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第38話  白銀の世界で鉄拳に舞う

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「どうなさいましたか。どこかお体の具合でも」
 ユキがスマホを耳から離し、不可解な面持ちで星崎を見る。
「ちょっと腹の調子が……ははは」
 わざとらしく星崎は腹をゴシゴシとさする。
「どうぞ遠慮なくお手洗いをお使いください」
「はい。で、では」
 星崎は乱雑に席を立つと自分のビジネスバッグと防寒ブルゾンを脇に抱える。
「どうぞバッグはそのままに」
「いえ、ついでに車へ置いてきますので」
 星崎は背中を丸め、そそくさと足早に玄関へ向かう。このまま逃げるつもりらしい。佐野は星崎を追った。
 予想した通り、星崎は屋外に設置されている仮設トイレには行かず、真っ直ぐ車へ向かう。例の黒塗りの高級車だ。
「星崎係長」
 佐野が追いつき、呼び止める。
「ああ?」
 足を止め、忌々しげに振り向く。
「ご存じでしょうけど、全部バレてますよ。橋本建設さんに」
「何がだよ」
 いらついた口調。
「うちの会社が、どのゼネコンからも総スカンを食ってるとか、星崎係長と同行した飲み屋の女が大切な図面をシュレッダーにかけて、しかもそれを鈴木がやったことにしてクビにしたとか」
「……」
「それに値上げの見積も、昨日は二倍で今日は三倍って――」
 だが、言い終わらぬうちに佐野の体は後ろへ吹っ飛ぶ。気がつけば雪の積もった地面へ仰向けにひっくり返っていた。左の頬は燃えるように痛い。
 その状態で声も出ず茫然と星崎を見上げていると、次に星崎は安全靴を履いた足を高く上げた。今度は蹴るつもりらしい。
「全部、お前が悪い。全部、お前のせいだッ!」
 激高する星崎が叫ぶ。
「はあ?」
 何を言ってるんだ。意味がわからない。佐野はよろめきながら立ち上がり、星崎から二メートル近く距離を取る。ここまで離れれば手出しはできまい。
「僕、何もしてませんし、何も言ってませんよ。そもそも僕みたいな一介の平社員が大手ゼネコンに根回ししたり、ましてや鈴木をクビになんてできないでしょう」
 痛さで上手く回らぬ口で言う。
「うるせえ! とにかく全部お前のせいだッ。この現場が終わって会社に戻って来たら、覚悟しとけ!」
 星崎はきびすを返して車へ向かう。と、その時、佐野の背後から落ち着き払った男の声がした。
「おや、立派なお車ですね。私もそんな車に乗ってみたいものです」
 ユキだ。
「お腹の調子はいかがですか」
 ゆったりと歩を進め、星崎に近づく。その横顔を見た佐野は、厚着をしているのにもかかわらず背筋が寒くなる。
 眉目秀麗な人間が激怒すると、死ぬほど怖い顔になるのを佐野はこの時初めて知った。
 振り向いた星崎も同じらしく、まるで幽霊にでも出くわしたかのような顔だ。
「事務所の窓から丸見えでしたよ。声も筒抜けで」
「いや、これは当社の指導の一環で――」
 星崎は恐怖に顔をこわばらせながらでまかせを言う。
「指導……? けれど理由はどうあれ、わが社の工事現場で暴力行為とは」
 ユキが星崎を刃のごとくねめつける。
「ぐぐぐ」
 圧倒された星崎がじりじりと後ずさりする。
 これはもう、自分が仲介できるレベルの話ではない。佐野はジワジワと腫れはじめた左の頬をさすりながら途方に暮れる。
 同時に、このユキの強烈な怒りは自分が殴られたことに対してなのか、はたまた現場での暴力沙汰にかんしてなのかと考えてしまう。
 恋する男は、ぶん殴られても心の中は花畑。
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