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第3話 極寒の地への追放と、白い死神
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王都を出てから、三日が過ぎた。
窓の外を流れる景色は、次第に緑を失い、荒涼とした冬枯れの平原へと変わっていた。
空は鉛色に重く垂れ込め、太陽は分厚い雲の向こうに隠れてしまっている。
時折、風が唸りを上げて馬車を揺らすたび、私は身をすくませた。
けれど、馬車の中は驚くほど快適だった。
最高級の魔導具が組み込まれているらしく、外の寒気が嘘のように室内は春のような温かさに保たれている。
ふかふかの座席、肌触りの良い毛布。
そして何より、目の前に座るアレクセイ様の存在が、不思議な安心感を与えてくれていた。
「顔色が少し良くなったな」
アレクセイ様が、読みかけていた書物から顔を上げて私を見た。
その視線に、私は背筋を伸ばして頷いた。
「はい。おかげさまで……。温かい食事と睡眠のおかげです」
この三日間、アレクセイ様は私をまるで壊れ物のように扱った。
食事の時間になれば、携帯食料とは思えないほど美味しいスープやパンを用意し、私が完食するまでじっと見守るのだ。
王都にいた頃、私は聖女としての務めと、義母やソフィアからの嫌がらせで、まともな食事を摂れる日は少なかった。
残飯のような冷めたスープや、カビの生えかけたパンが日常だった私にとって、湯気の立つ柔らかいパンは涙が出るほどのご馳走だった。
「遠慮するな。お前は痩せすぎている。風が吹けば飛びそうだ」
「うっ……努力します」
アレクセイ様は呆れたように肩をすくめると、サイドテーブルの引き出しから小さな包みを取り出した。
「これを食え」
「これは……?」
「クッキーだ。王都の店で買ったものだが、甘いものは気休めになるだろう」
差し出されたのは、可愛らしい花の形をした焼き菓子だった。
バターの甘い香りがふわりと漂う。
王都の貴族令嬢たちが好んで食べる高級菓子だ。まさか、「氷の死神」と呼ばれる公爵様がこんな可愛らしいものを持っているなんて。
「ありがとうございます、いただきます」
口に入れると、サクッという音とともに、優しい甘さが広がった。
美味しい。
思わず頬が緩んでしまう。
ふと顔を上げると、アレクセイ様がじっと私を見つめていた。
その瞳が、ほんの少しだけ和らいでいるように見えたのは、私の見間違いだろうか。
「……笑うと、そうなるのか」
「え?」
「いや。なんでもない」
彼は咳払いを一つして、再び書物に視線を落とした。
長い銀髪がさらりと揺れる。
黙っていれば、彼は物語に出てくる王子様以上に整った容姿をしている。
けれど、漂わせる空気が鋭利な刃物のように鋭く、近寄りがたい。
王都の貴族たちが彼を恐れるのも無理はない。
でも、私は知ってしまった。
この人が、行き倒れの私に自分のコートを掛けてくれるような、不器用な優しさを持つ人だということを。
「そろそろだ」
ふいに、アレクセイ様が本を閉じた。
馬車の速度が落ちていく。
「そろそろ、とは……?」
「国境の関所だ。ここから先が、私の領地『ノースエンド』になる」
ノースエンド。北の果て。
王国の最北端に位置し、未開の地「極北の魔境」と接する防衛の要。
一年中雪と氷に閉ざされ、凶暴な魔物が徘徊する、人の住めない土地だと聞かされている。
窓の外を見ると、景色は一変していた。
地面は完全に雪に覆われ、木々は氷柱をまとって立ち枯れている。
そして何より異様なのは、空の色だった。
どんよりとした曇り空ではなく、どこか紫がかった不気味な薄暗さが世界を包んでいる。
空気そのものが重く、ピリピリとした緊張感を孕んでいた。
「空気が……痛いですね」
「魔素が濃いからだ。魔境から漏れ出す瘴気の影響で、この辺りの環境は歪んでいる。弱い人間なら、立っているだけで気を失うだろう」
アレクセイ様の言葉に、私は自分の身体を確認した。
不思議と、気分は悪くない。むしろ、王都にいた時よりも身体が軽い気さえする。
王都の淀んだ空気――あそこには人間の悪意が渦巻いていたからかもしれないけれど――よりも、こちらの厳しい自然のほうが、私には合っているのかもしれない。
馬車が停止した。
関所の衛兵らしき男たちの声が聞こえる。
「閣下! お戻りになられましたか!」
「ご無事で何よりです!」
ドアが開くと、冷気とともに数人の騎士たちが駆け寄ってきた。
彼らの装備は傷だらけで、過酷な戦いをくぐり抜けてきた歴戦の猛者たちであることがわかる。
アレクセイ様は馬車を降りると、彼らに短く指示を出した。
「状況はどうだ」
「はっ! ここ数日、魔物の活性化が著しく……『スノーイーター』の群れが頻繁に出没しております!」
「スノーイーターか。小賢しい奴らだ」
アレクセイ様は眉一つ動かさずに頷くと、馬車の中にいる私に声をかけた。
「少し揺れるかもしれないが、外には出るなよ。じきに城に着く」
「はい」
再び馬車が動き出す。
関所の門をくぐると、そこはもう完全に別世界だった。
雪の深さが違う。風の音が違う。
まるで世界そのものが、人間という異物を排除しようと牙を剥いているようだ。
その時だった。
ガアアアアアッ!!
耳をつんざくような咆哮が響き渡り、馬車が激しく衝撃を受けた。
馬がいななき、御者が叫び声を上げる。
「閣下! 出ました! 群れです!」
私は窓に張り付いて外を見た。
白い雪原を、黒い影が疾走してくる。
狼のような姿をしているが、大きさは馬ほどもある。
その目は血のように赤く輝き、口からは鋭い牙が覗いている。
スノーイーター。
雪を食らい、人を襲う北の魔獣。
その数は十、いや二十はいるだろうか。
「ひっ……!」
恐怖で声が漏れる。
あんな恐ろしい怪物の群れに囲まれたら、ひとたびも無い。
王都の騎士団でさえ、一体倒すのに苦労すると言われている魔物だ。
けれど、アレクセイ様は平然としていた。
優雅な動作で立ち上がると、コートを翻してドアを開ける。
「待っていてくれ。すぐに片付ける」
まるで「ちょっと散歩に行ってくる」とでも言うような気軽さだった。
彼は吹雪の中へと降り立った。
「あ、危ないです!」
思わず叫んだ私の声は、風にかき消された。
スノーイーターの群れが、獲物を見つけた歓喜の声を上げてアレクセイ様に殺到する。
鋭い爪が、牙が、彼を引き裂こうと迫る。
終わった、と思った。
私は目を背けようとした。
けれど、次の瞬間、視界を埋め尽くしたのは鮮血ではなく――蒼白く輝く、美しい光だった。
「――凍れ」
低く、静かな声が響いた。
ただそれだけ。
呪文の詠唱も、杖を振る動作もない。
アレクセイ様が軽く右手をかざした瞬間、世界が停止した。
パキパキパキパキッ!
空気が凍結する音が連鎖する。
襲いかかっていたスノーイーターたちが、空中で動きを止めた。
いや、止められたのではない。
彼らの身体が、一瞬にして巨大な氷の結晶の中に閉じ込められたのだ。
一匹、二匹ではない。
群れのすべてが、瞬きの間に氷の彫像へと変えられていた。
襲いかかる姿勢のまま、牙を剥いたまま、彼らは永遠に動かない氷塊となった。
「な……」
私は言葉を失い、窓にへばりついてその光景を見つめた。
圧倒的だった。
美しい、とさえ思った。
荒れ狂う吹雪の中で、ただ一人佇む銀髪の公爵。
その周囲には、ダイヤモンドダストのようにきらきらと輝く氷の欠片が舞っている。
スノーイーターたちの氷像は、まるで芸術品のように太陽の光(雲間からわずかに漏れた光)を反射していた。
これが、「氷の死神」の力。
王都でソフィアが見せた、あのパチパチと弾けるだけの花火のような魔法とは、次元が違う。
これは魔法というより、天候そのものを操る神の御業に近い。
アレクセイ様は、氷像となった魔物たちを一瞥もしなかった。
邪魔な小石を退けただけと言わんばかりに、踵を返して馬車に戻ってくる。
ドアが開き、冷気と共に彼が入ってきた。
髪に少しだけ雪がついている。
彼は何事もなかったかのように席に座り、私を見た。
「怖がらせたか?」
その問いに、私は首を横に振った。
恐怖はなかった。
あったのは、畏怖と、そしてなぜか胸の奥が熱くなるような高揚感。
「いいえ……すごく、綺麗でした」
「……綺麗?」
アレクセイ様が目を丸くした。
予想外の答えだったらしい。
「はい。氷が宝石みたいで……それに、あなたが守ってくださったので、ちっとも怖くありませんでした」
私が正直な感想を述べると、アレクセイ様は口元を手で覆い、ふいっと顔を背けた。
耳の先が、ほんのりと赤くなっているように見える。
「……変わった奴だ。私の魔法を見て、綺麗だと言ったのはお前が初めてだ」
「そうですか? 王都の花火よりも、ずっと素敵でしたけれど」
「王都の連中は、これを『死を呼ぶ力』だと恐れる。……まあ、お前が怖くないなら、それでいい」
彼はぶっきらぼうにそう言うと、再び水筒のホットワインを勧めてくれた。
その手つきは、先ほどの圧倒的な破壊力を見せたものと同じとは信じられないほど、穏やかだった。
馬車は再び走り出し、やがて巨大な城壁が見えてきた。
黒い石を積み上げて作られた、堅牢な城塞都市。
ヴォルグ公爵家の居城、「氷狼城」だ。
城門には、分厚い氷柱が下がっている。
街の中へ入ると、そこは予想以上に活気があった。
厳しい寒さの中でも、人々は厚着をして通りを行き交い、市場には湯気が立ち上っている。
除雪が行き届いた石畳。
質素だが頑丈そうな石造りの家々。
王都のような華やかさはないけれど、ここには確かに、力強く生きる人々の営みがあった。
馬車が城の前庭に滑り込む。
整列した使用人たちが、一斉に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、旦那様!」
アレクセイ様が先に降り、私に手を差し出した。
「さあ、着いたぞ。ここが今日から、お前の家だ」
差し出された手を取る。
大きな手。冷たくて、温かい手。
私はその手をしっかりと握り返し、馬車を降りた。
冷気が頬を刺す。
けれど、不思議と寒さは感じなかった。
見上げれば、聳え立つ黒い城。
その頂には、ヴォルグ家の紋章である「氷の狼」の旗がはためいている。
「ようこそ、ノースエンドへ。何もない極寒の地だが……俺の目の届く限り、何人たりともお前を傷つけさせはしない」
アレクセイ様の誓いのような言葉に、私の胸が詰まる。
婚約破棄され、国を追われ、何もかもを失った私。
魔力ゼロのゴミだと罵られた私。
そんな私が、こんなに大切にされるなんて。
「……はい。よろしくお願いいたします、アレクセイ様」
涙を堪えて笑顔を作ると、アレクセイ様は満足げに頷いた。
城の中へ足を踏み入れる。
高い天井、磨き上げられた床、暖炉で燃える赤い炎。
そこは、外の寒風が嘘のように静かで、温かかった。
「執事を呼ぶ。お前の部屋と着替えを用意させる」
「あ、あの! アレクセイ様」
私は慌てて彼を呼び止めた。
このままお客様扱いされるわけにはいかない。
私は居候ではなく、ここで働くために来たのだから。
「なんでしょうか」
「その……お部屋や着替えはありがたいのですが、お仕事は……? 私、働かせていただけるというお話でしたよね?」
アレクセイ様はきょとんとした顔をした後、少し困ったように眉を下げた。
「ああ、そうだったな。だが、今日は長旅で疲れているだろう。仕事の話は明日以降だ」
「でも……」
「それに、お前の仕事はもう決まっている」
「え? もう決まっているんですか?」
掃除だろうか、洗濯だろうか。
それとも、やはり畑仕事だろうか。雪国での畑仕事は難しそうだけれど、温室があるのかもしれない。
期待と不安で身構える私に、アレクセイ様は真剣な眼差しで告げた。
「お前の仕事は、『健康になること』だ」
「……はい?」
「食べて、寝て、肉をつける。それが最初の仕事だ。頬がこけたままでは、私の領民たちが『公爵は新しい客人を虐待している』と誤解するからな」
それは、あまりにも優しい「命令」だった。
「さあ、風呂も沸いているはずだ。温まってこい」
有無を言わせぬ口調で背中を押され、私はやってきた老執事に案内されることになった。
アレクセイ様の後ろ姿を見送りながら、私はじんわりと心が温まるのを感じていた。
ここは極寒の辺境。
けれど、私にとっては、世界で一番温かい場所になるのかもしれない。
そんな予感を抱きながら、私は新しい生活の第一歩を踏み出した。
一方その頃。
私が去った王都では、異変が静かに進行していた。
神殿の畑が、一夜にしてすべて枯れ果てたという報告が、まだ寝ているカイル殿下のもとへ届こうとしていた。
続く
窓の外を流れる景色は、次第に緑を失い、荒涼とした冬枯れの平原へと変わっていた。
空は鉛色に重く垂れ込め、太陽は分厚い雲の向こうに隠れてしまっている。
時折、風が唸りを上げて馬車を揺らすたび、私は身をすくませた。
けれど、馬車の中は驚くほど快適だった。
最高級の魔導具が組み込まれているらしく、外の寒気が嘘のように室内は春のような温かさに保たれている。
ふかふかの座席、肌触りの良い毛布。
そして何より、目の前に座るアレクセイ様の存在が、不思議な安心感を与えてくれていた。
「顔色が少し良くなったな」
アレクセイ様が、読みかけていた書物から顔を上げて私を見た。
その視線に、私は背筋を伸ばして頷いた。
「はい。おかげさまで……。温かい食事と睡眠のおかげです」
この三日間、アレクセイ様は私をまるで壊れ物のように扱った。
食事の時間になれば、携帯食料とは思えないほど美味しいスープやパンを用意し、私が完食するまでじっと見守るのだ。
王都にいた頃、私は聖女としての務めと、義母やソフィアからの嫌がらせで、まともな食事を摂れる日は少なかった。
残飯のような冷めたスープや、カビの生えかけたパンが日常だった私にとって、湯気の立つ柔らかいパンは涙が出るほどのご馳走だった。
「遠慮するな。お前は痩せすぎている。風が吹けば飛びそうだ」
「うっ……努力します」
アレクセイ様は呆れたように肩をすくめると、サイドテーブルの引き出しから小さな包みを取り出した。
「これを食え」
「これは……?」
「クッキーだ。王都の店で買ったものだが、甘いものは気休めになるだろう」
差し出されたのは、可愛らしい花の形をした焼き菓子だった。
バターの甘い香りがふわりと漂う。
王都の貴族令嬢たちが好んで食べる高級菓子だ。まさか、「氷の死神」と呼ばれる公爵様がこんな可愛らしいものを持っているなんて。
「ありがとうございます、いただきます」
口に入れると、サクッという音とともに、優しい甘さが広がった。
美味しい。
思わず頬が緩んでしまう。
ふと顔を上げると、アレクセイ様がじっと私を見つめていた。
その瞳が、ほんの少しだけ和らいでいるように見えたのは、私の見間違いだろうか。
「……笑うと、そうなるのか」
「え?」
「いや。なんでもない」
彼は咳払いを一つして、再び書物に視線を落とした。
長い銀髪がさらりと揺れる。
黙っていれば、彼は物語に出てくる王子様以上に整った容姿をしている。
けれど、漂わせる空気が鋭利な刃物のように鋭く、近寄りがたい。
王都の貴族たちが彼を恐れるのも無理はない。
でも、私は知ってしまった。
この人が、行き倒れの私に自分のコートを掛けてくれるような、不器用な優しさを持つ人だということを。
「そろそろだ」
ふいに、アレクセイ様が本を閉じた。
馬車の速度が落ちていく。
「そろそろ、とは……?」
「国境の関所だ。ここから先が、私の領地『ノースエンド』になる」
ノースエンド。北の果て。
王国の最北端に位置し、未開の地「極北の魔境」と接する防衛の要。
一年中雪と氷に閉ざされ、凶暴な魔物が徘徊する、人の住めない土地だと聞かされている。
窓の外を見ると、景色は一変していた。
地面は完全に雪に覆われ、木々は氷柱をまとって立ち枯れている。
そして何より異様なのは、空の色だった。
どんよりとした曇り空ではなく、どこか紫がかった不気味な薄暗さが世界を包んでいる。
空気そのものが重く、ピリピリとした緊張感を孕んでいた。
「空気が……痛いですね」
「魔素が濃いからだ。魔境から漏れ出す瘴気の影響で、この辺りの環境は歪んでいる。弱い人間なら、立っているだけで気を失うだろう」
アレクセイ様の言葉に、私は自分の身体を確認した。
不思議と、気分は悪くない。むしろ、王都にいた時よりも身体が軽い気さえする。
王都の淀んだ空気――あそこには人間の悪意が渦巻いていたからかもしれないけれど――よりも、こちらの厳しい自然のほうが、私には合っているのかもしれない。
馬車が停止した。
関所の衛兵らしき男たちの声が聞こえる。
「閣下! お戻りになられましたか!」
「ご無事で何よりです!」
ドアが開くと、冷気とともに数人の騎士たちが駆け寄ってきた。
彼らの装備は傷だらけで、過酷な戦いをくぐり抜けてきた歴戦の猛者たちであることがわかる。
アレクセイ様は馬車を降りると、彼らに短く指示を出した。
「状況はどうだ」
「はっ! ここ数日、魔物の活性化が著しく……『スノーイーター』の群れが頻繁に出没しております!」
「スノーイーターか。小賢しい奴らだ」
アレクセイ様は眉一つ動かさずに頷くと、馬車の中にいる私に声をかけた。
「少し揺れるかもしれないが、外には出るなよ。じきに城に着く」
「はい」
再び馬車が動き出す。
関所の門をくぐると、そこはもう完全に別世界だった。
雪の深さが違う。風の音が違う。
まるで世界そのものが、人間という異物を排除しようと牙を剥いているようだ。
その時だった。
ガアアアアアッ!!
耳をつんざくような咆哮が響き渡り、馬車が激しく衝撃を受けた。
馬がいななき、御者が叫び声を上げる。
「閣下! 出ました! 群れです!」
私は窓に張り付いて外を見た。
白い雪原を、黒い影が疾走してくる。
狼のような姿をしているが、大きさは馬ほどもある。
その目は血のように赤く輝き、口からは鋭い牙が覗いている。
スノーイーター。
雪を食らい、人を襲う北の魔獣。
その数は十、いや二十はいるだろうか。
「ひっ……!」
恐怖で声が漏れる。
あんな恐ろしい怪物の群れに囲まれたら、ひとたびも無い。
王都の騎士団でさえ、一体倒すのに苦労すると言われている魔物だ。
けれど、アレクセイ様は平然としていた。
優雅な動作で立ち上がると、コートを翻してドアを開ける。
「待っていてくれ。すぐに片付ける」
まるで「ちょっと散歩に行ってくる」とでも言うような気軽さだった。
彼は吹雪の中へと降り立った。
「あ、危ないです!」
思わず叫んだ私の声は、風にかき消された。
スノーイーターの群れが、獲物を見つけた歓喜の声を上げてアレクセイ様に殺到する。
鋭い爪が、牙が、彼を引き裂こうと迫る。
終わった、と思った。
私は目を背けようとした。
けれど、次の瞬間、視界を埋め尽くしたのは鮮血ではなく――蒼白く輝く、美しい光だった。
「――凍れ」
低く、静かな声が響いた。
ただそれだけ。
呪文の詠唱も、杖を振る動作もない。
アレクセイ様が軽く右手をかざした瞬間、世界が停止した。
パキパキパキパキッ!
空気が凍結する音が連鎖する。
襲いかかっていたスノーイーターたちが、空中で動きを止めた。
いや、止められたのではない。
彼らの身体が、一瞬にして巨大な氷の結晶の中に閉じ込められたのだ。
一匹、二匹ではない。
群れのすべてが、瞬きの間に氷の彫像へと変えられていた。
襲いかかる姿勢のまま、牙を剥いたまま、彼らは永遠に動かない氷塊となった。
「な……」
私は言葉を失い、窓にへばりついてその光景を見つめた。
圧倒的だった。
美しい、とさえ思った。
荒れ狂う吹雪の中で、ただ一人佇む銀髪の公爵。
その周囲には、ダイヤモンドダストのようにきらきらと輝く氷の欠片が舞っている。
スノーイーターたちの氷像は、まるで芸術品のように太陽の光(雲間からわずかに漏れた光)を反射していた。
これが、「氷の死神」の力。
王都でソフィアが見せた、あのパチパチと弾けるだけの花火のような魔法とは、次元が違う。
これは魔法というより、天候そのものを操る神の御業に近い。
アレクセイ様は、氷像となった魔物たちを一瞥もしなかった。
邪魔な小石を退けただけと言わんばかりに、踵を返して馬車に戻ってくる。
ドアが開き、冷気と共に彼が入ってきた。
髪に少しだけ雪がついている。
彼は何事もなかったかのように席に座り、私を見た。
「怖がらせたか?」
その問いに、私は首を横に振った。
恐怖はなかった。
あったのは、畏怖と、そしてなぜか胸の奥が熱くなるような高揚感。
「いいえ……すごく、綺麗でした」
「……綺麗?」
アレクセイ様が目を丸くした。
予想外の答えだったらしい。
「はい。氷が宝石みたいで……それに、あなたが守ってくださったので、ちっとも怖くありませんでした」
私が正直な感想を述べると、アレクセイ様は口元を手で覆い、ふいっと顔を背けた。
耳の先が、ほんのりと赤くなっているように見える。
「……変わった奴だ。私の魔法を見て、綺麗だと言ったのはお前が初めてだ」
「そうですか? 王都の花火よりも、ずっと素敵でしたけれど」
「王都の連中は、これを『死を呼ぶ力』だと恐れる。……まあ、お前が怖くないなら、それでいい」
彼はぶっきらぼうにそう言うと、再び水筒のホットワインを勧めてくれた。
その手つきは、先ほどの圧倒的な破壊力を見せたものと同じとは信じられないほど、穏やかだった。
馬車は再び走り出し、やがて巨大な城壁が見えてきた。
黒い石を積み上げて作られた、堅牢な城塞都市。
ヴォルグ公爵家の居城、「氷狼城」だ。
城門には、分厚い氷柱が下がっている。
街の中へ入ると、そこは予想以上に活気があった。
厳しい寒さの中でも、人々は厚着をして通りを行き交い、市場には湯気が立ち上っている。
除雪が行き届いた石畳。
質素だが頑丈そうな石造りの家々。
王都のような華やかさはないけれど、ここには確かに、力強く生きる人々の営みがあった。
馬車が城の前庭に滑り込む。
整列した使用人たちが、一斉に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、旦那様!」
アレクセイ様が先に降り、私に手を差し出した。
「さあ、着いたぞ。ここが今日から、お前の家だ」
差し出された手を取る。
大きな手。冷たくて、温かい手。
私はその手をしっかりと握り返し、馬車を降りた。
冷気が頬を刺す。
けれど、不思議と寒さは感じなかった。
見上げれば、聳え立つ黒い城。
その頂には、ヴォルグ家の紋章である「氷の狼」の旗がはためいている。
「ようこそ、ノースエンドへ。何もない極寒の地だが……俺の目の届く限り、何人たりともお前を傷つけさせはしない」
アレクセイ様の誓いのような言葉に、私の胸が詰まる。
婚約破棄され、国を追われ、何もかもを失った私。
魔力ゼロのゴミだと罵られた私。
そんな私が、こんなに大切にされるなんて。
「……はい。よろしくお願いいたします、アレクセイ様」
涙を堪えて笑顔を作ると、アレクセイ様は満足げに頷いた。
城の中へ足を踏み入れる。
高い天井、磨き上げられた床、暖炉で燃える赤い炎。
そこは、外の寒風が嘘のように静かで、温かかった。
「執事を呼ぶ。お前の部屋と着替えを用意させる」
「あ、あの! アレクセイ様」
私は慌てて彼を呼び止めた。
このままお客様扱いされるわけにはいかない。
私は居候ではなく、ここで働くために来たのだから。
「なんでしょうか」
「その……お部屋や着替えはありがたいのですが、お仕事は……? 私、働かせていただけるというお話でしたよね?」
アレクセイ様はきょとんとした顔をした後、少し困ったように眉を下げた。
「ああ、そうだったな。だが、今日は長旅で疲れているだろう。仕事の話は明日以降だ」
「でも……」
「それに、お前の仕事はもう決まっている」
「え? もう決まっているんですか?」
掃除だろうか、洗濯だろうか。
それとも、やはり畑仕事だろうか。雪国での畑仕事は難しそうだけれど、温室があるのかもしれない。
期待と不安で身構える私に、アレクセイ様は真剣な眼差しで告げた。
「お前の仕事は、『健康になること』だ」
「……はい?」
「食べて、寝て、肉をつける。それが最初の仕事だ。頬がこけたままでは、私の領民たちが『公爵は新しい客人を虐待している』と誤解するからな」
それは、あまりにも優しい「命令」だった。
「さあ、風呂も沸いているはずだ。温まってこい」
有無を言わせぬ口調で背中を押され、私はやってきた老執事に案内されることになった。
アレクセイ様の後ろ姿を見送りながら、私はじんわりと心が温まるのを感じていた。
ここは極寒の辺境。
けれど、私にとっては、世界で一番温かい場所になるのかもしれない。
そんな予感を抱きながら、私は新しい生活の第一歩を踏み出した。
一方その頃。
私が去った王都では、異変が静かに進行していた。
神殿の畑が、一夜にしてすべて枯れ果てたという報告が、まだ寝ているカイル殿下のもとへ届こうとしていた。
続く
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実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
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