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第39話 記録者の休息
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風が優しく吹き抜ける。
その風は冷たくはなかった。むしろ、世界がようやく落ちついたことを告げる、穏やかな風だった。
エリアスは広い草原にいた。
足元には淡い色の花々が咲き、低い丘の向こうに街の灯りが見える。空は金色に染まり、雲はゆっくりと流れていた。
ルミナの光が肩に寄り添っている。彼女は人の形ではなく、小さな羽根のような光粒になっていた。
『……ここに来るのも、久しぶりね。』
「ああ。」
エリアスは草を払い、腰を下ろした。
「この丘、覚えてるか? 昔、まだ神々がいた時代に、俺たちが最後の戦を終えた夜に見た空と同じだ。」
『ええ。あの時は酷かったけれど、今は静かね。』
「やっと、だな。あれから随分と経った気がする。平和になったとはいえ、まだ各地で争いは絶えないけど、それでも……人は生きてる。」
彼は空を仰いだ。
空には小さな星が瞬き、太陽の沈む場所に、何本もの光の筋が伸びている。まるで星の筆記のように、誰かが空に線を描いているようだった。
『世界は、まだ書かれ続けてる。あなたが手放した創世筆の名残が、風と共に流れているのね。』
「――書かれることに、もう抵抗はないさ。
俺が筆を持たなくても、世界は誰かの手によって綴られる。それがきっと、“生きる”ってことだ。
記録され、忘れられ、また思い出される。その繰り返しが、人の証になる。」
エリアスの視線が街の方へ向く。
広場には灯りがともり、人々が音楽を奏で、語り合っていた。
小さな子供が星の花を抱え、駆け回る姿も見える。彼にとって、それが何よりの救いだった。
「なあ、ルミナ。俺たちはあれだけ戦って、崩して、創って……それでも結局、最初からやり直してるようなもんだよな。」
『そうね。けれど、それは悪いことじゃない。終わりがないということは、希望も終わらないということよ。』
「……結局、俺はお前にそう言ってもらいたかったのかもしれない。」
ルミナの光がふっと増し、夜風に揺れる花に溶け込むように漂った。
『あなたが歩いてきた道は、もう“記録”に変わった。
でも、もしあなたが望むなら、また“物語”として歩き出せる。』
「さあな、しばらくは旅はお休みだ。」
エリアスは笑いながら、身体を横たえた。柔らかな草が彼の背を支え、風が髪をなでた。
『休むのはいいけれど、あなただけが止まったら、この世界がちょっと退屈になるわ。』
「その時は、他の誰かが動くだろう。俺が止まるなら、それも一つの物語だ。」
ルミナは小さく呟いた。
『あなたの心はいつも変わらないのね。神の力を得ても、人であることを選び続ける。
本当に、不思議な人。』
「人間は不完全だからな。でもだからこそ、完璧よりも面白い。」
二人の間に沈黙が落ちた。
ルミナは少し黙って、その光を弱める。やがて、穏やかな声で言った。
『ねえ、エリアス。あなたはこの世界に何を望む? もう一度、新たな記述をするなら、何を残す?』
エリアスは目を閉じ、風の音を聴いた。
街の喧騒が遠く、波のように流れてくる。
思い出すのは、これまで出会ってきた仲間たちだった。
リオの笑い声、ミリアの真剣な瞳、レオナの強さ、そしてセレナの祈り。
「みんなが、それぞれの生を生きられる世界。
神でも勇者でもないただの人間として、笑ったり、悩んだり、間違えても前に進める世界。それだけでいい。」
『それがあなたの最後の記述なら、私はその一文を光に変えるわ。』
ルミナの声が、優しく夜を包んだ。
『あの塔で初めて出会った時、あなたは“運命を書き換える勇者”だった。
けれど今は、“世界を受け止める記録者”になった。
私は、その記録をこの空に残す。』
空に、流星がひとつ走った。
続けて、もうひとつ、ふたつ。やがて夜空は星の雨で満たされる。
その光景は、かつての神々の栄華よりも美しかった。
エリアスは微笑みながら呟く。
「世界ってのは、本当に書き尽くせないな。」
『だからこそ、物語があるの。誰かが書き続ける限り、終わりは訪れない。』
「そうだな。」
彼はゆっくりと目を閉じた。
* * *
翌朝。
エリアスは丘を下り、街へ向かう。
新しい王都では、今日から“無名祭”が始まる日だった。
名もなき人々――英雄でも神でもない、ただ日々を生きる者たちを称える祭。
広場には人々の歌声が響いていた。
子どもたちが描いた絵が飾られ、老人たちは新しい詩を読み上げる。
どれも不器用で、時に歪んでいたが、その全てが息づいていた。
ルミナが問いかける。
『この景色、どう思う?』
「……最高だよ。俺が見たかったのは、人が“祈らないで”笑える世界だ。」
『それができてよかったわね。』
「いや、これで終わりじゃないさ。」
彼は広場の片隅に腰を下ろし、筆を手に取った。
小さな紙に、子どもたちの笑い声を聞きながら言葉を綴る。
――“もし世界が迷うなら、この声を聴け。
手ではなく、心で繋いだ祈りがここにある。”
彼は筆を置き、ルミナを見上げた。
「もう俺の出番はない。これでいいさ。」
『そうね。あなたがいなくても、世界は動く。
でも、あなたがいたという痕跡を、風は覚えている。』
「だったらそれで十分だ。」
陽が傾き、影が長く伸びる。
祭の喧騒の中、エリアスは立ち上がり、歩き出した。
彼の背に、子どもの声が届く。
「おじさん! 何か書いたの?!」
「少しだけな。」
「読んでもいい?」
「それはね……読むより、自分で続き書いたほうが楽しいぞ。」
少年が不思議そうに首をかしげる。
ルミナが笑った。
『あなたらしい別れの言葉ね。』
エリアスは空を見上げた。
そこにはもう、神々の残した印も、血塗られた戦もない。
ただ、風と雲と陽の光が、永遠の動きを続けていた。
「ルミナ。」
『なに?』
「もし次の時代で、また誰かが物語を始めたら――俺たちのこと、ほんの少しでも残ってたらいいな。」
『残るわ。言葉は消えない。あなたが“人の記録者”であった限り。』
彼は笑う。
「そうか。それで十分だ。」
風が吹き抜け、草花が揺れる。
空の彼方に、一瞬だけ光が走る。
それは、新しい時代の第一行を告げる光だった。
エリアス・グランベル――
かつて神を殺し、世界を救った男は今、ただの旅人として歩いている。
物語はまだ終わらない。
だが、誰の手でも、この世界の続きを記せるようになった。
そのことこそが、彼の“最後の記録”だった。
その風は冷たくはなかった。むしろ、世界がようやく落ちついたことを告げる、穏やかな風だった。
エリアスは広い草原にいた。
足元には淡い色の花々が咲き、低い丘の向こうに街の灯りが見える。空は金色に染まり、雲はゆっくりと流れていた。
ルミナの光が肩に寄り添っている。彼女は人の形ではなく、小さな羽根のような光粒になっていた。
『……ここに来るのも、久しぶりね。』
「ああ。」
エリアスは草を払い、腰を下ろした。
「この丘、覚えてるか? 昔、まだ神々がいた時代に、俺たちが最後の戦を終えた夜に見た空と同じだ。」
『ええ。あの時は酷かったけれど、今は静かね。』
「やっと、だな。あれから随分と経った気がする。平和になったとはいえ、まだ各地で争いは絶えないけど、それでも……人は生きてる。」
彼は空を仰いだ。
空には小さな星が瞬き、太陽の沈む場所に、何本もの光の筋が伸びている。まるで星の筆記のように、誰かが空に線を描いているようだった。
『世界は、まだ書かれ続けてる。あなたが手放した創世筆の名残が、風と共に流れているのね。』
「――書かれることに、もう抵抗はないさ。
俺が筆を持たなくても、世界は誰かの手によって綴られる。それがきっと、“生きる”ってことだ。
記録され、忘れられ、また思い出される。その繰り返しが、人の証になる。」
エリアスの視線が街の方へ向く。
広場には灯りがともり、人々が音楽を奏で、語り合っていた。
小さな子供が星の花を抱え、駆け回る姿も見える。彼にとって、それが何よりの救いだった。
「なあ、ルミナ。俺たちはあれだけ戦って、崩して、創って……それでも結局、最初からやり直してるようなもんだよな。」
『そうね。けれど、それは悪いことじゃない。終わりがないということは、希望も終わらないということよ。』
「……結局、俺はお前にそう言ってもらいたかったのかもしれない。」
ルミナの光がふっと増し、夜風に揺れる花に溶け込むように漂った。
『あなたが歩いてきた道は、もう“記録”に変わった。
でも、もしあなたが望むなら、また“物語”として歩き出せる。』
「さあな、しばらくは旅はお休みだ。」
エリアスは笑いながら、身体を横たえた。柔らかな草が彼の背を支え、風が髪をなでた。
『休むのはいいけれど、あなただけが止まったら、この世界がちょっと退屈になるわ。』
「その時は、他の誰かが動くだろう。俺が止まるなら、それも一つの物語だ。」
ルミナは小さく呟いた。
『あなたの心はいつも変わらないのね。神の力を得ても、人であることを選び続ける。
本当に、不思議な人。』
「人間は不完全だからな。でもだからこそ、完璧よりも面白い。」
二人の間に沈黙が落ちた。
ルミナは少し黙って、その光を弱める。やがて、穏やかな声で言った。
『ねえ、エリアス。あなたはこの世界に何を望む? もう一度、新たな記述をするなら、何を残す?』
エリアスは目を閉じ、風の音を聴いた。
街の喧騒が遠く、波のように流れてくる。
思い出すのは、これまで出会ってきた仲間たちだった。
リオの笑い声、ミリアの真剣な瞳、レオナの強さ、そしてセレナの祈り。
「みんなが、それぞれの生を生きられる世界。
神でも勇者でもないただの人間として、笑ったり、悩んだり、間違えても前に進める世界。それだけでいい。」
『それがあなたの最後の記述なら、私はその一文を光に変えるわ。』
ルミナの声が、優しく夜を包んだ。
『あの塔で初めて出会った時、あなたは“運命を書き換える勇者”だった。
けれど今は、“世界を受け止める記録者”になった。
私は、その記録をこの空に残す。』
空に、流星がひとつ走った。
続けて、もうひとつ、ふたつ。やがて夜空は星の雨で満たされる。
その光景は、かつての神々の栄華よりも美しかった。
エリアスは微笑みながら呟く。
「世界ってのは、本当に書き尽くせないな。」
『だからこそ、物語があるの。誰かが書き続ける限り、終わりは訪れない。』
「そうだな。」
彼はゆっくりと目を閉じた。
* * *
翌朝。
エリアスは丘を下り、街へ向かう。
新しい王都では、今日から“無名祭”が始まる日だった。
名もなき人々――英雄でも神でもない、ただ日々を生きる者たちを称える祭。
広場には人々の歌声が響いていた。
子どもたちが描いた絵が飾られ、老人たちは新しい詩を読み上げる。
どれも不器用で、時に歪んでいたが、その全てが息づいていた。
ルミナが問いかける。
『この景色、どう思う?』
「……最高だよ。俺が見たかったのは、人が“祈らないで”笑える世界だ。」
『それができてよかったわね。』
「いや、これで終わりじゃないさ。」
彼は広場の片隅に腰を下ろし、筆を手に取った。
小さな紙に、子どもたちの笑い声を聞きながら言葉を綴る。
――“もし世界が迷うなら、この声を聴け。
手ではなく、心で繋いだ祈りがここにある。”
彼は筆を置き、ルミナを見上げた。
「もう俺の出番はない。これでいいさ。」
『そうね。あなたがいなくても、世界は動く。
でも、あなたがいたという痕跡を、風は覚えている。』
「だったらそれで十分だ。」
陽が傾き、影が長く伸びる。
祭の喧騒の中、エリアスは立ち上がり、歩き出した。
彼の背に、子どもの声が届く。
「おじさん! 何か書いたの?!」
「少しだけな。」
「読んでもいい?」
「それはね……読むより、自分で続き書いたほうが楽しいぞ。」
少年が不思議そうに首をかしげる。
ルミナが笑った。
『あなたらしい別れの言葉ね。』
エリアスは空を見上げた。
そこにはもう、神々の残した印も、血塗られた戦もない。
ただ、風と雲と陽の光が、永遠の動きを続けていた。
「ルミナ。」
『なに?』
「もし次の時代で、また誰かが物語を始めたら――俺たちのこと、ほんの少しでも残ってたらいいな。」
『残るわ。言葉は消えない。あなたが“人の記録者”であった限り。』
彼は笑う。
「そうか。それで十分だ。」
風が吹き抜け、草花が揺れる。
空の彼方に、一瞬だけ光が走る。
それは、新しい時代の第一行を告げる光だった。
エリアス・グランベル――
かつて神を殺し、世界を救った男は今、ただの旅人として歩いている。
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