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第一章 王様と暗殺者
-10- ダイヤモンド・ハイド・オーバーチュア②
しおりを挟む少年は何事も人並みに出来た。剣術も弓も、勉学も技芸も、他人に比べると優れていたのかもしれないが、鮮烈な光を放つ太陽のような兄の傍では、全て等しく影でしかなかった。
薄暗い部屋に橙色の小さな灯りを一つ灯して、文机に向かう。昨日教わった古典書の写し書きをしながら、遠くに聞こえる華やかな喧騒に彼は溜息を吐いた。
「剛様ー! お戻りになられたんですか?」
「っ! ひ、翡翠……開ける前に声掛けてよ。浅葱さんに怒られるんじゃない」
「へへ、良いじゃないですか。誰も見てないですし」
廊下から早足にこちらへ向かう音が聞こえたかと思うと、勢いよく部屋の襖が開かれる。少年の肩がびくりと震える。少年の動揺などお構いなしに、彼女は灯りを片手にずかずかと部屋に入ってきた。
「それより、宴はもう良いのですか? せっかく、剛様のお誕生日のお祝いなのに」
「……僕がいなくても良いでしょ、もう。皆兄上の話しかしてないし……」
仄かに紅潮していた顔が曇る。俯いた表情に陰りが見える。少年は囁くような小さな声で呟いた。
彼が暗く冷たい日陰の中にいる間に、人々が望むものは兄で事足りるようになってしまった。それ故、彼は望まれなくなった。何事も、出来ても出来なくても、人々にとっては差し障りがなかった。
それは少年の心に大きな影を落とした。
「まあ、あの調子じゃ向こうに居ても退屈ですもんねえ。それはそうと、何故剛様はお勉強をしていらっしゃるんです? お絵描きは?」
「……自分の為の宴を抜け出して、勝手に好きなことやるのはちょっと……駄目かなって」
「も~。相変わらず我慢しいですね。そんなこと言って、そこ、落書きしてるじゃないですか! はいはい素直になりましょうねっ」
彼女だけは――翡翠だけは、違った。彼女の瞳は少年の手元の白兎を見逃さない。ずい、と距離を詰めて覗き込まれ、彼は気まずそうに目を逸らした。
世話役の翡翠は、少年を「剛」として見てくれる。彼女の前では、少年は兄の弟ではなく居られた。彼女は暗がりに差し込む陽だまりだった。
「……もういいや……翡翠、紙を持ってきてほしい。そこの棚にある……」
「ええ、はい! もう持ってきてますよ」
「準備良い……ありがとう」
「ふふ、今日は水墨画ですか?」
「うん。丁度墨あるし」
紙の束を差し出す翡翠はさながら忠犬――否、主人に構って欲しい飼い犬が尻尾を振っているみたいだ。書筆を絵筆に持ち替えて、剛は真っ白な紙に向き合った。
雄渾な松の木の太い枝の先、数多の広がった葉の上に雪が積もっている。紙に沁み込む墨の青い匂いつんと鼻をつく。水で満たした器と硯を行ったり来たりしながら、根元に小さな白い兎を添えた。
それを隣から覗き込む翡翠の黒橡色の髪がふわりと彼の頬を掠める。くすぐったくて胸がどきりと鳴る。静かな部屋の中、遠くの喧騒と時折彼女の声が聞こえてくる。
少年は翡翠のことが好きだった。こんなにも世界は虚ろなのに、少年は満たされているような気がした。
「剛様、ここ……うさぎちゃんの目を赤にするの! 良くないですか?」
「え……これ水墨画なんだけど……」
「でも赤の方が可愛くないですか?」
「それは……そう、かも。……まあいいか、誰に見せるでもないし」
大きな松の木の下に、赤い瞳の兎が二羽。
誰も僕の事を見ていなくても、僕の生に意味が無くても、この心地よい時間が続くなら、生きることを頑張ろうと思えた。
秋風に乗って、濡れた落ち葉の湿った匂いが漂ってくる。昨晩の雨のせいで生温い空気を大きく吸い込んで、剛は頭上に掲げていた木刀を振り下ろした。
空気を切る音に合わせて、少年は短く息の音を立てる。履物が地面を擦ると、水気を含んだ土の音がした。
庭の隅、ちょうど日陰になっていたそこは人目が無く、彼が素振りをするのに丁度よかった。人前でわざわざ努力をひけらかすのは気が引ける――そのくせ、誰も自分を見ていないと卑屈になるので自分が嫌になる。
「あ……いた、弟君様! あの、弟君様にお手合わせ願いたく……」
不意に声を掛けられ、少年は思わずぴょんと飛び跳ねた。手の中の木刀が滑り落ちて、静寂にがらんと音が響き渡った。慌ててそれを拾いながら、声の主に目を遣る。
(左大臣の……藤埜家の、三男の人かな。今日来てたんだ)
こういうのは十中八九、兄に挑んでも勝てないから自分に回ってきたやつだ。いつだってそう、どうせ兄相手には歯が立たないから、「あの兄の弟」である僕に勝って手柄を立てようというところだろう。
少年の胸の中に、どろどろした薄暗い感情が広がる。「兄の弟」にしか価値を見出されないことも、自分になら勝てるかもと軽んじられることも。仕方ないと分かっていても、ふつふつと湧き上がる。むかつく。
そして、この誘いを受けても何の得にもならないと分かっているのに、断れない自分に腹が立った。
「……そこまで。此度は剛様の勝ちでございます」
ぎし、と音を立てて道場の床に膝をつく。座して背筋を伸ばし、少年は息を吐いた。まだ少し呼吸が乱れている。腹が立つのは、何とか勝っても一杯一杯で、必ず勝てるわけではないことだ。
礼をして左に置いた木刀を手に取り立ち上がる。稽古の時間まではまだ時間があったので、彼は早々にその場を立ち去りたかった。思いの外時間が掛かってしまった所為で、早くしないと「それ」に遭ってしまう――
「あ、剛! 手合わせですか、黒曜と」
突き刺さるようなよく通る声。心臓を貫かれるような心地がして、少年は肩を竦めて固まった。
戸の隙間から光が差し込んで伸びている。その向こう、光の中にいる「それ」は少年を見つけて目を輝かせた。
一つに束ねた長い髪が風に揺れて、絹のようにさらさらと靡いている。瞬間、軽やかに駆け出したかと思うと、まるで風になったみたいに翔んで、ふわりと少年の前に降り立った。
ずい、と顔を近づけられたので、思わず後ずさる。水晶のような瞳が覗き込んできて、怖くて口元が引き攣ってしまった。
「ふふ、ここで会えるとはとても運が良い。さあ、この兄とも! 手合わせしましょう」
開け放たれた戸の向こうから陽の光が差し込んで、後光が差している様だった。太陽のようなそれは、剛にとって災害のようなものであった。
兎狩りに出掛けたと聞いていたし、まだ兄上の稽古まで時間があるのでは。何故こんなに早く戻られたのか。こんなことなら、手合わせなど受けなければよかった。言いたいことは山ほどあるが、兄の圧を前にしてぎこちなく笑うしかなかった。
焦げ茶色の視界の端に、橙色の灯りがちらちらと揺れている。文机に突っ伏しながら、少年はゆっくりと瞬きをした。頬が圧し潰されると、ひんやりと冷たくて少し心地良い。
目を閉じるのが嫌だった。真っ暗な視界の中で、長い髪が生き物のように揺れるのが見えるから。自分を真っ直ぐに捉える眼光に刺されるから。
最早人ではない――あれは獣だ。到底太刀打ちできない。耐えるのが精一杯で、一方的に攻め立てられた末に、結局食われてしまう。だらんと垂れた腕は畳の上で力なく伸びて、筆を握る気力すら失せている。
「失礼しますね、剛様」
聞き慣れた爽やかな声がした。おずおずと首を動かして顔を向けると、すうっと音がして、ゆっくりと開いた襖の向こうに膝を正した翡翠の姿を視認した。
「甘味でもいかがです? 今日は最中がありますよ」
「……ごめん、今はいいかな……」
漆器の盆の上には梅の形の小さなお菓子が乗っている。目を逸らしてぼんやりと壁を眺めていると、彼女は少年に寄って何も言わずそれを眼前に置いた。
「晶様との手合わせの事ですか? あんなの普通に無理ですよ。誰も勝てっこないです。見てましたけど……だから剛様が気落ちすることではないですよー」
「……そうだね」
一口齧れば艶々した餡子が溢れて、その甘ったるさが香ばしい生地の風味とよく合うのだろう。目の前の最中に視線を移してそんなことを考えながらも、食指は伸びない。
なんだかいじけているのを宥められているようで、みっともなくて情けなかった。彼はますます顔を上げるのが億劫になって、寝たふりをするように目を閉じた。
「……剛様、おーい剛様!」
「……な、なに……」
「はい!」
しつこく飛んでくる声に渋々顔を上げる。満面の笑みで翡翠が両の腕をこちらに向けているのを目にして、一歩遅れて意図を理解した。瞬間、恥ずかしさと惨めさが腹の底から込み上げて、剛は苦い顔をした。
「……僕もうそんな年じゃないよ」
「ん? 剛様から来ないのなら、こちらから行きますが」
「ひぃ……わ、分かったから……」
にじり寄られて情けない悲鳴が漏れてしまう。気が進まない様子で、彼は膝立ちになると翡翠に背を向け、そのまま後ろ向きに膝を摺って彼女の前にちょこんと座った。
「……後ろ向きなら……」
「はい、良い子ですねえ」
満足げな声色。ふわりと回した手に引き寄せられ、翡翠の腕の中に閉じ込められる。色々なものが身体に当たるのは、思春期には少々刺激が強いようで、少年は肩を竦めたまま身体を強張らせた。
「抱き締められると心拍数が下がって、緊張が和らいで落ち着くんですって」
そうかなあ……。ばくばくと心臓が大きく脈動するのが分かって、剛は内心で呟いた。着物に染み込んだ香の匂い、柔らかな肌から香る石鹸の匂い、触れている部分から感じる体温。彼女の言葉通り、次第に心音が大人しくなっていくのが分かった。
「剛様、また『兄上には何一つ敵わないー』とか思っているのでしょう?」
「……それは事実だから」
「どうして同じ物差しで見るんです。剛様にできて晶様に出来ないことだって沢山ありますよ」
「そんなのないよ。兄上は何でもできるから」
「じゃあ晶様のダメなところを具体的に申し上げますよ。あの人、必ず履物を揃えて上がらないでしょう? ほら今日の手合わせの時も、履物吹っ飛んでましたからね。あと他にも」
「ちょ、っと待ってもういいよ……他の人に聞かれたら怖いし……」
ぼそぼそとつぶやく少年の声に被せるように、頭の後ろから凛とした声が飛んでくる。なんとか言い返したと思えば、間髪入れずに言葉が返ってくる。終いには大きな声で兄の悪口を言い始めたので、少年はたまらず制止した。
「ていうかほら……武道だけじゃないよ。勉強だって、兄上に勝てた例がない」
「もー、どうして皆『勉強』と一括りにするんですか! 確かに晶様は書物に関するお勉強は素晴らしいですが、数字のお勉強は剛様の方が出来るんですよ」
「……そうなの?」
「そうです。だからそれを活かせば良い。戦いの中でも大いに役立ちますし、晶様の武や戦術の才能と組み合わされば、良い軍師にだってなれますよ」
呆れたような態度だが言葉は力強かった。褒められるとどきどきした。否定の言葉を紡いでも、彼女の肯定に遮られる。その言葉は本当に自分を認めてくれている様だった。
少年は翡翠が好きだった。好きな人が肯定してくれる言葉は、少年にそれを本当だと思わせる力があった。
「それに、剛様は絵が描けます」
「……絵は……描けても、別に意味がない。価値が無いことだよ」
「意味があるように、価値があるようにするんですよ。それを見た人が、価値を認めてしまうくらいにするんです。貴方にはその力がある」
そう言うと翡翠は剛を離して彼と向き合った。困ったような驚いたような少年の顔を真っ直ぐに見つめるその表情は期待や希望に満ちていて、少年が日頃向けられたことのないものだった。
「同じ場所ではなく、違う場所……自分に有利な場所で勝負するんですよ。今は誰も見ていなくても、そこで輝けばきっと認めてもらえるんです」
「自分の……輝ける場所……」
「何なら他にもあるでしょう? ほら、剛様がご自分で晶様より出来ると思うもの!」
「⁉ そ、そんなの」
「あります! 絞り出してください!」
眩しいくらいの光に気圧される。急に投げかけられた問いに、剛は戸惑って視線を彷徨わせた。目の前の期待に満ちた表情に焦っておろおろしてしまう。
少年は自分のことが嫌いだった。何も突出して優れた場所が無い自分が嫌だった。考えて考えて、思いついたが口に出すのが怖かった。傲り高ぶりではないかと心の声が囁いていた。
けれど、目の前の彼女はきっと肯定してくれるのだろうと思った。
「えっと……魚を食べる時、僕の方が綺麗に食べられる……多分」
「それは偉い!」
「……あ、と……僕気配が薄いから、奇襲とかは、兄上より上手いんじゃ、ないかな……」
恐る恐る口にすると、昂った様子の翡翠に正面から思い切り抱き締められた。気恥ずかしいからか、はたまた思い切って口にしたからか、大きく鳴る鼓動が彼女に伝わりそうで、一層煩く脈打っていた。
屋敷の扉が閉まる重たい音。父や兄との街の視察から戻ると、女中たちがわらわらと集まってきて、辺りは騒がしい音に包まれ始めた。
父と兄に集る人波をすり抜けて自室に戻ろうとすると、見慣れた人影を確認して思わず足取りが軽くなった。
「ただいま戻ったよ」
「お帰りなさいませ! あ、準備ばっちりできてますよ、お絵描きの」
「あ……今日は今から本を読もうかと思ってたけど……」
「あ、あれぇ……」
「……本を読んだら、絵を描こうかな……」
読み終えた本を片付けて絵筆を取る。今日は馬に乗ったので、馬を描きたい気分だ。少年が愛馬「朧夜号」を描いていると、装具を片していた翡翠が覗き込んできた。
「率直な疑問なのですが、剛様って人物画は描かないんですか」
「え、描くよ、たまに……人には見せないけど」
「ええっ、何を描かれるんですか⁉ 見せてくださいよー」
「見せないし……普通に人の絵だよ」
目を輝かせる翡翠に少年は苦笑してちらりと背後を確認した。人間を描いた絵は人に見せるのが恥ずかしかったので、棚の奥に厳重に隠していたのだ。
「じゃあ、私を描いて頂くこともできますかっ」
「え……うん、いいけど。多分似ないと思うよ……」
「わあ、やったあ!」
きらきらした瞳に見つめられては、断ることが出来なかった。剛は一瞬自分の答えを後悔したが、嬉しそうな彼女を前にするとすべて吹き飛んでしまった。
筆を置いて描き終えた絵を乾かして、新しい紙を用意する。ふと隣に目を遣ると、衣類の片付けと部屋の整頓を終えた翡翠がじっと座ってこちらを見ていた。さながらいい子にお座りしている忠犬だ。
「えっと……」
「あ、描いて頂くために、見てもらった方がいいかなと」
「……別に、見ないでも描けるから……そのままだと他の仕事出来ないでしょ」
それに、そんなにじっと見つめられたら絵を描くどころじゃない。呆れたように溜息を吐く。部屋を後にする彼女を見送って、一人きりになった部屋で彼は悩まし気に頭を抱えた。徐に木炭を手に取って描きつけるが、気に入らなくて投げ捨ててしまいたくなる。
自分の絵――特に人物画を見ていると、心の中でもう一人の自分が否定の声を浴びせてくるから嫌だった。
不自然で、人間の関節はそのように曲がらなくて、人間の身体はそんな構造ではない。陰鬱な感情が込み上げてくるのを、少年は何とか飲み込んだ。
(翡翠が認めてくれた事を、否定するのは嫌だ)
頬を思い切り引っ叩いて胸の中の罵声を掻き消す。両頬を真っ赤にして、剛は紙の上の人間と向き合った。鉛のように重かった右手を持ち上げる。眉間に皺を寄せながら、少年は線を引いた。
それからひと月分の夜が過ぎた。
少年は畳の上に四つん這いになっていた。目の前には鮮やかに彩られた絵があった。知らぬ間に呼吸が浅くなっていたようだ。大きく息を吸い込んで吐いて、彼は倒れ込むようにばたんと横になった。
「お、終わったあ」
ぐったりと伸びてうめき声を上げながら、固まった体を解す。一息ついた途端に、どっと疲れが噴き出したようで、身体が重くて動かない。
それもそのはずだ。鍛錬と勉強の合間を縫ってちまちまと描き進め、寝る前に少しと描き始めると夜半を過ぎても止められず、今日も既に丑二つを回っていた。
根を詰めていたせいか目をかっ開いていたようで、充血した目が痛い。ぎゅう、と目を抑えていた手を離すと、重たい身体を起こして再び描きあがったものの前に座り込んだ。
桜の降る中で箒を片手に舞う翡翠の姿。淡い光が黒橡色の髪を照らして琥珀色に見える。細めた目の間に緑色の瞳が煌めいている。少年は思わず横に引いていた口元を緩めた。
(うん、漸く……納得のいくのができた)
満足げに笑みを浮かべて、彼は欠伸をしながら伸びをした。達成感と高揚感から、不思議と目は冴えていた。ただ、暫く部屋に籠っていたからか何だか埃っぽくて、外の空気を吸おうと襖を開けた。
夏の気配が漸く消えて、心地良い涼やかな風が吹いている。夜空にはまん丸に近い月がぽっかりと浮かんでいて、色づき始めた紅葉を照らしていた。胸いっぱいに秋の匂いを吸い込んで、剛はゆったりと息を吐いた。
この時間でも女中たちは仕事をしているようで、遠くにぼんやりと薄明るい灯りが見える。それに、襖から少し灯りが漏れている部屋もある。ぐるぐるとあたりを見渡していると、不意に廊下の影から動く灯りが現れるのが見えて目を見開いた。
「……っあ! ひす……っ」
出かかった声を両手で抑え込む。真夜中に大声を出しては流石に怒られる。幸い誰にも聞こえていなかったようで、翡翠もまた気付いていない様子である。
彼女を見つけた瞬間、嬉しくて少年は胸を高鳴らせた。こんな時間に何をしているんだとか、そういった疑問は跳ねる心臓の音で聞こえてこなかった。
描けたんだ。出来上がったんだ。まだ乾いていないけれど……剛の心は昂っていた。早く伝えたくて、見せたくて堪らなかった。足音を立てないように彼女を追っている途中で、彼は気が付いた。
翡翠は立ち止まって膝をついた。何の為に?
(そこは父上の居間だけど)
襖の中へ消えた翡翠の姿に、先程と打って変わって剛の心臓は追い立てるような音で騒ぎ始めた。その意味を知らなければいけないような気がして、彼は何かに追いかけられているみたいに早足でそこへ向かった。
足音を立てず息を潜めて、出来る限り気配を消して。良くないことだと分かってはいたが、締め切られた襖に耳を立てると、向こうで父と翡翠の談笑する声が聞こえてきた。
「はい、今日も剛様はお稽古に加えて鍛錬をこなしておりましたよ」
いつも通りの彼女の声色だった。自分の話をされているのが気恥ずかしくて、顔が熱くなる。それに、父がわざわざ翡翠にそんな話を聞いているとは思わなかった。動揺する心を落ち着かせて、続きに耳を澄ませる。
「それは良きことだ。それで、今日は何を聞かせてくれるのか」
「今日のは絶対知りませんよ~。剛様が晶様よりご自分の方が優れていると辛うじて言えることは、『お魚を綺麗に食べられること』と『気配を上手く消せるから奇襲』と仰っておりました!」
思わず叫びそうになった。顔が熱くて熱くてこの場で暴れそうになる。出来ればそれは、父上には言わないでほしかったんだけど! その瞬間だけ夏に戻ったみたいに汗が出てくる。
翡翠は随分とご機嫌そうだった。彼女の自慢げな言葉に、父親が小さく笑う声が聞こえてくる。明日彼女に文句を言わなければ。そしてこちらも彼女の秘密を握ってやろう。耳をそばだてながら、少年は表情を歪めた。
「これは流石に知らなかったでしょう!」
「くく……そうだな、今日は私の負けだ。それで、今日は何が欲しい」
――えっ。
瞬間、何か外れてはいけないものが外れる音がした。先ほどの暑さが急に寒くなった。肌に滲んだ汗が冷えて冷たくなった。
「では、燐灰様のお子が欲しいです!」
どういうこと?
いつものような翡翠の声。理解できず――否、深く考えたくない心とは裏腹に、熱の冷めきった頭は冴えていて、二人の声がはっきりと聞こえてきた。
暗闇の中に一人取り残されていて、隔たりの向こうの二人と自分だけしか世界に存在していないような気がした。
「……はぁ、懲りないな……確かに、私は君に『世話役として剛の話を聞いて、私の知らない事を報告出来れば欲しいものを何でも与える』とは言ったが、そればかりは無理があっ痛っ」
「どうしてです? 私は納得のいく理由を聞くまで諦めませんからねっ」
「本当に君、脚癖が悪いな! 私を誰だと思ってるんだ……毎度言っているだろう? 正妻以外が帝の子を孕むと、物の怪が産まれてくるのだと」
「そんな嘘くさい御伽噺、ふんっ! まだ信じてるんですか!」
「痛っ……本当、君さ……今蹴ってる私の事なんだと思ってる……」
ドタバタと暴れるような音が聞こえてくる。襖の向こうの翡翠の声を聞きながら、少年の脳裏にはこれまでの彼女の姿が止め処なく過っていった。
自分の絵を描いて欲しいと目を輝かせたのも、抱き締めて励ましてくれた優しい声も、手加減せず将棋の相手をしてくれた自慢げな表情も――
「……何もかも分かりきった世界で、人の心という難解なものを教えてくださった、私に役割を与えて下さった、燐灰様は私の世界の煌めきなのです。だから……」
「それはもう何十回も聞いた。だが、私は良くても皆が許さんだろう。苦しいのは君と腹の子だぞ」
「それについては策を講じておりますとも! はい、計画書を作成しました。ご査収くださいませ」
「はいはい……後で読む」
絵を描いている時に隣でちょっかいをかけてくるいたずらっぽい笑顔も、桜の木の下で頭を撫でてくれた優しい手も、初めて僕に笑いかけてくれた時の微笑みも、全てその裏に父上がいたの?
頭に焼き付いた光景がじわりと痛み出す。焦がれた胸の中がずきずきする。夢の中にいるような心地がして、少年は感覚のない足を何とか動かしてその場から逃げ出した。
これまでの「翡翠」の顔は、言葉は、行動は、自分を想ってのことなどではなかったのだ。心を開かせて言葉を引き出して、父からの褒美を得る為の作業に過ぎなかったのだ。
不思議と涙は出なかった。潤っていた心が温度を失って干からびて、何も感じなくなるのが分かった。
とっくの昔から、少年が努力をすることも、誰かに見て欲しいと願うことも、意味が無かったのだ。
それからの少年の日々は、無感動で灰色のままただ過ぎていった。毎日同じように鍛錬を繰り返し、勉学に励み、兄との手合わせに負け、空いた時間に絵を描いた。
翡翠はそれからも変わりなかったが、いつだったか宮中の誰かと縁組し、身籠ったらしく仕事から少し離れることになった。
溶けた雪でぬかるむ地面が気持ち悪い。ふう、と吐いた息は白くなって消えていった。まだ寒さの残る二月の庭先、人目の付かない場所で少年は木刀を振り上げた。
目を閉じると、揺らめく長い髪が浮かんでくる。鋭くこちらを捉える瞳が見えてくる。暗闇の中で、彼は兄が向ける刃を受け流した。
一昨日のはこう動けば受け止められる。そして風の術を使ってくるだろうから、重心を落として。そして生まれた隙を突いて空いた胴に切り込む――どうせ兄はこんなもの簡単に防いでしまうだろうが。
少年には何も無かった。何をしても何の意味も無かった。誰も少年を見ていないし、別に誰も認めてはくれない。彼は姿勢を整えると、半歩前に出た右足にぐ、と力を入れた。
(こんなのどうせ、全部無駄なのに)
何を努力したって、どうせ誰も少年に関心なんか持ちやしない。だから何もしなければ良い。頑張らなければ良い。重心を乱さないように、姿勢を落として彼は頭の中の兄が目の前に迫るのをじっと待った。
分かっていた。諦めていた。そんなこと嫌になる程思い知らされていた、のに。少年は「頑張る」のを止めなかった。止められなかった。それは彼の生来の気質なのか――頑張る事を止めるのを許さなかった。
いっそ不真面目になれたら良かった。全てを投げ出してしまえたら良かった。それが出来たらどんなに楽だっただろうか。諦めているのに、期待なんかしていないのに勝手に頑張って、結局誰も見ていなくて憂鬱になる。結局、今までの過程を捨てて諦めると勇気もないのだ。
機が訪れた瞬間に地面を蹴って兄の死角に飛び込む。彼は兄が振り返る前に喉元に刃先を突き立てた。どうせ兄上が振り返る方が早くて、喉を突かれるのは自分の方だ。ずっしりと木刀が重たく感じる。大きく息をしながら、少年は虚ろな瞳で再び姿勢を整えた。
部屋に満ちる墨の香り。亥二つ時を少し回る頃、少年は書の写し書きを終えて筆を置いた。床に就くまで少し時間があるので、絵でも描こうかな。勉強の道具を片付けて、木炭と紙を取り出そうと引き出しを開けた。
「……あ」
鮮やかに彩られた黒橡色の髪の女と目が合って、彼は眉を顰める。ここを開ける度に、結局見せることの無かったこの絵と対面して複雑な気持ちになる。
手に取って眺めると、見事に描き上げられた色彩は卑屈な少年が思わず惚れ惚れするくらいだったが、それと同時に胸の中に痞えた不快感が主張してきて、彼の表情はどんよりと曇っている。
こんなに綺麗でも、上手く描けていても、何も意味が無かった。そう思うと腹の底からどす黒いものが込み上げてくる。紙を握る両手にぎゅっと力が入る――が、いつもそこまでだ。
こんなもの、ぐしゃぐしゃにしてしまえ、思い切り破り捨ててしまえ……一瞬沸騰して、すぐに正気に戻ってしまう。
もう二度とこんなに上手くは描けないだろうなあ。目の前のそれが愛しくて惜しくて、割り切れない自分が情けなくて、少年は重苦しい息を吐き出した。
「剛! 兄です、開けますよ」
「!」
予期せぬ声に意識を引き戻される。慌てて引き出しを閉めると、声の主は言い終わるのを待たずに勢いよく襖を開けた。長い髪を垂らした兄の顔は手に持った灯りに照らされて、まるで情人の下を訪れた乙女の様である。
「部屋で盛大に水を零してしまいまして。その始末が大変なのですよ」
「……それは災難なことですね」
「そう、災難なのです。それで今晩は剛のお部屋でご一緒させていただこうかと。構いませんね?」
「えっ」
躊躇いなく部屋に入ってきた兄に、有無を言わせない笑顔で迫られる。部屋の外では既に女中らが布団を運んで待っているようである。いつものように断る選択肢が無いことは分かっていた。
部屋には布団が二つ並んでいる。寝る前の予定を取りやめて、少年はいそいそと掛け布団の下に潜り込んだ。隣で髪の手入れを行っている兄をちらりと窺うと、気付かれる前に強く目を閉じる。話しかけられる前に眠ってしまいたい。
「ふふふ、今日は運が良い。剛と話がしたかったのですよ」
と思っている傍から嬉しそうな兄の声が聞こえてきて、少年は布団の中でげんなりした。枕の隣に置いた箱に髪を納め、兄が同様に床に就くのを確認して、彼は枕元の明かりを消そうと手を伸ばした。
「ああ待って。お話ししましょう、この兄と!」
「……はい」
伸ばした手を制止されて視線を移すと、兄が嬉しそうな目でこちらを見てきたので、嫌とは言えなかった。本当は出来るだけ距離を取りたいし、出来るだけ話さないでいたい。兄と話していると、少年は燻る劣等感を刺激されるのが嫌だった。
「剛は父上の政についてどう思いますか」
「え……と、どう……とは」
「正直なところ、私は父上の政は上手くはないと思うのですよ。街の様子を見ても思うでしょう」
そんな少年の内心などつゆ知らず、兄は横になると仄暗い天井を見つめながら話し始めた。静寂の中に兄のはきはきとした声が響く。いつもより何処か神妙で、落ち着いた声色だった。
「民が飢えているのに私たちが満たされていれば反感を買うでしょう。いずれ反乱でも起きますよ。それに対して父上は何もしないからいけないのです」
「……は、はあ」
「まずそもそも、外の国との関係を完全に断っているのが愚かですよ。お金が無いのであれば、戦をすれば良い。手に入れた土地から奪えば良い」
話半分に聞きながら、剛はぼんやりと天井の染みを数えていた。相も変わらず、この人は敵に回したくない。きっと合理的なんだろうが――そもそも兄は「命」というものの重さを考慮していない節があった。
邪魔なものは消せば良いし、足りないものがあれば奪って増やせば良い。こういう人が人の上に立つのであろう。そのように考える勇気すらない気弱な自分が惨めだった。
「私はこの国を強く豊かにしたい――否、私にはそれが出来ると思っています」
「……そうですね」
「そして、私がそれを成す時には、剛……心優しく聡明な貴方に隣にいて欲しいのですよ」
よくもまあつらつらと思ってもいない世辞を言えるものだ、この兄は。一層穏やかで甘く響く声は実に空虚で、胸の中に風が吹く心地がした。どうせ何も出来ない弟だと思っているだろうに、自分よりもずっと劣った役立たずだと分かっているだろうに。
少年は虚な瞳を兄に向けて薄く微笑んだ。望まれるような表情で、正しい言葉を紡ぎ出す。
「光栄です、兄上」
「その時が来るのが楽しみですね。それにしても父上はどうしたものか……ひと月後の祭りで何やら変わった儀式を行うそうですが。政でなく祭りで富を得ようとは、洒落か何かなんでしょうかね。ふふ……」
布団の中で身体を丸める。彼は一度目を閉じたが、一向に重くなる気配のない瞼に、再び薄く目を開いた。ずっしりと重たい掛け布団に覆われた暗闇の中、隣の兄の気持ちよさそうな寝息が良く聞こえる。
きっと変わらないのだろう、この先も。眠れない夜、少年の内心はいつものように重く暗かった。この先も、変わらずこのどうしようもない焦燥と虚脱感は続くのだろう。少年は終わりの見えない闇の中で、目を瞑った。
ずっとこんな日々が続くのだろうと思った。
その日は春の日差しが暖かく、穏やかな風の吹く日だった。庭の桜の蕾がぽつぽつと薄紅の花を開かせ始め、新たな季節の訪れを期待している様だった。
昼と夜が等しくなる春の日、正殿にて春祭りの賑わいを遠くに聴きながら、少年は座して神官のしわがれた祝詞にぼんやりと耳を傾けていた。
「冬越ヘ今年モコノ日ヲ迎フベカリキ」
春の祭祀は毎年八百万の神々に感謝を申し述べるものだった。子供にとっては退屈で、のどかな日差しも相まってうつらうつらしてしまうのだが、今日は何処か異様な空気が漂っていた。
「今日モ日昇リ沈ミテ夜ノ訪ルルハ杏窩楼子命ノ加護ノ御霊ナリ」
手のひらくらいの小さな鏡のようなものが、祭壇に祀られている。数か月前、父が昔から研究を続けていた「无」を作動させる祝詞を読み解いたと騒いでいたのを思い出す。
手を取り合う学者たち、泣いて喜ぶ母の姿。目を閉じて回想する。それを見ながら、少年はどこか冷めた気持ちだった。彼にとってそれはいまいち現実味の感じられない事だったからだ。
毎日神様に祈ったって、所詮験担ぎでしかないからこの国は何も変わらないのだろう。それに、神様が実在するなら、どうしてあの兄にこんな弟を作るだろうか。
「我等ガ魂ハ杏窩楼子命ニ預ク。肉ノ身ヲ放チ我等ヲ一ツニシ給ヘ」
しゃん、と涼しげな鈴の音が響くと、正殿は静まり返った。張り詰めた空気は、物音を立てることすら許さないような気がして、合掌する手に力が入る。
身体が揺れるのをぐっと堪える。呼吸の音すら煩く聞こえて息を潜める――いや、やけに静か過ぎないか。どのくらい経ったか、少年は遠くに聞こえていた祭囃子すら聞こえないことに気がついた。
十分。三十分。どれだけ時間が過ぎたのか分からなくなった。一向に顔を上げても良い気配がしないので、少年は固く閉じていた目を恐る恐る薄く開く――と同時にどたんと何かが倒れる音がして、彼は顔を上げた。
「……あれっ」
崩れるように倒れていたのは神官だった。なのに、誰一人としてそれを気に留めている様子がない。誰一人として、鈴の音の瞬間のまま動いていない。
まるで時間が止まっているようで、少年は止まった時間の中に取り残されているみたいだった。おかしい、これは普通ではない。漸く気が付いた彼は、怖くなって隣に座していた兄の顔を覗き込んだ。
「兄上……あ、あに……うえ……?」
その横顔はまるで蝋人形の様だった。生きたままついさっき、魂だけ抜き取られた様な。静寂に自分の切迫した息の音だけが響いている。微動だにしない兄の首筋にそっと指を当てた。
みんな息を潜めているんじゃない。息をしていないんだ。
「……や~っと成功した! 上手いこと成り代われたみたいだね」
静寂を破る幼い声に、少年は身体を強張らせた。横目で祭壇の方を見ると、宵闇のような黒い髪がゆらりと揺れるのが見えた。
すとん、と降り立った白い脚が、正殿の床を軋ませながら近づいてくる。四つん這いになったまま、金縛りにあったように身体が動かない。ゆらゆらと、よたよたと、痩せ細った脚が近づいてくる。少年の内心は困惑と恐怖で支配された。
「良かったね、君は神に選ばれたんだよ。素晴らしく光栄なことだよ」
眼前の漆黒の瞳に、少年の引き攣った表情が映り込む。血色の悪い青白い顔に覗き込まれて、彼は息が詰まりそうになった。
「嗚呼そうだ、名前……何にしようかな、まあ……『悪神』とでも呼ぶと良い」
烏よりも黒い髪がはらはらと顔に掛かって影を作っている。薄暗くて気味が悪いのに、恐ろしいくらいに顔が綺麗で、男なのか女のか分からない。未だに何も言えずにいると、肉付きの悪い腕が伸びてきて、少年は両頬を掴まれた。
「今、君以外の全部の命を貰ったんだけど、全然足りないんだ」
「……っえ」
「だから少年、君の仕事は僕の為に命を集めること。分かっ」
咄嗟に顔に触れている手を払い距離を取る。後退りながら、少年は自分の両頬を全力で叩いた。ぱん、という乾いた音と鋭い痛みで目が覚める。生存本能は彼に嘗てない力を絞り出させ、少年は物凄い勢いで正殿を飛び出した。
(こんなの夢だ、全部嘘だ)
森閑とした中庭には、砂を蹴る音だけが響いている。信じられなかった。信じたくなかった。訳も分からぬまま走り続けているうちに、足がもつれて顔から地面に叩きつけられた。
「……っぃ、風よ……っ」
激痛。砂利で擦れたこめかみがびりびりと傷む、が、すぐに起き上がる。小さく唱えると、風に背中を押されて一心不乱に足を動かした。
裸足で飛び出したせいか、足の裏も切れて血が出ているようで、じりじりと痛みが走る。これは夢ではない、これは嘘ではないのだと理解させられる。
何から逃げているのかも分からなかった。後ろを振り返ることも出来なかった。只死に物狂いで少年は門の外へ飛び出し、そして目を見開いた。
「‼」
ついさっきまで、そこには日常があったのだ。ついさっきまで、人々の賑やかな声と祭囃子で溢れていたのだ。
そこには、人も鳥も犬も鼠も無かった。等しく肉の塊となって溢れていた。等しく魂だけ抜き取られて横たわっていた。
少年は足が動かなくなった。何処にも逃げようのない、どうしようもない現実が目の前にあった。こめかみの傷から生温かい血が垂れてくる。足の裏や肘、膝が脈打つように痛い。もうどこにも逃げられない。
「おかあさんっ‼ おかあさあん‼」
「!」
静寂の中、つんざくような高い声が響き渡る。併せて、ぎゃあぎゃあと子供の泣き喚く声が遠くから聞こえてくる。
少年は体中が痛むのを抑えて、死体で溢れ返った町の中を走り出した。出来るだけ誰の事も踏まないように、ふらふらと泣き声の元まで駆け抜ける。
「おがあざあん‼ ねえ、おぎてよおっ‼」
母親らしき女性の傍らに、泣き叫ぶ少女が膝立ちになっていた。女性の背中には赤子が背負われており、二人の泣き喚く声が辺り一面に響いていた。少女は少年に気が付くと、怯えた顔で涙を浮かべ、また母親の死体を揺さぶって喚き始めた。
少年は生きている人間に出会えた歓びの反面、あまりに悲惨な状況に言葉が出なかった。少女は恐らく得体のしれない自分に恐怖を覚えたのだろう、震えている様子に迂闊に声を掛けられない。
「嗚呼、やはりとりこぼしがあったか。丁度良い、はい、やってくれる?」
耳元で囁くような声がした。振り返ると、無感情な漆黒の瞳がこちらを捉えていた。声にならない声を漏らしてその場から逃げ出そうとすると、足下で何かが爪先にぶつかった。
手に取ってみると短刀にしては刃が少し大きくて、銀色の刃は薄っすらと黒くて不思議な紋様が彫り込まれている。握ると柄がひんやりしていて――違う。
どうして僕はこれを手に取っているんだ?
「っ嫌だ! やめて! やめろ!」
咄嗟に剣を握った右手を押さえた瞬間、自分の意思に反してずるずると足が少女に向かい始めた。皮の剥けた足の裏が地面に擦り付けられ激痛が走る。それよりも、今起きようとしていることに少年は叫び声を上げた。
身体は少年の意思を無視して少女に歩み寄り続ける。逃げようと何とか足を引き摺るも、確実に近づいていく。彼が剣を握りしめた腕が上がるのを必死に押さえつけるので、悪神の温度のない表情は徐々に苛立ちの色を見せ始めた。
「ちょっと! 強情だな君は……! 無駄な抵抗なんかせず、身を委ねるんだよ。何が困るんだい君、こんな子供が死ぬくらいで」
「嫌だ、止まれ……っ! 僕はこんなことしない! したくない! ふっ……ん、ぐっ‼」
「な、うおっ」
痺れを切らした悪神が少年の腕に手を添えようとした刹那、彼は右手から剣を奪い取ると、振り上げたそれを自分の手の甲に思い切り振り下ろした。
「うっ、い、――っ‼」
「ちょ、おい君、何をやって……」
「ううう、ぐうううっ……‼ 僕はっ、やらないっ……! 誰がいくら、僕に変われと言っても……っ!」
肉を割いた刃が右掌を貫通する。目の前がちかちかするような、熱を帯びた痛みは電流のように脳に伝わって、全身の筋肉が弛緩しそうになるのをぐっと踏み留まる。
「僕がいくら、僕の事をっ、嫌いでも! う、ぐっ……僕は誰かの、何かのっ、命を奪うような人間には、なりたくないっ!」
一瞬緩んだ瞬間に、左手は突き刺さった剣を勢いよく引き抜いた。途端に傷口から真っ赤な血がどろどろと流れ出して地面を汚す。痛みと恐怖から、涙と脂汗で少年の顔はぐちゃぐちゃだった。
呆れたように絶句している悪神を他所に、少年の覚悟はとっくに決まっていた。鮮血を垂れ流している右手で強く剣を握り締めて高く掲げる。
その刃先を、自分の胸に向けた。
「そうなってしまうくらいなら、僕は……っ‼」
躊躇いは無かった。少年はぎゅっと目を瞑ると、自らの心臓目掛けて一直線に剣を振り下ろした――
「嗚呼、最悪。なんて面倒。本当つくづく無駄なことだけど、止むを得ないか」
――瞬間、まるで部屋の灯りが消えたみたいに、目の前が真っ暗になった。
「――あ」
少年は座り込んでいた。薄明るい空の下、風すら吹いていないからかやけに静かで、少年は二、三度瞬きをした。
何があったっけ。深く眠った後みたいに、思考が酷く霞んでいる。ここは何処だっけ。少年は辺りを見渡し、視線を落とした。
「え」
目の前に、ぐちゃぐちゃになった真っ赤な身体があった。見下ろすと、剣を握り締めた右手が袖の中まで赤く染まっていて、身につけていた着物が鮮やかな赤色で彩られていた。
その瞬間、全てを思い出した。狼狽えて剣を手放すと、静寂の中にカランと乾いた音が響く。喉が詰まる。思わず後退ると、左手に何かが纏わりついていた。
「出来るじゃない、よくやったね」
「……っ、ひ……⁉︎」
脳に直接響くような甘い声。背後から細い腕が首元に絡み付く。止まっていた思考が俄に回り出し、飲み込みたくない現実が流れ込んでくる。
「っ違う、僕は……何もしてない! 僕はやってない! こ、こんなの……! きっ君がやったんだろ‼」
「何が違うんだい、ほら。僕の何処が血で汚れている? 血塗れなのは君じゃあないか」
「そんな……そんな、わけ……はあっ、はぁっ、違う……っ、僕は何も……っ!」
「それに、ちゃんと覚えているだろう? 忘れたわけないだろう?」
両の目から溢れた大粒の涙が、頬の血飛沫を洗い流して落ちていく。耐えられず両手で目を覆おうとすると、左手からずるりと少女の手がずり落ちて、力なく地面に叩きつけられるのが見えた。
手首には、うっ血した赤黒い痣が残っている。それは少年の脳裏に、鮮明に響き渡る。
『やめて‼ まそちゃんは、やめてっ‼ 殺さないで、お願いします、おねがいっ‼ まそちゃんだけはっ、まそちゃんが! いやっ、いやあああああ』
『なんで、なんでなんでなんで‼ よくもっ……まそちゃんを‼ おまえ、お前おまえ! よくもよくもよくもよくも』
『許さない、ゆるさないぜったい、許さない! うううう、殺してやる‼ ころしてやる、ころしてころして、殺してやる! ゆるさない、よくも、よくも‼』
『許さないゆるさないゆるさない許さないゆるさないころしてやるころしてやる殺してやるころしてやる殺し』
肉を切る感覚があった。肉を抉る感覚があった。肉を何度も切り刻んで潰す感覚があった。
少女の憎悪に満ちた瞳を覚えていた。
「ぁ……! あ……!」
声にならない嗚咽が漏れる。両手で覆った顔に誰のものか分からない血液がべっとりと付着する。もうどうにもならない絶望に、少年は腹の底から込み上げたものを思い切り吐き出した。
「う、おぶっ、うゔ、う、ぶ、うぇえ……っ」
「うわっ……あーあー汚い……」
涙と吐瀉物が地面の血潮と混ざり合ってぐちゃぐちゃになる。止める術も分からないまま、ただ只管自分の中から溢れるものを垂れ流す。
どうしてこんな目に? どうして、僕だけがこんなことに? 誰かに助けてほしかった。けれどもう誰も、ここにはいなかった。夢でも嘘でもなくて、皆同じ肉塊になって、僕が人を殺した事実だけがそこにあった。
少年の目の前は真っ暗になった。暗闇の中に閉じ込められて、何も見えなくなった。
「はあ、漸く『成った』か……無駄な手間がかかってしまった。嗚呼、うっかり結構術を使ってしまった……」
それは少年の心を守る為の、見たくないものを見せない為の、防衛本能だったのだろう。光の届かない闇の中で、少年の自我はすっかり塗り潰されていった。
そうして漸く、涙が乾いた。光も色彩も失った灰色の瞳を覗き込んで、悪神の両手が彼の顔を捕える。色の薄い唇で少年の虚ろに少し空いた唇に口づけると、目を細めて満足そうに微笑んだ。
「この世で一番美しいものを見せてあげる。だから君はその為に、五〇〇の魂を集めるんだよ」
少年はもう何も思い出せなくなった。
それから少年は、殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺した。
子供を殺した。赤子を殺した。少女を殺した。青年を殺した。中年の男を殺した。老婆を殺した。平等に殺した。分け隔て無く殺した。
少年の頭と心は既に壊れていたので、少年はそれに対して何の感情も抱かなかった。少年は身体が壊れるまで殺して殺して殺して殺して殺し続けた。殺して殺して殺して殺して殺して――いったい何処まで走り続ければ良いのだろうと思った。
肉体にナイフを突き立てる度、喉を切りつける度、心臓を貫く度、塗り潰された暗闇の下で少年は心を何度もずたずたに引き裂いた。押し込められた心は、何処にも届かない悲鳴を上げた。それでも、どうやったって足は止まらなかった。
少年は走って走って走って走って、走り続けた。殺して殺して、走り続けた。
青年は走って走って走って走って、走って、跳んで、転んで――
「見せてよ、キミの色を! 素敵なその色を!」
――ああ、そうだ。やっと辿り着いたんだ。
それは光だった。
あまりにも優しくて、泣きそうなくらいに暖かくて。まるでそれはずっと欲しくて欲しくて堪らなかったみたいに、幸せな温もりだった。
ああ、やっとここに来られたんだ。
「――アルマ、ほんとに大丈夫……? あ、アルマ?」
か細い声が降ってくる。頭の上で、アレキサンドラが眉を下げて心配そうにこちらを見下ろしていた。その隣では、真似るように黒猫がちょこんと座って、プリムローズイエローの瞳でじっと見つめてくる。アルマは何度かゆっくり瞬きをして、肘を立てて上体を起こした。
頭はもう痛くなかった。胸に手を当てると、心音はすっかり落ち着いている。抜け落ちて欠けていたものが満たされたような充足感に、青年は目を細めた。
「起きて大丈夫?」
「ああ、もう痛くない」
「そっか。でもちょっとゆっくり座ってて! お茶淹れるね」
「……アレキ、その前に。思い出したんだ、全部」
ソファから降りて立ち上がった少女を引き留めるアルマの表情は、いつもより柔らかかった。その声色はいつもより穏やかで、彼女の表情は戸惑ったように固くなる。
胸の中で溢れる暖かな感情に、青年は愛おしげに目を閉じる。ソファに腰掛けたまま両膝に手を添えると、赤い瞳を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「俺の名前は、ゴウ・ホウジョウインという。カホルノ国の、ええと……こちらで言う第二皇子、だった」
「……? ちょっと待って、えっと……カホル、ノ……」
「五年前に『エラ』を起動させて、国民全員が命を奪われ無くなった国だよ」
「ええ……っと、待って……えと、あっ、そう……聞いたことが……」
少女は机の本の山から新しい地理書を引っ張り出した。ぱらぱらとページを捲り見つけ出した記述に、そういえば覚えがあった。
外との交流を完全に閉ざしたある国に偶然漂着した者によると、そこでは皆々一人残らず眠るように死んでいたという。まるで日常がいきなり歯車を止めたみたいに、そのまま残っていたのだと、王になる前にセレスが言っていたのを思い出した。
本を凝視しながら暫くぐるぐると考えて、アレキサンドラは目の前のアルマに視線を移す。そして硬直した表情のままゆっくりと後退り、その場に跪いた。
「……? あ……の、もしかしたら、ボクは……大変な無礼を……? お許し……? くだ、さ……い?」
「いや、なんでそうなるんだよ。俺が何だったとしても、変わらないんじゃなかったのか」
「あ、ああ……そう……」
少女は混乱気味子で、目を泳がせながらあちこち見渡して、また何かを考えているようだ。それを眺めながら、青年は何かを察して呆れたように苦笑した。
「……別に俺も、何も変わってない。ほら」
「あ……」
「おいで」
柔らかくて優しい声。両手を広げられて、彼女の固まっていた表情がじわじわと緩む。何かむず痒そうに口元をもごもごさせながら、その声に従って彼の胸に抱きついた。
「……ある、ま……あ、名前……」
「アルマでいいよ。俺はアレキがくれた名前がいい」
「……アルマ……その、帰りたくなったり……しないかなって」
目を覚ましたアルマを見て、急に怖くなった。彼の瞳が一段と澄んできらきらしていて、何かが変わってしまったと思ったからだ。自分が変わらなくても、アルマが全て思い出して変わってしまったら、ここ以外に彼の居るべき場所があるのではないかと思ったからだ。
青年はそれを全部分かっていた。それが呆れるくらいに愛おしかった。本当は、何があったって気持ちを変えられないのは、きっと自分の方なのに。
「昔なんかろくな事が無かったって前に言っただろ」
「うん……」
「それに、昔がどんなに良い思い出だったとして、来なくなる理由にはならないし」
「……ふふ、そっか……」
「というか、昔の話聞きたいんじゃなかったのか?」
様子を窺うように上目遣いで見上げる少女を、いつものように抱き締めて頭を撫でる。自分でもびっくりするくらい真っ直ぐな言葉が溢れてしまうのが、不思議と嫌ではなかった。
少女は大きな目をぱちくりとさせる。言葉を掛ける度、アレキサンドラの鼓動が一段と大きく鳴るのが伝わってきた。嬉しくて嬉しくて表情が緩む。いつもみたいに、幸福で溶けてしまいそうに目を細める。
「……うん! アルマのこと全部知りたいから!」
「いいよ、このまま話そうか」
「……なんかさ、やっぱりアルマ変わったよ。なんか……ふわふわしてる感じ」
「それは……前の方が良かったってことか」
「ううん、もっと好きになった! へへ、アルマ大好き! アルマっ、アルマ!」
腕の中からぐ、と身を乗り出す少女は、すっかり調子を取り戻した。響きを確かめるように何度も何度も青年の名前を呼んで、満足げに笑みを浮かべる。
彼女がぶつけてくる感情から、青年はもう逃げ出さない。胃がもたれそうなくらいの沢山の愛の言葉を受け入れながら、アルマは穏やかに「そうか」と呟いた。
「あ、でも『ゴウ』ってのも呼んでみたい。いい?」
「別にいいけど」
「ふふふ、ゴウ……」
「……なんだ」
くすぐったくて、胸が一杯になる。焦げ付くような苦しさはもう無かった。落ち着いたテンポを刻む心音が心地良い。
彼女の好意も自分の恋も過去も弱さも罪も全部認めて受け入れて飲み込んで――必要だったのは、こんな少しの勇気だったんだ。一歩踏み出す勇気があれば、こんなにも心が満たされたんだ。
「……そういえば、チェス……」
「……あ! 途中だった! 忘れてた忘れてた」
「じゃあ、話すのは終わってからにするか」
「うん! よーし、さくっと勝ってアルマの話だ」
思い出したように身体を離すと、アレキサンドラは青年の膝から降りて、終盤に差し掛かった盤へ駆け出す。いそいそと椅子に腰掛けると、後を追いかける子猫が彼女の膝の上に飛び乗った。
「早くっ、早く続きやろ! アルマ!」
ソファから腰を上げると、準備万端とばかりに目を輝かせている少女が椅子の上でぴょこぴょこと跳ねている。思わず漏れた溜息交じりの笑い声は、幸福の音色がした。
「それじゃ、なかなか話が出来ないくらい持ち堪えないとな」
青年はそう言って、椅子に腰掛け彼女と向かい合う。薄い表情に心からの愛慕を込めて、少女の満面の笑顔に笑みを返した。
青年には弱さがあった。罪があった。嫌な記憶があった。それを、愛しい人が認めて受け入れてくれたように、自分もすべてを飲み込んだ。
青年は幸せだった。
きっと期限付きのこの幸福を、今はもう少し彼女と共に抱き締めていたいと思った。
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