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Chapter.39

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「なぁなぁ、カリンちゃん~」
 橙山に呼ばれて「はい」華鈴が読んでいた雑誌から顔をあげる。
「昨日言ってた卒制のやつさぁ~」
「はい」
「近々スケジュール空けられそうやねんけど、ほんまにやる?」
「はい、ぜひ!」
「そしたら、スケジュールとか相談すんのに、メッセ交換してもいい?」橙山がスマホを見せて打診した。
「はい、お願いします」華鈴もトレーナーのポケットに入れていたスマホを取り出す。
 二人でアプリを立ち上げ操作をしていると、紫苑がリビングに現れた。
「お。お疲れさん」
「お疲れさまです」
「あっ、しぃちゃんもさ」
「ん?」
「カリンちゃんの卒制、協力するゆうてたやん」
「うん。できることあるなら」
「そしたら、いまスケジュール確認すんのにメッセ交換してるから、しぃちゃんもしといたら?」
「俺はえぇけど、一緑は大丈夫なん?」
 紫苑の疑問に華鈴が首をかしげる。
「大…丈夫じゃないでしょうか……。男性はイヤなものですか……?」
「うーん…人によるかなぁ」紫苑が腕を組んで首をかしげた。
「そしたら、いのりんも入れたグループ作ってやりとりしよか。いまカリンちゃんのアカウント登録できたから、オレがやれば全員招待できるし」
「まぁ、会話が全員に筒抜けやったら一緑もオレらも安心かもやけどさ、一緑案外心配性やからなぁ」
 うーん、と三人で考え込んで、華鈴が顔をあげた。
「今日帰ってきたら、一緑くんに事情を説明して、いいかどうか聞いてみます」
「うん、そうしたげて」
「じゃあ、いのりんのオッケー出たらグループ作るから、わかったらメッセちょうだい?」
「はい、ありがとうございます」
「ま、大丈夫や思うけど、一応な」紫苑が鼻にシワを寄せて言う。「ってゆうといてなんやけど、ちょっとは心配させといてもいい思うけどな。男なんてアホやから、たまには“俺にはこの人がおらんとあかんのや~”って気付かせんと」
「そういうものですか……」そう考えると、赤菜が仕掛けてきた壁ドン系のちょっかいは、とても効果的だったように思える。
「カリンちゃんも一緑も、まだ若いからええけどさ、マンネリとかも来るかもしれんし。たまにはぶつかってもいいと思うし」
「しぃちゃんもそういうんあったん」
「あったよ~。ゆうてオレも三十路やしさ~」言いながら、紫苑は渋い顔を見せた。「一回くらいやっとかんと、ずっと気ぃつこたままになるやろ。それはそれでええねんけど、もし一生添い遂げるってなったら、やっぱどっかでしんどくなるって」その口調は面倒くさそうで、それでいてかすかにノスタルジックさが漂っている。「ま、カリンちゃんと一緑んとこがどんな感じかわからんけどね?」
「え? ケンカは? してる?」
「いまのところはしたことないですね。あまりそういう雰囲気にならなくて」
「あらあら」橙山がニヨニヨしながら口に手を当てる。
 紫苑もどことなく、微笑ましく見守る兄のような顔になった。
「あっ、そういうのではなくて……」ノロケだと捉えられたように感じて、華鈴があわてて否定する。
「一緑もカリンちゃんも優しいからなぁ」紫苑がうんうんうなずいた。
「まぁ、この家にいる間になんかあったら、オレらもフォローくらいできるしさ」橙山がニコニコと笑いかけると
「ありがとうございます」華鈴も笑顔を見せる。

 紫苑も橙山も冗談めかして言っていたし、華鈴もそのつもりで受け取っていたから、その時はまだ、それが現実のことになるなんて、誰も思っていなかった――。

* * *

 ピロン♪ 着信音が鳴って、机の片隅で一緑のスマホが震える。画面には“トウヤマから招待されました”と書かれた通知窓が表示されている。
 仕事の手を止め、通知窓をスライドさせてアプリを立ち上げる。招待されたのは【カリンちゃん卒制協力隊】という名称のグループだった。
昨夜ゆうべゆうてたやつか)
 一緑が思い出す。


 夕食を終えて入浴を済ませ、皆が自室へ戻るタイミングで、一緑と華鈴も部屋へ戻った。
 ベッドに寝転ぶ一緑に
「一緑くん、ちょっと時間いい?」ドアの前に立ったまま声をかけた。
「ええよ? どした?」
 起き上がって話を聞く態勢になる。
 自分が座る横のベッドをポンポン叩いて、立ったままで話そうとする華鈴を呼び寄せた。
 華鈴がはにかんで座って、「昨日少し話した、卒制のことなんだけど」話を切り出す。
「みんなに協力してもらうゆうやつ?」
「うん。それのスケジュールを調整するのにね? みなさんとメッセでやりとりしてもいいかな……?」
「それはかまわんけど……」“けど”の先を待つように、華鈴が一緑の顔を覗き込む。「ええよ、別に。必要なんでしょ?」とは言いつつも、その表情はどこか不満げで。
 聞いていいものかどうか、華鈴は少し悩んで口をつぐむ。
 少し不安そうになった華鈴に気付いて、「ええ作品ができるといいね」一緑が笑みを浮かべる。
「うん。ありがとう」少し前傾姿勢のままで一緑の顔を見て、華鈴が微笑んだ。
 一緑が髪を優しく撫でると、華鈴は嬉しそうに目を細めた。その表情は、猫のようでとても愛らしかった。


 回想を終えた一緑はふと笑い、【承認】のボタンを押した。

* * *

 一緑が仕事を終え、帰るころには赤菜邸の住人、全員が【卒制】グループに参加していた。すでに何往復かの会話が投稿されている。


トウヤマ『よろしくー』
アオト『どうも~』
かりん『こんにちは。みなさんありがとうございます。』
トウヤマ『予定決まったら、ここか、家で直接教えてね~』
かりん『とても助かります。』
かりん『早めにお伝えできるように調整します。』
黒『急な仕事入ったらごめんやけど、都合つくときだったらいつでもどうぞ』
かりん『お気遣いありがとうございます。』


 一緑が画面をスクロールしながらログを読んでいると、新規の会話が表示された。
 その投稿者に、一緑の心臓がドキリと反応する。


ツジ『文字数と締切決めたら教えてください。』
ツジ『都合つけて書きます。』


(……)
 なにも考えることができないまま、じっとスマホの画面を見つめる。少しして、手の中でスマホが震えた。


かりん『ありがとうございます!』
かりん『不勉強で申し訳ないのですが、お聞きしたいこともあるので直接ご相談させていただきたいです。』
ツジ『はい。いま家にいるので、リビングでどうですか?』
かりん『かしこまりました。いまから移動します。』


 なんの後ろ暗さもないそのやりとりに、一緑の胃がチクリと痛む。
(え、なんで?)
 一緑は腹部に手をあて、痛んだ部分を服の上からさする。
 華鈴が誰かに浮気するなんて思ってもいない。なのに反応してしまう自分の身体と心が、どこかにある不安に気付かせようとする。

 スマホをスリープさせて、バッグに入れた。
 家に帰ったら、きっとリビングにキイロと華鈴がいる。

(……他にも誰かおるやろ……おらんかっても、相手はキィちゃんやし……)
 思った瞬間、キイロの柔らかな笑顔が頭の中に浮かぶ。

 華鈴が赤菜邸に来た当初、キイロはあきらかにおびえていた。女性恐怖症からくる不信感や不安感が全面に出ていたからだ。
 会話はおろか、視線を合わせようともしなかったキイロは、月日が経つにつれ華鈴への警戒心を解いていった。
 一緒に食卓を囲み、談笑をするようになった。
 華鈴が体調を崩したとき、率先して療養食を作っていた。
 その行動に隠された真意がなにかあるのではないか。

 キイロが華鈴に、異性に対する好意を抱いているのではないか――。

 否定をしても拭えないその疑念が、一緑を追い込む。
 人の気持ちだから、なんて放っておくこともできず、けれど確認することははばかられて。
(キィちゃんに限って……華鈴かってそんなこと……ただの、同居人や……)
 チクリ、チクリと痛む胃に言い聞かせるように考えながら、一緑は電車に揺られた。
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