去っていく乙さんの背中に、私は一つとして反論できないのだった。
乙さんの人生観はともかくとして、種は撒いたぞ。
上手く行けば、一度に多くのことがわかる、発覚するはずだ。
もし、この策が空振りなら?
私たちが、煩悶を抱えてのた打ち回るだけである。
「敵の正体がわからないなら、私の方こそわけがわからんことをしてやるしかないんだ」
不明には不明を、不穏には不穏を。
不可知には、不可知をぶつけてやる。
私と相手、どっちが想像を超えているのか。
勝負のときが迫っていた。
「麗、寝る前に少し、良いですか?」
お祈りと夕食が終わり、漣さまもお休みになった自由時間。
塀(へい)貴妃は特に無駄話をせず、お祈り後にはすぐに戻った。
さて本でも読もうかなと思っていた私に、孤氷さんが声をかけた。
「どうかしましたか?」
「少し、遊び相手になって欲しいと思いまして」
そう言った孤氷さんは、卓の上に遊具を広げた。
「軍兵駒(ぐんぺいごま)」と呼ばれる盤上遊戯で、言ってしまえばチェスや将棋と似たようなものである。
「麗は遊び方、知っていますか?」
「銀月さんにちょっと教えてもらったくらいです」
腕に自信はないけれど、ルールはすでに知っている。
将棋の亜種なので楽に覚えられたのだ。
八×八のマスに区切られた盤面の上で、歩兵や騎馬兵など兵種が分かれた石彫りの駒が戦う遊びだ。
将棋と違うところは、王将が決まっておらず、自分で好きな駒を王将に設定できること。
駒の裏に目印を打つことで、どんな兵種の駒でもリーダー、このゲームにおいては旗手と呼ばれる役割を与えることができる。
相手の王がわからない将棋と言うわけで、ルールにのっとった攻略とともに、心理的駆け引きも楽しめるのだ。
ああ、漣さまが寝入った今だからこそ、こういう戦術遊びをしたいと孤氷さんは思ったのだな。
「たまには駒を握っておかないと、鈍りますから」
言い訳するように呟きながら盤面に駒を並べる孤氷さん。
その顔はいつになく楽しそうだった。
「お手柔かにお願いします」
私と孤氷さんのハンデなし、一本勝負である。
「私からですね」
ずい、と先手孤氷軍の前列歩兵が前に出る。
普通なら敗北条件の旗手をいきなり前に出してこないだろうから、この駒は旗手ではないだろう。
しかし、そう思わせておいて実は~? という疑心暗鬼にも似た読み合いも含めて、このゲームは楽しむものだ。
加えて将棋盤より狭いのに機動力が高い駒が多く、そのために展開が速い。
旗手を見破られまいとするお互いの思惑以上に、全体的に「攻める方が強い」設計思想になっているのだ。
待って守って逃げた方が強いゲームは、だいたいクソゲー化するからね。
画面端でしゃがんで待ってるやつが一番強いゲームとか、明らかにおかしいでしょと私は思うのです。
「受けて立ちましょう」
私も歩兵を前に出し、その後はしばらく殴り合いの駒交換が続く。
持ち駒を打つことはできないので、取られた駒は死にっぱなし。
「読めました」
キラリと眼光を放ち、孤氷さんの騎兵が私の軍の右翼を切り崩しにかかった。
味方に固く守られている戦車兵の駒が、私の旗手、敗北条件だと思ったのだろう。
相手の旗手をいち早く見抜いて、その地点に攻撃リソースを集中して注ぐのが、このゲームの攻略法の一つである。
「孤氷さん、強いですね!」
序盤、中盤、終盤、隙がないと思う。
でも、私は負けないよ。
「旗手がそれだけ味方に囲まれていては、もう逃げられません」
孤氷さんが怒涛に攻める混戦の中。
私は騎兵を突出させて、孤氷さん側の陣地奥深くに斬り込んだ。
「なんの、これから逆襲です」
その一手に孤氷さんはぴくり、と反応し。
「苦し紛れにこっちの場を荒らそうとしても、無駄ですよ」
槍兵でさくっと殺せそうな駒を、あえて軽騎兵を動かし、私の攻めを撃退する。
軽騎兵は前後に桂馬の動きができる、中距離飛び道具的ユニットである
私はそれを皮切りに、左翼中ほどで日和見を決めていた部隊の駒を、どんどんと前線に送る。
「くっ……!」
動揺の色を見せながらも、孤氷さんの方針は変わらず、右翼に構える私の戦車兵を仕留めるため、執拗に攻撃を続けた。
その右側の混戦から弾かれるようにあぶれた駒も、私は孤氷さんの陣地に斬り込ませる。
私の陣地の右と、孤氷さんの陣地の中央でバチバチの応酬が続き。
孤氷さんがとうとう、狙っていた私の戦車兵の駒を陥落する。
が、しかし。
「あ……!?」
それは、私の旗手ではなかった。
単なる兵の一つである駒を、孤氷さんは旗手であると思い込んで、膨大な戦力を消費させてしまったのだ。
「これで、詰みです」
次の手番で、私は孤氷さんの陣中央に堂々と構える槍兵に、三つの駒が利いた王手を仕掛けた。
正面、斜め、真横からその駒は狙われており、逃げても逃げても論理的にいずれは落ちることが確定している形だ。
「な、なぜこの駒が、私の旗手だとわかったのですか?」
悔しそうに投了して、槍駒をひっくり返す孤氷さん。
その裏には旗手である証拠の朱色が打たれていた。
検討、感想戦として私は答える。
「孤氷さんは、私の『動いていない駒』を旗手だと思い、攻めて来ました。だからきっと、孤氷さんの旗手は『動いていないか、動きが少ない駒』だと思ったんです」
人間、自分がされて嫌なことを、相手も嫌がるだろうと思う傾向がある。
固く守って構える駒が狙われるのは、孤氷さんにとって嫌なことなのだ。
だから私は序盤、中盤戦で動く駒と動かない駒、守られる駒と散開する駒にメリハリをつけて、孤氷さんがどこを狙って来るのか様子を見た。
守られた動かない駒を孤氷さんが狙って来たと言うことは、弧氷さんの旗手駒が、あまり動かない安全な位置にいるだろうと私は予測しただけのこと。
「自分の攻め手が、相手に情報を与えていたとは……ところで、麗の旗手は結局、どの駒だったのです?」
悔しさと勝負の充実の両方を表情ににじませながら、孤独さんは訊いた。
私は、孤氷さんの旗手を詰めた三枚の駒の内、横に置かれた歩兵の駒を裏返す。
端の列にいた歩兵が、ノコノコとここまでやって来て、必殺の一助となった。
そう、私の旗手は、相手陣地に殴り込んで、自ら敵将を討ち取ったのだ。
「そ、そんな攻め方が……」
孤氷さんは呆れと驚きから、掌で頭を抑えた。
激戦地の只中、最前線に王将が歩兵に化けて突出し、立場も弁えず殴り合いをしていたのだ。
「やっぱり旗手は先頭に立って、味方を鼓舞しませんと」
駒と盤を片付けながら、私は知った風な口を聞くのであった。
こんな手は二度三度と通じるものじゃないけれどね。
一度かましてやると、その後も相手に「こいつはこういうことをするやつだ」と思わせることができるので、重要なのはそこである。
さて、私はやれるだけのことはやった。
あとは乙さん、椿珠さん、想雲(そううん)くん、軽螢(けいけい)、ついでにヤギ。
私が動き回れない間のことは、任せたぜ。
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