《美術館奇譚》

神田 双月

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最終章 《沈黙の画廊》

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 山間に建つアルセナ美術館は、その日、奇妙な静けさに包まれていた。
 開館以来、数々の不可解な事件を起こしてきたこの場所――
 消えた絵《赤い庭》、動く彫像《眠る少年》、鳴るピアノ《ノクターン・エレナ》、
 そして死を写す《No.13》。

 だがその夜、私はようやくすべての謎の根を掘り当てようとしていた。

「翔太さん、本当に入るんですか?」
 案内係の斎藤美咲が不安そうに言った。
「“沈黙の画廊”は、館長ですら立ち入り禁止なんですよ。」

「そこに答えがある。今までの事件、全部がここに繋がっている。」


 ---

 アルセナ美術館の設計図には、存在しない“もう一つの展示室”がある。
 地下の奥、封鎖された廊下の先。
 そこは創設者・有馬一真が最後に作らせた部屋だ。
 彼は完成直後に消息を絶ち、その部屋は“沈黙の画廊”と呼ばれるようになった。

 鍵はすでに失われていたが、
 館長の机の引き出しに残されていた古い日誌に、ヒントが記されていた。

 > 「光が沈むとき、彼の声が戻る」



 私は懐中電灯を手に、夜の館を歩き出した。
 暗闇の中、古びた壁の向こうに、金属製の扉が現れた。
 埃に覆われていたが、確かにそこに“画廊”は存在していた。

 扉の横には、異様な装置が取り付けられている。
 古い写真用のライトメーターを改造したもののようだ。
 “光が沈む”――つまり、光量が一定以下になった時に作動する仕組みか。

 私は懐中電灯を消した。

 カチリ、と乾いた音。
 扉がゆっくりと開く。

 中は真っ暗だった。
 足を踏み入れると、冷たい空気が流れ出る。
 壁一面に、無数の額縁が掛けられていた。
 だが、どの額も空っぽ。
 キャンバスは存在せず、そこには影だけが浮かんでいた。


 ---

 中央の台座の上に、一冊の本が置かれていた。
『アルセナ美術館 記録』――創設者・有馬一真の名が刻まれている。
 ページを開くと、そこには見覚えのある名が並んでいた。

 《赤い庭》 画:マルセル・ド・ルージュ
 《眠る少年》 作:神原透
 《ノクターン・エレナ》 作曲:エレナ・S
 《No.13》 撮影:三上恭一

 ――すべて、この美術館で起こった事件の作品だ。
 だが、その下に小さくこう書かれていた。

 > 「全ての作品は、“沈黙の画廊”で再現される。」



 私は背筋が凍った。
 壁の影の輪郭を見直すと、それぞれの形がどこか見覚えがある。
 女性のシルエット、少年の姿、ピアノの形、カメラを構える男。
 まるで、今までの“亡き作家たち”がこの部屋に再現されているようだった。

 そのとき、後ろから美咲が小さく息を呑んだ。
「翔太さん……この影、動いてます……!」

 見ると、壁に映る影の一つ――女性の影がゆっくりとこちらを向いた。
 顔はない。だが、確かに“目”があった。

「ここに閉じ込められているのか……?」
 私は呟いた。
「彼らの“魂”が。」


 ---

 有馬一真は、かつて芸術評論家だった。
 だが50年前、ある画家を酷評し、自殺に追い込んだ。
 その事件ののち、彼は突如としてこの美術館を建てた。
「芸術家の魂を護る場所を作る」と言って。

 だが、現実にここで起きてきたのは、“魂の囚われ”だった。
 有馬は芸術を“永遠に封じる”方法を追い求めていたのだ。

 私は記録帳の最後のページを開いた。
 そこには、有馬自身の手で書かれた文章が残されていた。

 > 「芸術は死ぬ。
 だが、死を恐れぬ者だけが、沈黙の中で永遠となる。
 私は彼らを封じた。
 そして、次に封じられるのは――観る者だ。」



 ページの端に、黒い指紋のような跡。
 その瞬間、部屋の照明がふっと消えた。
 耳を澄ますと、囁くような声が聞こえた。
「見た者は、ここに残る。」

 私は懐中電灯を再び点けた。
 だが光は弱く、影の輪郭が次第に濃くなる。
 足元を見ると――私の“影”が、床からゆっくりと浮き上がっていた。
 まるで、壁の中へ引き寄せられるように。

「翔太さん!」
 美咲の声が響く。
 私は必死に影を踏みつけた。
 その瞬間、胸ポケットに入れていた一枚の写真が床に落ちた。
 それは、三上恭一が撮った《No.13》――
 “影を交換する”写真。

 私は直感的に、写真をライトの前にかざした。
 光が反射し、壁に向かって新しい“影”が映る。
 ――三上恭一の影。

 その影が、まるで他の影たちを押し戻すように動いた。
 そして部屋の中の空気が、静かに止まった。


 ---

 扉を開けて外に出ると、夜明けが近かった。
 館の空気が、いつになく澄んでいる。
 あの部屋に満ちていた“囚われた気配”は、もう感じられなかった。

「……終わったんですか?」と美咲が問う。
「いや。終わったのは“沈黙”だけだ。」私は静かに答えた。
「有馬は、永遠を恐れていた。だから芸術を閉じ込めた。
 でも芸術ってのは、沈黙じゃなく、誰かが見て初めて“生きる”ものなんだ。」


 ---

 数日後、美術館は一時休館となり、“沈黙の画廊”は完全に封鎖された。
 だが、私は知っている。
 あの部屋に残された最後の影――それは、有馬一真自身の影だった。
 彼は、自らを最後の“作品”として封じ込めたのだ。

 館長室の棚に、彼の残した小さなメモが見つかった。

 > 「私は、芸術の声を聞く。
 それが沈黙であっても、まだ誰かが耳を傾ける限り、
 その声は続いている。」



 私はそれを読み、思わず笑った。
 美術館は沈黙を取り戻した。
 だが、それは“終わり”ではない。
 むしろ、ここからが本当の始まりなのかもしれない。

 今も夜更け、展示室を歩くとき――
 ふと、耳の奥で小さく囁く声がする。

「見つめてくれて、ありがとう。」

 それが誰の声かは、もう分からない。
 ただ確かなのは、この美術館が“生きている”ということだ。
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