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第8話

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「もう寝ましたか」
 小さな声で、僕は隣に寝ている佐賀美さんに声をかけた。
 窓から月の光が差し込み、本棚やコピー機の長い影が床に伸びている。
「いや、まだだよ」
 工事部のフロアのひときわ目立つ場所に、僕達は並んで横になっている。理由は、「踏まれたら困る」からだ。
 防寒ジャンパーを毛布がわりに被り、枕はパソコン用のバッグ。当たり前だが首と背中と尻が非常に痛い。
「お話しても、よろしいですか」
 遠慮がちに僕は聞く。
「いいぞ」
 のんびりした声。
「ピアノのレッスン、どうやって受けたらよろしいですか。時間とか。現場もありますし」
「その辺は問題は無い。俺は夕方には現場から会社に戻る。実際、会社で作業をしなければならない事がかなり発生してきてな」
「今日のような見積ですか」
「それもある。あと、棚部が俺に気を使い過ぎて、こっちが逆に疲れるんだ」
「あー……」
 やはり佐賀美さんも辛かったか。よほどお互いの波長が合わないのだろう。
「だから明日、田上課長に藤沢君を手伝いではなく、正式に俺の補佐にしてくれるよう頼むつもりだ。この現場を担当したら、残業は確実だろ? となれば、皆が帰った後で練習ができる」
「はい。そうしてもらえると助かります」
 よかった。でも同時に現場も持つから忙しくなるけれど。
「あともう一つ、よろしいですか」
「何だ」
「仕事では、がっちりとご指導をお願いしますが、ピアノに関しては、スパルタは勘弁してください。怒鳴るとか、叩くとか」
 前にテレビの番組で、罵声飛び交う厳しい指導の場面を見て、戦慄を覚えたからだ。
「ははは。当たり前だよ。そんな教え方をしたら、音楽自体が嫌いになってしまう。俺も昔、危うくそうなりかけたし」
「習ってた先生、厳しかったんですか」
「ああ。一音間違えたら、拳で殴るんだ」
「うわ。恐ろしい」
「一曲につき三回ミスしたら帰れと怒鳴られ、五回やらかしたら、譜面を窓から外に投げ捨てられた。雨が降っていようと、雪が積もっていようと、お構いなしさ」
「よくそんな先生の下で耐えましたね。僕だったら無理です」
「いや。俺もほとほとうんざりして、親に頼み込んで、講師を途中で変えてもらった」
「次の先生は優しい人だったのですか」
「うん。お陰でピアノが大好きになった。毎日、暇さえあれば練習して、レッスンも待ち遠しかったよ」
「先生で、ずいぶん変わるんですね」
「そうだよ。教え方一つで、好きか嫌いか、道が真っ二つに別れてしまうんだ」
「素晴らしい先生に出会えたのですね」
「そうだな。俺にとって、ピアノの恩人だ」
 なのに、どうして建築科に転科してしまったのですかとは聞けなかった。
 ここまでプライベートな話ができるようになったのに、以前、棚部が言った通り、そこだけは「絶対に触れてはいけない、暗くて危険な場所」なのだ。
「じゃ、もう寝よう」
「はい。おやすみなさい」
 とは言ったものの、すんなりとは寝つけない。
 佐賀美さんは床に寝るのが慣れているせいか、すぐに隣で静かな寝息をたて始めた。「……」
 僕は息を潜め、その美しい寝顔をそっと見つめる。
 これからこの人と一緒に仕事をして、ピアノまで教えてもらえる――
 そう思うと喜びで胸が高鳴り、よりいっそう目が冴えてしまうのだった。

 翌朝、僕達は無事踏まれずに朝を迎えた。
 しかしその一方で全社員は驚愕し、大騒ぎとなった。
 設備課では雑魚寝と完徹は日常茶飯事だが、あの佐賀美さんと仲良く並んで寝たなんてと。「近寄ったら斬りますよ」オーラ全開の男と枕を並べて一晩過ごしたとは信じられないと。
 でも佐賀美さんは周囲の反応どこ吹く風と言った感じで、田上課長へ僕を補佐につけてもらうよう頼んでいる。その横で僕もニコニコ笑って立っているものだから、なおさら周囲は仰天する。
 田上課長は、この申し出に目を白黒させつつも、即答で快諾してくれた。
 佐賀美さんに怯えまくっている棚部の件も踏まえ、きっと僕が二人の橋渡しになると考えたのだろう。

「おい、藤沢。お前、どうやってあの佐賀美さんと仲良くなったんだ」
 田上課長は佐賀美さんが現場へ行くなり、すぐに僕の所へ飛んで来た。周りも興味津々で耳をそばだてている。
「いえ、単に急ぎの書類を頼まれて、終わったのが深夜だったから、そのまま二人揃って雑魚寝っていう流れになっちゃって……僕もちょっとびっくりしてるんですよね」
 わざと困惑の表情を作り、大げさに肩をすくめる。
 もちろんこれはカムフラージュ。だから当然、「ピアノのお稽古もしてくれるんですよ」なんて事も絶対に言わない。
 佐賀美さんとピアノとの関係は、僕だけが知る秘密なのだから。
 
「藤沢が佐賀美さんの補佐になって助かった! 俺、マジで自信なかったんだよー!」
 会社へ書類を取りに来た棚部が、僕を見るなり大声で言う。
「しっ!。声がデカい。佐賀美さんに聞こえたらまずいだろ」
 思わず慌てて周囲を見渡す。
「大丈夫だ。ここに来たのは俺だけだ。佐賀美さんは現場事務所だ」 
「それならいいけど」
「なあ、聞いたぞ。お前、佐賀美さんと残業して、一緒に雑魚寝したんだって?」
「うん」
「俺だったら何としてでも帰るぞ」
「眠くて運転どころじゃなかったんだ」
「俺ならタクシーを呼んででも帰るけどな」
 そこまで敬遠するとは恐れ入る。
「よし。佐賀美さんは、お前に任せた」
「は?」
「俺は現場事務所に張り付く。そして、できるだけ佐賀美さんは昼間も会社にいて、お前と一緒に仕事をしてもらうように仕向ける」
「何を無茶苦茶な。主任技術者だって現場に常駐しなきゃならないだろう」
「それは分ってるさ。だからその時は、お前も現場事務所に来い。俺には無理だ。限界だ。話がかみ合わなくて肩がこる」
「どうせ懲りずに下ネタの連発でもしたんだろう」
「バレたか。でもよ、女の話に乗ってこないなんて変じゃないか。俺達と歳はそんなに離れていないだろ」
「確か、三つ上だっけ」
「うん。普通なら合コンの女の子とか、キャバクラのキレイなお姉さまとか、お持ち帰りしたいとか言うだろ」
「そこまで露骨に口に出して言うのは、お前くらいだと思うが」
「そうか? 男はみんなスケベであり、スケベ以外に一体何の楽しみがあるんだ」
「趣味の違いだろ。趣味の」
 棚部は女。佐賀美さんはピアノ。
「性欲は趣味に関係ない。スケベはありとあらゆる面から独立したものだ」
「……そうかい」
 改めて、佐賀美さんの棚部に対する当惑を痛感する。
 この組み合わせ、前途多難というか最悪だ。
 しかもその間に立つ僕は、この先どうなるのか――現場に行く前から不安は募る。
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