精霊王、ここに顕現

PONPON百日草

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ライアルの転機

(3)

 学園内には二つの事務室がある。
 学園の南寄りに位置し、職員室に隣接する大きなものが一つ。もう一つは建物から出て正門に近付くと見えてくる。
 ここファルガス学園は二人が現在目指して歩いている正門と、南門の二箇所からしか出入りができず、南門を抜けた先にある森に入ると体調不良を起こす者が続出したという理由で、現在は通行が禁止されている。
 北の正門、そして南門を繋ぎながら分厚く高い壁が学園をぐるりと囲み、外部からの魔物の侵入を防いでいる。
 男と女子生徒は正面玄関を抜けて長い石畳を歩き、正門付近に建てられた小さな小屋のガラスの小窓を叩いた。
 中にいた中年の女性が音に気付き、一瞥いちべつして机上に置いてある紙に文字を書いていく。
 ガラッと窓が開かれて、肉付きのいい手が紙を差し出した。

「はいよ。通行許可証。一人じゃないなんて随分久しぶりじゃないか」
「授業だ」

 正門を通過する時はこの小屋に寄って必ず通行許可証を発行してもらわなければならず、頻繁に外に植物の採取に行く男は必然的に彼女と顔を合わせることが多くなる。
 事務の女性は面白そうな目を男の後ろに立つ女子生徒に向けた。

「へえ、その子があんたの授業を選択したのかい」
「彼女を知っているのか?」
「この学園にその子を知らない子なんていないよ。顔が良すぎるのも考えものだわねってお昼にマーサと話してたところさ」
「何があったんだ?」
「それはその子に聞いてみな。教えてくれるかは分からないけど」

 不敵に笑って女性はガラスの窓を閉めた。
 マーサとは学園内の事務室で働く女性の名前だ。年齢が近いということもあって彼女と仲が良く、頻繁に女子会という名の情報交換会を行っているそうだ。
 男は待っていた女子生徒を振り返って尋ねた。

「と言っていたが、心当たりは?」
「ない」

 本当にないのか、それとも言いたくないだけなのかは彼女の表情からは読み取れない。
 それほど積極的に知りたいことでもなかったので、男はそれ以上追求しなかった。
 門が開くと緑の匂いを伴った風が顔に当たった。
 深く息を吸うと新鮮な空気が肺を満たした。この感覚が嫌いな人間はいないだろう。

「人間なのに人間が嫌いなのか?」
「ん?」
「あの中にいる時より落ち着いてるように見える」

 あの中と言って学園を指す女子生徒に、男は何とも言えない顔で答えた。

「嫌い⋯⋯ではない。教師の中にも俺を差別しない人はいるしな」
「それでは日常的に差別されていると言っているようなものだぞ。なぜおまえが差別の対象になる?」
「何故って⋯⋯」

 男はぼりぼりと頭を掻いた。
 理由は簡単だ。男の在り方が人々に受け入れられないからだ。
 人は自分と意見の合わないもの、見た目の違うもの、能力が著しく劣っているものに良い感情を抱かない。この三つのうち、なんと男はこれら全ての項目に当てはまる。侮られ差別されるには十分過ぎる。

「人は結局、一度こうと信じ込んでしまったら中々他の意見を取り入れられないものなのだろう」

 答えになっていない答えだが、女子生徒はそれ以上質問を重ねることはなく、ただ一言

「覚えておく」

 と言った。

 ライアルは目的地までの移動時間も無駄にしなかった。道中に生えている草木の名前を教え、使えそうなものがあれば採取し、その効能を説明する。
 時には触らせてその手触りを覚えるように言った。

「このニルと呼ばれる植物は家庭の料理にも使われるほど身近にある香草の一種なのだが、これを半日水につけて香草本来の成分を完全に水に溶かした後、出涸らしの葉を口に含んで噛むと口内の傷の治りが早い。ただし、口の中の傷が治るからといって絶対に表面の傷に擦り付けたりするんじゃないぞ。のたうち回るほど痛いからな」
「のたうち回ったのか?」

 男は苦い顔になった。

「⋯⋯まあ、実験するには自分の体が一番手っ取り早い」
「口の中でむ分には痛みは無いのか?」
「ああ。多分唾液と上手く作用しているのだろうが⋯⋯どういう原理で痛みが消えるのかはまだ解明できてない」
「ふむ⋯⋯」

 女子生徒は少し考えた素振りの後、男を見上げて言った。

「解明したいか?」
「勿論だ」
「ならしよう」
「どうやって?」
「少し屈んで口を開けろ」

 そんなことでどうやってこの長年の謎を解き明かすつもりなのか甚だ疑問だが、先程己の身に起きた常識を超える現象が、男に従ってみようと思わせるだけの譲歩を促した。
 言われた通りに少し膝を曲げて口を開く。
 女子生徒は男に近寄った。真正面に立ち、男の両頬に手を添えると、引き寄せるように自分の口に近付ける。
 唇が触れ合うぎりぎりのところで男が大きく仰け反った。

「───ッだぁ!?」

 男が悲鳴を上げてうずくまった。
 頭を大きく後ろに振ったものだから、真後ろにあった木に打ち付けたのだ。
 後頭部を押さえて痛みをやり過ごす男の頭上から声が降る。

「なぜ避ける?」
「ッたり前だろう!!何をしようとした!?」

 男の動揺の意味が彼女にはわからないらしい。淡々と説明を始めた。

「人間の唾液とニルにどのような作用があるかを知る為に今の私に必要なのは唾液の情報だ。おまえのものを取り込めば問題は解決する」
「今のお前に必要なのは情報じゃなくて常識だバカタレ!そもそも唾液を取り込むって何だ!?自分の口の中にあるだろうが!」

 女子生徒は腕を組んで首を傾げている。

「私の行動は何かおかしかったのか?」
「かなりな」
「程度で表すと?」
「パンが喋って踊り出すくらいだ」

 通常加工された食品が喋ることも動くことも有り得ない。そのくらい非常識と言いたいらしい。
 しかし次に彼女の口から出てくる言葉は更に男を混乱の渦に叩き落とした。

「パンとは?」
「パンを知らない!?食べたことがないのか!?」
「ない」
「今まで何食って生きてきたんだ!?」

 叫んでからライアルはとして口を押さえた。食文化は地域によって大きく異なる。自分の常識と他人の常識の間に多かれ少なかれ差があるのは当然であり、その事はライアル自身が身に染みて思い知っているはずなのに、いくら動揺していたとはいえ不適切な発言だった。
 ライアルはすぐにバツの悪そうな顔で謝罪の言葉を口にした。

「すまなかった」
「何について謝っている?」
「⋯⋯君がパンを知らないことを責めるような言い方をしたことについてだ」

 生徒は相変わらず無表情のままだった。男を見つめる眼からも喜怒哀楽が読み取れない。
 気まずい空気に男が何かを言いかけた時、生徒がふと横に顔を向けた。
 男も釣られてそちらを見たが、ただの雑草と高木くらいしかない景色に首を傾げる。

「あっちが気になるのか?」
「ああ。大きいものが来る」

 彼女の返答はいつも抽象的だ。「大きいもの」と言われても、学園から一番近いこの森に魔物は出ず、たまに素材集めにやってきた生徒とばったり出会うくらいである。

「何が来るんだ?」
「固有名詞は知らん。そう急がなくても、もう少しすれば全容が現れる。おまえの知っているものならその時に名前を教えてくれ」
「ああ」

 生徒の様子からして危険なものではないのだろう。
 そう言えば名前と聞いて思い出した。

「⋯⋯君の名前は?」

 新年度に入って初めて自分の授業を選択してくれた生徒の名前を聞くにしては今更だが、男の言い訳としては授業の途中で席を立ったり冷やかしで受けに来る生徒がほとんどで、今回の女子生徒も同じようなものだろうと高を括っていたのだ。
 その考えを男は改め始めていた。
 彼女は他の人達とは少し違うのかもしれない。

「私の名前はAエー1いち4よんだ」

 訂正。大分違うかもしれない。
 男は聞き間違えた可能性に賭けてもう一度同じ質問をした。

「名前は?」
「A1リ4だ」
「本気か?」
「何がだ?」
「⋯⋯⋯君の名付け親は変わっているな」

 それがライアルが精一杯頭を捻って相手を傷付けない感想を探した結果だった。
 生徒はこの言葉に首を振る。

「名付けたのは私だ。私に親はいない」

 孤児であるということを明かす時でさえ表情や声音に変わりはない。幼い時に十分な愛情を貰えず育った子どもは情緒が不安定になったり、逆に感情が欠落しているかのように反応が鈍くなったりすると聞く。彼女はきっと後者の極端な状態だと察し、男は胸を痛めた。

「この名前は一般的なものではないのか?」
「⋯⋯まあ、珍しいな。多分世界中を探しても君と同じ名前の人は見つけられないだろう」
「それは良いことなのではないのか?個人の識別の為に名前を付けるのだから、他と重複していては名前の意味がないだろう?」
「識別だけに重きを置けば君の言う通りなのだろうが、名前とは願いでもある。人は我が子に名前を付ける時、無病息災を願ったり、縁起のいい文字を入れたりと、その子の将来が良いものになることを祈りながら命名するんだ。君は自分の名前を決める時に何か考えたか?」
「いいや。適当に文字や記号を配列しただけだ。名前がそこまで大切な意味を持つものとは知らなかった」
「なら、これらを踏まえて名前を考え直してみるのもいいかもな。⋯⋯これからも疑問に思うこと、分からないことがあったらその都度訊きに来なさい。俺に答えられるものなら教えてやるから」
「わかった」

 素直に頷いた彼女だが、いきなり突拍子もなくこんなことを言ってきた。

「では、ライアルが付け直してくれ」
「なに?」
「私では文字や言葉がどのような意味を持つのか分からない。おまえが決めた方が確実で早い」
「いや、いやいやいや⋯⋯」
「嫌か」
「違う、そうじゃなくてだな⋯⋯」

 名前という自己を表すものを今日会ったばかりの他人に付けさせるのもどうかと思いつつも、それらをどのようにこの不思議な思考回路を持つ子に説明してやればいいのか悩む男だったが、その思考は突然の地響きによって掻き消えた。

「何だ!?」

 辺りを素早く確認したライアルの顔が驚愕と恐怖に引き攣った。
 すぐに生徒の腕を掴んで側にあった太い木の根元に姿を隠す。
 男の顔は大量の汗に濡れていた。恐る恐る顔を出して遠くに見えた影の正体を知った時、ライアルは自分の運命を悟った。
 まだ状況が分かっておらずきょとんと自分を見ている生徒に向き直り、その肩を掴んで低い声で言った。

「いいか。俺の合図で君は学園まで走り、A級の魔物が出たと伝えなさい。絶対に後ろを振り返るんじゃないぞ。全力で走れ」

 言い終わるのと同時に男は木の陰から飛び出した。

「行きなさい!」

 大きな影に向かって一直線に走る男は、その巨体を見上げて叫んだ。

「こっちだ!!」

 男の背丈の何倍も高いところから大きな一つ目がギョロリと足元の小さな存在を捉える。

 (どうしてこんな場所にサイクロプスが!?)

 一つ目の巨人と呼ばれるサイクロプスは武器の棍棒を器用に使い自慢の怪力で敵を薙ぎ払う。知能はそこまで高くないが群れで行動することから経験を積んだ冒険者でも討伐には苦労するそうだ。
 本来サイクロプスは山岳地帯に生息する魔物で、このような平地に現れることは滅多にない。

 (考えるのは後だ。あの子が逃げる時間を稼がなければ⋯⋯!)

 ライアルは学園から遠ざかるように走り出した。
 サイクロプスも男を追う。一歩進む度に地面が揺れる。
 ライアルの狙いは自分を囮にして彼女を助けることだった。自分の実力は自分が一番分かっていた。サイクロプスに勝てる実力もなければ逃げ切れるだけの体力もない。
 確実にここで死ぬ事がわかっていながら、それでも震える足で前に進むのはあの子を助けたいからだ。『植物に魔素が宿る』という話を聞いて否定もせず耳を傾けてくれたのは彼女が初めてだった。
 必死に走ったが、体格の違いから生まれる一歩の差は大きかった。
 サイクロプスが右手に握った棍棒を振り上げた。後はもう攻撃範囲内にいる小さな存在を叩き潰すだけだったが、突如としてその棍棒が木っ端微塵に砕け散った。

「オ、オォ⋯⋯?」

 分厚い唇から心臓が震えるような低い音が漏れる。
 男も驚いて振り返り、思わず悲鳴を上げそうになった。
 逃げろと指示した生徒が自分とサイクロプスの間に立っていたのだ。

「何をしている!?早く逃げろ!」

 叫ぶ男の言葉を無視して、彼女はサイクロプスを指さした。

「この『大きなもの』の名前は?」
「そんなことを訊いている場合じゃないだろう!!」

 そうしている間にもサイクロプスは右手の中の木片を捨てて、握った拳を振り上げている。
 ライアルは生徒に駆け寄った。
 彼女を突き飛ばして自分が代わりになるつもりだった。
 ここで女子生徒がサイクロプスを振り返った。

「邪魔をするな」

 ライアルには何が起きたのかわからなかった。
 突然サイクロプスの身体がぐらりと揺れたと思ったら、崩れるように地面に倒れたのだ。そのままピクリとも動かない。
 暫く固まっていた男はサイクロプスの瞳孔が開いていることに気付き、ぎこちない動きで生徒を窺った。

「⋯⋯お前が⋯⋯やったのか?」
「いけなかったか?」

 あっけらかんと言われて、それまで極限の恐怖に体も心も支配されていた男の精神はここで限界に達した。
 目の前が急激に暗くなる。生徒の前で気絶するなんてと思う余裕は今の彼にはなかった。
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